小倉日明教会

『誰が、いちばん偉いか』

マルコによる福音書 9章 30〜37節

2025年7月20日 聖霊降臨節第7主日礼拝

マルコによる福音書 9章 30〜37節

『誰が、いちばん偉いか』

【説教】 中村和光牧師

【説 教】                      中村 和光 牧師

 今日の箇所は、32節から37節だけ読むことが多いように思います。でも、30節から読まないと内容を読み違えることになります。30節から32節で、何が語られているでしょうか。

 

 「人の子」イエス

 

 「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(9:31)・・・「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」(9:32)福音書で「人の子」は、主イエスを指します。でも、元々は、「人間」(アダム)に「息子」(ベン)」を付して、個々の人間を表すヘブライ語から来ています。

 「人の子」という言葉は、詩編に28回出てきます。そこでは、神の前で人間がいかに小さな存在か、無力な存在か。でも、そんな小さなわたしたちを、神はいつも見守り、愛を注いでおられる、と歌います。

 ところが、紀元前2世紀頃になると、ユダヤ教黙示文学であるダニエル書やエズラ書において、来るべき時に神が送ってくださるメシアという意味で、「人の子」という言葉が特別な意味で使われるようになります。

 そして福音書では、主イエス自身が自分を「人の子」と呼びます。つまり、自分は何の価値もない小さな存在だ。でも、こんなわたしを神が愛して、大切な使命を与えてくださった、という意味です。その主イエスの言葉を、弟子たちは「まことの救い主」を意味する言葉であったと受け止めるようになります。

 このように、「人の子」は、元来、「ただの人間」、「何の役にも立たない空しい存在」という意味なのです。詩編に、こんな言葉があります。「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。」(詩編144:3〜4)いったい、人間とは何者なのか。何の価値もないわたしたちを、神は大切にしてくださる。「親しまれる」と訳されているのは、「知る」ヤーダーという言葉です。この言葉は、単に知識として知るだけでなくて、親しい関係を結ぶ、深い絆を結ぶという意味を含んでいます。ですから、神がわたしたち一人ひとりと深い絆を結んで、見守ってくださるという意味なのです。だからこそ、「いったい人間とは何者なのでしょう」、と歌うのです。「息にも似たもの」の「息」ヘベルは、「空しい」「空っぽの」という言葉です。空っぽの空しい存在であるにもかかわらず、神がわたしたちを見守り、愛してくださる、というのです。

 

 「受難予告」を理解できない弟子たち

 

 主イエスが、自分はまもなく捕らえられて殺される、殺されるけれど神はそのままにはなさらない、そう予告なさった。3回予告なさったのですが、今日の箇所は2回目の予告です。自分はまもなく捕らえられて殺される。悲惨な死を遂げるが、それは神の御心なのだ、と主イエスが予告なさった。しかし、弟子たちはその意味が全く理解できなかった。

 その表れが、「誰がいちばん偉いか」という議論です。主イエスがなぜ殺されるのか理解できれば、「誰がいちばん偉いか」という議論は起こらなかったでしょう。「誰がいちばん偉いか」というのは、他の人と比較して自分の値打ちをはかろうとしたり、自分を誇ろうとする態度です。一種の序列主義と言えます。あるいは、自分の業績を誇り、もっと処遇してもらって当然だ、褒めてもらって当然だ、という一種の業績主義的な考え方です。他の人と比べて自分の値打ちをはかる、そういう弟子たちの序列意識を否定するために、主イエスは子供を「真ん中に立たせ、抱き上げ」(9:36)られたのです。ですから、この箇所で、「主イエスは子供がとてもお好きだったのよ」などと話すのは、文脈とは違うのです。文脈から言うと、「誰がいちばん偉いか」、あいつよりも自分の方が立派だ、と競い合っている弟子たちの間違いに気付かせるために、子供を抱き寄せて祝福されたのです。

 

 「子供」とは

 

 「子供」というときに、子供は無邪気だからとか、汚れがないとか、素直だとか、考えがちです。しかし、古代のユダヤにおいて子供は、役に立たない者、何の働きもできない者の代名詞でした。邪魔でしかないうるさいだけの、何が大事か分からない愚か者、あるいは軽んじられている人という意味合いを持っていたのです。

 ここでは、弟子たちの中でわたしがいちばんだ、いやこのわたしだ、と競い合っている弟子たちの序列主義が、神の前でいかに間違った考え方かに気づかせるために、何の役にも立たないと思われて軽んじられている子供を祝福されたのです。

 旧約聖書では、「寄留者、孤児、寡婦」という言葉が、繰り返し出てきます。両親が亡くなって一人ぼっちの子供、パートナーに先立たれた女性、外国から逃げてきた難民、この三つが社会的弱者の代表として語られます。ですから、今日の箇所で「子供」は、価値のない者、無視されている者として挙げられているのです。

 旧約聖書で、「寄留者、孤児、寡婦」と挙げられる時には、「社会的弱者の権利を守れ」という風に語られます。「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。・・・畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」(申命記24:17〜24)

 イザヤ書にも、こんな言葉があります。「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。」(イザヤ書1:15〜17)いろんな事情で、後ろ盾がなくて孤立している弱い存在を、神は大切になさる。どれほど祈りを捧げても、弱い人たちを軽んじたままでは、神は祈りを聞いてくださらない、というのです。

 今日の箇所の「子供」も、こうした意味合いで捉えることができます。あなたがたは「誰がいちばん偉いか」、「俺がいちばんだ」と競い合っているが、それは根本的に間違っている。あなたがたが軽んじ無視している「子供」、小さな存在を、神は大切になさっている。そのことに気づかせようとして、主イエスは子供を抱き寄せられたのです。

 

 「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」

 

 「子供」は、マタイ福音書25章にもつながっています。「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイ 25:35〜36)最初の四つ、食べること、飲むこと、寝ること、着ること、これは「衣食住」を意味します。

 「旅をしていたとき」はギリシア語でクセノスですが、これは必ずしも旅人ではありません。「外国の」「見知らぬ」という意味で使われます。新しい翻訳では、「よそ者であったとき」となっています。旧約聖書に出て来る「寄留の民」と重なります。寄留者、よそ者、よその土地から逃れて来て、今ここに身を寄せている人たちです。決して、観光旅行をする旅人ではありません。自分の家に住むことができなくなって、隣の国に逃げ込むしかなかった難民です。食べていくことができなくて、逃げてきた人もいます。戦乱から逃れてきた人もいる。圧迫を受けて、逃げてきた人がいる。一時的に身を寄せている難民です。

 「宿を貸し」スナゴーという言葉は、「集める」「呼び集める」「受け入れる」という意味の言葉です。難民、よそ者、怪しい奴、あんな奴は早く町から追い出せ、とみんなから白い目で見られている時に、仲間として受け入れてくれた。冷たい仕打ちを受けている時に、受け入れてくれた、というのです。単に生活に困窮しているだけでなく、社会的に圧迫を受け、冷たい仕打ちを受け、町の人たちからのけ者にされている、そんな時に仲間として受け入れてくれた。こういう意味合いなのです。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)

 

 「子供=小さな存在」を愛される神

 

 今日は、参議院選挙が行われています。今回、「日本人ファースト」をかかげる政党が躍進するのではないか、と注目されています。移民排斥の動きは、ヨーロッパで高まり、トランプ大統領の再選でさらに加速しています。今回の参議院選挙の予想記事を読むと、ほんとうに暗い気持ちになります。身内には親切だけれど、よそ者には冷たい。わたしたちは、一歩誤ると、目の前の人を切り捨て、憎しみを向ける「排外主義」に陥ってしまうのです。

  「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(9:35)これは、謙遜の教えではありません。「仕える者」の元々の意味は、「食卓で給仕する人」、「召し使い」です。自分がいちばんだと競い合っている弟子たちに、「召し使い」になれと言われた。これは、弱い存在、小さな存在に神が愛を注いでおられることに気づきなさい、という言葉です。

 でも、これを掟のように考えると、まるで律法の呪いのようになってしまいます。主イエスの言葉は、掟ではありません。新しい生き方への招きなのです。掟として聞いて、こうしなかったら罰を受けるという風に受け止めるのは、ファリサイ派の人たちの考え方と変わりません。これは、とても大切なポイントです。これは、主イエスの願いであり、招きなのです。こんな風に生きる時、あなたにほんとうの喜びが与えられる、という主イエスの招きなのです。

 今は、業績主義の時代です。業績によって給与が決まる年俸制の企業もたくさんあります。業績で競い合っている場合、自分が順調にやれている時には、成績の上がらない人を見て、あの人は能力がないとか、あの人は怠け者だ、という風に見下すようになりがちです。ところが、自分が何かにつまずくと、自分には何の値打ちもない、これ以上やっていけない、という風に意気消沈してしまうのです。

 業績によって人の値打ちをはかる考え方を、聖書は徹底的に否定しています。何の値打ちもない人、今日の箇所で言えば「子供」、無力な人、軽んじられている人を、神は大切になさる。どれほど罪を重ねても、背き続けても、神は赦して受け入れてくださる。立ち直って、やり直すのを待っておられる、と聖書は繰り返し語っています。

 弟子たちは、この主イエスの言葉の意味に、最後まで気づきませんでした。しかし、主イエスが十字架にかかって死んでしまった後、主イエスは何を伝えようとしておられたのか思い返したのです。そして、復活の主が近づいて来て、「あなたがたに平和があるように」と祝福してくださった時、裏切りが赦され、受け入れられていることに気づいたのです。そして、たとえ間違いを繰り返したとしても、神は変わらぬ愛を注いでくださっていることに気づいて、もう一度立ち上がることができたのです。

 

 「赦された者」として

 

 わたしたちは、誰もが神から赦された者です。だからこそ、すべての人が神に愛されている大切な存在であり、尊重されるべきだと考えます。自分の値打ちを、他の人と比較してはかることはしません。ただ神の愛に応えて、たがいに赦し合い、支え合いながら、神に従って歩んでいくのです。困難な時代ですが、主の呼びかけに応えて、歩んで行きましょう。