■狼王ロボ
さて、カナダの博物学者アーネスト・トンプソン・シートンが書いた『シートン動物記』を子供の頃に読まれた方も多いかと思います。『シートン動物記』の中の有名な作品に『狼王ロボ』という物語があります。ある日、シートンのもとに一通の手紙が届きます。送り主はアメリカで実業家として成功し、ニューメキシコ州カランポーで牧場経営をしている知人です。手紙を読むと、彼が経営している牧場がある地域では、近年家畜がオオカミに殺される事件が多発しており、腕自慢の猟師が次々とやってきて退治しようとしたのですが、ことごとく失敗していたというのです。そこで、動物の生態に関して豊富な知識を持つシートンの助けを借りたいのだというのです。狼退治を頼まれたシートンは、あらゆる知恵を尽くして罠にかけようとするのです。しかし、狼のボスであるロボは、すべてその罠を見破ってしまうのです。ところがシートンがこの狼の群れの足あとをじっくり観察してみると、奇妙なことに気がつくのです。ふつう狼のボスは自分の前を他の狼が歩くことを許さないはずなのに、狼王ロボは例外的に特定の一匹にそれを許していたのです。それはロボの最愛の妻、ブランカと名付けられていた白い雌狼です。狼の世界は一夫一婦制なのです。それでシートンはこのブランカを罠にかけて、その死体を引きずって家まで持っていくのです。ロボはこの死んだ妻の遺体を取り戻すために不用意に人間のところまで近づき、とうとう普段はしないミスを重ねて、罠にかかって死んでしまうのです。グループを連れてではありませんでした。たった一匹だけで死んだ妻の遺体を取り戻すために命を懸けたのです。その姿を見たシートンは敵であった狼に畏敬の念を抱くようになります。ロボの隣にブランカを寝かせた、この場面で物語は終わるのです。
さて、本日は、主イエスが十字架で亡くなられた箇所をみなさんと一緒に読みたいと思います。主イエス・キリストは私たちを神様のもとに取り戻すために、この世に来て、死んでくださった救い主です。しかも三日目に復活して今も生きておられる方なのです。本日の聖書の箇所を通して、主イエスの十字架の真実は何であったのか、ということを皆さんと共に学びたいと思います。
■全地は暗くなり
本日の聖書の箇所の45節には、『さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。』と書かれています。この箇所を見ますと、昼の12時から3時までの間、太陽が光を失って、全地が暗くなったと記されていることから、現代の私たちから見れば、皆既日食が起きたということが分かります。この記事は、文字通りこのことが起きたと考えるべきでしょうか、それとも、これは神様が悲しまれたということを比喩的に表しているのでしょうか?考古学者が古代の文書の中から、太陽が暗くなったということを報告している文書を3つ発見しているのです。1つ目がエジプト、2つ目もエジプト、3つ目は小アジア、トルコのものなのです。エジプト、エルサレム、小アジアは地理的には非常に近いところにあります。誰が何と言っているのかと言いますと、エジプトにいたギリシア人の科学者で、ディオニシウスという人が、エジプトのヘリオポリスというところにいました。ヘリオポリスは「太陽の町」という意味ですが、彼は太陽の町にいて、暗黒を経験したということを伝えているのです。2人目が、やはりエジプトにいたギリシア人の科学者で、ディオゲネスという人が、彼は暗闇を見て、自分で解説を加えているのです。「太陽が暗くなったが、それはまるで神ご自身が、その瞬間に苦しまれたか、あるいは、苦しんでいる者に同情されたかのようであった」とこのように伝えているのです。本当に十字架の場面を言い表したものであるかのように思わされます。3人目が、小アジア、トルコにいたギリシア人の歴史家のフロゲオンという人です。彼はこのように伝えています。「それまで起きたことがないような驚くべき日食が起こった。正午ごろに、昼が空に星が輝く夜に変わった。ビテニアで大地震が起こり、多くの家が倒壊した」。この3つの歴史的資料は、本日の聖書の箇所の記事を考える上で、大変、興味深いと思います。
私たちは、聖書が伝える『さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。』という記事を字義通りに、本当に起きたこととして解釈するのが、正しい解釈であるということが分かります。
そして、本当に起きたことと同じ位に重要なことは、「暗くなり、」ということの意味です。なぜ、暗闇になったのでしょうか?旧約聖書の中で、暗闇が襲ったという場面で思い起こされる場面は何でしょうか?出エジプトのときに、エジプトを襲った10の裁きの内の一つが暗闇です。出エジプト記10章22節を見ますと、『モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。』と記されていることが分かります。十字架の場面では、3時間です。この出エジプト記では3日間、エジプトが暗闇になったのです。この暗闇が何を表しているのかと言いますと、それは神様の裁きです。この場合には、エジプトの偶像が裁かれているのです。あるいは、偶像礼拝が裁かれているのです。エジプトの偶像に対して、神様の怒りが注がれたのです。その裁きの内容が、『エジプト全土に暗闇が臨んだ。』ということなのです。
それでは、主イエスの十字架の場面に、思いを移してみましょう。十字架にかかり、正午から3時まで、全地が暗闇になったのです。出エジプトのときの例と、この主イエスの十字架の場面とを、対比させて考えてみると、暗闇になった理由は神様の怒りが注がれているということなのです。誰の上にでしょうか。ここがこの聖書の箇所を読む上の大切なポイントです。ここでは、主イエス・キリストの上に、神様の怒りが注がれているのです。主イエスが十字架に掛かけられたのは、金曜日の午前9時頃です。そのわずか半日ほど前に、主イエスはゲッセマネの園で、お祈りをされました。随分前のことのように思われますが、すぐ前の夜のことです。マタイによる福音書26章39節です。主イエスは、『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。』と祈られました。ここでの『この杯』が、神様の怒りの杯なのです。
『全地は暗くなり、』というのは、主イエスが神様の怒りの杯をお飲みになっている状態なのです。神様の怒りが、主イエス・キリストの上に注がれているのが、この暗闇の状態なのです。それと同時に、これはイスラエルの民に対するしるしでもあったのです。彼らは光である方、主イエスを拒否しました。それ故、神様によって、霊的に盲目にされたのです。ルカによる福音書22章53節には、「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」と記されています。「闇が力を振るっている。」というのは、暗闇が支配している時だということです。つまり、主イエスを拒否したら、暗闇が支配する時が来るのだ、そして、主イエス・キリストを拒否したあなた方は、今まさに暗闇の時に入ったのだということです。従って、正午から3時まで、暗くなったというのは、メシアを拒否したイスラエルの人々に対するしるしにもなっていたのです。これが、本日の聖書の箇所の背景なのです。
■「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
次に、本日の聖書の箇所の46節を見ますと、『三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』と書かれています。この言葉の意味について、大きな謎だと言う人もいれば、主イエスは失敗したのだ言う人もいますが、これは実はメシア予言の成就だと言うことができます。メシア予言によれば、主イエスは受難の僕です。そして、今、まさにここで、主イエスは神様の怒りの杯を飲んでおられるのです。それ故、主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈られたのです。これは、先程、お読みしました詩編22篇2節の引用なのです。詩編22篇は、イザヤ書53章と共に、有名なメシア予言なのです。そして、ユダヤ人であれば、これがメシア予言であることをよく知っているのです。詩編22篇2節には、『わたしの神よ、わたしの神よ//なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。』と書かれています。主イエスは、詩編22篇を引用して、ご自身に適用されているのです。そのときに、周りにいた人たちは、主イエスが詩編22篇を引用していることに気が付かないのです。これは、ユダヤ人としては、とてもおかしなことなのです。このとき、ユダヤ人たちは霊的に盲目になっていたことが分かります。本日の聖書の箇所の47節を見ますと、『そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。』と書かれています。周りにいた人々は、霊的に盲目になっているために、エリヤを呼んでいると考えているのです。どうしてかと言いますと、エリヤという名前は、英語では『エライジャ』と言います。ところが、ヘブライ語では、『エリアフ』と言います。『エリアフ』を短縮形で言いますと、『エリ』となるのです。ですから『エリ』と言うと、ヘブライ語では、エリヤの短縮形でもあるので、エリヤを呼んでいると誤解をしたのです。
さて、もう一度、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という詩編22篇2節の言葉に戻ってみたいと思います。それは、この言葉は、絶望の言葉ではないということをお伝えしたいからです。ユダヤ人が詩編のある部分を引用すると、全部を引用しているということになるのです。従って、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉を理解するためには、詩編22篇の文脈を考えなくてはいけないのです。ユダヤ人が詩編22篇の2節を引用する時、それは絶望を語っているのではなくて、その文脈から見ると、これは助けを求める言葉なのだということです。つまり、苦難の中にあって、神様の助けを求める叫びなのだということが分かります。ここでは、主イエスは「わが神、わが神、」と呼ばれましたが、主イエスの通常の呼びかけは、「父」という呼びかけです。福音書では、「父」という呼びかけは、170回出てきます。さらに、「わが父」という「わが」がついた呼びかけは、21回出てくるのです。従って、主イエスは合計で191回、「父」と呼びかけているのです。ところが、「わが神」という呼びかけは、福音書の中では、ここだけなのです。ということは、ここまでは「父」、あるいは、「わが父」と呼びかけていたお方が、「神」と他人行儀で呼びかけている、これは何かが起こっていると考えることができます。つまり、父なる神様と主イエスの間に、距離ができていることが分かります。そして、その距離というのが何を意味しているのかと言いますと、主イエスが神様の怒りの杯を飲んでいることを表しているのです。ゲッセマネの祈りの中で、あれだけ恐れていた神様の怒りの杯を主イエスは飲んでおられるのです。神様の怒りの杯が何なのかと言いますと、霊的な死を意味しているのです。そして、霊的な死とは何なのかと言いますと、それは神様との断絶です。この神様との断絶は、私たち罪人が経験する神様との断絶を、主イエスが身代わりとなって、経験して下さっておられるということです。主イエスが罪を身に負って下さった時、主イエスは父なる神様と切り離されたのですが、主イエスは神様としての性質と人間としての性質をお持ちでした。三位一体の神様が切り離されるということは、到底、考えられないことです。切り離されているのは、主イエスの人間としての霊の部分が、父なる神様から切り離されているのです。なかなか理解することが難しいことですが、主イエスの人間としての霊の部分が、父なる神様から切り離された状態が、霊的な死ということなのです。
コリント信徒への手紙二、5章21節には、『罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。』と書かれています。『罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。』と書かれていることが、神様との断絶、霊的な死を示しています。ここでは、「わたしたちのために罪人」とは書かれていません。「わたしたちのために罪」と書かれています。罪人とされたことよりも、もっと本質的なことをここでは示されています。『わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。』というのは、主イエスが身代わりとなって死んで下さったので、代わりに私たちが「神の義」となったというのです。
詩編22篇の25節には、『主は貧しい人の苦しみを//決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく//助けを求める叫びを聞いてくださいます。』とあります。主イエスの祈りは、この詩編22篇の文脈の中では、聞かれているのです。そして、詩編22篇は、最後は神様への讃美で終わっているのです。この詩編は、苦難の中にある聖徒が神様に助けを求める祈りであって、神様がその祈りを聞かれ、最後、神様への讃美で終わるという内容なのです。
■イエスは再び大声で叫び
48節〜50節を見ますと、『そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。』とあります。なぜ、この人は主イエスに酸いぶどう酒を飲ませようとしたのでしょうか?ヨハネによる福音書19章28節を見ますと、『この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。』と書かれています。主イエスが、旧約聖書の言葉がすべて成し遂げられたという認識を持たれて、神様の怒りを全て飲みつくした時に、「渇く」とおっしゃられたのです。主イエスの意識は、鮮明あったことが分かります。それだけ、十字架刑の苦しみは大きかったと思います。神様の怒りを全て飲みつくした主イエスは、「渇く」とおっしゃられたのです。主イエスは生ける水をお与えになるために来られた方です。しかし、主イエスは、十字架上で渇きを覚えられたのです。これは大きなパラドクスです。十字架から降りることのできる方が、降りてこいと叫ぶ周りにいる祭司長、律法学者、強盗の声を無視して、最後まで十字架につかれたのです。これも大きなパラドクスです。罪のない方が、罪人として十字架につけられている。これもパラドクスです。十字架は神様のパラドクスです。そのパラドクスを解く鍵は、私たち罪人の罪を赦すために、主イエスがこのパラドクスを耐えしのんでいて下さるのです。
人は死ぬと魂は、一時的に行く場所である「死者の世界」、ギリシア語で「ハデス」というところに行きます。主イエスが復活し、天に上る前ですので、死ぬとみんな「ハデス」に行くのです。「ハデス」は2箇所に分かれていて、義人が行くのは「慰めの場所」でそこを「アブラハムの懐」と呼んだのです。そして、罪人が行く場所は、「ハデス」そのものです。通常、私たちが地獄と言うと、この「ハデス」、苦しみ場所を言うのです。この「ハデス」で人は何を求めるのでしょうか。ルカによる福音書16章22節〜24節には、「やがて、この貧しい人(ラザロ)は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』」、と書かれています。貧しいラザロと金持ちの運命は完全に逆転しています。ラザロは、「慰めの場所」に行っているのです。金持ちは、「ハデス」で苦しんでいるのです。金持ちは叫びます、『ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。』、金持ちは何を求めているのでしょうか?のどが「渇いて」いるのです。炎の中で、苦しくてたまらないのです。主イエスが十字架の上で「渇く」とおっしゃられた言葉は、罪人が受ける神様の怒りをこのとき受けておられるということなのです。暗闇の中で、神様の怒りを受けておられるのです。
次に、49節〜50節を見ますと、『ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。』、と記されています。『しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。』とありますが、主イエスが何と叫ばれたのかは、この福音書を書いたマタイは伝えていません。しかし、ヨハネによる福音書19章30節には、『イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。』と記されていて、主イエスは「成し遂げられた」と叫んだことが分かります。ギリシア語では、『テテレスタイ』と言います。主イエスはこの言葉を、みんなに聞こえるように、大声で叫ばれたのです。この『テテレスタイ』という言葉は、借金の支払いは完了したという意味の言葉です。新約聖書で使用されている言葉は、ギリシア文学で使用されている言葉とは異なって、庶民が使っていた言葉が使われているということが、近代になって分かってきて、それを『コイネーグリーク』と呼ばれています。新約聖書は、聖なる内容を庶民の言葉で書き表した書物なのです。そのような研究の一つで、ある考古学者がエジプトでパピルスの束を発掘するのです。発掘した場所は、商売していた人の事務所のような場所で、そこにパピルスに書かれた請求書の束があったのです。それを見てみると、中にハンコが押してあるのです。そのハンコが『テテレスタイ』というハンコだったのです。『テテレスタイ』というのは、負債は完済した、つまり、支払い済みという意味なのです。従って、主イエスが『テテレスタイ』、『成し遂げられた』とおっしゃられたのは、聖なる言葉というよりは、むしろ、商売用語で、『借金、払ったぞ』とおっしゃられたのです。『お前たちの借金、全部払ったぞ』とおっしゃられたのです。つまり、『罪の負債は支払われた』と宣言されたのです。
そして、主イエスはヨハネによる福音書19章30節bでは、『頭を垂れて息を引き取られた。』のです。十字架に架けられた人が医学的どういう死因で亡くなられるのかは、長い間、学者たちの間で議論になっていました。それを人体実験した人が出ました。それがナチス・ドイツで、強制収容所に入れられたユダヤ人を使って人体実験をしたのです。しかも、その様子を別のユダヤ人に観察させて、それを見ていた人の精神状態がどうなるかという精神状態の実験までしたのです。そして、戦争が終わってから、強制収容所から開放されたユダヤ人の中で、こういう実験が行われて、自分はそれを見たのだと証言するひとが出たのです。その証言内容はどのようなものかと言いますと、実験台となる人が連れて来られて、コンクリートの床の上で、手を縛られて、上に引き上げられたと言うのです。10cmも床から足が離れたら、十字架に架けられたのと同じ状態になります。十字架の場合には、腕の2本の骨の間と足のかかとの大きな骨に釘が打ち込まれて、全体重がその釘にかかるのです。そして、十字架が立てられる時に、数十cmある穴に十字架の縦木が落ち込んで立てられるので、その時の衝撃で、体中の関節が外れるのです。同じように、ロープで腕を縛って、上に引き上げたら、上に体が引っ張り上げられた状態になります。そうなると、呼吸ができなくなるそうです。呼吸をするためには、自分の体を懸垂で上に引き上げて、そして、胸の胸骨、それから、横隔膜が動くようにして、息をするのだそうです。それを見ていた人は次のように言っています。最初は、回数が少なくて、一回当たりの呼吸が深いのだそうです。ところが、何時間も続けていると、疲れてきて、呼吸が短く浅くなるのだそうです。十字架刑の場合、水だけは与えるので、早い人で1日、長い人で1週間、特に、足に踏み台があったり、お尻のところにとまり木があったりすると、長く生き延びて、苦しみが長く続くことになるのです。早く死に至らせたい場合には、足のスネの骨を折るのです。ナチス・ドイツの実験では、最後は、呼吸を放棄して、窒息して死んでしまうのですが、呼吸ができないので、胸は大きく膨らみ、横隔膜はボコッと凹み、頭からはボタッ、ボタッと脂汗を床に垂らし、まさに死ぬ時、頭は肩のラインにのめり込むような形で、頭を垂れて、亡くなるのだそうです。そして、死因は窒息死なのです。
このことをお話しているのは、十字架刑がいかに残酷な刑であるかということをお伝えするためであり、さらに、その呼吸が困難となって行く、苦しみの中で、主イエスが叫ばれた、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉と、「成し遂げられた」という言葉とが、どれほど真実なものであるかということをお伝えするためです。
主イエスの十字架の死によって、主イエスは、神様に見捨てられて絶望の内に死ぬしかない罪人である私たちに、あなたがたはその絶望の中でなお「わたしの神よ」と呼ぶことができる、その神様と共にあることができる、という恵みを、主イエスご自身が打ち立てて下さったのです。罪人である私たちが本来受けなければならない絶望の死を主イエスが引き受けて下さったことによって、私たちは、最も深い絶望の中で死ぬとしても、そこで、主イエスの父なる神様を「わたしの神」と呼び、その神様と共にあることができるのです。主イエスが十字架の上で、これらの言葉を叫んで息を引き取られたことによって、私たちのための救いが実現したのです。
■「本当に、この人は神の子だった」
主イエスの十字架の死が人を新たに生かす救いの出来事であることをはっきりと印象的に語っているのが、本日の聖書の箇所の54節です。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」。百人隊長は、ローマの兵隊の隊長です。彼と、彼の下で十字架の見張りをしていた兵卒たちは、総督ピラトの判決に基づいて、主イエスを十字架につけた人々です。十字架の下で主イエスから剥ぎ取った服をくじで分け合ったのも彼らです。「それでも神の子か、ユダヤ人の王か」と嘲ったのも彼らだったのです。その彼らが、「本当に、この人は神の子だった」と言ったというのです。これは、十字架につけられた主イエスに対する最初の信仰告白です。主イエスを十字架につけ、嘲っていた者たちが、最初の信仰告白をしたのです。他の福音書では、この信仰告白をしたのは百人隊長一人となっていますが、マタイは「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」と言っています。主イエスを十字架につけた人々がこの告白を与えられたのです。主イエスを十字架につけたのは私たちです。私たちもまた、主イエスの死によってこの告白へと導かれるのです
私たちは誰でも最初は主イエスの十字架の死を、他人事のように、自分には関係のないこと、人々の罪によって、昔、起った惨めな失敗として眺めています。しかし、礼拝に集い、聖書を通して神のみ言葉を聞いていく中で、主イエスを十字架につけ、嘲り、苦しめているのは実はこの自分なのだ、ということに気付かされていくのです。そして、さらに、十字架の上で、真実の叫びをあげて亡くなられた主イエス・キリストのお姿に、私たちに代って罪を背負い、私たちの罪を身に負うことによって、私たちを新しく生かして下さる救い主のお姿を見ることができるように、変えられていくのです。私たちもまた、「本当に、この人は神の子だった」という信仰を告白して行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。