小倉日明教会

『主の祈りー神様と私の関係は?』

ルカによる福音書 11章 1〜4節

2023年5月21日 復活節第7主日礼拝

ルカによる福音書 11章 1〜4節

『主の祈りー神様と私の関係は?』

【奨励】 川辺正直役員

映画『ヒトラーを欺いた黄色い星たち』

 おはようございます。2017年に公開されたドイツ映画に『ヒトラーを欺いた黄色い星たち』という映画があります。ナチス政権下のベルリンで終戦まで生き延びた約1500人のユダヤ人の実話を、実際の生還者の証言を交えながら映画化したものです。ヒトラーがドイツを支配した時、ドイツ国内のユダヤ人16万人はゲットーに隔離され、後に強制収容所に送り込まれていくのです。そして、1943年6月にナチス・ドイツ宣伝相ゲッペルスは「ドイツの首都ベルリンからユダヤ人を一掃した。」と宣言します。ところが当時、実際には約7,000人のユダヤ人がドイツ人になりすまして、そのままベルリンの街に潜伏し、その内1,500人がヒトラー自決による戦争終結まで生き延びるのです。そして、この映画のラストシーンです。ソ連軍が劣勢のドイツ軍を打ち破り、とうとう首都ベルリンまで攻め込んできたのです。この時、ベルリンの防空壕や隠れ家にドイツ人になりすましたユダヤ人男性2人が身を隠していました。しかし、第2次世界大戦で、民間人を含めて650万人以上とも言われる犠牲者を出したソビエト連邦のソ連兵は復讐心に燃えています。一軒一軒しらみ潰しでドイツ人を連れ出して処刑していくのです。とうとうツィオマとオイゲンの2人は、一人のソ連兵に見つかり壁に立たされて殺されそうになるのです。その時、彼らは叫ぶのです。「私たちはユダヤ人だ!ドイツ人じゃない!」しかし、信じてもらえません。ユダヤ人がドイツの首都ベルリンにいるはずがないと思われていたからです。

 しかし、彼らは絶叫して「ユダヤ人だ!」というふうに訴えるのです。すると、ソ連兵は言います。「もし、お前たちが本当にユダヤ人ならシェマの祈りを言えるはずだ。」このシェマの祈りというのは旧約聖書の申命記6章4〜5節に出てくる祈りで、「聞け(シェマ)」という言葉で始まるところから、「シェマの祈り」と呼ばれる祈りで、ユダヤ人であるならば幼い頃から暗記しているものです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」。2人が、スラスラとシェマの祈りを唱えた時、ソ連兵が言います。「俺もユダヤ人だ。俺はユダヤ系ソ連人なのだ。」3人が号泣して抱き合うのです。この瞬間、彼は裁く者ではなく、救う者となったのです。

 さて、『ヒトラーを欺いた黄色い星たち』という映画の中で、1人のユダヤ系ソ連兵と2人のユダヤ人との間の会話が成り立つのは、双方がこの「シェマの祈り」を暗記していることが前提となっています。主イエスが生きておられた紀元1世紀の頃、祈りの言葉を文章に書いて、決まった祈りを祈ることが許されるかどうかという議論がユダヤ教の指導者たちの間で活発に交わされていました。そして、書かれた祈りであっても真実な心で祈れば、容認されるのだというのが一般的な理解となってきました。そして、それ以降の時代に、ユダヤ教は祈祷書というものを確立するようになるのです。祈祷書の中には、あらゆる状況に対応する祈りの言葉があります。朝起きたときの祈り、夜寝る前の祈り、愛する者を亡くしたときの祈り、こんなときの祈り、ありとあらゆる時の祈りがあって、今日でもユダヤ教徒は祈祷書を用いて祈ります。エルサレムの「西壁」のところで祈っているユダヤ人たちは、自分の言葉で祈っている訳ではないのです。祈祷書に基づいて祈っているのです。祈祷書を広げながら祈っているのですが、子供の頃から祈っているので、全部暗記しているのです。暗記している祈りを祈っているのです。これがユダヤ教徒の祈りなのです。

 私たちは毎週、礼拝の中で、「主の祈り」を祈っています。私たちは、「主の祈り」をユダヤ教徒が祈る、祈祷書の中の祈りのように、ただ、機械的に祈り、唱えているだけになってはいないでしょうか。主イエスが評価される祈りは、自発的な心からの祈りです。それでは、なぜ毎週、決まったように、決まった言葉で祈られる「主の祈り」があるのでしょうか。本日は、「主の祈り」の箇所を通して、主イエスはどのような祈りを私たちが祈るべき祈りだと教えられているかということについて、皆さんと共に学びたいと思います。

祈る主イエス

 本日の聖書の箇所を含むルカによる福音書10章25節〜11章13節は1つの弟子訓練についてのブロックになっています。前回までに、お反ししましたように、このブロックの特徴を表すキーワードは「関係」と言うことができます。まず、ルカによる福音書10章25〜37節では、「善いサマリア人」のたとえによって、「隣人との関係」が語られていました。その次は、ルカによる福音書10章38〜42節、「マルタとマリア」のエピソードを通して、「主イエスとの関係」について学びました。さらに、本日取り上げます11章1〜13節では、「主の祈り」を通して、「父なる神様との関係」が語られているのです。「主の祈り」は、主イエスが教えられた弟子たちが祈る「祈り」ですが、「主の祈り」は父なる神様との関係に於いて理解する必要があるのだということです。「隣人との関係」、「主イエスとの関係」及び「父なる神様との関係」がこのブロックの3つのポイントと言うことができます。

 本日の聖書の箇所の11章1節には、『イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。』と記されています。ルカによる福音書では、主イエスの祈りについて、度々、伝えています。3章21節の主イエスの洗礼の後の祈り、5章16節の重い皮膚病の人の癒しのあとの祈り、6章12節の12使徒を選ぶ時の祈り、9章18節のペトロの信仰告白の前の祈りがあり、本日の聖書の箇所は5回目の言及となります。ルカは主イエスが祈りの生活をとても大切にしていたことを強調していることが分かります。主イエスは祈りの生活を通して、手本を示したのです。主イエスの祈りが終わると、何が起きたのでしょうか。弟子の一人が主イエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったのです。このリクエストをした弟子は、主イエスの祈りの生活に感銘を受け、自分たちの祈りの生活は不十分だと思って、このリクエストをしたのです。弟子の一人が願い、主イエスがそれに応えたというのは、福音書の中で、ここだけなのです。従って、福音記者ルカは、祈りの重要性をここで強調し、伝えようとしているのです。弟子の一人が願い、主イエスがそれに応えたという特別な枠組みを設定することで、主イエスがここで教えようとされていることは、極めて重要なことだと、ルカは伝えているのです。

 この一人の弟子は、祈りの本質は何かとか、なぜ祈らなければならないのか、祈ればどういった祝福があるのかといった、祈りに関する教理的な教えを求めた訳ではないのです。彼は、単純に具体的な祈りの言葉を求めたのです。主イエスの弟子として、父なる神様にどう祈ったら良いのかということを尋ねたのです。今日のこの「主の祈り」の内容というのは、とても単純なものです。キリスト者としての生活の本質がこの「主の祈り」にかかっている、この「主の祈り」を通して、父なる神様とどのような関係を維持しているかがかかっている、それくらい単純な内容なのだということです。

 弟子の一人の言葉の冒頭に、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、」という言葉あります。ここに書かれているヨハネというのは、バプテスマのヨハネのことです。主イエスの弟子の中には、かつてバプテスマのヨハネの弟子であった人たちも沢山いたのです。その頃、バプテスマのヨハネの弟子集団が共有していた祈りの言葉を持っていたのです。当時は、いくつかのユダヤ人グループは、それぞれに独特の祈りの言葉を持ち、共有していたのです。従って、バプテスマのヨハネの弟子グループも、このグループ独特の祈りを捧げていたのです。かつて、バプテスマのヨハネの弟子であった者たちが、その時代のことを思い出したのだと思います。そして、今、主イエスを主と信じ、主イエスにつき従って、この集団の共通の祈りの言葉が必要だと思ったのだと思います。そこで、主イエスは彼らに祈りの言葉を教えるのです。主イエスが教えて下さったこの祈りには、2つの区分があります。そして、第1区分には2つの祈りのテーマがあります。第2区分には3つの祈りのテーマがあるのです。合計で、5つの祈りがあるのです。これが、ルカが記している「主の祈り」の構造なのです。

 『父よ、』

 本日の聖書の箇所の2節には、『そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』とあります。「祈るときには、こう言いなさい。」とありますが、この言葉を口にしなさいという意味です。そして、『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』とありますが、これが第1区分の2つの祈りなのです。主イエスの意図では、この言葉のままで、繰り返し祈れば良いということが分かります。

 マタイによる福音書ではどのようになっていますでしょうか?マタイによる福音書6章9節には、『だから、こう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。」』とあります。マタイによる福音書では、『こう祈りなさい』と書かれていて、ニュアンスが異なることが分かります。マタイでは祈りの型、祈りの構造が挙げられています。祈るときには、このような型に従って祈れば良いよ、と語っているのです。ルカによる福音書では、祈りの言葉がそのまま挙げられていますので、このまま祈れば良いということです。これが、マタイによる福音書とルカによる福音書の違いとなります。

 ルカによる福音書の「主の祈り」に戻りますが、ルカによる福音書の「主の祈り」は、『父よ、』という言葉で始まっています。「主の祈り」を祈るということをもっと単純に一言で表そうとすれば、この『父よ、』という言葉に凝縮されていると言うことができます。この『父よ、』という言葉は、ギリシア語の「パテーラ」という言葉が使われていますが、これは主イエスが神様に呼びかけるときに使われるアラム語の「アッバ」のギリシア語訳です。この「アッバ」という呼びかけは、今でもイスラエルでは、小さい子どもが父親に親しみを込めて、「アッバ」と呼びかける時に使われる言葉なのです。日本語で言えば、「お父さん」とか、「お父ちゃん」となるかと思います。父なる神様に、「アッバ」、『父よ、』と呼びかけなさいというところに、キリスト教信仰の真髄があると思います。「アッバ」という呼びかけは、2つのニュアンスがあるのです。一つは、父の尊厳を認めているということです。そして、もう一つは、親密さを表現しているのです。私たちが、「アッバ」、『父よ、』と呼びかけるときに、神様をとても崇拝している、と同時に、神様をとても近くに感じているということです。主イエスは神様に対して、何度も『父よ、』と呼びかけおられています。主イエスは三位一体の神様の第2位格の神様ですので、本質的な意味で『父よ、』と呼びかけることができるお方です。弟子たちはどうでしょうか?私たちはどうでしょうか?私たちは、主イエスにあって罪が赦されたという、主イエスとの関係の故に、『父よ、』と呼びかけることが許されているのです。主イエスとの関係が、私たちと父なる神様との関係を作り上げているのです。私たちと父なる神様の関係は、主イエスを信じることによって与えられた、特別な関係であると言うことができます。

『御名が崇められますように。』

 先程、「主の祈り」の内容は、2つに区分することができることをお話しましたが、第1区分には被造世界世界に対する神様の計画が成就するようにという2つの祈りが含まれています。そして、第2区分には3つの祈りが含まれていますが、これは弟子たちの必要、私たちの必要を訴える3つの祈りなのです。

 第1区分の第1の祈りは、『御名が崇められますように。』というものです。このような言い回しは、私たち日本人にとっては、難解な言い回しだと言うことができます。この言葉は、一言で言えば、『父よ、誰もがあなたの御名を聖なるものとして認めますように』ということになるかと思います。神の御名とは、神様のご性質の総体だと言うことができます。名前というものは、ユダヤ的には実質を表しているものなのです。従って、『御名が崇められますように。』というのは、神様のご性質の総体が聖なるものと認められますようにということです。言い方を変えると、神様の評判が、すべての人の間で良いものとなりますように、と言うことができると思います。現代の日本の中で、クリスチャン人口は人口の1%以下です。しかも、その中で、主イエスによってほんとうの意味で福音的に救いを得られている人は、さらにその3分の1位だと言われています。現代の日本の中で、聖書の啓示や神様の御名が軽く扱われていることに、心に痛みを覚えることは多いのではないでしょうか?従って、これは私たちの祈りなのです。「神様、神様の評判が、すべての日本人の間で良いものとなりますように、」という祈りなのです。もっと言えば、この祈りは、「神様、偉大な御業を行って下さい。そのことによって、すべての日本人が、あなたが愛なる神様であり、恵みに満ちた神様であることを認める時が来ますように、」という祈りなのです。

『御国が来ますように。』

 第1区分の第2の祈りは、『御国が来ますように。』というものですが、この祈りは当時の弟子たちが聞くと直ぐに理解できたと思いますが、旧約聖書のことをよく知らない私たち日本人には難解な祈りであると思います。第1の祈りとして、神様の御名が聖なるものとして、すべての人の間で認められますようにという祈りがありましたが、そのことが成就するのが何時かと言いますと、御国が来たら、そのことが成就するのです。従って、第1の祈りと第2の祈りとは密接に関係しているのです。御国が来たならば、すなわち、旧約聖書で予言されている神の国が来たならば、すべての人があなたの御名を聖なるものと認めるようになります、という祈りなのです。一言で、「神の国」と言いましても、普遍的な神の国、すなわち永遠の主権者である神様の全宇宙の支配という意味での神の国は常に存在しています。神様が王であるという状態は、常に存在しているのです。それに対して、この「主の祈り」で祈られている『御国』とは、より具体的に地上で成就するメシア的王国、千年王国のことを言っているのです。従って、この祈りは、主が旧約聖書で予言して下さった地上における理想的な国が来ますように、という祈りなのです。普遍的な神の国という意味では、常に存在していますが、メシア的王国、地上における千年王国はまだ来ていないのです。まだ、来ていないので、今もこの祈りは有効なのです。現代の日本の教会に生きる私たちは、この祈りをしっかりと祈らなければなりません。それも「だったらいいなあ」と曖昧に祈るのではなくて、この御国というのは、やがて主イエスが再臨した時に、地上に出来上がる千年王国のことである、という明確な理解をもって、その御国が来ますようにと、この言葉の通りに祈ること、それが、主イエスがここで教えておられることなのです。ここまでが、第1区分の2つの祈り、被造世界世界に対する神様のご計画が成就するようにという祈りなのです。

『わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。』

 次に、第2区分には3つの祈りが含まれていますが、これは弟子たちの必要、私たちの必要を訴える3つの祈りなのだということをお話しました。ルカによる福音書11章3節には、『わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。』と記されています。これが、第2区分の第1の祈りとなっています。これは、弟子としての必要が満たされますようにという祈りです。ルカは『毎日与えてください。』という祈りを伝えていますが、マタイによる福音書の6章11節では、『わたしたちに必要な糧を今日与えてください。』と、「今日」ということを強調しています。ルカ福音書とマタイ福音書の主の祈りは、「毎日」と「今日」と、互いに補完し合った祈りでもあることが分かります。この祈りは、現代の豊かな時代の豊かな国に生きている私たちにとって、今日、昼、何を食べようか、夜、何が食べられるかな、と食べたいものを頭の中で思い描きますが、食べられるかどうか悩むことは、ほとんどないかと思います。しかし、世界中には、飢えている人がとても沢山いるのです。さらに、主イエスが生きておられた同時代の人たちにとっては、この「毎日」与えて下さい、「今日」与えて下さいという祈りは、実に切実な祈りであったことを私たちは覚えておきたいと思います。

 出エジプト記16章4節には、『主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。』とあります。「毎日」与えてくださいという日々お願いするというのは、主に対する信頼を学んでいる祈りだということです。主イエスの時代の人たちは、収入はどうしていたのか、労働者階級の人たちは、日当によって生活するのが普通であったのです。ですから、その日働いて、夕方に賃金をもらって、それで、その日食べるものを買うというのが、毎日の繰り返しであったのです。ですから、「毎日」与えて下さい、「今日」も与えて下さい、これは神様に信頼する大きな試みになったのです。現代人にとっては、この祈りを切実な祈りとして祈ることはなくなっていますが、この祈りを祈るときには、自分が完全に神様に依存していることを思い出す機会となるということを覚えたいと思います。当時の人たちの思いになって、自分も神様に依存しているのだということを思い出すこと、それがこの祈りの精神なのです。

■『わたしたちの罪を赦してください、』

 本日の聖書の箇所の42節を見ますと、『しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方本日の聖書の箇所の4節の前半を見ますと、『わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。』と記されています。これが、第2区分の第2の祈りです。この祈りは、神様の赦しを求める祈りです。これは、もちろん、主イエス・キリストを信じた時に、罪赦されて、神様を「父」と呼ぶことができる関係に入った訳です。その関係を維持するためには、私たちの側で罪を犯していては、その関係が維持できないのです。救いが取り去られることはありませんが、神様が喜ばない生活をしているならば、神様との関係に断絶が入ってくるのです。従って、神様の赦しを日々、求めて行く必要があるのです。ルカは、単純に「罪」、ハマルティアという言葉を使っています。それに対して、マタイ福音書6章12節では、「負い目」、オフェイレマタという言葉を使っています。「罪」と「負い目」という異なる言葉が使われていますが、実質的には同じ意味の言葉です。主イエスの弟子たちは、信仰と恵みによって、既に罪が赦されています。ですから、この祈りは罪を赦して下さいという祈りではなくて、父なる神様との関係を維持するための祈りなのです。父なる神様との関係を維持するために、日々の生活の中で、犯してしまう様々な罪をお赦し下さいという祈りなのです。このことは、ヨハネの手紙一 1章9節では、『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。』と書かれています。これは、罪人が罪赦されて義とされるという教えではないのです。既に、義とされた信仰者がいかに歩むべきかということの教えであり、自分の罪を告白し続ける必要があると言うのです。このことがキリスト者としての歩みを正常に保つための教えなのです。

 そして、第2区分の第2の祈りには、『わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから。』という言葉が出てきますが、これは他人の罪を赦すことができる人は、神様の赦しを体験している人なのだということなのです。他人の罪を許せないのなら、神様の赦しの意味を理解していないということなのです。このことがポイントで、他人の罪を赦さないと、神様に赦してもらえないということではないのです。そうではなくて、本当に神様の赦しを体験しているならば、他の人を赦せるはずだという意味なのです。他の人を赦せないならば、神様の赦しをまだ十分に理解していない人だということです。第2区分の第2の祈りは、罪の赦しを求め、他の人との関係を正常に維持するための祈りなのです。

『わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』

 本日の聖書の箇所の4節の後半を見ますと、『わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』と記されています。これが、第2区分の第3の祈りです。これは、神様が私たちを誘惑することを教えているわけではなくて、神様の守りを求める祈りなのです。神様は、私たちを訓練するために、ときには私たちを試みに遭わせることがあるのです。この祈りは、自分の弱さを認め、神様の助けを求める祈りです。この祈りの修辞的表現法は、緩叙法と呼ばれる手法が用いられています。これは、直接的な主張をせずに、その逆の意味のことを否定する方法のことです。例えば、「良い」という代わりに「悪くない」といい、「物騒な」と言う代わりに、「穏やかでない」と言う方法を言います。もっと言いますと、「すべての人が悲しんだ」という直接的な表現の代わりに、「それを悲しまないものはなかった」と二重否定の表現を取ることで、「悲しんだ」という事実を強調するという表現法です。従って、『わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』という言い方は、私たちを守って下さいという祈りなのですが、神様の「守り」を強調している祈りなのです。

神様と私の関係は?

 ルカによる福音書が伝える「主の祈り」を見てきましたが、「主の祈り」の土台は、キリスト者と父なる神様の関係であると言うことができます。主イエス・キリストを信じて、キリスト者になっていなければ、この祈りは祈ることができないということです。信仰がなければ、祈っても、言葉づらだけのことで、神様に届く祈りとはならず、神様と私たちの関係を整える祈りとはならないということなのです。私たちは、主イエス・キリストにあって、父なる神さを、「父よ、」、「アッバ」と呼ぶことができるようになりました。つまり、主イエス・キリストと父なる神様の間にある関係に、似たものが私たちに与えられているということなのです。

 ヨハネによる福音書20章17節には、『イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」』とあります。

 この記述は非常に重要なことを私たちに伝えています。ここで、主イエスは「私たちの父であり、私たちの神である方のところへ上る」とは、言っていないのです。区別しているのです。「わたしの父」、「あなたがたの父」、「わたしの神」、「あなたがたの神」、と区別して言っているのです。なぜかと言いますと、「父」と主イエスの関係は、「父」と私たちの関係とは、次元の異なるものだからです。私たちは、主イエス・キリストにあって、神様を「父」と呼ぶことができるようになったのです。

 ローマの信徒への手紙8章14〜17節には、『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。』と記されています。私たちは、主イエス・キリストにあって、神様の子とされ、聖霊によって導かれ、神様に対して、「アッバ、父よ」と呼ぶことができるようになりました。そして、同時に相続人となった。キリストと共同の相続人となったのです。従って、被造世界の祝福を相続する特権が与えられたのです。このことが、キリスト者の生活の要点なのです。

 ガラテヤの信徒への手紙4章6〜7節には、『あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。』とあります。先程のローマの信徒への手紙の内容よりも、もっと凝縮された表現で語られていることが分かります。御子の霊が、私たちを導き、「アッバ、父よ」と叫ぶことができるようにして下さったのです。私たちは、主イエス・キリストにある共同相続人である、これが「主の祈り」のベースなのです。「主の祈り」の土台は、主イエス・キリストにあって、子とされている、だから、「父よ、」と呼びかけることができる、このことに尽きるのです。「主の祈り」を祈るとは、神様が私たちと結ぼうと望んでおられる関係に生きることです。神様と交わりを持って神様と共に生きることです。主イエスは、主の祈りによって、まことの神の民、神の子と神様との関係、交わりに私たちを生かそうとしておられるのです。私たちは、私たちを父なる神様の関係の中へと導いて下さる主イエスの愛と憐れみに信頼して、主イエスのみ言葉に従って生きる者へとなって行きたいと思います。 

 それでは、お祈り致します。