小倉日明教会

「わたしに従いなさい」

ルカによる福音書 9章 57〜62節

2023年3月19日 受難節第4主日礼拝

ルカによる福音書 9章 57〜62節

「わたしに従いなさい」

【奨励】 川辺正直役員

エリザベス女王と出会った人

 おはようございます。昨年、イギリスのエリザベス女王が亡くなられました。テレビで国葬の様子をご覧になられた方も多いかと思います。在位70年という大記録です。その時、長年エリザベス女王のボディガードを務めていたグリフィンさんという方がこんなエピソードを披露していました。実は、エリザベス女王は毎年夏になるとスコットランドのアバディーンシャーというところにあるバルモラル城という別荘で過ごされるのです。それはイギリスでは誰もが知っていることなのです。ある夏の日、エリザベス女王に誘われてピクニックに出かけたのです。すると、たまたま二人のアメリカ人の旅行者と出くわしました。エリザベス女王はいつものように「ハロー(こんにちは)」と挨拶されたのです。アメリカ人旅行者も返事を返し、やがて暫く語らいの時となりました。彼らは聞きました。

 「この近くに住んでいらっしゃるのですか?」。「いいえ、私は日頃はロンドンなのですが、夏の間だけこの山の反対側にある別荘にいるのですよ」。「ここに来るようになってどれくらいになりますか?」。「幼い頃からですから80年以上になりますね」。「80年も来られているのでしたら、もしかして、女王陛下と会ったことがあるのではないですか?」。

 「いいえ、私はありません。でも、このグリフィンさんはよく彼女と会っているのですよ」。

 すると二人の関心はエリザベス女王本人からグリフィン氏に向いたのです。そして、「どんな方なのですか?」と質問攻めをしたのです。そして、最後にはエリザベス女王にカメラを渡して、「グリフィンさんと一緒に写真を撮ってください」と頼んだというのです。

 エリザベス女王本人を目の前にしながら、それが分からなかったのです。分からなかったので、エリザベス女王と出会っていながら、一緒に写真を撮ることができなかったのです。

 さて、本日の聖書の箇所では、3人の人が主イエスと出会っています。3人の人たちの主イエスとの出会いはどのようであったのかということを皆さんと共に学びたいと思います。

主イエスと出会った3人の人たち

 さて、前回、お話した聖書の箇所では、サマリア人が主イエスを拒否したことが記されていました。前回の聖書の記事から、福音記者ルカは主イエスを拒否した人たちから、主イエスの弟子になりたい、あるいは、弟子になるように主イエスに招かれた人たちに視点が移しているのです。そして、本日の聖書の箇所では、主イエスの弟子となって主イエスに従うとはどのように歩むことか、ということが語られているのです。

 本日の聖書の箇所には、3人の人たちが登場致します。1番目と2番目の弟子志願者の出来事は、ガリラヤで起こった出来事です。マタイによる福音書の8章18節を見ると、主イエスがガリラヤからゲラサ人の地に渡られようとしたときに、2人の人と交わしたやり取りが記録されていることから分かります。さらに3人目の志願者の話ですが、これはルカによる福音書だけに記されている記事なのです。そして、おそらくはこの3人目の志願者の話も、ガリラヤで起きた話であると思います。

 前回、エルサレムを目指して旅立った主イエスが、サマリアの人たちに拒否された後で、ガリラヤで弟子志願者と出会っている、いったいどうなっているのと思いますが、福音記者ルカはエルサレムへの旅では、時と場所については深い関心は払っていないのです。そのことよりは、主イエスの教えにルカの関心は集中しているのです。ルカは、本来はガリラヤで起きたことを、エルサレムへの旅という大きな文脈の中で記しているのです。そして、ルカは弟子訓練というテーマの中で、3人の人たちとのやり取りを一纏めに記しているのです。従って、私たちもいつ、どこでということよりも、主イエスが弟子訓練について、あるいは、弟子が払うべき犠牲について、何を語られているのかということに集中して、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。

    

 人が救われるのは

 本日の聖書の箇所の主イエスと3人の人たちとのやり取りに入る前に、人はなぜ救われるのかということについて、お話したいと思います。それは、人は弟子になって救われるのではなく、人は救われて、次に、弟子となるからです。そして、この点について、最初にお話しすべきことは、人は信仰と恵みによって救われる、ということです。人は、自分の努力や行いによって、救いを達成することは、聖書的には不可能なのです。神様の愛は無条件の愛だということが言われます。神様はたとえどのような人であっても愛しておられるのです。しかし、それは、神様は何でも許して下さるということではないのです。私たち人間は、アダム以来、罪を宿して、生まれてくるようになりました。しかし、そのような罪人である私たちが、主イエスを救い主として信じるなら、恵みによって、どのような罪人であっても、救われるのです。

 そして、2つ目にお話しすべきことは、何を信じるのかということです。それは、3つのことがら、すなわち、1つ目の要素が、主イエス・キリストは私たちの罪に死なれたということ、2つ目の要素が、主イエス・キリストは死んで墓に葬られたということです。そして、3つ目の要素が、主イエス・キリストは三日目に復活されたということです。そして、この3つの要素を知的に理解しただけでは、救いに至る信仰とはならないのです。主イエス・キリストがこのようなお方であると理解して、主イエス・キリストに信頼を置き、主イエスこそが自分の人生の主、救い主ですと告白すること、信頼すること、それが救いに至る信仰だと思います。

 そして、3つ目にお話しておきたいことは、救いは神様からの贈り物であるということです。主イエス・キリストを信じる他に救いはないということが、聖書の主張なのです。救いは信仰と恵みによって、神様から与えられる贈り物、ギフトなのだということです。それならば、私たちはそれを受け取らなければならないと思います。その福音の贈り物を受け取った人が、救いにあずかるのだと思います。

 さらに、4つ目にお話しすべきことは、救われることと、主イエスの弟子になることは違うということです。救われるということは、贈り物、ギフトですので、無代価で私たちに提供されています。主イエス・キリストの命という代価が払われて、救いが私たちに与えられているのです。私たちは、主イエス・キリストの犠牲によって、与えられる救いを受け取るだけなのです。

 しかし、弟子となることには、大きな犠牲が伴うのです。ですから、本日の聖書の箇所は、そのような前提があるということを知って、読む必要があるのです。救いは、信仰によって、無条件で与えられる神様からの贈り物です。しかし、弟子となるのは犠牲が伴うのだ、このことをしっかりと理解しておきたいと思います。

一人目の弟子志願者

 本日の聖書の箇所の57節には、『一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。』と書かれています。最初の一人目の人は、主イエスに近づいて来て、こう言ったのです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。

 マタイによる福音書の8章19節には、同じ話が出てきますが、マタイによる福音書ではこの一人目の人は律法学者です。従って、律法学者の中にも主イエスを信じた人がいたということが分かります。ルカは律法学者とは書いていないのです。どうしてかと言いますと、ルカによる福音書の読者は異邦人が中心です。ですから、ルカは読者への適用を考えて、一般化して書いているのです。そして、この人は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言っていますが、この人は本当にそう考えて、この言葉を語っているのです。「従って参ります」という言葉は、英語で「follow」と言いますが、その言葉が57節、59節、61節と3度出てきています。「follow」、「従って参ります」というのはどういうことなのかと言いますと、これは弟子になるということなのです。ユダヤ的には、主イエスがラビで、その弟子になるということを、「従って参ります」と表現するのです。

 自分から、自発的に主イエスの弟子になりたいと願い出た人です。主イエスはその言葉を聞いて、ついて来なさいとおっしゃられたのでしょうか?58節には、『一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われました。58節には、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」』と書かれています。主イエスはこの人を褒めたり、叱ったりはしていません。主イエスは弟子となることについての犠牲について、もう一度考えるように促しているのです。主イエス・キリストは救い主です。しかし、救い主である主イエスが様々な欠乏を甘んじて受けているのです。そこで、主イエスはご自分のことを、「人の子」と呼んでいます。これは、メシアを表す称号です。これは、旧約聖書から来ているのですが、「人の子」というのは、栄光の姿で地上に戻って来られるメシアを予言した言葉なのです。ですから、その「人の子」が枕するところもないというのは、大いなる皮肉なのです。栄光のメシアである方が、貧しい姿になって、その貧しさを甘んじて受けておられることには、大いなる皮肉があるのです。そして、主イエスは、自分よりも狐や空の鳥の方が、自然界では恵まれた生活をしているとおっしゃられました。

 主イエスが甘んじて受けていた犠牲というのは何なのでしょうか?狐と空の鳥と比較すると、住む家がないということなのです。また、日々、不自由な生活を強いられているのです。数々の欠乏があり、人々からの拒否があるのです。弟子たちは師である主イエスに従うのです。従って、弟子たちも同じ経験をするということなのです。主イエスの弟子たちは、サマリアの村を通過するときに、既に、サマリアの人たちに拒否されるという体験をしているのです。弟子は、師である主イエスを同じ体験をしたのです。

 主イエスがここで教えておられるのは、すべての弟子志願者は弟子となることについての犠牲について、冷静に考える必要があるということです。主イエスの弟子となるには、犠牲を払う必要があるということを主イエスはこの一人目の弟子志願者に教えたのです。主イエスの時代もそうですが、教会史を通して、一貫して、今の時代はますます主イエスの弟子として払う犠牲が大きくなって来ています。聖書に基づいて正統なことを語ると、大変な批判を受けるということが起こる時代に私たちは生きていると言うことができると思います。この世に受け入れられる、多くの人に受け入れられることを期待してはいけない、弟子は主イエスが人々から拒否されたように、自分も人々から拒否されることを覚悟する必要があるのです。

 この一人目の弟子志願者は、自分に自信がある、衝動的に行動する若い人だと思います。彼は自信満々で、主イエスにどこにでもついて行きますと言っているのです。彼は、弟子が払う犠牲について、深く考えたことがないのです。弟子になろうと思えば、なれると思っているのです。もっと言えば、彼は自分で何を言っているのか、本当には分かっていない人だと言えると思います。ですから、彼は主イエスに従えば、物質的な快適さも得られる、何ら苦労はないと思い込んでいるのです。しかし、主イエスは、今、エルサレムに顔を向けておられるのです。エルサレムに向かう主イエスに従うことは、繁栄の道を歩むことではないのです。十字架の道を歩むことなのです。それが、弟子が払う犠牲なのです。そのことをこの人は理解していなかったのです。それでもなお、弟子になりたいのか、そのことがポイントなのです。どんなに犠牲を払っても、主イエスの弟子になることほど、生きがいに満ちた、祝された素晴らしい人生はないのです。弟子としての犠牲は、より素晴らしいものを体験するために必要な犠牲なのです。

二人目の弟子志願者

 次に、2人目の弟子志願者について見てみたいと思います。本日の聖書の箇所の59節には、『そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。』と書かれています。1人目の人と2人目の人とは違っているのです。1人目の人は、自ら主イエスに近づいて申し出ましたが、2人目の人は主イエスから招かれているのです。主イエスがこの人を招いているのです。「わたしに従いなさい」と言われているのは、私の弟子になりなさいという意味なのです。ルカは既にこの言葉を使っています。ルカによる福音書5章27節には、『その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。』と書かれています。これは、私の弟子になりなさいという呼びかけなのです。このレビの招きの場合にも、主イエスから呼びかけられています。2人目の弟子志願者に、主イエスは近づいて行かれ、私の弟子になりなさいと語りかけられたのです。さて、その人はそこから立ち上がって、主イエスに従ったのでしょうか?

 この人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言ったのです。気持ちは理解できるのではないでしょうか。この人のお父さんは死んでいるのでしょうか?当時の習慣や言い回しから推察すると、この人の父親はまだ死んでいないと思います。主イエスの時代は、人が亡くなると、直ぐに腐敗が始まるので、その日のうちに遺体を埋葬したのです。ですから、既に死んでいる、直ぐに遺体を葬るという状況にはないと思います。ですから、この2人目の人の父親は、老年にはなっていますが、亡くなっているわけではないのです。従って、この2人目の人は、父親が召されるまで、父親の面倒を見ることをお許し下さいと、言っているのです。ユダヤ人にとって、埋葬というのは非常に重要なことなのです。丁寧に埋葬することを最も重要な責務であると考えていたのです。従って、埋葬は律法の学びよりも優先されることであったのです。あるいは、神殿での奉仕が入っていても、埋葬は優先されるべきことであったのです。さらには、過ぎ越しの子羊を屠ることよりも、埋葬は優先されるべきことであったのです。従って、ユダヤ人の息子としての最も優先されるべき義務というのは、父親に丁寧な埋葬を施すということであったのです。

 そのため、この2人目の弟子志願者は子としての義務を優先させたいので、弟子になることはもう少し待って下さいと言っているのです。そして、それは老いた父親の面倒を見ることですから、社会的に見れば、立派な行いであったのです。この2人目の弟子志願者は、おそらく主イエスがこの判断に賛成してくれることを期待したのだと思います。この2人目の弟子志願者の期待は、旧約聖書の中の記事から来ているものと思います。預言者エリヤとその弟子となったエリシャとの先例があるのです。列王記上、19章19〜21節には、『エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。』と記されています。エリヤとエリシャの場合には、エリヤはエリシャが帰って、人々に肉を振る舞って、食べさせることを許しているのです。このような先例があるので、この2人目の弟子志願者は主イエスがエリヤと同じように許してくれるだろうという期待を持ったのです。

 それでは、主イエスはどのようにお答えになったのでしょうか?9章60節には、『イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」』と記されています。主イエスはこの2人目の弟子志願者の申し出を拒否しています。主イエスのこの言葉は、この人にとって、意外な言葉であったと思います。しかし、エリヤの場合にとは、状況が異なるのです。主イエスの奉仕は、エリヤの奉仕よりも重要で、しかも緊急性があったのです。今、エルサレムに向けて、顔を向けて真っ直ぐに上って行く途上にあるのです。そのことを教えるために、主イエスは何とおっしゃられたのかと言いますと、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」とおっしゃられたのです。最初の「死んでいる者たち」というのは、霊的に死んでいる者たちのことです。つまり、まだ主イエスを信じていない未信者たちのことです。そして、2番目の「自分たちの死者」というのは、肉体的に死んでいる者たちということです。すなわち、肉体的に死んだ人を葬る仕事は、霊的に死んだ人たちに任せれば良く、彼らはそれができるのだと言うのです。しかし、神の国を言い広める働きは、霊的に生まれ変わった人でなければできないのだと、主イエスはおっしゃられたのです。つまり、弟子としての奉仕は、伝統的なユダヤ人の親に対する責務よりも重要だと主イエスはおっしゃられたのです。一般的には、主イエスに従うことは、親に従うことと調和することが多いと思います。全て、対立するわけではないのです。主イエスに従うことは、そのまま親を喜ばせること、親への奉仕につながることが多いと思います。しかし、いつも、いつもがそうなる場合ばかりという訳ではなく、この2番目の弟子志願者の場合のように、対立する場合もあると思います。ですから、親への奉仕と主イエスの奉仕とが対立する場合には、主イエスに従うことを優先させる、これは厳しい内容ですが、主イエスの弟子となることの犠牲なのだと思います。今、まさにエルサレムに向かおうとされている主イエスは、残された時を思い、緊急性をもってこの命令を与えておられるのです。現代に於いても、同じように、緊急性を持って、事態を認識する必要があることはあるのではないでしょうか。その緊急性に従うことが、弟子となる道なのだということを主イエスは語っておられるのです。

 2人目の弟子志願者の問題点は、なすべき仕事や義務があり、それが信仰の妨害となるということです。この2人目の人は、主イエスに従おうと決めてはいるのです。しかし、彼はその前に、生きている父親の面倒を見ようとしているのです。これから先、何年かかるかも分からないのです。つまり、何々が終わったら、主イエスの弟子になろうと考えているのです。こういう条件が整ったら、こうしようと思っている人は多いと思います。しかし、何時まで経っても、そのことは実現しない。主イエスはこの人に、霊的に死んでいる人、未信者でも、肉体的に死んでいる人を葬ることができる、しかし、霊的に死んでいる人は福音を宣べ伝えることはできないのだと教えられたのです。これができるのは、あなたなのだと言っているのです。だから従いなさいと、主イエスはおっしゃられているのです。神様への愛と人間への愛とは、多くの場合、合致します。しかし、もしも選択を迫られるような状況が来たら、弟子たる者は神様への愛を優先させるべきだとおっしゃられるのです。

三人目の弟子志願者

 次に、3人目の弟子志願者について見てみたいと思います。本日の聖書の箇所の61節には、『また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」』と書かれています。先程の2番目の人は「葬る」ということでした。時間がかかる内容であったのです。3人目の弟子志願者は、少しだけ時間を下さいと言っているのです。家族に別れの挨拶をすることを願い出たのです。2番目の人よりも、はるかに小さな願いなのです。別れを告げるだけなら、短時間で終わるはずです。この願いも、先程、お話しましたエリヤとエリシャの物語が背景にあるわけですから、エリシャもこの別れを告げる願いは、エリヤから許可してもらっている訳ですから、当然、この願いは受け入れてもらえるだろうと思って、この3人目の弟子志願者は願い出ているのです。ところが、主イエスはこの願いも拒否されたのです。なぜなら、主イエスの奉仕は、エリヤの奉仕よりも重要で、緊急性を帯びているのです。ですから、主イエスは、62節にありますように、『イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。』のです。この主イエスが語ったこの言葉は、有名な言葉です。ここで、主イエスは格言的な答えを与えられているのです。主イエスの言葉で、格言として残っているものはいくつもあります。ここでの主イエスの言葉は、農業体験に乏しい私たちにとっては、理解することはなかなか難しい言葉だと思います。

 ここでは、主イエスは農業体験を通して、霊的な教訓を教えておられるのです。弟子としての奉仕は、鋤で畑に畝を作るのに似ていると言うのです。固くなった畑を耕して、畝を作るのですが、鋤に手をかけて、この仕事をしているときには、前方をしっかりと見ていないと、曲がった畝が出来てしまうのです。今まで、作った畝の出来はどうだろうかと、後ろを振り返って見てしまうと、畝が曲がってしまうのです。従って、真っ直ぐな畝を作るためには、前方を、しかも、1m先や2m先ではなくて、はるか遠くをずっと見続ける必要があるのです。そうすると、真っ直ぐな畝ができるのです。前方をしっかりと見ていないと、曲がった畝ができてしまう。主イエスに従うことを第一にしない弟子は、神の国にふさわしくない。ですから、後ろを振り返ったり、よそ見をしたり弟子は、主イエスの弟子にふさわしくないと言うのです。神の国にふさわしくないというのは、神の国に入れないということではありません。これは、神の国に入った後の奉仕のことなのです。神の国というのは、メシア的王国、千年王国のことです。千年王国で、神様の、主イエスの奉仕ができる資格があるかどうかということが、ここでの話なのです。

 ですから、前方をしっかりと見続けて、真っ直ぐに歩み続けることです。それ以外のところに、目を移すことは、主イエスの弟子としてふさわしくないことだと言っているのです。3人目の弟子志願者は、心が定まっていない人だと言うことができると思います。この人は、主イエスの召命の重要性と緊急性を理解していないのです。主イエスはエルサレムに顔を向けて、進んでおられたのです。この人に、こころを定めなさいと、主イエスはお語りになったのです。そして、主イエスはここで、神の国にふさわしくないとは、神の国に入れないとは言っていないのです。主イエスは神の国に入った後の奉仕を語っておられるのです。この人は、気が散ってしまう、いろいろなことに関心が行ってしまうのです。ですから、そうではなくて、一つのポイントを見なさいよ、神様を選び取ることを選びなさいと語っておられるのです。

3人の志願者たちの反応

 さて、ルカは3人の志願者たちの反応についてどのように書いているのでしょうか?実は、福音記者ルカは、3人の志願者たちの反応について何も書いていないのです。なぜ、何も書いていないのでしょうか?ルカは、この福音書を読んでいる私たちに考えさせようとしているのです。そして、彼らが良き選びをしたと、思いたい。ルカは私たちに、良き選びをして下さいと訴えかけているのです。

 つまり、ルカは私たち一人一人に決断を迫っているのです。あなたは主イエスの弟子になりますかと、決断を迫っているのです。多くのキリストの弟子たちが、多くの犠牲を払って、主イエスに従う道を選び取っています。この世の人たちの価値観からは、理解できないことだと思います。しかし、今もなお、多くの犠牲を払ってでも、主イエスの弟子になろうという人が多くいます。私たちはどうなのでしょうか。私たちも、主イエスによって救われた後、主イエスに従う道を歩んで行きたいと思います。フィリピの信徒への手紙3章13〜14節で、パウロは、『兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。』と語っています。ここに、主イエス・キリストの僕、弟子の姿が見事に描かれていると思います。

 信仰のスタートラインに立ったら、そこから足を踏み出して行きます。洗礼を受け、主イエスをわたしの救い主であると信じる、ということは、自分の人生の歩むべき道、走るべきレーンをはっきりと示されるということだと思います。スタートを切って走り出すからには、明確な目標、ゴールがあるのです。パウロは信仰の歩みを、「賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」と、競技のように表現していますが、これは信仰が誰かと競争する歩みで、勝ち残らないと賞がもらえない、と言っているのではありません。わたしたちの信仰の歩みには、はっきりと目指すべき目標があって、競技選手のように、その目標、ゴールから目を逸らさずに、ただひたすらそこに向かって、精一杯全力で走る。キリスト者はそのような信仰の歩みをしていく、ということなのです。私たちもパウロと共に、主イエスを告白して行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。