■愛だけが
わたしたちが信仰を持ち、信仰に生きているからといって、この世の苦しみや悲しみから解き放たれ、何事もなく平穏に生きることができるというわけにはいきません。襲い来る困難や苦難に耐え切れず、神様はなぜ、わたしたちにこのような苦しみや悲しみを与えられるのだろうと嘆き、呪うことさえあります。それでも、聖書に繰返し記されているように、神様は決して、わたしたちを見捨てられることはありません。熱情の神様は、どこまでもわたしたちを愛し、罪による誘惑と試練から救い出そうとしてくださいます。
今日の聖書箇所には、そんな神様による癒しを祈り求める、ふたつの教会の姿が描かれています。
ひとつは、リダの教会です。アイネアが中風のために八年もの間、寝たきりになっていました。今のように専門的な医療機関も、社会保障制度もない時代です。病は、本人にとってはもちろんのこと、家族にとっても、重く、辛いことでした。
一方、ヤッファの教会では、タビタが数々のよい奉仕の業をしていました。裏返して言えば、彼女の奉仕を必要とする厳しい現実、悩みが多々あったのだということです。ことに「やもめたち」が生きていくことは生易しいことではありませんでした。「家」が経済活動の基盤、社会生活の単位となっていた当時の社会にあって、夫との関係、家を継ぐ子どもとの関係を失って、家から切り離されてしまった女性たちは、過酷で不遇な境遇を強いられていたに違いありません。教会にとっても、やもめを巡る問題は見過ごしにできることではありませんでした。少し前、六章一節に「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」とあり、この問題へ対処したことが書き留められています。
そんなやもめたちのために、タビタは働いていました。三九節に「やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた」と記されるタビタの働きは、やもめたちにとって、どんなにか必要なものであり、また平安をもたらすものだったでしょうか。ところが、そのタビタが死んでしまいます。
病気や死の力が、深い悲しみと苦痛を引き起こしました。それは、昔も今も変わりありません。教会もまた、いつの時代、そしてどこにあっても、そのような重荷と悩みを背負って来ました。隣人が病に苦しみ、思いがけぬ死に襲われる。リダの教会も、そしてヤッファの教会も、そのことを単なる個人的な事柄とせず、教会の悩み、痛みとして共に担いました。
タビタのからだは、洗い清められてから、屋上の間に置かれた、と記されています。風通しがよかったからでしょうか。そこが、神様に少しでも近い場所に思えたからでしょうか。預言者エリヤが屋上で子どもを生き返らせたという聖書の言葉を思い出しながら、神様のいのちの力の中に、タビタを置こうとしたのかもしれません。
タビタを愛する細やかな配慮の内に、ヤッファの教会の人々は、リダで中風の男アイネアを癒した、使徒ペトロを呼び求めます。人々は望みを捨てていません。やもめたちは、タビタの愛のわざについてペトロに語ります。そして、涙ながらにその愛のしるしを、タビタが自分たちのために心を込めて作ってくれた下着や上着の数々を見せます。
それはまるで、愛だけが、愛によって引き起こされる力だけが、病や死の悲しみや痛みを癒すことができるのだ、とわたしたちに教えているかのようです。
■癒し
WHO(世界保健機構)が、今から二五年前、健康の定義についての再検討を行い、それまで掲げていた、Physical(肉体的)な健康、Mental(精神的)な健康、Social(社会的)な健康の三つのほかに、Spiritual(霊的)な健康を新たに付け加えました。
肉体的な健康については説明するまでもないでしょう。社会的な健康とは、戦争や差別がないとか、家族や社会の中で安全で安心な関係、場所が整えられているということです。では、MentalとSpiritualとは、何がどう違うのでしょうか。Mentalが、日常の心の活動、精神的な健康のことであるとすれば、Spiritualとは、もっと深い部分、魂の領域に関わる、あるいはいのちと死に対する態度に関わる健康、と言ってもよいでしょう。「フロンティア・スピリット」という言い方をすることもありますから、何かをしようとする能動的な心の活動と言えるかもしれません。どんなに物質的に社会的に満たされていたとしても、存在の根源、生きる意欲のようなもの、魂に触れるといったことが欠けていると、やはり健康的な生活ではないというわけです。
そんな「健康」の反対が「病気」です。
アイネアを八年もの間苦しめたのは、中風という病気であり、おそらく、タビタを死に至らしめ、教会の人々を悲しみに陥れたのも、何かの病であったのでしょう。
病気は、英語でdiseaseと言います。それは、dis「~がない」とeasy「楽」で、生きることが楽でない、生きることが楽しくない、ということです。人は誰もが、多少なりとも、不自由や欠点やしょうがいを負って生きています。しかし、それを受け入れて、何とか生きていけていると「健康」で、苦しくて、スムーズには生きていけないという状態になると「病気、disease」だ、と言います。人にはそれぞれ違った感性があるので、人によって「楽でない」と感じる程度も違いますから、「病気」といっても様々です。
ヒルトナーという人が「病気の原因」として、次の四つを挙げています。
①欠陥(defect):機能的に欠陥があってそれが原因になっている
②侵入(invasion):ウイルスの感染が原因になっている
③よじれ、ねじれ(distortion):意思に反することが原因になっている
④決定(decision):間違った決定が原因になっている
この中でハッとさせられるのは、「ねじれ、よじれ」です。したくもないことを無理やりさせられていると心も体も苦しくなってくる、ということです。
神社やお寺の建築に携わる宮大工の西岡常一さんという人が、『木のいのち、木のこころ』という本の中で、苗木(なえぎ)を移植するときには、南に伸びていた枝は南に向けてやらないと、やがて木がねじれて育つ、と書いています。「堂塔造営の用材は木を買わず山を買え」「木は山の生育のままに使え」「木組みは寸法で組まず木の癖で組め」とも言っています。南の斜面で育った木は、建物の南側の用材として使い、一山の北側の斜面に育った木は、建物の北側の用材として使えば、持ちがいい。それを安く上げようとして、木が育った環境も心にとめず、寸法だけで使うと木がよじれ、そり、ねじれて、建物も長く持たないのだそうです。木の個性や素材なんか関係なく、重ね合わせた合板にして使いやすくして用いると、建物は三十年もすれば持たなくなる、木も人間も同じだ、と言います。
人それぞれの個性や育ってきた歴史を無視して、役に立つ人間にしようと圧力をかけると、ねじれやよじれが起こってくる、病気に、健康でなくなるのです。とすれば、一人ひとりが無理なく、その人として生きていくことが認められることこそ、癒しになるのだということでしょう。それまでの苦労が認められることも、大きな癒しとなるでしょう。自分で自分をもう一度見つめ直して、自分の生き方を確認することこそ、癒しです。
「欠陥」や「侵入」は対処的な治療を必要とします。そして、それさえすれば多くは解決しますが、「よじれ、ねじれ」は、自分らしさをどう取り戻すのか―それはとりもなおさず、自分が愛されているということ、その愛されている自分を取り戻すことができるかどうか、に掛かっています。
「癒す」という字は、病だれに愈(ゆ)、つまり病を愉しむ、と書きます。苦しみや不自由があるけれども、それを抱えている自分がどう生きるのか、やれるとこまでやってみようと考えると、ハンディーを抱えてチャレンジする自分の人生が、有利な条件の人よりも頑張りがいも大きく、面白いと考えることができるようになります。スポーツも難しい方が面白いものです。宮大工の西岡さんによれば、ねじれやよじれのある木の方こそ、中心の柱に向いているのだそうです。
そう考えると、神様は、そんなねじれやよじれをそのままに愛して、そのままのあなたで生きていいよ、と言ってくださっている。そのことに気づかされることこそが、ペトロがここで見せている「癒し」の業なのではないか、そう思えてきます。
■大胆に祈り求める
リダでアイネアに会ったとき、ペトロは、いとも簡単そうに、アイネアに起ちあがるようにと命じ、呼びかけています。そしてひと言、「イエス・キリストがあなたをいやしてくださる」と言葉をかけています。
「いやす」と訳されるこのギリシア語は現在形です。ギリシア語の現在形は、いつ、どこにあっても、というニュアンスを持っています。「イエス・キリストが、いつ、どこにあっても、あなたをいやしてくださる」ということです。そして、そんな意味合いをもちつつ、「今ここで」を強調しています。「まさに今この瞬間にこそ、イエス・キリストがあなたをいやしてくださっている」、そうペトロは宣言しているのです。
このペトロの言葉に示されたイエスさまの癒しの力が、歩くことも起き上がることも、何もすることができず、苦しみと悲しみのあまり希望を失い、「自分なんか、もうどうしようもない。駄目だ。終わりだ」と絶望し、まさに自分を愛することができない―自己卑下に囚われていただろう、この人を八年間の桎梏から解放しました。
そしてヤッファでは、「ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り」(四〇節)とあります。リダの時のように、ペトロはタビタに直ぐに言葉をかけることをしません。ペトロは、ひとりになって、ただひたすらにイエスさまのみ名によって、神様に慈しみと恵みを祈り求めています。その意味で申し上げれば、「タビタよ、起きなさい」というこの言葉は、ペトロの言葉であって、ペトロの言葉ではありません。それは、イエス・キリストが今ここに生きて働いてくださっていることを固く信じる人の「祈り」の言葉であった、と言えるのではないでしょうか。
しかし「起きなさい」というペトロのこの言葉に、わたしたちは驚き、そして眉をしかめるかもしれません。そんな無理なことを…と。そんな言葉を口にするなんて無神経ではないか。病に苦しみ、死に直面して絶望している人に向かって、そんなことなど言えるわけがない。そう思うからです。それで、わたしたちはどうするか。差しさわりのない慰めの言葉を口にしながら、しかし実はすっかり「諦めて」しまい、「お気の毒に」と心の内で密かに呟くだけになってしまいます。
しかし、しかし今、ペトロは呼びかけます。
「さあ、起きてごらん!」
驚くべきこの言葉が、病や死ゆえに病人や家族が抱え込んでいる心の奥底の、本当の苦しみや悲しみ、恐れと絶望、魂の問題へと、わたしたちの目を向けさせてくれます。そしてそれは、「共に」苦しみと絶望の中にこの身をおきつつ祈ること、いのちの主に向かって「共に」祈り求めることの大切さを、わたしたちに教えてくれています。
「さあ、起きてごらん!」
なんと力強く、希望に満ちた言葉でしょうか。喘ぎ苦しむ人、悲しみ絶望に沈む人へ向けられた、今も生きて働く、いのちの神の励ましと慰めの言葉が、今ここで、わたしたちにも与えられています。諦めて絶望するのではなく、この世での様々な悩みと苦しみに、タビタの「愛」と、ペトロの「信仰」によって立ち向かうことが許され、またそうするようにと励まされています。 わたしたちも、いのちの神がいつも、どのようなときにも、いえ、今ここにこそ、共にいてくださっていることを固く信じ、その癒しを大胆に祈り求め、希望の内に歩み続けたい、そう願う次第です。祈ります。