【奨 励】 役員 川辺 正直
■『土下座』 和辻哲郎
おはようございます。哲学者、倫理学者、文化史家、日本思想史家として知られる和辻哲郎さんという方がおられます。東京帝国大学で学んだ後、法政大学教授、京都帝国大学教授、東京帝国大学教授を歴任すると共に、晩年の夏目漱石の弟子であったと言いますから、『知』の世界では巨人であったと言っても良い方であると思います。『古寺巡礼』(1919年)や『風土』(1935年)などの著作でも知られている方です。和辻哲郎さんには、『土下座』(1921年)という随筆があります。親切な医者として地域で親しまれた和辻哲郎さんのお祖父さんが92歳で亡くなるのです。まだ、東京帝国大学の学生であった和辻哲郎さんは、お祖父さんと同じように地域医療に力を尽くす医師であったお父さんとともに葬式(兵庫県砥堀村=現在の姫路市)に立ち会うのです。そして、その葬式でのできごとをある男の話として、『土下座』 という作品で描いたのです。短い作品ですが、この『土下座』 という作品の前半だけをお読みしたいと思います。。
■平和の礎、希望の星
先ほどお読みいただいたゼカリヤ書八章四節にこうありました。
「万軍の主はこう言われる。
エルサレムの広場には
再び、老爺、老婆が座すようになる
それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして」
バビロニアの捕囚から解放され、故国に帰還したユダヤ人たちは、破壊されたエルサレムの再興を図ります。預言者ゼカリヤは、再建され平和になったエルサレムの広場に、老爺(ろうや)、老婆(ろうば)が杖を手にして座っている、そんな姿を預言します。
「老」という漢字は、背中の曲がった人が杖をついている姿だそうですが、杖を手に広場に座っている老爺、老婆たちを、神は、平和の礎とし、エルサレムの再興の希望とされていたのだ、ということです。
日野原先生は「老いにならない」ために、第四のタイプを勧めます。「平穏に老境に入り、ストレスでなく、自分を肯定して受け入れ、他人を責めず、過去を悔やまず、日頃の人間関係に満足するしなやか型」です。わたしはとてもそうなれそうもありませんが、できるならば、「おじいさん、どうぞ」と言われて、「イイよ、すぐ逝(ゆ)くから」などと間違っても口走らずに、高齢の皆様とご一緒に、「平和の礎、希望の星」の老爺、老婆として、この国の真ん中でどっかりと居座り続けたいものです。
『土下座』 和辻哲郎
ある男が祖父の葬式に行ったときの話です。
田舎のことで葬場は墓地のそばの空地を使うことになっています。大きい松が二、三本、その下に石の棺台、――松の樹陰はようやく坊さんや遺族を覆うくらいで、会葬者は皆炎熱の太陽に照りつけられながら、芝生の上や畑の中に立っていました。永いなじみでもあり、また、癇癪(かんしゃく)持ちではあったが、心から親切な医者として、半世紀以上この田舎で働いていた祖父のために、ずいぶん多くの人が会葬してくれました。
式が終わりに近づいた時、この男は父親と二人で墓地の入り口へ出ました。会葬者に挨拶するためです。入り口のところには道側の芝の中に小さい石の地蔵様が並んでいました。それと向かい合った道側の雑草の上に、荒蓆(あらむしろ)が一枚敷いてあります。その上に彼は父親と二人でしゃがみました。そこへ来るまで彼は、道側に立って会葬者にお辞儀するのだろうと考えていましたが、父親がしゃがんだので同じくまねをしてしゃがんだのです。
やがて式がすんで、会葬者がぞろぞろと帰って行きます。狭い田舎道ですから会葬者の足がすぐ眼の前を通って行くのです。靴をはいた足や長い裾と足袋で隠された足などはきわめて少数で、多くは銅色にやけた農業労働者の足でした。彼はうなだれたままその足に会釈しました。せいぜい見るのは腰から下ですが、それだけ見ていてもその足の持ち主がどんな顔をしてどんなお辞儀をして彼の前を通って行くかがわかるのです。ある人はいかにも恐縮したようなそぶりをしました。ある人は涙ぐむように見えました。彼はこの瞬間にじじいの霊を中に置いてこれらの人々の心と思いがけぬ密接な交通をしているのを感じました。実際彼も涙する心持ちで、じじいを葬ってくれた人々に、――というよりはその人々の足に、心から感謝の意を表わしていました。そうしてこの人々の前に土下座していることが、いかにも当然な、似つかわしいことのように思われました。
これは彼にとって実に思いがけぬことでした。彼はこれらの人々の前に謙遜になろうなどと考えたことはなかったのです。ただ漫然と風習に従って土下座したに過ぎぬのです。しかるに自分の身をこういう形に置いたということで、自分にも思いがけぬような謙遜な気持ちになれたのです。彼はこの時、銅色の足と自分との関係が、やっと正しい位置に戻されたという気がしました。そうして正当な心の交通が、やっとここで可能になったという気がしました。それとともに現在の社会組織や教育などというものが、知らず知らずの間にどれだけ人と人との間を距(へだ)てているかということにも気づきました。心情さえ謙遜になっていれば、形は必ずしも問うに及ばぬと考えていた彼は、ここで形の意味をしみじみと感じました。(後略)
このように和辻哲郎さんは書いているのです。和辻哲郎さんは、銅色にやけた多くの農業労働者の足を前にして、荒蓆(あらむしろ)に座って、土下座していることを通して、それらの人々と正しい関係に立てたという気がしたと言っているのです。この和辻哲郎さんの随筆の記述は、十字架の前の晩、主イエスが弟子たち一人一人の足を洗われたこと(ヨハネによる福音書13章1〜20節)を、思い起こすかと思います。隣人の前にへりくだって、謙遜な者となれば、神様との間にも、隣人との間にも正しい関係を築けるのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■旧約聖書の証言によって
さて、現在、連続して取り上げておりますローマの信徒への手紙の中の大きな部分を占めている1章18節〜5章21節で、義人について述べているのです。その義人について述べている部分の中で、1章18節から、本日の聖書の箇所の3章20節までが一つの区切りとなっているのです。この部分で語られていることは、人間に対する有罪宣言と、それに対する神様の怒りなのだということをお話してきました。そして、前回と今回の2回をかけてお話しするのが、私たち人間は、一人残らず、罪を犯しており、神様の怒りの前に、自分たちだけは特別だと主張できる者はいない、という結論についてなのです。
そして、前回、パウロは本日の聖書箇所で2つのラビ的教授法を使って語っているということをお話し、前回の3章9〜12節では、一つ目のラビ的教授法である、大から小へ、あるいは逆に、小から大への論法という教授法を用いて語っているということをお話しました。そして、前回の聖書の箇所で、大というのはユダヤ人です。小というのは異邦人です。つまり、ユダヤ人でさえも罪の下にいるのだから、異邦人が罪の下にいるのは当然でしょうという議論になっているということをお話しました。つまり、神様からこれだけ啓示を受けているユダヤ人は、それでも失敗したのだ。ということは、異邦人はもう言うまでもないでしょうということであるということをお話しました。前回の聖書の箇所を含む、本日の聖書の箇所の10〜18節でお話することは、人間についての有罪の証拠なのです。そこで、本日はもう一つのラビ的教授法についてお話した上で、本日の聖書の箇所についてお話したいと思います。10節から18節において、人間が有罪であることの証拠として、パウロは旧約聖書から7箇所引用しています。これがラビ的教授法のもう一つの手法で、ヘブライ語で『ハルズィーム』、英語では『Stringing Pearls』と言いますが、『真珠の数珠つなぎ』と呼ばれる伝統的な教授法なのです。この『真珠の数珠つなぎ』と呼ばれる伝統的な教授法は、聖書(モーセ五書、預言者、諸書など)のあちこちから、一見すると関係のなさそうな関連表現やキーワードを引き出し、それらを一本の糸でつなぐように組み合わせて新しい意味や深い真理を導き出す議論・解釈法なのです。
本日の聖書の箇所の10〜18節では、『真珠の数珠つなぎ』の引用が、詩編とイザヤ書から7箇所あるのです。ということは、ここでパウロが語っていることは、異邦人に向けて、語っているのではないということなのです。パウロは、第一義的には、ユダヤ人に向けて語っているのです。パウロは、ユダヤ人の有罪を証明すれば、全人類が有罪であることの証明になると考えているのです。これが、前回お話しました、大から小への議論なのです。ユダヤ人でも届かないのだから、異邦人が届くはずがないという議論なのです。旧約聖書から引用された7箇所ですが、これはどうでもいいように引用しているのではないのです。この7箇所ですが、パウロは一つ一つ異なるパーツをつなぎ合わせて、真珠のネックレスのように、きれいに丸い輪になるようにデザインして、引用しているのです。10〜18節は、いくつかに区分することが可能です。パウロのここでの引用について、最初から見て行きたいと思います。10節を見ますと、『次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。』とあります。10節の『正しい者はいない。一人もいない。』という言葉は、10〜18節の総括的な言葉です。この聖句は詩編14篇の1節を見ますと、『神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。』とあります。詩人は心の中で、『神などない』と言っているのです。内的確信が歪んでいると、行動まで堕落してくるのです。しかも、パウロの引用では、『正しい者はいない。一人もいない。』となっているのです。
さらに、11〜12節を見ますと、『悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』とあります。『悟る者もなく、』とあるのは、知恵を誇る人は多いが、究極的な意味で神様を知る人はいないというのです。『神を探し求める者もいない。』とあるのは、神様の名を口にする人々は多いが、熱心に探し出すように神様を求める人はいないというのです。それ故、『皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。』と言っているのです。これが詩編の宣言だというのです。
次に本日の聖書の箇所の13〜14節を見ますと、『彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、』とあります。これは詩編の5篇10節と後ろの方は、詩編140篇4節からの引用です。パウロのこの引用は見事だと思います。というのは、4つのセンテンスの中に、『のど』、『舌』、『唇』、そして、『口』という具合に、きちっと言葉を発する器官が1つずつ含まれているのです。そして、『のど』は『開いた墓のよう』に腐敗した臭いがプンプンとするというのです。『舌』は『人を欺き』、『唇』には『蝮の毒』があり、噛みつくことによって、他の人を毒しているというのです。さらに、『口』は、『呪いと苦味』で満ちとは、『口』からは、悪意、妬み、恨み、皮肉、嘲りなどがこもった言葉が出て来るというのです。すなわち、私たち人間は、『のど』、『舌』、『唇』、そして、『口』を使って、隣人に対して破壊的な言葉を投げつけているというのです。聖書は、私たち人間のコミュニケーションがいかに他の人を傷つけるものであるかを、指摘しているのです。
さらに、本日の聖書の箇所の15〜17節を見ますと、『足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。』とあります。この箇所の引用は預言書のイザヤ書の59章7〜8節です。イザヤ書59章7〜8節を見ますと、『彼らの足は悪に走り/罪のない者の血を流そうと急ぐ。彼らの計画は災いの計画。破壊と崩壊がその道にある。//彼らは平和の道を知らず/その歩む道には裁きがない。彼らは自分の道を曲げ/その道を歩む者はだれも平和を知らない。』とあります。
パウロは、聖書の箇所の15〜17節を、『足と道』に着目して、少し自由に引用していることが分かります。足は道を歩いていくものです。私たち人間がどのような道をどのように歩いていくのか、つまり私たち人間の生き方に注目しているのです。その私たちの足は、『血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある』とありますように、この箇所は、私たち人間の隣人に対する罪が、暴力的な行動として現れると言っているのです。では、なぜ人間はこれほどまでに罪深いのでしょうか。
18節に於いて、その根本原因が明らかにされます。18節を見ますと、『彼らの目には神への畏れがない。』とあります。神様を神様として敬う心が欠如していることこそ、すべての罪の根源だというのです。この18節は、詩編36篇2節の引用なのです。詩編36篇2節を見ますと、『神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。』とあります。この2節をじっと見てみると、『罪が』とあります。『罪が』というのは、主語なのです。述語は何かと言いますと、『語りかける』なのです。罪というのは語りかけると、聖書は語っているのです。罪というのは抽象的な概念です。その罪が語るというのはどういうことかと言いますと、こういう文学手法を何と言うのかと言いますと、擬人法と言うのです。文学手法で独特なこういう手法が用いられるのは、その擬人法で書かれた部分を特に印象付けるために使われているのです。従って、こういう擬人法のような文学手法が使われたときには、ここは大切なことが語られているのだなというように受け取らなくてはいけないのです。『罪が』、私たちの心の中に語りかけて来るというのが、この擬人法で語られているのです。さて、18節では何と語られているのかと言いますと、『彼らの目には神への畏れがない。』と言うのです。この18節も冒頭で、『〇〇があることはない』という意味で訳されているギリシア語の言葉は、『ウーク・エスティン』という言葉が使われているのです。
ここで、最初の10節に戻ってみますと、『正しい者はいない。一人もいない。』と訳された『〇〇はいることはない』という意味のギリシア語の言葉は、『ウーク・エスティン』という言葉が使われているのです。従って、ギリシア語で、このパウロのローマの信徒への手紙を読んでいる人には、10節と18節とが、この『ウーク・エスティン』という同じ言葉でつながっているということがわかるのです。
ということは、10〜18節で、パウロは旧約聖書から7つの聖句を引用している訳ですが、最初の引用と最後の引用が、同じ『ウーク・エスティン』という言葉でつながっていて、いわば真珠のネックレスのように、輪になった状態になっているということが分かるのです。パウロがなぜこのような文学手法であり、ラビ的教授法を使っているのかと言いますと、パウロは全ての人間は週報の図に示しましたように、罪のループ(輪)をぐるぐると無限に回っているのだということを強調し、全ての人間がいかに罪人であるのかということを否定しようがないほど証明したいのだと思います。
それでは、この罪のループから抜け出すためには、どうしたら良いのでしょうか?本日、最初にお話した和辻哲郎さんの随筆『土下座』にありましたように、隣人の前に身を低くして、へりくだって、謙遜な者となれば、罪のループから抜け出して、神様との間にも、隣人との間にも正しい関係を築けるようになるのでしょうか。次に、そのことを考えてみたいと思います。
■心にある必然のひび
和辻哲郎さんの随筆『土下座』は、後半、次のような文章で締めくくられているのです。
『(前略) 彼は翌日また父親とともに、自分の村だけは家ごとに礼に回りました。彼は銅色の足に礼をしたと同じ心持ちで、黒くすすけた農家の土間や農事の手伝いで日にやけた善良な農家の主婦たちに礼をしました。彼が親しみを感ずることができなかったのは、こういう村でもすでに見いだすことのできる曖昧宿(あいまいやど)で、夜の仕事のために昼寝をしている二、三のだらしない女から、都会の文明の片鱗を見せたような無感動な眼を向けられた時だけでした。が、この一、二の例外が、彼には妙にひどくこたえました。彼はその時、昨日から続いた自分の心持ちに、少しひびのはいったことを感じたのです。せっかくのぼった高みから、また引きおろされたような気持ちがしたのです。
彼がもしこの土下座の経験を彼の生活全体に押しひろめる事ができたら、彼は新しい生活に進出することができるでしょう。彼はその問題を絶えず心で暖めています。あるいはいつか孵かえる時があるかも知れません。しかしあの時はいったひびはそのままになっています。それは偶然にはいったひびではなく、やはり彼自身の心にある必然のひびでした。このひびの繕つくろえる時が来なくては、おそらく彼の卵は孵らないでしょう。』
このように書かれているのです。和辻哲郎さんはお祖父さんの葬儀の翌日、お父さんと一緒に自分の村の家々を回り、農家の主婦たちに礼をするのです。ただ一軒のあいまい宿(料理屋・茶屋・旅館などに見せかけて娼婦を置いた店のこと)の女性だけは、和辻哲郎さんに無感動の目を向けるのです。それが、彼の気持ちにひびが入った気にさせるのです。このひびは何かと言いますと、短期間とは言え、この村に住んでいながら、村のコミュニティーからは排除されている、底辺の女性から、自分の中の罪を見透かされたことによって生じた『ひび』であったと思います。それ故、和辻哲郎さんは、『このひびの繕つくろえる時が来なくては、おそらく彼の卵は孵らないでしょう』と記しているのだと思います。そして、このことは本日の聖書の箇所の19〜20節を指し示しているのだと思います。
■律法の意味
本日の聖書の箇所の19〜20節を見ますと、『さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』とあります。パウロは、全ての人間が罪のループの中にいるということを、旧約聖書を引用することによって、圧倒的な証拠を提示した後、この19〜20節で、最終的な結論を下します。これは、全ての人間に対する神様の法廷からの判決文と言えるかと思います。19節で語られている、律法の第1の機能は『告発』だということです。パウロは、聖書に書かれている厳しい罪の指摘は、まず第1に聖書を読んでいるユダヤ人自身に向けられたものだと言うのです。そして、その目的は『すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるため』だと言うのです。もし、神様から特別な律法を与えられたユダヤ人でさえ、聖書の言葉の前では沈黙し、弁明の言葉もないのであれば、誰も神様の前で自分を正当化できないと思います。従って、全ての人間は神様の正しい裁きの前には、有罪の被告として立たされるより他はないのだと思います。
次に、20節で語られている、律法の第2の機能は『罪の意識』をもたらすことだと思います。パウロはここで、『律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。』と断言しています。律法を守るという原則は正しいけれども、残念なことに、律法を守ることを完全に実行できる人間は一人もいないというのです。
それでは、律法の本当の役割とは何だったのでしょうか。それは、私たちを義とすることではありませんでした。そうではなくて、『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。』とパウロは語っているのです。律法は、私たちの罪深さを映し出す鏡であり、私たちの病状がいかに深刻であるかを知らせる診断書なのだと言うのです。律法は、私たち人間の努力では、決して神様の前に義とされないことを自覚させ、他からの助け、すなわち、この後パウロが語る主イエス・キリストの十字架による贖いを、心の底から求めるようにと、私たち人間を導くために与えられたのです。私たち人間の最後の拠り所であった、律法に基づく『正しい行い』は、神様の裁きの前では、私たち人間側の不完全さを証明する証拠にしかならないのだと思います。しかし、それは決して絶望の言葉ではないと思います。全ての人間が罪人であることを前提として、この後の21節以下において、神様の独り子主イエス・キリストの十字架と復活によって実現した罪の赦しが、ただキリストを信じる信仰によって全ての者に平等に与えられるという喜ばしい知らせ、福音が語られていくのです。罪の赦しの福音は、『全員が、罪の下にある』ことを認めることによって、私たち人間に与えられるのだと思います。
私たちは、揺らぐことのない神様の愛と、主イエスの十字架による罪の赦しを信じて、自分自身の罪を神様の前に告白しながら、主イエスの言葉に従って歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。
