【奨 励】 川辺 正直 役員
■チャールズ・フォスター著、『動物になって生きてみた』(河出書房新社)
おはようございます。イギリスに、チャールズ・フォスターという方がいます。この人はケンブリッジ大学で医療法と医療倫理の博士号を取得した人で、獣医外科医の資格をもつ獣医師であり、かつ、弁護士で、大学で倫理学を教える哲学者でもあり、旅行や哲学、法律などについての著書もあり、雑誌のコラムニストとしても活躍している方なのです。さらに、オックスフォード大学グリーン・テンプルトン・カレッジのフェローとしても、多様な仕事を続けている天才的な人なのです。この人が、果たして人が野生の生き物として生きることができるのか?その命題に真正面から取り組んだ作品が『動物になって生きてみた』という本であり、2016年のイグ・ノーベル賞生物学賞の受賞作なのです。
フォスターさんは、人間とキツネなど他の動物たちとの間には境界があると言うのです。私たちはキツネと子どもを作ることはできないし、カワウソを学校に通わせることもできません。しかし、フォスターさんは、『種の境界というものは、錯覚とまでは言えないにしてもたしかに曖昧で、ときには穴だらけでもある。進化生物学者やシャーマンに尋ねてみればわかる。』と語り、人間と動物との境界は『曖昧だ』と言うのです。フォスターさんは、『そこで、単純にできる限り境界の近くまで進み、手に入るあらゆる手段を用いて、向こう側を覗くという方法をとることにした。これは、単にじっと見るというのとは根本的に違うプロセスになる。(中略)「タカは、感覚受容器からの入力を脳で処理し、それを遺伝的遺産と自分だけの経験に照らして解釈することで、どんな世界を構築しているのか?」というその疑問が、私の関心の的になっている。』と考え、その曖昧な境界という概念を証明するために、『動物になって生きてみよう』としたのです。
私たちは、『動物になって生きてみよう』とした、と聞きますと、4足歩行で1週間過ごしてみたり、1泊2日ぐらいで山の中で過ごしたり、というくらいのことを想像しますが、フォスターさんの『生きてみた』ということの徹底ぶりが尋常ではないのです。たとえばアナグマとして生きる章では、まず巣穴を本格的に掘り始めるところからはじめ、何週間もそこで泊まり込むのです。ミミズを生で食べ、四つん這いで川まで下り、ペロペロと舌で水を飲むのです。雨が降っても家に戻らず、川や地面に落ちていて食べられそうなものを、何でも食べて行くのです。カタバミ、野生のニラ、道路でぺちゃんこになっていたリスの死骸などです。フォスターさんは、アナグマと同じように四つん這いで森の中を歩き回ることによって、草の茂る地面の近くでは、視覚はあまり役に立たず、アナグマの暮らしはにおいの景色だということに気がつくのです。そして、森のなかで、聴覚や嗅覚や触覚からもたらされる感覚に圧倒されるのです。
フォスターさんは、キツネは真にコスモポリタンな生き物だと言います。都会のキツネは緊張と危険の連続で、ある意味ではこっちのほうが過酷な生活といえるかもしれないと言うのです。フォスターさんは、街の中を、4足歩行で、ハタネズミを追って這いずり回るのです。もちろん人間が4足歩行でネズミを捕まえられるはずなんてありませんので、常に失敗するのです。フォスターさんは、『私はこの方法を何時間も試した。ほとんど強迫観念に取りつかれていた。一度もかすったことさえなく、向上することもなかった。数百回跳んで、獲物が目に入った回数は約5回──偉そうに、嘲るように、コソコソ立ち去った。1匹などは実際に振り返った。誰もが、ハタネズミは解剖学的に見て冷笑などできないとおもっていたに違いない。』とこのように語っています。大の大人であるフォスターさんがそんな事をしていれば、当然、近所の人々は不安に思って、集まって来ます。フォスターさんは、『心配して近くに集まって来た不安げな人たちに、自分のことをとりとめもなく説明しようとする。警察官が到着する前に逃げ出』したと、記しています。
私たちの近くに、フォスターさんのように、動物になりきろうとする人がいたら、私たちはどう思うでしょうか。間違いなく、変な人だと思うのではないでしょうか。しかし、聖書はもっと不思議なことを伝えているのです。この世界の創造主である神様が人間になったというのです。しかも、ただ単に人間になってみたというのではないのです。人間として生き、十字架で死なれ、墓に葬られ、3日目に復活されたというのです。本日は主イエスが復活された場面を読みます。主イエスはなぜ、人間となられ、十字架上での死から、墓に葬られ、そして復活されたのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■墓へ行った婦人たち
本日の聖書の箇所のルカによる福音書24章1〜12節は、1番目に、墓を訪問する女たち1節〜4節、2番目に、主イエスの復活を告げる天使たち5節〜8節、3番目に、女たちの証言を信じない人たち9節〜12節、この3つの部分に分けて、お話ししたいと思います。
まず、1〜2節を見ますと、『そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、』とあります。ここで、前回の箇所を確認したいと思います。23章の55〜56節を見ますと、『イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、 家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。』とあります。このことが、前回の最後に出てきたわけです。ガリラヤから来た婦人たちは、アリマタヤのヨセフの後をついて行って、墓と、主イエスの遺体が納められている有様とを見届けたと書いてあるのです。墓と、主イエスの遺体が納められている有様とを見たのではなくて、見届けたのです。ですから、ガリラヤから来た婦人たちの証言は、単なる見間違えや思い違いではなく、確かな証言であるということが分かるかと思います。
そして、安息日は休んで、週の始めの日になると、婦人たちは行動を開始します。彼女たちは、週の始めの日に、つまり日曜日、今で言う、日曜日明け方早く、行動を開始したのです。そして、婦人たちは、主イエスが葬られた墓に着いたのです。24章1節を、もう一度見てみますと、『明け方早く、』とあります。明け方という言葉が出て来ています。この『明け方早く、』という言葉には、象徴的意味があると思います。どういう意味かというと人類の歴史の新しい幕が開く、歴史がここから変わって行く、という象徴的意味があると思うのです。明け方は新しい幕開けである。そして、婦人たちは主イエスのご遺体に塗るための香料を持って来たのです。
さて、主イエスのご遺体に塗るための香料を持って来た婦人たちですが、心配もあったのです。マルコによる福音書16章3節を見ますと、『彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。』とあります。これは、ルカによる福音書にはない情報なのです。大きな墓石で墓の入口を閉ざす理由は、夜中に獣がやってきて、ご遺体を食いちぎることがあるから、誰も入らないように、動物も入らないように、墓石を転がして閉ざしているのです。ですから、あの大きな墓石は、私たち女性には無理でしょうから、誰かが転がしてくれていたらいいのだけれどと、話し合っていたのです。ところが、婦人たちが墓に着いてみると、墓石は脇に転がされていたと言うのです。婦人たちは、主イエスのご遺体に塗るための香料を持って来ていますので、当然、墓の中に入ります。そこで、本日の聖書の箇所の3〜4節を見ますと、『中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。』とあります。
ここから凄いことが起こるのです。婦人たちは、墓の中に入りました。これは主イエスのご遺体に塗るための香料を持って来ていますので、当然の行為です。ところが、そこには、主イエスのご遺体がなかったのです。私たちは、この箇所を何気なく読んでいますが、『中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。』と記されており、『イエスの遺体が見当たらなかった。』ではなくて、『主イエスの遺体が見当たらなかった。』という言葉になっているのです。この箇所をルカは注意深く書いているのです。
『主イエス』の『主』というのは、ギリシア語の『キュリオス』という言葉です。『主イエス』とわざわざ書いているのは、『キュリオス』となられた、『主』となられたイエスの遺体が、見つからなかったということなのです。つまり、福音記者ルカがここで伝えたいのは、復活のイエスは『キュリオス』なのだということなのです。初代教会の使徒たちは、イエスを主と呼んだのです。イエスは『主』なりというのは、イエスは『ヤハウェ』なり、イエスは『神』なり、という告白でもあるのです。ですから、ここでの聖書の記載の意味するところは、主イエスは復活によって『主』となられた、主イエスの復活を信じた時に、私たちにとっては、主イエスは『キュリオス』なのだということです。主イエスは『主』なのだということです。主イエスは『神』なのだということです。主イエスは『ヤハウェ』なのだということです。
お墓には、主イエスのご遺体が見当たらなかったのです。そのため婦人たちはどうしたのかと言いますと、『途方に暮れた』、というのです。そこに、天使が現れるのです。途方に暮れたというのは、戸惑った、どうしていいかわからなくなった、ということです。そこに天使が現れたのです。ルカは天使の登場を次のような言葉を使って書き記しています。『輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。』と書き記しているのです。二人現れている理由は、ユダヤ的に考えますと、2人、又は、3人の証言は信頼できるとされているからです。だから、2人の天使が現れたということなのです。さて、ここで福音記者ルカの視点は、婦人たちから天使たちに移ってゆくのです。
■主イエスの言葉を思い出す
ここから本日の聖書の箇所の2番目の話題である主イエスの復活を告げる天使たちの話に移って行くのです。5〜8節本日の聖書の箇所の5〜6節を見ますと、『婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。』とあります。5節で、婦人たちがどのような反応を示したのかと言いますと、恐れたとあります。そして、地面に顔を伏せたと記されているのです。天使を見て、恐れを覚えるのは、ユダヤ人として自然の感情です。恐れて、地に顔を伏せる。つまり婦人たちはこの2人の人を、神様の使いと認識したのです。神様から使わされた使いが現れただから恐れ、地面に顔を伏せたのです。その婦人たちに、天使が語りかけるのです。何と語りかけたのかと言いますと、『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。』というのです。
すごい言葉だと思います。あなた方はどうして生きておられる方を死者の中に捜すのですか、別の言い方をすれば、死者の中に主イエスを探しても主イエスはいない、空の墓に何回入って、確認してもそこには、主イエスはいないということなのです。なぜかと言うと、主イエスは生きて、今も働いておられるというのです。生ける主イエスに目を注がなければならないと言っているのです。主イエスは復活されたのだ、ということを言っているのです。天使は、主イエスは復活されたというグッドニュース、福音を今語っているのです。
6節で、天使は『まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。』と、ガリラヤにいた頃に、主イエスが予言しておられたことに、婦人たちの意識を向けさせているのです。ルカによる福音書9章22節を見ますと、『次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」』とあります。また、9章43〜45節、さらに、18章31〜33節には、同様の受難の予言が記されています。これらの箇所で、主イエスは、十字架の死と、復活とを予言しておられたのです。ところが、これらの言葉が語られた時には、誰も主イエスの予言の意味を理解できなかったのです。婦人たちも同様に理解できなかったのです。しかし、今や、その予言が新しい意味を持って迫って来るのです。主イエスが復活され、その復活のイエスに出会った結果、主イエスの予言の意味が理解できるようになるということが起こって来ているのです。
天使は、さらに解き明かします。本日の聖書の箇所の7〜8節を見ますと、『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。』とあります。本日の聖書の箇所で、重要なキーワードは『必ず』という言葉と『思い出す』という言葉です。
『必ず』という言葉は、7節の『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』で使われています。『人の子は必ず、』というのは、必ず、十字架で死に、3日目に復活するということなのです。『必ず』ということは、ここに強調点があるということが分かります。『必ず』というのは、英語では『must』になります。新約聖書ではギリシャ語の『デイ』という言葉が使われています。『必ず』という言葉が使われているのは、主イエスの死と復活には、神学的な必然性があるということです。人間の救いのためには、そして、私たちの救いためには、主イエスの十字架の死と3日目の復活が『必ず』起こらなければならなかったということを言っているのです。
そして、もう一つのキーワードである『思い出す』という言葉は、6節の『あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。』という箇所と、8節の『そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。』の2箇所で使われています。この『思い出す』という言葉は、ギリシア語では『ミムネースコマイ』という『覚えている』、『(自分に何々を)思い出させる』という意味の動詞が使われています。何を思い出すべきなのかと言いますと、それは『まだガリラヤにおられたころ、(主イエスが)お話になったこと』です。その話の具体的内容は、『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』ということです。このことを婦人たちは『思い出した』のです。
主イエスが十字架につけられたのちに、『必ず』、『復活する』ということを思い出したということは、復活した主イエスの姿は見えてはいないけれども、主イエスが復活されたということが事実なのだということを、ガリラヤから主イエスにずっと添い従い、十字架の後、アリマタヤのヨセフの後をついて行って、墓と、主イエスの遺体が納められている有様とを見届けた婦人たちは確信できた、信じることができたということなのです。
■使徒たちは信じなかった
そして、本日の聖書の箇所で、3番目に登場するのが使徒たちです。本日の聖書の3番目が9〜12節の婦人たちの証言を信じない使徒たちの話なのです。本日の聖書の箇所の9節を見ますと、『そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。』とあります。
『そして、墓から帰って、』ということの主語は、婦人たちです。『そして、墓から帰って、』11人とほかの人たち全員に、一部始終を報告した婦人たちは、長いキリスト教会の歴史における最初の主イエスの復活の証人となりました。彼女たちは、天使から聞いたことを使徒たちに伝えたのです。なぜ彼女たちが最初の復活の証人になれたのかと言いますと、それは主イエスに対する愛と献身の結果であると思います。主イエスが亡くなっても、主イエスを慕い続け、墓にまで行き、そして安息日になると、香料と香油を持って、墓を訪問した、その愛と献身がこの祝福をもたらしたのだと思います。婦人たちが、最初の目撃者となったこと自体が、復活を証明する有力な証拠であると思います。ユダヤ的文脈では、当時、女性は、裁判において、証言能力がないとみなされていたのです。裁判では、1人の女性の証言だけでは、信頼できないものとして扱われ、他に複数の証言があって、初めて証言として取り上げられていたのです。そのように証言が軽く扱われる婦人たちが、復活の最初の目撃者となったということを、福音記者ルカが書き記しているのはなぜなのでしょうか。それは、婦人たちの証言の通りに、主イエスの復活が起こったということだと思います。ですから、ルカは起こった通りの事実を書いているということだと思います。
ここで注意して読みたいのは、『11人』という数字です。なぜ12人ではないのでしょうか。それは、イスカリオテのユダが1人欠けました。だから『11人』となっているのです。この『11人』というのは、集合名詞として使われています。この『11人』は、主イエスの弟子たちの中のインナーとも言うべき使徒集団のことを言っているのです。他の人たちというのはそれ以外の弟子たちで、信者たちのことです。それらの人たちに、婦人たちは全てのことを報告したのです。実際に報告した婦人たちは誰なのかと言いますと、本日の聖書の箇所の10〜11節には、『それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。』とあります。ここで、ようやく婦人たちの名前が紹介されているのです。それはなぜかということですが、おそらくルカの意図は、婦人たちの名前を最初に出さないで、主イエスの復活という事実に、読者の関心が集中するように、物語を書き記して来たということだと思います。
さて、これらの婦人たちが、使徒たちに事の次第を話したのですが、使徒たちの反応はどうだったのでしょうか。『使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。』(11節)のです。ここで私たちが注目したいと思いますのは、復活を信じなかった最初の人は使徒たちであったということです。現代社会に於いて、主イエスの復活を信じられない人はたくさんいると思います。復活を信じられない人たちを相手に、何か作り話を作るのでしたら、使徒たちは直ちに信じたとか、使徒たちは見る前に信じたとか、そのように書いているはずだと思うのです。しかし、福音記者ルカは、使徒たちが最初に復活を疑う人になったと記しているのです。どうしてなのでしょうか。事実そうだったから、ルカは事実をそのまま記していると思うのです。これは、とても興味深い情報だと思います。
次に、本日の聖書の箇所の12節を見ますと、『しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。』とあります。ペトロは行動に移したというのです。ペトロは婦人たちの証言を確かめるために走って墓に行ったのです。この時、墓に走ったのは、ペトロだけではないのです。この時、ヨハネも走っているのです。ヨハネの福音書20章3〜4節に出てきますが、ルカはそのことを省略しているのです。ルカはペトロがこの後、使徒集団のリーダーになって行くので、ペトロに焦点を合わせているのです。
ペトロは身をかがめて墓の中をのぞくと、亜麻布だけが見えたのです。この亜麻布というのは誰が用意したものかと言いますと、アリマタヤのヨセフが用意して、主イエスの遺体をくるんで、墓の中に安置した、その亜麻布だけが見えたというのです。つまり主イエスのご遺体は消えてなくなって、亜麻布だけがそこに残っていたというのです。ペトロは、どうしたとのかと言いますと、この出来事に驚きながら、自分が滞在していた家に帰ったというのです。驚きながらとありますが、まだ彼は復活を信じていないのです。しかし、主イエスの復活を否定しているわけでもないのです。そういう曖昧な状態であったのです。使徒であるペトロのこの反応も、主イエスの復活を証明する強力な証拠だと思うのです。このような一連の記録されていることは、その通りに起こったことがその通りにそのまま記録されているということを示しているのだと思うのです。
■主イエスはなぜ十字架にかかり、復活されたのか
主イエスから繰り返し教えを受けていた使徒たちが、婦人たちの主イエスの復活の証言を容易には信じることができなかったのは、なぜなのでしょうか。それは、普通の人間の認知の範囲が、人間の死までだからだと思います。死の先に何があるのかということを、人間は認知することができないからだと思います。主イエスの時代を生きる多くの人々にとっても、また、現代を生きる多くの人々にとっても、死んだら、それでおしまいと考える人は多いのではないでしょうか。人が死んだ、その先の世界が分からないので、人間は死に対して、恐れを抱くのではないのでしょうか。使徒たちが、容易に主イエスの復活の証言を信じることができなかったのは、話としては聞かされてはいても、死の先にある世界を見ることができなかったからだと思います。
ガリラヤから来た婦人たちが、復活した主イエスを見ていないのに信じることができたのは、先程、お話しましたように、彼女たちは、アリマタヤのヨセフの後をついて行って、墓と、主イエスの遺体が納められている有様とを見届け、安息日が明けると、香料と香油を携えて、墓に行き、そこで、天使と出会い、主イエスが復活したという情報が天使たちによって、与えられたからです。しかし、使徒たちは、主イエスが十字架にかけられた時も、主イエスのご遺体が葬られるときも、そして、主イエスが復活したときも、使徒たちは逃げていて、7節で天使が語る、『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』という言葉の真ん中がすっぽり抜け落ちてしまっているのです。それ故、伝聞情報として、いくら主イエスの復活の証言を聞かされても、信じることができないのです。そう考えますと、主イエスがなぜ神様であるのにも関わらず、人間となられるという不思議なことが起きたのかが分かるのではないでしょうか。本日のお話しの最初に、チャールズ・フォスターさんという人が、動物になりきろうとしたという話をしましたが、この世界の創造主である神様の主イエスが人間になるという不思議なことが起きたのは、理解することが難しい、死が全ての終わりではないということを伝えるためなのだと思うのです。なぜ、そこまでするかということを次に考えてみたいと思います。
日本におけるホスピス運動の草分けである淀川キリスト教病院理事長であり名誉ホスピス長の柏木哲夫先生という方がおられます。この柏木先生は、患者さんの気持ちを理解するための4つの工夫ということをおっしゃられています。第1に『よくきく』ということです。2番目に『感情に焦点を当てる』ということです。3番目に『安易な励ましを避ける』ということです。4番目に『理解的な態度を取る』ということだと言うのです。このことについて、柏木先生はご自身の体験について、次のように語っておられます。
『個人的な体験ですけれど、52歳で、卵巣がんで亡くなった、もと看護婦の患者さんがおられました。この方には、私は6ヶ月くらい関わったんですけれども、死を語り合うことができるほど、きちっと死を受け入れて、立派な最期を遂げられた人です。亡くなる1週間くらい前に、「先生、あと1週間くらいで両親のもとへ行く感じがします」と言われました。そのときに、「先生には本当にお世話になって、何かお役に立って死にたいと思っていたのだけれど、何にもお役に立てなかったのがとてもこころづらい。何かお役に立つことはないですか」とおっしゃったので、「私は今までの半年くらいのかかわりの中で、きっと、間違った対応をしたことがあると思う。『先生ここが間違いでしたよ』というように、それを指摘してもらえると非常にありがたい」と言いました。私がこれからも、ずっとこういう仕事をしていこうと思っていることを、その方はよくご存知で、「じゃあ思い切って言います。2ヶ月くらい前に、私が、『先生、私もうだめなんじゃないでしょうか』と言ったときに、先生励まされたでしょ」と言われたんです。はっきり覚えてるんです。そのとき、ドキッとしましたから。医者としてやはり、治らないとか、死ぬとか、もうだめだとかいう言葉は聞きたくないわけです。一番どう答えていいかわからない、ドギマギしますからね。「そんな弱音吐いたらだめですよ。もっと頑張りましょうよ」と私は言いました。そうしたら「はあ」。大体、悪いことをこちらがして、患者さんが黙ってしまわれる前の言葉は「はあ」です。もうそれで会話が終わってしまう。やるせなさの象徴が「はあ」。そのときのことを言っておられました。「先生、私はもっともっと弱音を吐きたかったのに、先生が励まされたばかりに二の句がつげずに黙ってしまいました。そしてあとで本当にやるせない気持ちが残りました」と言われました。これには私、参りました。なぜ参ったかというと、悪いことをしたと全然思っていなかったのです。弱音を吐く患者さんを励ましてどこが悪い、私は正しいことをしたんだ、医者として当然のことをしたんだというようにずっと思っていたにもかかわらず、亡くなる1週間くらい前の人が、遺言のごとく「先生あれは間違いでしたよ」と言ったわけです。本当にショックでした。そして、なるほどと思いました。』
柏木先生は、医師と患者の間でも日常生活の会話の中でも起こりがちなこととして、このような安易な励ましは禁物であることに注意を向けたのです。それは「つながりを遮断すること」になるのだと言うのです。柏木先生は、『死を前にした患者から「先生、もうだめではないでしょうか」と言われて、医師が「そんな弱音を吐いてはだめです。もっと頑張りましょう」と言えば、そこでつながりは切れてしまう。だが、「そんな気がするのですね」と理解的態度で返すことによって会話は継続する。患者が会話をリードし、弱音を吐ききることができる』と語っているのです。そして、『「頑張ってください」という言葉は、自分が参加しなくていい、外から励ます行為だからです。』とおっしゃられているのです。
神様である主イエスが、人となり、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活するという、人間の理解を超えた歩みをされたのは、『頑張ってください』と励ますのではなくて、神様と人との間の『いのちをつなぐ』ためなのだと思います。使徒たちは、まだ、主イエスの復活を信じることができていません。ルカが伝える復活物語からは、婦人たち、使徒たち、その他の弟子たちの戸惑い、混乱が赤裸々に見えてきます。それは、美しく整えられた物語ではなく、実際に起こったことの記録だからだと思います。次回以降では、復活された主イエスは、エマオの村に行こうとしている2人の弟子たちに出会い、エルサレムのその他の弟子たちの前に姿を現したという記事を取り上げます。そのように、死んでもなお、神様との『いのちのつながり』は絶たれることはないということを、身をもって教えられる主イエスの歩みに、私たちは愛なる神様の姿を見ることができるのではないでしょうか。私たちは、愛なる神様である主イエスを信じ、主イエスの言葉に従い、主イエスによって与えられる、死を超えてなお、神様とつながることができるという、この希望に生きてゆきたいと思います。
それでは、お祈り致します。
