小倉日明教会

『愛されているから』

テサロニケの信徒への手紙一 1章 2〜5節

2023年7月16日 聖霊降臨節第8主日・北九州地区講壇交換礼拝

テサロニケの信徒への手紙一 1章 2〜5節

『愛されているから』

【説教】 日高 伴子 牧師 (直方教会)

 今朝はこのようにして、コロナの感染拡大により中断されていた地区の講壇交換が、4年ぶりに再開されることができることを心より感謝する。日明教会の皆さんともお目にかかることが出来、嬉しく思う。私はこの地区で3年目を迎えたが、1年目は地区活動がほとんど無く、どこにも出かけて行くことすら出来ず、狭い範囲内だけでの交わりしか持てなかったので、孤立したような気分になった。社会のみならず教会においても、コロナがどのように影響を及ぼしているか徐々に明らかになってくるだろうが、この経験もまた生かされて、今後の地区の交わりが展開されていくことを願っている。
 今朝は、ご一緒に使徒パウロによって書かれたと言われる、テサロニケの信徒への手紙から学びたいと思う。
 彼は諸教会への手紙を書く際、あいさつの言葉に続けるのは、神さまへの感謝の言葉である。何にも勝り、先立ってまず神への感謝だ。ローマ書、Ⅰコリント書、フィリピ、コロサイ、テサロニケなど、パターン化されているようで、けれどもその内容においては、其々に少しずつ違いがある。だから単に習慣化された言い回しではない。とりわけこのテサロニケの信徒への手紙には、「神への感謝」ということがテーマとなり、通奏低音のように流れていると言われる。パウロはどのような思いをもって、神への感謝を捧げているのだろうか。何を感謝するのだろうか、私たちはそこから、学びたいと思う。
 1章2節、『わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。』(読む)「祈る度毎」に、「いつも」と言い、「あなたがた」「あなた方一同」と念を押しながら、教会の人々のことを思っては神に感謝を捧げるという。ここで「思い起こす」という言葉として使われているギリシャ語は、アナムネーシスと言う言葉だ。アナムネーシスは、聖書の外の箇所では、聖餐式における「主の記念として行う」という「記念する」と訳されている。私たちが聖餐式に預かる時、主イエスキリストの十字架の出来事は過去の出来事として終始するのではなく、今、ここに集う私たちへの恵みとなって、立ち現れ、再現されていると受け止める。そこで単に昔話的な過去の出来事として思い描いているのではない。今、皆で集っているこの所に、祝され、割かれたパンが、掲げられている葡萄酒が、私たちの中にも命となって与えられている、キリストの血・体となっているとして思い起し記念するのだ。今再びここに起こるというような、実にイキイキとしたイメージが、アナムネーシス、記念するという言葉にある。パウロはアナムネーシスという言葉を用いながら、人々のことがそのように思い起こされるというのだ。まさに今、ここに、あなた方一人一人が立ち現れて、目の前でイキイキと語りかけてくるかのように、あなた方のことが思われると述べるのだ。そのような交わりを神は私たちの間に与えて下さる、私の心は感謝に溢れると述べるのだ。主にある交わりは、たとえ、お互い離れた所で直接相まみえることは出来なくても、キリストイエスにあってまさに一つの共同体、主の体の中に入れられているのだとパウロは語るのだ。
 私たちもまた、誰かのことを思って祈る時、その人についての心配事や悩みにもまさって、まずは主にある交わりとしての感謝を湧き上がる思いの中で祈れるならば、どれ程素晴らしいことだろうかと思う。
 そのようなテサロニケの教会は、果たして、立派で、素晴らし教会だったのだろうか?。問題や心配事は無かったのだろうか。
 テサロニケの教会の人々が置かれていた状況は、決して安易なものでは無かった。この町は、ギリシャの神々への祭儀が盛んで、ローマ皇帝への礼拝も行われていた。キリスト教に対するユダヤ教の妨害もあった。テサに伝道にやってきたパウロたちがわずか数か月でそこを離れることになった理由は、両方からの大きな迫害だった。いわば新興宗教としてのイエス・キリストへの信仰を保ち続けていくのは、並大抵ではなかっただろう。最初は喜んで仲間になっても、試練に耐えきれず、辞めていく人たちもいただろう。少数者としての闘いがテサロニケの教会の人々にはあったのだ。また、この手紙の後の方には、教会の中に倫理にもとる行いや、様々な問題があったことが赤裸々に書かれている。教会員たちも誰もが素晴らしいし、問題がないから、十分に整っているから、神に感謝しているというわけではないのだ。現実は厳しい、しかし、そういう状況の中でもなお、神に感謝を捧げるというのだ。
 ここには、それを語りうる、聖書ならではの、まさに福音と呼ぶに相応しい根拠、理由があるのだ。これこそが福音として語られているのだ。普通に考えれば大変難しいことのように思われる。けれども、これこそが福音として語られているのだ。その福音がパウロたちを生かし語らしめるのだ。「いつも神に感謝している」し、様々な困難な状況にあってもなお「どんなことにも感謝しなさい。」と人々に勧めたのだ。
 そのようなマイナスの状況を感謝できるとするなら、そこに、どんなカラクリがあって、どういうワケがあってのことなのだろうか。そして一体、何を感謝するのだろうか。
 パウロはその根拠を示す。ただ闇雲に、何でもいいから、兎も角にも感謝しなければならないと言っているのではない。
 4節。『神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。』。「知っている」私たちは知っているという言葉で始める。神に愛されている兄弟姉妹たちよ、(当時は兄弟という一言で、女性たちのことも含めて言い回したのでそう言うが)あなた方こそが神が選ばれた者たちであることを。神への感謝の根拠、それは神があなたがたを愛して、選ばれたということにあるというのだ。そのことが知らされているから、分かるから、私たちの神への感謝は尽きないというのだ。パウロは人々のことを、まずは、神によって愛されている人たちであり、選ばれた一人一人なのだと受け止めるのだ。確かに、それぞれのメンバーは問題も抱えているし、難しい面も色々と持ち合わせている。けれどもそのこと以上に、教会に招かれている一人一人は、神から愛され選ばれた、大切な神の子ら、尊い存在であるということだ。それは旧約以来、聖書の民に与えられ、受け継がれて来た信仰だ。申命記32章10節 『主は荒れ野で彼を見いだし/獣のほえる不毛の地でこれを見つけ/これを囲い、いたわり/御自分のひとみのように守られた。』
 そのようなあなた方が神の子らとされたのは、5節。『わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。』。 「ただ言葉だけによらず」とはパウロをはじめとする使徒たちの働きを指すだろう。使徒たちを通して、その言葉の働きを通して、福音は人々に伝えられていった。テサロニケの教会はそのような人々の導きによって起こされていった。しかしそれだけがあなたがたにこの福音をもたらしたのではない。「力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」と。岩波訳聖書では「むしろ」と訳している。「むしろ、力と聖霊と多くの確信とにおいて、出来事となったのだから。」と。いやむしろ、それ以上にというニュアンスだ。それは伝える者たちの働きを軽視するものではない。神はその人たちを用いて遣わすのだから。5節B。『わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。』 けれども語った口の言葉に優って、はるかに「むしろ」、そこに「力」=神の不思議な絶大な力としての働きかけがあったのだ。山をも移すほどの力、人々を驚かせる圧倒的な力ある業は出来事となった、救いをもたらしたのだ。「聖霊」これも神の働きに違いない。聖霊なる風が、人知れず静かに吹いていた。初めであられる神が、人のなす業以前に、既に働いておられた。「強い確信とに」この「強い確信」と訳されている言葉は、「豊かで充満している」という意味と「固く確信している」という二つの意味があるそうだ。そこである人は「満ち満ちた神の働き」という風に理解している。
 一人一人が愛し、選ばれたということには、このように大きく強く、静かに豊かに、人の思いを超えたところで働く神がおられた、そのことよると、パウロは語るのだ。その神の、深きみ旨を思う時、あなた方が今ここにいることを、私たちは、大いに感謝せざるを得ないというのだ。ここにパウロの溢れる感謝の理由がある。
 神に愛され、選ばれたあなた方々であるからこそ、大変な困難の中をも歩み続けることが出来る。信仰、希望、愛という神の恵みはあなた方を包んでいる。3節『あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。』(読む)あなたがたの中には、神が与えて下さる信仰があって、それが原動力、基となってあなた方を動かしている。愛、これはアガペーが使われているので、キリストの愛。これもまた与えられる賜物だ。自分で獲得するものではない。キリストが愛を教え与えて下さったからこそ、その愛に根差した業につかせて頂くのだ。そこには多くの労苦を伴うだろう。しかしそのような中にも、終わりの日、神の国の完成に向けての希望、そのために必要な忍耐が与えられ続けるのだ。これら、信仰、希望、愛、いずれも全ては神からの賜物、恵みだ。これらによってあなた方は生かされ、あなた方もまた、その恵みに応える歩みを続けている。そのことを私は絶えず、いつも、大いなる方、神の御前で心に留め、覚えていると。私たちの神は、きっとあなた方のこと、その業を喜び受け入れて下さるに違いない、と感謝し喜ぶのだ。
 このテサロニケの教会員に対するメッセージは私たちへの語りかけでもあると思う。
 私たち、地区内の諸教会、繋がる一人一人がキリスト者として生きていくことには、困難が伴う。少なくとも、かつてのようなキリスト教ブームにあやかり右肩上がりで拡大して行くような時代ではない。少数者の群れであることは明らかだし、いっそう厳しくなるように思う。テサロニケとは全く違った状況ではあるが、困難な時代をキリスト者が生きていくということにおいては変わりない。
 そのような中にあっても、私たちもまた、兄弟姉妹を神が愛し選んでくださったという事のゆえに、感謝を捧げたいと思う。自分たちの力の小ささ、貧弱さ、それゆえ数の少なさも、神が私たちに注がれるその愛の豊かさ、大きさの前では取るに足らない。私たちは自分たちの予想や目に見えるものに心を奪われる。けれどもただ神だけが、私たち一人一人を尊い神の子らとして呼び集めて下さっていることに頼りつつ、どのような状況のなかにあっても、共に感謝の祈りを捧げ、与えられた業に励むものでありたいと願う。