【説 教】 上原 誠 牧師
今日はエゼキエル書の、エゼキエルの召命の場面を読んでいただきました。エゼキエル書1章の1節でエゼキエルは、「わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいた」と語っています。ケバル川とはバビロンに流れていた川です。
このエゼキエルが預言を語っていた時、イスラエルの民はバビロン捕囚の憂き目にあっていました。神様の国であるはずのイスラエルの国はバビロニアによって滅ぼされてしまったのです。そしてイスラエルの主要な人々はバビロンの地に連行され、そこでの生活を余儀なくされていたのです。
そしてこのエゼキエル書の1章には、エゼキエルの召命の出来事となる、エゼキエルの見た幻が語られています。ここには不思議な生き物が登場します。この不思議な生き物ですが、一度読んだだけではどんな姿をしているのかさっぱり分かりません。
この生き物は、後の9章3節でケルビムだということがわかります。
ケルビムとは、契約の箱のふたに配置されていた一対の像がケルビムです。そのことからケルビムは契約の箱を象徴していると言われています。また神様の王座とか、神様の乗り物を象徴しています。
そしてアダムとエバが堕落したとき、アダムとエバが命の木に至ることが出来ないように回る炎の剣と共に配置されているのがケルビムです。そのことから神様の御心を行う存在でもあります。
そしてこの生き物には人間の顔と獅子の顔、牛の顔、鷲の顔があったとあります。
教会の伝統では、この顔に、神様の御心を示す四つの顔、すなわちマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音を象徴していると理解しています。
人間の顔がマタイ、獅子の顔がマルコ、牛の顔がルカ、鷲の顔がヨハネをそれぞれ象徴していると考えられているのです。
このように、このエゼキエルが見た生き物は、神様の御心を象徴する生き物であり、神様の臨在を示し、そして四つの福音書と言うことから、すなわちイエスさまのことを現わしています。
また12節には、「それらはそれぞれの顔の向いている方向に進み、霊の行かせる所へ進んで、移動するときに向きを変えることはなかった」とあります。霊の導きによって移動し、向きを変えずに移動をする、そのことから神様にとって後ろは存在しないということです。
神様には、すべてが正面なのだということです。
しかしこれらの理解はあくまでもキリスト教の伝統による理解です。イエスさまの福音から聖書の言葉を改めて理解しなおしている、キリスト教の信仰に照らし合わせてこのように解釈しているのです。
ですがユダヤ教の信仰で、この幻をどのように解釈しているかは分かりません。おそらく、この幻が示している本当の意味は分からない、その意味を解釈せずにそのまま受け取っているのかもしれません。
しかし重要な事とは、神様がエゼキエルを召命されたとき、神様はエゼキエルにご自身の姿としてこの生き物の幻を見せられたということです。
エゼキエルにはこの幻の意味するところが全く理解できませんでした。ですからエゼキエルには、見たものをそのままを預言書に書き記すしかできなかったのです。
ですが神様が何の意味もない幻を見せられるわけがないのです。意味があるからこそ神様はこの幻を見せてくださったのです。
エゼキエルにはその意味が全く理解できなかったとしても、神様が見せてくださったことには必ず意味があると考えたのです。
だからエゼキエルは、自分の考えや理解は一切捨てて、預言者として只々神様が示されたそのままをイスラエルの民に語ったのです。
そしてこのエゼキエルが召命を受けたのはケバル川の河畔でした。なぜならばエルサレムの神殿を失ってしまった捕囚の民は、神殿ではなく川の河畔で礼拝していたからです。
挫折し、うなだれるイスラエルの民は、異国の地の河畔で自らの置かれた境遇を嘆き、川の流れを見て嘆くしかなかったのです。イザヤはその神様を礼拝する場所で神様から召命を受けたのです。
イスラエルの民は、神様の住まわれるエルサレムの神殿から遠く離れたバビロンの地に居るのです。約束の地から遠く離れた、異教を拝む者たちが住む地に連れ去られているのです。
この事実にイスラエルの民の多くの者が神様からの顧みられることをあきらめ、絶望していていたのです。
ですがエゼキエルの見た幻の姿は、大きな車輪を持ち、自由に移動することができるのです。そして異国の地、バビロンの川のほとりにいるエゼキエルの前に、その姿を現してくださっているのです。
この事が示していることとは、神様はエルサレムの神殿だけにしかおられないのではないということです。神様が来られるはずのないこの異教の地の、ケバル川の河畔にもその姿を見せてくださった、バビロンの地に捕囚された民の所にも神様は来てくださったということです。
神様はエルサレムから遠く離れたバビロンの地まで来てくださり、神様はイスラエルの民の神様でい続けてくださっているのです。
エルサレム神殿は焼け落ち、イスラエルの国は滅んでしまいました。しかしそれでも神様はイスラエルの民に語り続けてくださっているのです。
神様がイスラエルの民をお見捨てになっておられないからこそ、神様はイスラエルの民のために御言葉を語ってくださっているのです。
だからこそエゼキエルは、神様が幻を見せてくださった、御言葉を語ってくださった、その事実に希望を見出したのです。
この後、神様はエゼキエルにイスラエルの民に対する裁きの言葉を語られました。しかしエゼキエルは、裁きを語る神様の御言葉をそのまま捕囚の民に語り続けました。
たとえ神様が裁きを語ろうとも、神様が語ってくださっているという事実こそが希望であり、それは善き知らせだったからです。
このことは、私たちにも同じことが言えます。私たちは時に、神様の御心が見えなくなることがあります。なぜ神様は私たちにこのような困難を与えられるのか、なぜ伝道がうまく進まず困難な事ばかりが山積するのか、神様はなぜ私たちが願うように導いてくださらないのか。
しかしそうではありません。どのような状況にあったとしても、ここに教会があり、ここに信徒の交わりが与えられているのです。私たちを礼拝へと招き、神様を賛美し、命の御言葉を頂く幸いが与えられているのです。
エゼキエルの見た幻が何を意味しているのかは分かりません。私たち人間には神様の御心の全てを理解することなどできないからです。
ですがこのエゼキエルの見た幻によってはっきりと言えることは、それは、私たちがたとえ絶望したとしても、しかし神様は私たちのことを決してお見捨てになることはないということです。神様が私たちの所に来てくださり、私たちの神様でいてくださっているのだということです。
私たちはイスラエルの民と同じように、自分たちの国を失った流浪の民でしかありません。私たちもまたバビロンの川の流れを見て絶望し、嘆くしかない存在でしかないのです。
私たち人間は堕落する前、エデンの園において、神様と親子の関係に生き、神様と会話する存在でした。ですが私たちは罪を犯してしまった、取って食べると死ぬといわれていた神様の言葉を信じることができず、取って食べるにふさわしいという自分の思いを優先させ、善悪知る木の実を取って食べてしまい、罪人となり、神様の目に死んだ存在となってしまったのです。
その結果、私たちはエデンの園を追放され、神様との関係を失ってしまったのです。私たちは罪の世と言うバビロンの地に居るのです。
私たちは神様から見放され、罪の奴隷となり、ただただ嘆き、絶望するしかない存在となってしまったのです。
その私たちにとって、この世のあらゆる慰めも、それはただ一時の慰めでしかない、この絶望の淵から救い出すことはできないのです。
私たちはいついかなる時も、たとえ絶望するかのように感じる時であったとしても、神様から見捨てられてしまったかのように感じたとしても、しかし神様は私たちをお見捨てになることなく、私たちの傍らにいてくださり、むしろ時に私たちを背負い、歩んでくださっているのです。
私たちは喜びの時も、悲しみの時も、いついかなる時も、私たちは神様と共にあるのです。
私たちキリスト者には、神様がいつもご臨在してくださっているのです。特にこの礼拝の場こそ、神様がご臨在くださる確かな場所です。今ここに神様が、そしてイエスさまがご臨在され、癒しと慰め、終わりの日の神様の御国に憩う幸いを今、与えてくださっているのです。
そしてその神様は、私たちの日々の日常の中にも来てくださり、私たちと共にいてくださっているのです。こんなところに神様が来られるわけがない、神様とは全く無関係に感じるような時や場所であっても、しかし神様は、神様の方から私たちの所に来てくださっているのです。いかなる時も私たちの神様でいてくださっているのです。
詩篇137編には、「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」と嘆くイスラエルの民の姿があります。そして「いかに幸いなことか、お前(つまりバビロン)の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」と、バビロンに対する恨みを訴えています。
私たちは、それは信仰的な祈りではない、神様はそのような言葉を嫌われるのではないかと考えます。
しかし神様は、バビロンを呪われるようにと願う捕囚の民の所に来て下さっているのです。敵に裁きが降ることを祈るイスラエルの民の嘆きの声に耳を傾けてくださっているのです。
神様は、そのような私たちの苦しみ悩む、その思いを、神様はご存じでいてくださり、私たちの神様でい続けてくださっているのです。
だからこそ、私たちに救い主であるイエスさまが与えられたということが、私たちにとってそれ以上ない慰めとなるのです。
バビロンの地で絶望に嘆いていたイスラエルの民の所に神様が来てくださったのと同じく、イエスさまは何の功もなく、ただ罪を重ねるばかりのこの私の所に来てくださり、私たちに罪の赦しを与えてくださっているのです。
このイエスさまが、ご自分の尊い血をもって、この私のすべての罪を完全に償ってくださったのです。そして私たちの上に聖霊なる神様が注がれ、私たちに永遠の命を約束してくださり、イエスさまの与えてくださった福音に生かされる喜びで満たしてくださっているのです。
このイエスさまこそインマヌエルなお方として、私たちを神様と共にある幸いに生かしてくださっているのです。
私たちはイエスさまによって、イエスさまのものとされ、イエスさまと共なる命に生かされているのです。いついかなる時も、イエスさまは私たちの傍らにいて、共にいてくださっているのです。
そしてイエスさまも、私たちと同じ軛につながれているのです。私たちの重荷を共に担っていてくださっているのです。
私たちが悩み苦しむとき、この先どうしたらいいかわからず絶望するような思いにあったとしても、しかしイエスさまが共におられ、私たちの思いを知っていてくださっているのです。
神様は、時に厳しいことを語られます。ですがたとえそれが裁きの言葉であったとしても、神様の御言葉は希望であり福音なのです。そして時に、神様が私たちを導いてくださらないように感じたとしても、しかし神様は、私たちの人生の全てにおいて共におられ、語り続けていてくださいます。
神様は語っておられ、そして私たちはその声を聴いているのです。そしてその言葉に聞き従うところに、私たちの喜びがあるのです。
私たちはイエスさまと共にいる。私たちはイエスさまのものとされている。それは私たちに与えられた希望です。
たとえ今は感謝できなかったとしても、いつの日か、この苦しみの時を振り返ったとき、ここに神様の愛があった、神様の幸いにあったと知る日が必ず来るのです。必ず感謝に変えられる日が来るのです。その事実に信頼し、信じることが出来るのです。
その恵みを感謝して、共に祈りたいと思います。
