小倉日明教会

『求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。

ルカによる福音書 11章 5〜13節

2023年6月4日(日)聖霊降臨節第2主日礼拝

ルカによる福音書 11章 5〜13節

『求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。

【奨励】 川辺 正直 役員

『きっとイエスと言ってもらえる』、脳性まひのビル・ポーターはトップセールスマン

 おはようございます。アメリカ北西部に、長年にわたり売上げナンバーワンを誇る一人のセールスマンがいました。彼の名前は、ビル・ポーターと言います。彼の生涯を、彼のアシスタントをしているブレディ・シェリーという人が書いた本が、『きっとイエスと言ってもらえる』という本です。彼は生まれつき手足に障がいがあり、言葉がうまく話せませんでした。でも、彼の両親は、この子は神様からの贈り物だと言って、大きな愛で彼を育てたのです。彼は成長し、そして、成人した時、誰もが働くことは無理だと言いましたが、ビルを惜しみなく愛した両親は、ビルに自立を求めました。高校卒業前から、障害者手当に頼るのでなく、仕事を見つけて収入を得ることを厳命するのです。職業安定所に通い詰め、雇われては解雇されてというのを繰り返して、ついには雇用不適格と認定されてしまいました。しかし、それでも彼は諦めませんでした。彼が最後に選んだ仕事は、何と訪問セールスマンだったのです。1961年、自然化粧品や健康食品などを訪問販売するワトキンズ社で、「最低の営業エリアでの試験採用」としてセールスマンになります。1軒、1軒、ドアをノックします。当然ですが、断られます。「間に合っています」。「結構です」。しかし、彼はこのノーという返事を、2度と来ないで、という否定的な意味には捉えなかったそうです。「もっと時間のある時にもう一度来て」、「今度はもっと役に立つ商品を持ってきて」という意味に捉えたそうです。それでも落ち込むことがありました。そんなときに、彼が呪文のように唱えていた言葉があります。それが、『きっと次の家では、イエスと言ってくれる』、という言葉だったそうです。今は、分からないけれど、きっとイエスと言って、受け入れてくれる家があるのだ、と彼はそう信じ、ドアをノックし続けたのです。こうして、セールスマンとなったビルは毎日100軒の家を訪問し続け、不自由な足で1日に歩く距離は15kmにも及んだといいます。しかも、勤務を始めて14年間の中で休んだのは、わずかに2日だけであったそうです。その結果、彼は、地区成績でトップの成績を収めることになったのです。

 ビル・ポーターさんは、この本の結びで、「あなたの人生も重要だということです。(中略)自分の人生を精いっぱい生きるだけで、きっとみなさんも、ほかの人たちに勇気をあたえることができるはずです」と語っています。彼の成功の秘訣は、未来を信じる希望にあったと思います。希望を手に入れるためには、必要なものがあります。それは、信じるということです。

 本日の聖書の箇所では、主イエスは祈りの重要性を教えておられます。前回は、主イエスが教えられた主の祈りについて学びましたが、本日のたとえ話を通して、主イエスが、私たちが祈ることに対してどのように励まされているかということについて、皆さんと共に学びたいと思います。

『主の祈り』

 本日の聖書の箇所を含むルカによる福音書10章25節〜11章13節は、ルカによる福音書だけの特徴あるブロックです。前回までに、おお話ししましたように、この弟子訓練に関するブロックの特徴を表すキーワードは「関係」と言うことができます。まず、ルカによる福音書10章25〜37節では、「善いサマリア人」のたとえによって、「隣人との関係」が語られていました。その次は、ルカによる福音書10章38〜42節、「マルタとマリア」のエピソードを通して、「主イエスとの関係」について学びました。さらに、前回と本日取り上げます11章1〜13節では、「主の祈り」と「祈りの重要性を教える2つのたとえ話」を通して、「父なる神様との関係」が語られているのです。

 前回、1〜4節の「主の祈り」について取り上げました。前回、お話ししました「主の祈り」の内容を振り返ってみますと、4つのポイントを、挙げることができます。1つ目のポイントは、ルカによる福音書が伝える「主の祈り」は、祈りの言葉を教えたものだということです。マタイによる福音書の「主の祈り」は、祈りの型を教えたものですが、ルカの伝える「主の祈り」は、こう祈ったら良いのだよという、祈りの言葉そのものを教えたものなのです。2つ目のポイントは、私たちが天の父に祈りを捧げることができる土台は、神様と親子関係に入ったということにあるのだということです。どうしてそのことが実現したのでしょうか?それが、3つ目のポイントで、主イエス・キリストにあって、私たちは神様の子とされたのです。主イエス・キリストを信じたということは、主イエス・キリストの内にあるということなのです。主イエス・キリストの内にあって、天の父と親子関係に入ったということなのです。それ故、4つ目のポイントが、祈りは神の子の特権であるということなのです。だから、ルカの伝える「主の祈り」では、最初に『父よ、』と、尊敬と親しみを込めて呼びかけるのです。この『父よ、』という呼び掛けが、祈りの生活の全てであると言うことができるのです。苦難の日、悩みのある日、助けが必要な日、私たちはもう一度静かに、天の父に呼びかける前に、主イエス・キリストにあって、天の父なる神様が、私の父となって下さった、その関係の故に、『父よ、』と祈ることができる、それはどんなに心強いことでしょうか、そのことを思いたいものです。私たちは、『父よ、』と祈る祈りを、毎日捧げて行きたいと思います。

    

 真夜中にパン借りる人

 そして、今回、祈りについての話はさらに続いて、5〜8節の「真夜中にパン借りる人」のたとえ話と、9〜13節の「熱心に求める人」のたとえ話の2つのたとえ話です。そして、これらの2つのたとえ話は、「主の祈り」の教えを補足するたとえ話なのです。そして、これらの2つのたとえ話は、これが真理なのだから、しっかりと祈ろうねという祈りの動機づけを教えるためのたとえ話なのです。そして、最初の「真夜中にパン借りる人」のたとえ話は、神様の性質と隣人の性質とを対比させているたとえ話なのです。2つ目の「熱心に求める人」のたとえ話は、人間でもこうなのなのだから、ましてや天の父はこうだよねというように、天の父と肉の父親とを対比させているのです。

 さて、最初の「真夜中にパン借りる人」のたとえ話について見てみたいと思います。本日の聖書の箇所の11章5〜6節には、『また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』」』と記されています。古代の中東の社会では、旅人がやって来ると、それをもてなすというのは、聖なる務めであったのです。これが当時の中東での習慣であったのです。従って、客が到着すると、通常、主人は泊まる場所と食事を提供したのです。中東風のおもてなしをしたのです。さて、この旅人はなぜ真夜中に着いたのでしょうか。ユダヤの地方は、夏になると、昼間は暑くて移動するのが難しくなります。ですから、当時は暑さを避けるために、夜間の涼しい時間帯に旅をする人が多かったのです。この旅人もおそらく夜間に移動し、予期せぬ時間帯に着いたものと考えられます。なぜ、そのような不都合な時間帯にその家にたどり着いたのか?その理由は、ルカは説明していません。それは、どうでも良い情報であったのだと思います。とにかく、真夜中に友人が到着したのです。さて、友人が到着した家の主人は困ったのです。どうしてかと言いますと、彼の家には客に出すパンがなかったのです。現代の日本であれば、何時に友人が来ても、冷蔵庫の中には作り置きがあったり、夕食の残りがあったり、冷凍食品や非常食があったり、何か出すものはあるかと思います。しかし、当時のユダヤの一般庶民の生活はその日暮らしなのです。村の女性たちは、朝早くから起きて、その日一日、家族に必要なパンを焼くのです。その日のパンは家族で食べてしまって、明日の食事は一から作り直す、これが普通の生活であったのです。ですから、パンのストックがないのです。唯一の解決法は、お隣の家の友人から、パンを借りることであったのです。ここには、村人たちにとって、どの家庭にパンが残っているか、互いにわかるほどの日常的な近所付き合いの生活があったのです。

 そこで、彼は真夜中に、非常識であることは承知の上で、日頃の近所付き合いのよしみで、友人の家にパンを借りに行くのです。恥を忍んで、友人の家を尋ねたのです。当時、家の扉というのは、日中は開けたままです。日本でも、田舎に行くと、今でも出かけるときは、鍵を掛けずに出かけて行くのです。当時のユダヤの家の戸というのは、日中は開けたままという、オープンな生活をしていたのです。ところが、夜間になると、鉄の棒のかんぬきと錠で、戸を閉めたのです。この戸を閉めるというのは、もうみんな寝ているので、邪魔をしないでねというサインであったのです。ですから、閉じられた戸を叩くというのは、当時の感覚で言えば、全く非常識なことであったのです。しかし、これ以外に方法がなかったのです。客を迎えた主人は、恥を忍んで、戸を叩いたのです。

 さて、何が起こったのでしょうか?友人の反応が記されています。それが、7節です。『すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』』とあります。これは、当然の答えなのです。当時のパレスチナの典型的な家というのは、今で言う、ワンルームです。日本で言えば、6畳一間くらいの狭い一部屋に、家族全員が身を寄せ合って、ざこ寝をするのが普通であったのです。ときには、家畜も傍で寝ていたのです。これは、当時の普通の状況であったのです。ですから、この友だちが起き上がろうとしなかったのは、当然のことであったのです。この友だちはこう言っています。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』。戸を閉めて、起こさないで下さいというサインも出していますよ、子どもたちも一緒に床に入っているのですよ。だから、起きると、子どもたちを起こしてしまうことになるのですよ。騒々しくすることはできないので、また、明るくなってから、来て下さい。これが友人の答えであったのです。

 そこで、8節で主イエスはこうおっしゃるのです。『しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。』。友情だけでは、この人は動かないと主イエスは仰っているのです。恥を忍んで、しつこく頼んだのです。しつこかったので、この友人は動かざるを得なくなったのです。しつこく頼んだことが、友人を動かしたのです。「しつこく」と訳されているギリシア語は、『アナイディアン』という言葉です。この言葉には、「恥知らずな、厚かましいしつこさ」という意味があります。本来は恥ずかしいことです。けれども、恥知らずの思いになって、しつこくお願いをしたのです。

 ここで、主イエスは何を教えようとしているのでしょうか?主イエスは、神様の姿勢とこの友人の姿勢を対比させているのです。5つの視点でこの対比を見てみたいと思います。1つ目に、友人はしつこく頼まなければ動きませんでした。2つ目に、神様は私たちが助けを求めただけで答えて下さるのです。3つ目に、そのためには、謙遜になって神様に祈る必要があるということです。4つ目に、多くの場合、私たちは自分で問題を解決しようとします。ここに、祈りが聞かれない原因があるのです。自分の限界を知って、謙遜になって、神様にお願いする必要があるのです。そして、5つ目に、自分で問題を解決しようとしているかぎり、神様の助けを得られることができないのです。私たちが弱いときというのは、主イエスに繋がり、主イエスの復活の力から、力を得るというチャンスが来ているのです。そのようなとき、なぜ、私の方に顔を向けないのか、なぜ私に願わないのかと、常に天の父は、私たちが祈るのを待っておられるのです。そして、天の父は喜んで祈りの答えを与えて下さろうとしているのです。人間でさえも、しつこく祈れば願ったものを与えて下さるのです。しかし、父なる神様は、人間の父親とは違うのです。天の父は、人間の父親よりも遥かに素晴らしいお方なのです。それ故、天の父は喜んで祈りの答えを与えて下さるのです。

 これが、本日の聖書の箇所の1つ目のたとえ話の内容なのです。

熱心に求める人

 先程、「主の祈り」の内容は、2つに区分することができることをお話しましたが、第1区分には被造本日の聖書の箇所の9〜10節には、『そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。』とあります。これは、主イエスによる祈りの勧めです。先程は、真夜中の緊急事態です。真夜中の緊急時に祈ることは大事だけれども、それだけではだめだよ、日常的に、常に祈る必要があるよと、主イエスは教えて下さっているのです。この箇所には、3つ動詞が出ています。『求めなさい』、『探しなさい』、『たたきなさい』。

 ギリシア語では、これらの動詞は、いずれも現在形で書かれています。現在形というのは、動作が継続して、続いていることを意味しているのです。ですから、『求める』、『探す』、『たたく』、これらを日常的に、途切れることなく、祈りの姿勢として、実行しなさいと教えて下さっているのです。つまり、答えが直ぐに来なくても、諦めないようにと教えて下さっているのです。これは、主イエスによる、祈りへの励ましの言葉なのです。「主の祈り」を教えて下さった主イエスがさらに弟子たちに、継続した祈りを捧げるように励ましの言葉を語っておられるのです。ここで、主イエスは祈りが聞かれることを保証しておられます。『だれでも』という言葉があります。これは主イエスの弟子たちのことを言っています。主イエス・キリストを救い主と信じて神の子とされた人は、『だれでも』祈りの答えを得ることができる。このことは、不信者のことを言っているのではありません。信者のことを言っているのです。これ以上、確実な保証はないと思います。主イエスが『だれでも』、『求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。』ということを約束されているのです。それ故、弟子は祈りを諦めてはならないのです。

 いつまで祈っても聞かれないから、諦めようと思ったということはないでしょうか。そうではありません。神様が最善の答えを下さるということを説明するために、次のたとえ話が出てくるのです。11〜12節には、『あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。』と記されています。ここでは、人間の父親の話が出てくるのですが、この2つの例は父なる神様は喜んで祈りに応えて下さると教えています。ここでの2つの例ですが、「魚の代わりに蛇を与える父親」というのは、非常に危険な偽物を与えているのです。あるいは、「卵を欲しがるのに、さそりを与える父親」というのも、非常に危険な偽物を与えているのです。人間の父親でさえも、こんなことはしないでしょ、ましてや天の父が直ちに最善のものを与えて下さらない筈がないと、ユダヤ的な教え方で語っているのです。ここでポイントは、魚と蛇が対比されています。ということは、魚と蛇は似ているのです。ガリラヤ湖には海蛇が生息しています。魚そっくりなのです。似ているけれども、その実質は偽物で、危険なものであるというように、全く異なるのです。そういう偽物で、危険なものは与えない。これが、このたとえのポイントなのです。

 もう一つ、卵とさそりが対比されています。さそりというのは、卵を見つけると、その卵の殻に穴を作り、その穴から入って、中身を食べるのです。食べ終わった後、その卵の殻を住み家として、ヤドカリのように、卵に住むことがあるのです。そういうことを知らないと、ああ、卵があると思って、手を出して、取り上げてみると、実は中にさそりがいたということは、パレスチナでは、あったわけです。あるいは、白い色の小さいさそりがいるのですが、それが身を屈める、とぐろを巻いて丸くなると、小さな卵のように見えるのです。ああ、卵があると思って、手を出すと、実は白いさそりが身を丸くしていたということがあったのです。これも、卵とさそりが似ているのですが、本質は全く異なる危険なものなのです。そういうものを肉の父親は与えないでしょう。肉の父でさえも、最善を与えたいと思っているならば、天の父が最善を与えて下さらない筈がないと言っているのです。天の父は、偽物ではなく、本物しか与えないお方です。それ故、安心して、祈りを捧げることができるのです。これが、祈りの動機づけになってゆくのです。

 ところが、私たちの生活の中では、答えが来ない祈りもあるという思いに捕らわれることがあると思います。聞かれない祈りがあるということを、どう考えたら良いのでしょうか。このことに対する、1つ目のポイントは、聞かれない祈りというものは、現実には存在しない、ということです。なぜかと言いますと、神様は最善しか与えないお方なのです。それでは、私たちが願ったものが、最善ではないものであれば、どうなるでしょうか。それが、聞かれない祈りの2つ目のポイントで、祈ったとおりにならないのは、今、与えるべきものではないか、今、与えるべき時ではないか、求めたものが最善のものではないか、のいずれかの理由からだということです。祈ったものが全てかなえられるというのは、天の父が、魚に代えて蛇を、卵に代えてさそりを与えているようなものだということです。願っているものが危険なものであれば、天の父は絶対にそれを与えないのです。従って、3つ目のポイントは、願ったものが与えられるという約束は、そのような意味で理解する必要があるのです。従って、今、祈っていることに、答えがないというのは、答えがないということが、最善なのだと理解したいと思います。

 このことは、簡単には理解できないものです。でも、このことを考える時に、私たちはパウロのことを思い出したいと思います。パウロは、コリントの信徒への手紙二12章7〜9節には、『また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』とあります。パウロは、肉のとげを取ってくださいと何度も祈っています。肉のとげ、それはおそらく目の病やてんかんなどの不治の病だろうと言われています。しかし、神様はパウロのその祈りに応えなかったのです。どうしてかと言いますと、弱さの中に働く恵みを神様はパウロに教えようとしたのだと思います。パウロが肉体のとげを持っていても、それがあるが故に、パウロは謙遜になり、パウロの中に働く、神様の力を体験するならば、パウロの人生にとってはプラスになるという判断があったのだと思います。従って、祈りが聞かれないという問題は、現実には存在しないのだと思います。

 本日の聖書の箇所の13節を見ますと、『このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」』と記されています。このように、人間の父親と天の父との対比が行われるのです。罪人である肉の父親と、聖なる天の父とが、ここで対比されているのです。天の父は、弟子に必要なものは全てご存じです。そして、13節の後半には、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」とあります。天の父は、聖霊という最高のものを与えて下さるのです。このことがいつ成就したのかと言いますと、先週はペンテコステ礼拝でしたが、使徒言行録の2章の1〜4で成就したのです。ペンテコステの祭の日に、このことが成就したのです。ですから、今は主イエス・キリストを信じる全ての人の内に、聖霊が住んでおられるのです。信じた人の内に聖霊が住んでおられる、これは、天の父の約束なのです。私たちが主イエス・キリストを信じて、救われているのであれば、聖霊は私たちの内に住んでいて下さいます。ですから、今の私たちには、聖霊を下さいと祈る必要はないのです。既に、聖霊は与えられているのです。では、どう祈るべきなのでしょうか?それは、聖霊に満たして下さいと祈るべきなのです。聖霊に満たされるというのは、聖霊の支配に服従するということです。内側に住んでいる聖霊が、私たちを導いて下さるのです。その聖霊の導きに従ってゆくということなのです。それが、聖霊に満たされるという言葉の意味なのです。

 ローマの信徒への手紙、8章9節には、『神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。』と記されています。主イエス・キリストを信じたならば、その人はキリストの霊を持つようになっているというのです。そうでなければ、キリストのものとはなっていないということなのです。父なる神様が、最高のものを下さる、最高のものは聖霊であるということなのです。この約束は、今、まさに私たちの上に成就しているのです。私たちが、『父よ、』と尊敬と親しみを込めて祈る祈りを、聖霊が私たちに与えてくれているのだと思います。つまり、聖霊の働きによって、私たちは「主の祈り」を心から祈る者とされているのです。主の祈りは、神様が聖霊の働きによって私たちとの間に築いて下さる新しい関係、交わりの基本です。この祈りを祈る中で、私たちは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれることを体験していくのだと思います。私たちの祈りを待っておられる神様の思いに応えて、『きっと次の家では、イエスと言ってくれる』、と願ったビル・ポーターさんのように、私たちは祈り続けるものへと変えられて行きたいと思います。

  それでは、お祈り致します。