小倉日明教会

『取って食べなさい』

マタイによる福音書 26章 17〜30節

2025年10月12日 聖霊降臨節第19主日礼拝

マタイによる福音書 26章 17〜30節

『取って食べなさい』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                        沖村 裕史 牧師

■最後の晩餐

 イエス・キリストの最後の日々について記された「受難物語」と言われる一連の物語は、いわゆる「ベタニアの香油注ぎ」から始まって、「最後の晩餐」、その後の「ゲッセマネ」の出来事、そしてイエスさまの「逮捕」、「裁判」、「十字架」へと続いていきます。

 これらの物語を読み進めていくと、目まぐるしく展開するいくつもの出来事の最中(さなか)に、徐々に、主人公であるイエスさまご自身が、ひとり孤独な姿で、ぽつんと浮かび上かってくるような印象を受けます。

 イエスさまを攻撃するユダヤ人の敵対者たちからも、またイエスさまを裁くポンティオ・ピラトやローマの兵隊たちからも、そしてまた弟子たちからでさえも、遠く離れた存在として、ただひとりイエス・キリストが十字架へと向かって進んでいく印象を受けます。

 今日、お読みいただいた箇所の直前には、弟子のひとりであるユダが祭司長たちと取り引きをし、銀貨三〇枚でイエスさまを裏切る手はずを整えたとあります。そして今日読んでいただいたところには、最後の食事を弟子たちと共に取っておられた時、イエスさまがご自分を裏切る者がこの中にいると告げられたと記されています。そのため、弟子たちは皆、疑心暗鬼にかられ、次々と「主よ、まさかわたしのことでは」と騒ぎ立てたといいます。

 この後の場面では、よく知られているパンとぶどう酒を分かち合う物語が伝えられています。そしてそれが終わった後、イエスさまはさらに、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と語られています。

 つまり、弟子たちは皆、イエスさまを裏切り、イエスさまを見離すだろうことを、この場面で予告されたということです。

 その時、弟子たちの筆頭ともいうべきペトロが進み出て、「たとえ、みんなかあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と大見得を切ったことが、三三節に記されています。さらに三五節では、ペトロは重ねて、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったとあります。そしてそれに続いて、ほかの弟子たちも、「皆、同じように言った」といいます。

■イエス・キリストと弟子たち

 この福音書を読んでいるわたしたちは、結局、この弟子たち全員が、イエスさまの言葉どおり、イエスさまを裏切り、イエスさまを見離すに至ったという事実を知っています。

 この食事の数時間後に、ゲッセマネの園でイエスさまが逮捕された時、弟子たちは皆、イエスさまを見捨てて逃げ出しました。イエスさまの裁判が行われている時、弟子たちは誰ひとりとして、イエスさまのために証人として立ちませんでした。

 ゴルゴタに向かうイエスさまの十字架を運んで、ヴィア・ドロローサ「十字架への道」を歩いたのは、ペトロではありませんでした。イエスさまがつけられた十字架の左右にあって一緒に処刑されたのも、弟子たちではありませんでした。そして、イエスさまの遺体を取り降ろしたのも、その体を清めて墓に納めたのも、弟子たちではなかったのです。

 福音書の中で、再び弟子たちがイエスさまのまわりに集うことになる場面は、主の復活の時に至るまで、どこにも描かれません。

 最後の晩餐をめぐる伝承の中から浮かび上がってくる現実は、このように、やがてイエスさまを見限ることになる弟子たちの姿であり、しかもそのことを知らずに、虚勢を張る弟子たちの姿であり、他方、「やがて起こるべきこと」をよくよく知りながら、自分を見限る者たちと共に生涯最後の食卓を囲んでいるイエスさまの姿です。

 同じ時間を過ごしながら、同じ場所にいながら、そして同じパンとぶどう酒にあずかりながら、思いが通じない。それが、最後の晩餐でした。

 「イエスさま、イエスさま」と信頼し、身近に接し、「分かっている」つもりで、実は全然、イエスさまの御心と掛け離れたところに、自分の心を置いている弟子たち。「わたしは信じています、大丈夫です」と自負しながら、いざとなると弱さを暴露し、自分の都合次第で、主と仰ぐ人を捨て、信仰を投げ捨てて、逃げ散っていく弟子たち。

 彼らがイエスさまの弟子でなかったなら、イエスさまに従う者たちでなかったなら、その罪はもっと軽かったことでしょう。しかし、彼らはイエスさまの弟子でした。イエスさまに従った者たちであったからこそ、そこに大きな問題が生じたのでした。

 また、彼らが自分たちの弱さを自覚し、いたずらに自負心を振り回すようなことをしなかったなら、やはり、彼らの罪はもっと軽かったでしょう。しかし、彼らは「決してつまずきません」と言い、「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と断言した人々であったからこそ、そこに大きな問題が生じたのです。

 弟子でありながら、弟子として従い続けることのできない弟子たち。そして、その弱さを知らず、おのれを知らぬ弟子たち。イエスさまの弟子とは、ひとりの例外もなく、「そんな人間たち」の集まりだったのです。

 「そんな人間たち」ばかりが集まって、イエスさまと共に、イエスさまの人生最後の食卓を囲んでいる。それが最後の晩餐の情景でした。

■「取って食べなさい」

 そのような食卓の場で、イエスさまはひとかたまりのパンを手に取り、感謝の祈りをささげ、それを裂き、弟子たちめいめいに与えつつ、「取って食べなさい。これはわたしの体である」と勧められました。

 パンを裂いて渡すのは、その家の主人の仕事であり、父親の役割でした。同じように、イエスさまはぶどう酒の入った杯を取り、感謝の祈りを唱えてから、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言って、それを弟子たちに飲ませたとあります。

 この時、イエスさまがなさったこれらの象徴的な行為と言葉が、「聖餐」というかたちで現代のわたしたちにまで受け継がれています。

 マタイによる福音書の文脈を追っていく時、この時の食事について、そしてまた聖餐の意味について、わたしたちはふたつの大切なことを教えられます。

 第一は、最後の晩餐にあずかった弟子たちの誰もがイエスさまを理解できず、誰もがイエスさまを見限った人間だったということです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(九・一三)というイエスさまの言葉がここに当てはまります。イエスさまは、弱く愚かな人間を、ご自分を見捨てて裏切るであろう人間をも、ご自分のもとに招く方であることを、この食卓の場面ははっきりと描いています。

 イエスさまもとに集うのは「罪人」であり、そんな「罪人の主」、弱さや愚かさを抱えたわたしたちの主として、イエスさまは今、その食卓の真ん中にお座りになっているのです。

 そして第二は、「そんな人間たち」であったにもかかわらず、イエスさまが「皆」に、すなわち誰ひとりの例外なく、ペトロに対してもユダに対しても、その場にいたすべての人に、パンとぶどう酒を分かち与えられたということです。

 イエスさまは、わたしたちの思いによらず、またわたしたちの功績や熱心さによらず、ただイエスさまご自身の恵みと憐れみによって、わたしにもパンを与え、杯を与えてくださるのです。

 「取って食べなさい。これはわたしの体である」

 それは、「わたしはあなたを養う者、あなたを生かす者」ということです。そしてそれはまた、「わたしはいつでもあなたと共にいる」というイエスさまのメッセージではないでしょうか。

 「この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」

 それは、「あなたにはやり直すチャンスがある」ということ、そしてまた、「あなたは今までと違った自分になれる。神の恵みのもとで、新しい人間として生きることができる」というメッセージではないでしょうか。

 「そんな人間たち」にも、「こんなわたし」にも、イエスさまは「共にいてくださる」と約束し、失敗しても見捨てないと約束し、神に結ばれて生きる人間となる可能性を示してくださったのです。

■最初の晩餐

 同じく、最後の晩餐の場面を伝えているルカによる福音書によれば、イエスさまは弟子のペトロに向かって噛んで含めるように教え諭されたと、こんな言葉が伝えられています。

 「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(二二・三二)

 最後の晩餐の場面に込められたイエスさまの思いは、このひと言に凝縮されているようにさえ感じられます。まさに、「あなたのために」、そして「わたしのために」祈ってくださるイエスさまの熱い祈りが、まず最初にあるからこそ、わたしたちは立ち直ることができるのです。そのように祈られているからこそ、愚かな者であるにもかかわらず、わたしたちは信仰を失わずにいることができるのです。祈られているからこそ、わたしたちは兄弟姉妹のために祈り、また祈られ、そして互いに励まし合うことができるのです。

 人間的に見れば、最後の晩餐の雰囲気は、不安に満ちた不気味なものであったと言えるでしょう。誰ひとりイエスさまの思いを理解せず、また自分自身を知ることもできない人間が集まっていたというのが、最後の晩餐の現実でした。イエスさまが死を目前に控えつつ迎えた食事は、そういうことから言えば、二重の意味で、絶望的な「最後の晩餐」にも見えます。

 けれども、弟子たちにとってそれは、イエス・キリストの赦しと約束を受け、やがて後になって立ち直るための最初のきっかけとなった食卓だったのであり、彼らが信仰に立ち帰るための「最初の晩餐」となったのでした。

 無理解と混乱に陥った「そんな人間たち」が、主の祈りによって支えられ、主の「体と血」を繰り返し分かち合い、そして新しい希望を受け継ぐ者へと変えられていった。その原点となったのが、この「最後の晩餐」だったのです。

 この「最後の晩餐」であり「最初の晩餐」という経験の中から生まれたものこそ、キリストの教会にほかなりません。

 わたしたちは「罪人」として招かれ、たとえイエスさまの御心をまだ知り得ない時でさえも、イエスさまに招かれ、イエスさまを中心に食卓を囲む「神の民」です。わたしたちは、イエス・キリストの「体と血」を分かち合うことによって生かされ、主の祈りによって支えられ、主の赦しと約束によって歩み続ける群れなのです。

 先週の世界聖餐日を振り返りつつ、イエスさまの人生最後の夜に起こったこの食卓の情景を想い起こしつつ、わたしたち自身の姿を顧みるとともに、わたしたちが主イエス・キリストにあって生きる者であることを、もう一度しっかりと確認したいものです。感謝して、祈ります。