■いいものを持つと幸せになれる?
「趣味は何ですか?」
初めてお会いする人からこんな質問をされる、いつも決まって居心地の悪い、戸惑いを感じます。
そもそも趣味などというものは、個人的な嗜好―好き嫌いに関わる事柄だから、誰からも等しく理解され、共感されるなどということはまずない。知り合ってからそれなりに時間も経ち、多少とも心許せるようになってからであれば、「趣味は?」と聞かれれば素直に答えられもするけれど、いきなりというのはどうもね、ともっともらしい理屈をつけるのは、実は、ただ趣味らしい趣味をもたない、面白みのない自分をごまかすためです。
そんなわたしと違って、知り合いの牧師には、趣味、こだわりとも言えるものを持っている人が多いようです。「趣味は?」と聞いてくる牧師は決まって、「僕の趣味はね」とその蘊蓄(うんちく)を滔々と披露し始めます。いつまでも続く話に時に閉口することもありますが、そんな風にしてよく紹介される趣味のひとつに「魚釣り」があります。それは単に、イエスさまに「人間を獲る漁師にしてあげよう」と言われた弟子たるに相応しいから、というわけでもないようです。「山登り」を趣味とする牧師や神父も結構います。「人里離れた山に登られた」イエスさまに従っているのかもしれません。
そして意外に多いのが自動車です。そんな車好きの牧師がこんな、とても示唆に富んだ話をしてくれました。
「ピカピカの新車に乗ると気分いいやろなー。走っている時も駐車している時も、ちょっと自慢気な満足感を味わえて……」
長い間、こう思っていた。しかし新車を買ったその日から不安が大きくプラスされて、決して幸せではなかった。ボロの自転車に乗っていた時には気にならなかったのに、人が自分の車のそばを通ると、キズをつけられたんじゃないかとか、子どもがそばで遊んでいると、いたずらしないかと思ってしまい、「人を見れば悪人と思え」のような気持ちになってしまった。
でも、妻のことより気にかけていた愛車を最初にキズつけたのは、息子だった。わたしがワックスがけをしているそばで、石で車をみがいてくれていたのだ。しっかりキズがついたおかげで、こだわりがとれ楽になった。それから十年、今では下取りにも出せないゼロ価格だと言われるようになって、ぶつけてもこすってもいいと思うとうれしくなってきた。いいものを持つと幸せになれると思ったら逆で、心が貧しくなって不幸になることが多い、とこのことから学ばされた。
こんな話です。これは、富や地位を持つ人が必ずといってよいほどに陥る罠です。自分の富、自分の地位、自分の車を誰かから奪われたり、横取りされたりするんじゃないか、と不安と疑心暗鬼に陥ってしまう。そうされまいと、人を遠ざけ、寄せ付けず、人との関係もギスギスしたものとなり、気づいてみれば孤独に苛まれている。こころ休まることのない、不幸な姿です。
■「ともに生きる」幸せ
こどもも一緒です。こどもたちが最初に友だちとけんかをするのは、たいてい、おもちゃの取り合いです。おもちゃで楽しそうに遊んでいる子を見ると、自分も同じように楽しみたいと、思わず手を伸ばしてそのおもちゃを取ってしまう。取られたこどもは、「僕のおもちゃだよ。返してよー」と奪い返す。取り合いになって結局は大げんか、どちらもが泣いてしまって、全然楽しくなくなっちゃう。
さて、そんな喧嘩を見て、あなたが幼稚園の先生だったら、どうするでしょうか。こどもたちの間に入って、「一体どうしたの、どうしてそんなことをするの」と喧嘩の原因を究明し、どちらか一方の非を定めて、先に手を出した方にとりあえず口先だけでも謝らせればそれでよしとするようでは、何にもなりません。そんなトラブルの時こそが、成長のチャンスです。
そもそも、そのおもちゃは二人のこどものものではなく、幼稚園のものです。二人のこどものどちらかに所有権があるなどというルールを作ってしまうことは、とても奇妙なことです。このおもちゃは、ふたりのもの、ふたりで遊ぶためのもの、もう少し言えば、みんなのもの、みんなが楽しく遊ぶものであるはずです。
大切なことは、楽しく遊べることです。一人で遊ぶより、ともだちと一緒に遊ぶ方がずっと楽しいということを学ぶことです。二人が泣き止むまでじっと抱きしめて待ってあげて、二人と先生が一緒に遊ぶこと、楽しく遊ぶ場面をつくることが何よりも大切です。これは決して夢物語ではありません。幼稚園で一日過ごしてみてください。こどもたちがいろんな工夫をして、一緒に楽しく遊んでいる姿をいたるところで見ることができるはずです。
それが「ともに生きる」ということです。ともに生きることは、とても楽しいこと、幸せなことなのです。わたしたちが、わたしたちの持っているものを自分だけのものとせず、そして、人の持っているものを力で奪うことをせず、一人ひとりが持っているものを神様から与えられたものとして、互いのために用いることができたとき、役立てることができたとき、わたしたちは、神様からまことの幸せと大きな祝福を与えられます。
■その都度、必要なものを
今日の使徒言行録に描かれている最初期の教会の人々の姿は、そんな祝福に満ちたものです。
使徒言行録に繰り返し描かれるこの姿こそ、「初代教会の共産主義的生活」である、「キリスト教的共有制度」だ、などと言われることがあります。クリスチャンは、滅びから救われた者として、持てる地上の財産をすべてささげて教会の共有とし、みながその教会財産で平等な生活をまかなっていたのだ、というわけです。しかし、使徒言行録がここで描いていることは、そんな「財産共有制による共産主義的な生活」などではありません。
そもそも、三二節の「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく」は、自分の持ち物をすべて売り払って、共有財産としていたということではなく、言葉どおりに理解すれば、「自分のものだと言う」利己心を抱くものが誰もいなかったのだ、ということです。続く「すべてを共有にしていた」も、直訳すれば「彼らにはいっさいが共有であった」となります。実際に財産を共有していたというよりは、誰の目にも一切が共有であった、「わたしの物もあなたの物も、決して自分だけの物ではない」という態度で生活をしていたのだ、という意味になります。
また、三四節の「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」という言い方は、富める者も、そして貧しい者も、そこにいたことを伺わせます。ただ、教会では貧しい者も生活に事欠くことがなかった、と言います。そもそも教会で、全財産を献金するよう求められることなどありません。このすぐ後、土地を売却した代金をごまかしてその一部を教会に献げたアナニアという男にペトロが、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになった」(五・四)と言っている通りです。実際、教会に献げられた献金が、潤沢に、有り余るほどあったというわけでもありません。ペトロが3章で、神殿の「美しの門」の傍に座っていた足の不自由な人に、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」(三・六)と言っていることからも明らかです。
そもそも「自分のものだと言う者はなく」(三二節)、「それを売っては代金を持ち寄り」(三四節)、そして「足もとに置き…おのおのに分配された」(三五節)と記されている言葉は、そのすべてが繰り返し行われていたことを意味する言葉で表現されています。教会に入会する時、ただ一度だけ全財産をはたいたというのではありません。互いが持っているものを、兄弟姉妹の必要と欠けに応じてその都度売り払い、その時その時の用に当てていた、ということです。
■心も思いも一つに
使徒言行録が教えようとしていることは、財産の共有それ自体ではなく、何よりも「信じた人々の群れ」の姿でした。
三二節の「群れ」という言葉は、ヘブライ語のカーハル「集まり」を意味します。イエスさまが「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われたあの「集まり」です。つまり、ここに描かれている生活の原動力はただ信仰だけであったということです。
では、信仰によって生かされる生活とは、どのようなものであったのでしょうか。それが、32節「心も思いも一つにし」です。 ここでルカが描こうとしているのは、財産を共有することの勧めでもなければ、そのことを賞賛することでもありません。三三節にあるように、わたしたちが、使徒たちの力強く証していた「主イエスの復活」のいのちに生かされる、「新しい心と思いを一つに」することでした。
主の復活とは、わたしたちのいのち、この世のすべてのものが神によって与えられたかけがえのないものであるということ、その父なる神が最も愛する大切なひとり子を犠牲にしてまでもわたしたちを愛してくださり、必要とするものをすべて備えてくださっているのだ、ということを明らかにするものでした。
互いの必要のために持てるものを差し出す教会の生活は、そのような神様の愛への応答としての信仰に促される、またそうせざるを得ない「心と思い」に基づく愛の姿でした。だからこそ、売られた代金は、「使徒たちの足もとに置いた」うえで、「必要に応じて、おのおのに分配された」のでした。それこそが、教会への献金でした。決して、金持ちが個人的に直接、貧乏人に施してやるとか、貧乏人が直接物乞いする生活ではなくて、すべてのものが神様とキリスト・イエスに献げられ、神と教会の名において用いられたのです。
■貧しく無力になる
義人や義しいなど「義」という字が聖書によく出てきます。この「義」という字は、上に羊、下に我と書きます。我という字はホコをタラスと書きます。つまり義とは、羊を殺すことです。でも、それがなぜ義なのでしょうか。羊は悪い生きものだからでしょうか。そうではありません。羊は中国でも、牧畜民にとっても大切な財産でした。その自分の宝を殺して灰にしてしまう、自分のものであった物を無にしてしまう、それが大切な神様への礼拝の一部でした。つまり、自分のものを無にするということは、自分のものを神のものに移す、返すことだったのです。イスラエルの民もまた、羊を殺して焼いて灰にしました。残しておけば自分の財産であり、仕事や人生の可能性を広げるようなその宝を灰にして無にしてしまうこと、自分が貧しく無力になることが礼拝であり、神様の前に義とされることでした。
ある時、一人の青年が、イエスさまに質問しました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。「永遠の命」とは、死なないことではありません。それは、生命の質とも言うべき、長さよりその中身に関係するイキイキとしたいのちを意味します。イエスさまはその青年に、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」と答えられます。すると「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」と記されています。
持っているものを手ばなす。有るものを無にする。そうすることが天に富を積むことだし、イキイキしたいのちに生きられる入口なのだと言われるのです。
そんなバカな話があるものか!財力がないから援助してやろうと思っても何もできず、学力がないから教えてやろうと思っても何もできず、能力がないからなすすべを知らず、痛いほど自分の無力さを知らされているじゃないか!
そう思われるかもしれません。確かにそうです。しかしそれでも、それでも違うのです。こんな話を聞いたことがあります。
ある先生が、学生のカウンセリングをしていました。ところがその努力も空しく、「先生、今晩つきあってくれませんか」と言われてしまいました。それは永年のカンで、「今晩死にます」という宣言だとわかりました。その先生は無力感、敗北感に打ちのめされながら、もう治療するとか、自分はカウンセリングの専門家だとかいうことはなしにして、一人の人間としてこの学生の人生最後の夜を共にしょう。そう思って、一緒に散歩したり酒を飲んだりしたのです。次の朝、耐え難い苦しい思いで研究室に行ってみると、こんな手紙がドアにはさまれていたそうです。「僕は死なないことにしました。僕が死んだら泣いてくれる人を一人見つけたからです」。無力な自分を自覚する時にはじめて、心から相手を愛せます。自分のものを持たないということは、神様に最も近い世界なのです。無いということ、失うことを恐れる必要はありません。
■主の愛に応えて
神様は、わたしたちが必要とするものはすべて備えてくださいます。わたしたちは、聖書を通して、わたしたちがどんなに神様に愛されているのかということを知ることができます。イエス・キリストを通して、わたしたちを愛してくださっている神様の御心を、御姿を受け取ることができるでしょう。
「わたしなんかひとりぽっちだ。そんなことをいうけど、だれもわたしなんか顧みてくれる人なんかいない」。そうでしょうか。違います。
わたしたちを絶対に捨てない、わたしたちを永遠の御手の中に—わたしの名前を彫り刻んで、わたしの存在をいつもその目の前に—置いて、いとおしく慈しんでくださるお方がいるということを心に留めなければなりません。 イエス・キリストを通してすべての人々に示された神様の愛への信頼こそ、その信仰に生きる者が「心も思いも一つに」することこそ、今日の御言葉がわたしたちに教え伝えたいことでした。わたしたちも、計り知れない神様の愛、イエス・キリストの恵みに感謝し、与えられたそれぞれの賜物を、いささかなりともそれを必要とする人のために喜んで用いていくことができれば、と心から願わずにおれません。