■ひとり遊び
年を重ねてくると、不思議と、こどもの頃のことが思い出されるということはないでしょうか。こどもの頃がいつも楽しかった、良かったというのではありません。それでも、寂しかったり、哀しかったり、辛かったはずの思い出の中に、ふと、きらめくような場面があったことを思い出すことがあります。
四、五歳のころだったと思います。父も母も働いていましたので、いつもひとりぼっちで遊んでいたわたしが、石ころを探すのに夢中になっていた時期があります。何がきっかけで始めたのかわかりません。単純な遊びです。石ころがたくさんある場所を見つけて、そこでお気に入りの小石を探すだけのことです。でも、それがとにかく楽しいのです。
(どれがいちばんキレイかな?)
美しさというものは、考えかた次第でころころと変わるものです。あるときは黒々した石が魅力的に思え、あるときは白い石の光がきれいに見えます。真面目に悩んでいました。そしていちばん悩んだことは、いつ「世界中でいちばん好きな小石」に出会えるのか、ということでした。川原(かわら) や砂利道(じゃりみち)にしゃがみ込んで、そこらの小石の中から気に入りの小石をいくつか選びだします。手のひらいっぱいに溜まると、さんざん考えたうえで一個だけ残します。その一個を持って次の場所へと移ります。こうして、「ひとりぼっち」で延々と小石を探すのです。
ひとりぼっちでしたが、寂しくとも何ともありません。ご飯の時間を忘れるほど夢中でした。このやりかたでいけば、だんだん「いちばん好きな小石」に近づくはず、いつか究極の小石にたどりつくはずでした。
ところが…。好きな小石を見つけても、見つけても、まだ目の前に小石が延々と広がっています。(こりゃ、キリがない)と分かってきました。
(目の前だけでも、こんなにある。まだ知らないところに、どれだけたくさんの小石があることだろう)
世界じゅうに砂利道や川原があります。そこには数えきれない小石が散らばり、そのどこかに「いちばん好きな石」があるに違いありません。しかし、わたしに、そのすべての小石を調べることはできません。
漠然と悟りました、おそらく永遠に出会えないだろう。小石の大群を前に、ガックリしたとき、わたしは子どもなりに、確かに「えいえん」というものに、今思えば、「永遠なる神」に出会った気がしていました。
「孤独」という言葉から何を連想されるでしょうか。ひとりぼっち、切ないほどの寂しさ、みなしご、嫌われ者、孤立無援、孤独な死など、わたしたちは「孤独」という言葉に余りよいイメージを持っていません。ですから、ひとりでいるこどもやお年寄りを見かけると、やさしく声を掛け、少しでもたくさんの人たちの交わりの中へ連れて行こうとします。
しかし、二歳から三歳のこどもの成長にとって「ひとり遊び」が、四・五歳のわたしにとっての「小石遊び」がとても大切であるように、大人のわたしたちにとっても、「孤独」は決して悪いものではありません。とても大切です。
■自分と出会う
さきほど読んでいただいたヨブ記に描かれていることも、そのことです。
神様がヨブに語りかけます、「不毛の地を与えたのはわたしだ」。「野生のロバをくびき―首にかけられた木—から解き放って、自由を与え、救ったのはわたしだ」と言われます。その神様が野生のロバに自由と救いを与えられた場所、それこそが「荒れ地」「不毛の地」、荒れ野でした。
聖書の「荒れ野」は、文字通り、人影を見ることさえない寂しい場所、荒れ果てた潤いのない場所、生きることと死ぬこととがいつも隣り合わせにある場所でした。そんなところに生きている者に自由と救いを与える、と神様は言われます。しかも、そんな荒れ野に生きる者こそが「町の雑踏を笑」えるとあります。「町の雑踏」―町の中に溢れかえっている、騒々しいほどの様々な出会いや関係を笑うことができる。ということは、それよりもっと素晴らしい出会いや関係が荒れ野にはある、ということです。
人影を見ることさえない荒れ果てた場所、自分ひとりだけで生きている孤独な場所で、出会いがある…。とすれば、それは、幼い頃にわたしが経験した、あの「えいえん」なる神様との出会いの外にはあり得ません。自分をそんな状況に置いて、なお生かしくださる神様。その神様をたずね求め、その神様と出会う、それ以外には考えられません。
そのようにして神様をたずね求め、出会い、問うときに、わたしたちが知るのは、他でもない、このわたしたち自身なのかもしれません。「えいえん」なる神様の前に「たったひとりで立つ自分」というものを意識することで、実は「自分と出会う」のではないでしょうか。町の雑踏の中では見えてこない、時間に追われ、利益ばかりを求める、建前だけの、上っ面の交わりの中でしばしば見失ってしまうだろう、「自分自身と出会う」ことができるのではないでしょうか。
■自分を取り戻す場
池田晶子さんという女性が書いた『一四歳からの哲学』という本があります。とても良い本です。そこにこんなことが書いてあります。
「本当の友情、本当の友だちこそがほしいのだけれど、いない、と悩んでいる人が多いみたいだけれども、いなければいないでいい、見つかるまでは一人でいいと、なぜ思えないのだろう。一人でいることに耐えられない、自分の孤独に耐えられないということだろう。でも、自分の孤独に耐えられない人が、その孤独に耐えられないために求めるような友だちは、やはり本当の友だち、本当の友情ではない。本当の友情というのは、自分の孤独に耐えられる者同士の間でなければ、決して生まれるものではない。なぜだと思う?
自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めることができる、自分を愛することができるということだからだ。孤独を愛することができるということは、自分を愛することができるということ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。一見それは他人を愛しているように見えても、じつは自分を愛してくれる他人を求めているだけで、その人そのものを愛しているわけでは本当はない。愛してくれるなら愛してあげるなんて計算が、愛であるわけがない。
孤独というのはいいものだ。今は孤独というとイヤなもの、逃避か引きこもりとしか思われていないけれども、それはその人が自分を愛する仕方を知らないからだ。自分を愛する、つまり自分で自分を味わう仕方を覚えると、その面白さは、つまらない友だちといることなんかより、はるかに面白い。人生の大事なことについて、心ゆくまで考えることができるからだ。
考えるということは、ある意味で、自分との対話、ひたすら自分と語り合うことだ。だから、孤独というのは、決して空虚なものではなくて、とても豊かなものだ。ただ友だちがほしいって外へ探しに行く前に、まず一人で座って、静かに自分を見つめてごらん。」
孤独の中、ひとり静かに考える中で、自分と向き合い、自分と出会い、自分を愛することの大切さを教える池田さんは、さらにこう続けます。
「ひとりひとりが別々の人間で、生活も性格もいろいろである限り、いろんな意見やいろんな感じ方があるのは、その意味では、まったく当たり前のこと。そして、とくにそれを正しいことだと主張しなくても、なんとなく自分がそう思うからそうなんだ、という、それくらいのところで、多くの人は暮らしている。お互いの自由を尊重して、適当に譲り合っている。確かに、それもひとつの生き方ではある。生き方は人それぞれなのだから。では、あなたはこれからどんなふうに生きてゆきたいと思っているだろうか?
あなたは、本当のことを、本当のことだけを知りたいとは思わないか。毎日の悩み、学校や家族や友人関係、これから上の学校へ行ったり就職したり、大人になって、世の中へ出て、その世の中でも戦争や犯罪や経済的混乱や、のべつまくなしいろいろ起こっているけれども、もしも本当のことを知っていたなら、そんな中でも、とても力強く生きてゆけるはずだって、予感がしないか。
本当のことを知るためには、正しく考えることが必要だ。『正しい』ということは、自分ひとりに正しいことではなくて、誰にとっても正しいことだ。誰にとっても正しいことなのだから、お互いの正しさを主張し合って喧嘩になるはずもない。だから、本当のことを知っているということは、それ自体が自由なこと。本当のことを知らないから、人は人に対して自分の自由を主張することになる。」
ここで言う「正しい」こととは「真理」のことです。ヨハネによる福音書に、イエスさまが「わたしは真理である」と言われたと記されているように、それを「神」だと言ってもよいでしょう。まさにわたしたちは、孤独の中で、じっと真理を尋ね求め、神様に語りかけることによって、自分と向き合い、見失っていた自分と出会い、卑下していた自分を愛することを知るのだ、ということです。
■本当の歓び
池田さんの言葉が、先ほどのヨブ記の言葉と響き合います。
わたしたちは、日々の生活を、様々な関係の中で暮らしています。また、その様々な関係に応じた様々な顔、様々な自分というものを、わたしたちは持っています。勉強があるし、アルバイトもある。仕事があって、家事もある。好きな人との楽しいひと時もあれば、どうにも上手くゆかない人間関係もある。家族との生活もあるし、地域社会との関りも、それなりにある。将来のことを真剣に考えることもあるし、今この時だけの楽しみに没頭することだって、やはりある。その一つひとつが確かに、自分の顔であり、自分の生活です。
しかし、その一つひとつの顔に、生活に追い回されているだけでは、本当の自分は見えてこないでしょう。一つひとつの顔や生活は確かに自分の一部ではありますが、それはときに、たったひとつの、全体としての、かけがえのない「自分自身」を見失わせてしまうことがあります。
そうです。あらゆる日常的なことを一旦脇に措いて、内なる荒れ野で自分と出会うということが必要なのです。
今ここにおられるみなさんにとって、その場こそ、神様の言葉、真理の言葉にじっと静かに耳を傾ける、この礼拝の時ではないでしょうか。真理である神様の言葉の前に立つことによって、わたしたちは繰返し、繰返し自分を取り戻し、自由を与えられ、自己卑下という罪のくびきから解き放たれることができるはずです。
わたしたちは、喧噪たる社会の中で暮らしています。
ですから、わたしたちはこの礼拝の場から、再び、この世、この社会の中へと戻っていかなければなりません。荒れ野たる―神様と出会い、自分を取り戻した静寂の空間から、喧噪の、雑踏の町中に戻るとき、わたしたちは、この世は空しいと笑ってばかりはおれません。古い歌謡曲の歌詞に「東京砂漠」という言葉があるように、荒れ野以上に荒れ野のような、その場所を生きていかなければなりませんし、そこでわたしたちは、たくさんの苦しみを経験します。
なぜ、こんな社会で暮らしてゆかねばならないのか、と暗い思いになることがあるかもしれません。それでも、ただ一つだけ言えることは、最も基本的で、最も大切なことは、自分自身を好きになること、愛すること、信じることです。そのわたしたちが、他のだれかを好きになったり、愛したり、信じる時、わたしたちは生きたいと願うようになるでしょう。
そうです。自分を一人静かに見つめる心をわたしたちが持つことができれば、この社会での様々な出会い、日常の様々な関係は、より豊かでより素晴らしいものになっていくことでしょう。そしてその時初めて、生きることの内にある自由の喜び、このいのちに生かされているという本当の歓びへと開かれていくことができるに違いありません。
祈ります。真理と愛の神様。逃れられない現実、社会の様々なしがらみをただやり過ごすのではなく、そこでこそ、あなたの前に立って自分を見つめ、自分と向き合い、自分をあるがままに受け入れてゆくことができますように。そうする時初めて、わたしたちは隣人との出会いを喜ばしいものとして取り戻し、また希望に満ちた喜ばしい出会いを豊かに味わうこことができます。どうぞ、そのような自分との、また隣人との出会いを、これからもあなたが与えてくださいますように。主のみ名によって。アーメン。