【奨 励】 役員 川辺 正直
■小児脳神経外科医 ベン・カーソン
おはようございます。アメリカの1期目のトランプ大統領の政権で住宅長官を務めた人にベン・カーソンという小児脳神経外科医がいました。彼は33歳でジョンズ・ホプキンス小児センターの小児脳神経外科部長に就任し、世界で初めて、後頭部で結合したシャム双生児の分離手術に成功したことでも有名な人です。ベン・カーソンはデトロイトの貧しいアフリカ系の家族に生まれました。ベンは、小学校5年生までクラスで一番の劣等生で、同級生や先生からも馬鹿にされていました。ベンが8歳、兄が10歳の頃、両親が離婚した。父が他にも家庭を持っていたからでした。お母さんは生活を支えるため、お金持ちの家の子守や掃除を何軒も掛け持ちして、家計を支えました。教育こそが、息子たちの成功の鍵だと考えたお母さんは、『お金持ちの人たちにできることは、お前たちにもできる』と励まし、週2冊の読書感想文を書かせたのです。ある時、学年で1番の生徒しか答えられなかった単語の綴りを、ベンも本で読んで知っていました。そのことで、自信を持ったベンは、時間さえあれば本を読むようになり、中学校2年になると成績でトップに躍り出るのです。
ところが、癇癪持ちであったベンは、一度怒りに火がつくと抑えることができませんでした。中学生の時、カッとなって喧嘩相手の腹をナイフで刺してしまうのです。ところが運よくナイフは相手のベルトのバックルに当たって折れたため相手には怪我がありませんでした。ベンは頭が狂ってしまったと思い、浴室で『自分の癇癪を取り除いてください』と聖書を読みながら神に祈ったのです。4時間経って浴室を出た時、ベンは変えられていたのです。癇癪を抑えられるようになったのです。これがベンの人性のターニングポイントだったのです。
ベンはエール大学からミシガン大学医学部に進みます。夏休みにお母さんの子守先の会社でクレーン操作のアルバイトをしたベンは、対象を立体的(3D的)に計測する自分の能力に気付くのです。脳外科医として患部を3次元的に捉える特別な能力は、クレーン操作で見出されたものなのです。斯くて脳神経外科医を志したベンは、世界で最も優秀かつ有名なジョンズ・ホプキンズ大学病院へと進み、世界中の病院から注目される小児脳神経外科医となって行くのです。
ベン・カーソンは、中学生の時に、カッとなってケンカ相手の腹を刺すということをしてしまいましたが、自分の人生を全く新しくすることができる方が今も生きておられて、自分に聖書を通して語っておられるということを信じて、世界で最も著名な小児脳神経外科医となったのです。
本日の聖書の箇所で、オリーブ山の麓のゲッセマネの園で、ペトロは主イエスを捕らえに来た大祭司カヤパの手下の耳を切り落としてしまいます。主イエスの弟子たちをふるいにかけるようなサタンが支配する闇の中にあって、それでもなお主イエスの福音はどのように立ち続けているのか、ということを考えながら、今日の聖書の箇所を読んで行きたいと思います。
■イエスがまだ話しておられると
本日の聖書の箇所の47〜48節を見ますと、『イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。』とあります。47節の冒頭で、『イエスがまだ話しておられると』と言われていることから、前回の箇所と本日の箇所が途切れなく続いていることが分かります。前回の箇所では、いわゆる『最後の晩餐』の後に、主イエスは『いつものように』オリーブ山に行き、『いつもの場所』で父なる神様に祈られたことが記されていました。そして、主イエスは祈られた後、弟子たちに、『なぜ眠っているのか。』と質問されています。この意味は、こんな大切な時に、どうして眠っていられるのか。『誘惑に陥らぬよう、起きて祈って』、準備をしなさいとあれほど言っていた、大切な時なのだ。このように状況が差し迫っている大切な時に、どうして眠っていられるのか。『誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。』。信仰が問われる艱難の時には、祈りの準備が必要だよと、主イエスは再度、弟子たちに教えられたのです。
主イエスは、十字架に向けて、準備ができました。しかし、弟子たちは眠りこけていて、準備ができていなかったのです。その結果、この後の聖書の箇所で、大きな違いが出てきます。それが、ユダの裏切りであり、弟子たちが転ぶということが起きてくることになるのです。
そして、主イエスが祈り終えられたこのタイミングで、主イエスを逮捕しようとする者たちがゲッセマネの園にやって来たのです。今の言い方であれば、木曜日の真夜中過ぎです。つまり金曜日になっているのです。真夜中過ぎに、主イエスを捕らえる者たちがやってきたのです。夜明けまでには、まだ数時間あるのです。この場面から、主イエスの逮捕、裁判、そして、午前9時の十字架刑と物語が進んで行くのです。主イエスが祈り終わった、そのタイミングでユダの裏切り行為が始まるのです。福音記者ルカは、主イエスの祈りとユダの裏切りを密接に関連付けて描いています。主イエスは逮捕される前に、祈り終わる必要があったのです。そのタイミングでユダが群衆を先導して来たのです。ここでは、見事に神様のタイミングが展開していることが分かります。私たちの場合も同じなのではないでしょうか。神様のタイミングによって、物事は進んでいるのだということを、私たちは覚えておきたいと思うのです。私たちは、自分の計画通りには、物事は進まないということをよく知っています。しかし、一歩下がって、全体を見てみると、神様のタイミングで物事は進んでいるのだということを思い知らされ、大切なことは神様の視点であるということが、今日、私たちにとって祝福を得るためのキーワード、鍵であると思います。
ユダの偽善について、見てみたいと思います。47節の後半を見ますと、『十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。』とあります。ルカは、『ユダが先頭に立って、』とは書かずに、わざわざユダが『十二人の一人でユダという者が先頭に立って、』という言葉で書いているのです。私たちが、こういう言葉を使った場合、どのような印象を持つでしょうか?『誰々さん』とは言わずに、『誰々という人が』と言った場合には、より遠くの距離感がある表現になると思います。『ユダという者』という表現は、主イエスとユダの間に、あるいは、主イエスと12弟子の中の11人とユダの間に距離が置かれている、関係がないということが強調されている表現なのです。そのユダという者が、主イエスに接吻をしようと近づいて来たのです。男同士の接吻というのは、私たち日本人にとっては、何かちょっと気持ち悪いと思ってしまうようなものかと思いますが、ユダヤ的な文脈では、友情のしるしなのです。あるいは、生徒がラビに敬意を示す場合には、手に口づけをするのです。ですから、主イエスは、『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』とおっしゃられたのです。ここでのキーワードは3つあるのです。1つが『接吻』という言葉です。もう1つが、『人の子』です。そして、最後が『裏切り』という言葉です。この3つのキーワードが、ユダがいかに偽善者であり、いかに大きな罪を犯しているのかということが表現されている言葉なのです。
■主イエスを引き渡すユダ
次に、本日の聖書の箇所の49〜50節を見ますと、『イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。』とあります。『主よ、剣で切りつけましょうか』と書いてありますが、これは相談して、許可を求めているのではないのです。既に、行動を起こしてしまっているのです。剣で大祭司の手下の右の耳を切り落としているのです。言葉は、『主よ、剣で切りつけましょうか』となっていますが、許可を得ることなく、行動を起こしてしまっているのです。前回、学びましたように、主イエスは祈りによって、父なる神様の御心に従って、父なる神様の怒りの杯を飲み、父なる神様との断絶を経験する決心ができていたのです。従って、それらの前段階として、逮捕される覚悟と準備ができていたのです。父の御心だということを理解して、主イエスは父なる神様の御心に従っているのです。ところが弟子たちは、眠りこけていたのです。弟子たちは、祈りによる準備ができていなかったので、父なる神様の御心が理解できていないのです。それ故、自分で考えて、最善の方法だと思うことを実行に移しているのです。自分の計画を実行しているのです。それが、剣を用いて、抵抗するという計画であったわけです。大祭司の手下に切りかかったのが誰かは、ルカは記していません。しかし、他の福音書を見ますと、それがペテロであったということが分かります。ルカは、ペトロの名前を伏せているのです。ユダの罪深さに比べれば、ペトロの失敗は誤解ではあるけれども、心の底から主イエスを守ろうとしていることから、軽いものだと、私たちは考えるかと思います。ペトロは大祭司の手下の右の耳を切り落としています。右の耳を切り落としたという記述は、ルカとヨハネだけが書いている情報なのです。そして、それを行ったのがペトロであるというのは、ヨハネだけが書き記しているのです。そして、ルカの場合は、医者としての興味が『右の耳を切り落とした』ということを書かせているのだと思います。
■今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている
次に、本日の聖書の箇所の51節を見ると、『そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。』とあります。『その耳に触れていやされた。』というのは、繰り返しになりますが、ルカが医者であればこその記述です。ここには、敵に対する主イエスの愛が表現されています。さらには、ペトロを守ろうとする行為でもあるのです。大祭司の手下の耳が癒やされたから、ペトロが罪に問われるということがなくなっているのです。敵に対する愛、そして、ペトロに対する守り、この2つのことがこの切迫した状況下における癒やしによって実現しているのです。
そして、大祭司の手下を癒やした後、このように主イエスはお話になられました。本日の聖書の箇所の52〜53節を見ますと、『それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」』とあります。主イエスを逮捕するために押しかけてきたのは、イスラエルの指導者たちです。祭司長たち、神殿守衛長たち、長老たちが、押しかけてきたのです。主イエスは、彼らの偽善を指摘します。彼らは、民衆の目につかない所で、密かに主イエスを逮捕しようとしているのです。彼らは、主イエスが神殿の境内で教えていたときには、主イエスに手を下さなかったのです。民衆を恐れていたので、昼間には悪者は動くことができなかったのです。しかし、主イエスは、『今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている』時だと言っているのです。今という時は、あなたたちが動く時で、闇が力を振るっている時が来ているのだと言うのです。闇が今来ている、だから、彼らは主イエスを捕らえようとしているのだと言っているのです。今は、悪魔が働く時、それゆえ悪魔の子である彼らも働くのだと言うのです。そして、神様は一時的に悪魔の時を許可されたのです。これが、神様の御心なのです。闇の力を打ち砕くことは、神様には容易なことであったのです。でも、そうはしないで、一時的に悪魔が働くことを許可されたのです。一時的に闇が力を振るうことを許可されたのです。それが、本日の聖書の箇所で、起きていることなのです。そのことを理解できない弟子たちが抵抗したのです。しかし、主イエスはそのことを理解したので、従順に歩んで行かれるのです。そこに、主イエスの愛があるのだと思います。どこにも光が見いだせないような闇の中あって、なお父なる神様の御心に従順に従って歩まれる主イエスの姿は、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。
■紛争地の生と死、白川優子
国境なき医師団で、看護師として働かれている白川優子さんという方がおられます。白川優子さんは、ご自身の紛争地での体験について語っておられる文章があります。その一部をご紹介したいと思います。
『紛争地の生と死』 白川優子
私が国境なき医師団(Médecins Sans Frontières:MSF)の活動の中で「心の傷のケア」を紛争各地で充分に行ってこられたかと問われると、Yesと言える自信はない。理由の一つは、私が経験してきた派遣先の多くが、救命優先の「外傷プロジェクト」だからということが挙げられる。紛争地ではセキュリティ管理が難しく、緊急医療を最も必要としている人々のもとに辿り着いて活動をするために、救命に特化した少人数のメンバーのみでチームを組むことが珍しくない。(中略)
私が紛争各地の外傷プロジェクトで目にしてきたケースのほとんどが、戦争の暴力による多発外傷だ。人々は、空爆、砲撃、銃弾、地雷などにより血を流して運び込まれてくる。腹部から内臓が飛び出し、傷の中から見える骨が粉砕し、四肢が無残にもぎとられ、もはや人間としての原型をとどめていないケースも見る。また、爆発の場合、命中を逃れたとしても、衝撃による爆風が多くの人々を襲う。負傷した人々の身体にはコンクリートやガラスなど、吹き飛んできたさまざまな破片物が突き刺さっていることが多く、それを取り除くだけでもたいへんだ。銃弾が体内から取り出されることも珍しくなく、ミサイルの破片が傷の中から出てきたこともある。(中略)怪我をした人々はもちろん、たとえそれを免れたとしても、紛争地に生きる人々が心理的に傷ついていることは間違いない。(中略)
2017年、イラク第2の都市であるモスルに私が派遣されたときのエピソードを1つ、紹介したい。この時期、「イスラム国」(IS)と自称するイスラム過激派組織と、政府軍を率いる多国籍軍との戦いがあり、他の多くの紛争同様、ここでも罪のない多くの一般市民が巻き込まれていた。
突然モスルにやって来たISたちは、「新しい国を樹立する」と宣言し、この街を電撃的に制圧してしまった。そこには当時、平穏に暮らしていた一般市民約150万人が存在していたが、突然、「よそ者」であるISに支配され始め、厳しい戒律を強いられたのだ。ISに逆らう者、ISの怒りを買った者は残虐に処刑された。ISは学校をも乗っ取り、子どもたちに人の殺し方を教えるようになった。逃げる者はスナイパーに狙撃され、携帯電話を持つ者はスパイ容疑で斬首された。
ISの台頭から3年の月日が経った2016年11月、ついにイラク政府と多国籍軍によって、モスル奪還作戦が開始された。半年以上にも及んだ作戦は空爆や銃撃、砲弾による暴力的なものであったため、騒動から逃げまどう一般市民たちに多くの犠牲者が出た。私が派遣されたMSFの病院では、血を流す負傷者の対応に追われていた。
ある日、60代の男性が全身熱傷で運ばれてきた。自らガソリンをかぶり、火をつけたのだという。この男性に付き添っていた、姪だという20代の女性が私に話してくれた。叔父もまたモスルでISに支配されていた市民のひとりで、奪還作戦によって無傷で解放された。ところがその後、この叔父の精神が崩れてしまったのだという。
男性はそれまで、さる企業の経営者として裕福で落ち着いた暮らしを送っていたそうだ。しかし、突然やってきたISの強硬支配が始まり、生活が一変した。奪還作戦によって彼とその家族は解放されたが、そのとき目にしたモスルの街は、灰色一色の無残な廃墟に変わり果てていた。多くの建物は鉄骨がむき出しになり、焼け焦げて上下逆さまになった、たくさんの車が放置されていたという。(中略)
焼身自殺を図ったこの男性は、「街が壊され、仕事を失い、養わなくてはならない家族を抱え、これからどうやって生きてゆけばよいのか」という言葉を繰り返すようになっていたとのことだった。
「幸いにも私たちは、一族全員が傷つくことなく解放されたのに……」と、姪はこぼした。数時間後には死を迎えるであろう叔父を囲み、泣いている家族がいる場所には、とてもつらくていられないと言って、彼女は外のベンチに座って上半身をよじり、壁に頭をもたせかけていた。私には、ただ彼女の背中や肩をさすることしかできなかった。(中略)
私は一度、紛争地の実情が世界に知れわたっていないことへの憤りから、市民が苦しむ壮絶な現場を報道するジャーナリストになろうと決心したことがある。罪のない人々が、一部の人間たちの欲望をまとった武器によって恐怖にさらされ、血を流し、泣き叫んでいる現状に対し、目の前の患者を救うこと以上に、まずは戦争そのものを止めなくてはいけないと思うようになったのだ。報道機関からも注目もされない世界の片隅で苦しむ人々を見続けるうちに感じるようになった、「私の行っている医療活動では戦争は止まらない」というジレンマからの決断だった。
しかし、結果として、私はジャーナリストの道には進まず、看護師の仕事も、MSFでの活動も続けている。私の無力感や挫折、ジレンマとは反対に、現地の人々が私たち医療者の存在そのものに対し、希望を見いだしてくれていることに気づかされたからだ。
医療では戦争が止まらないのは事実だ。人材も物資も充分ではない環境では、理想的な包括医療提供など望むべくもない。では、その限界下で、私たちに求められるのは何だろう、そこでできることは何だろうと考えたとき、それは、そのときにできる最善を尽くした医療を提供することであり、その中で看護師は患者の手を握ること、話しかけること、これだけでもよいのかもしれないと気づいた。
私は臨床心理士ではない。カウンセラーの技術も身につけていない。でも、手を握ることはできる。実際に空爆で両足を負傷し落ち込んでいた女の子や、夫とお腹の子を空爆で失くした女性の手を握り続けた結果、元気な笑顔を引き出したことがある。手を握るということは、その人を気にかけること、そしてその人に寄り添うことである。報道機関が入らない、すなわち世界から注目されない人々がいるのであれば、その現場に入っている私たちが、傷ついた彼らを気にかければよい。臨床心理士がいなくても、看護師が患者を気にかけ、手を握って寄り添えばよい。その行為が恐怖や絶望、悲しみ、怒りを抱えている人々に希望を与えているかもしれない。ジャーナリストになっていたら見ることができなかったであろう患者の笑顔によって、「寄り添う」という看護学校で習った基礎や、看護の素晴らしさを紛争地で見つめ直すことができた。同時に、紛争の現状を目の当たりにした者の責任として、現地の人々がいかに厳しい状況に置かれているのかということを発信し、犠牲となっている人々が身体的、精神的、社会的に充分なサポートが受けられるよう訴え続けていきたい。(後略)
このように白川さんは語っておられるのです。
■闇の中に輝く光
今日の招詞でお読みしました旧約聖書のイザヤ書60章の2節には、『見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる』とあります。主イエスが本日の聖書の箇所で言っておられるのと同じことが語られているのです。しかし、この預言者はそれに続いて、『しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる』と語っています。主なる神様による光が、その栄光が、闇が力を振るっているこの地に現れ、輝き出るというのです。
闇が力を振るっているこの世に、主イエスはどのようにして光をもたらして下さったのでしょうか。全ての者が恐れに支配され、闇の力、サタンの力の支配下に置かれてしまっている本日のこの聖書の箇所において、主イエスは、剣を振り回す弟子たちをおし止め、彼らが傷を負わせた人を癒し、そして自ら、捕えようとする人々に身を委ねておられるのです。主イエスのお姿とその歩みだけは、闇に支配されていないのです。それは何故か。それは先週の箇所において、主イエスが、『この杯をわたしから取りのけてください』という父なる神様の怒りの杯を受けることに伴う、父なる神様との関係が断たれないことを願いつつ、『しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください』と祈られたことによってです。この祈りを祈り、神様の御心に従って行く、信仰の戦い、祈りの戦いを、主イエスは戦い抜かれたのです。それは悪魔との戦い、闇の力との戦いであったのです。弟子たちはその戦いに備える祈りにおいて、眠り込み、サタンの支配、闇の支配に陥ってしまったのです。しかし、主イエスは、どこにも光は見出されないように思え割れる闇の中で、祈り続けられたのです。そして、弟子たちと私たちの全ての罪を背負って、十字架の苦難の道を歩み通して下さったのです。主イエスの十字架の死は、闇の力に対する主イエスの勝利であり、その勝利によって私たちに救いがもたらされたのだと思います。その勝利と救いの完成として、父なる神様は主イエスを復活させて下さったのです。『御心のままに行ってください』という祈りの戦いにおける主イエスの勝利と、それによって実現した十字架の死による救いの恵み、そしてそこに与えられた復活において、闇の支配の下にいる私たちの上に、主の光が、その栄光が輝き出たのです。十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きておられる主イエス・キリストが、闇が力を振るい、暗黒に包まれているように見えるこの世界の中にあって、その闇で今もなお私たちのために祈り続けられておられる主イエスに応えて、闇に打ち勝つまことの光を輝かせて下さるように祈り求めつつ、歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。