■奇跡のピアノ
おはようございます。さて、2011年3月11日、眼前に海が広がる福島県いわき市の豊間中学校では、卒業式が行われていました。ピアノの伴奏とともに生徒の門出を祝った数時間後、東日本大震災による大津波が豊間中学校を襲ったのです。幸い高台に避難した生徒に被害はありませんでしたが、眼下の校舎が大津波に飲み込まれるところを目の当たりにしました。その光景に震え、気分の悪くなる子も多数いたそうです。薄磯地区では100人が亡くなり、10人が行方不明となっています。5月14日、福岡県小郡駐屯地の陸上自衛隊員40名が、全ての瓦礫を撤去する為に、豊間中学校体育館に入りました。自衛隊員たちは、膝まであった瓦礫と砂を4日間かけて撤去しました。床を瓦礫の中から見つけたモップと、自分達のペットボトルの水を使って、ピカピカに磨きあげたのです。体育館のステージの上には、津波の被害を受け、横転したグラウンドピアノがありました。「思い出がつまったピアノを、瓦礫にしてよいのか」。迷った末に、指揮をとっていた山口勇3等陸佐が言いました。「このグラウンドピアノを体育館の中央に運ぼう」。ピアノを見た山口勇3等陸佐は、「このピアノは豊間中学校の復興のシンボルになる」と直感したと言います。山口勇3等陸佐の指示を受け、自衛隊員たちはピアノを丁寧に体育館中央に運んで、そっと置いたのです。そして、自衛隊の善意を知ったいわき市の調律師・遠藤洋さんがピアノの修理をかってでたのです。しかし、修復は容易には進みませんでした。生活基盤そのものが揺らいでいたときですから、ピアノの修復に反対する声も多くあったのです。
鍵盤を押してもかすかな音しか出なかったピアノには、「寄贈 四家広松」という文字が刻まれていました。お孫さんが通う同校の体育館の新築のお祝いに寄贈されたものです。遠藤さんは、ピアノの伴奏で校歌を歌っていた生徒さんの光景も心に浮かんできましたと語っています。時間が経過するほどに、海水や砂のダメージが修復をより困難な状態にしていきました。ここであきらめることはできないと、遠藤さんは、一念発起し、市教育委員会、学校、寄贈者の了解を得て、磯のにおいがするピアノを自分で買い取り、8月1日、ピアノを体育館から運び出し、修復作業を一人で黙々と始めたのです。そして、その後、1万個にも及ぶ部品の修理を、半年間続けた末に、修復を成し遂げることができたのです。
津波を被って、瓦礫と化したピアノがなぜ、修復できたのでしょうか。それは、ピアノの部品の全てを知っている調律師が粘り強く修理し続けたからです。本日の聖書の箇所では、「主イエスは誰か?」ということと、「主イエスは何のために来られたのか?」ということが明らかにされます。人間の全てをご存知の神様が、本日の聖書の箇所で、何を伝えようとしているのかを皆さんと共に学びたいと思います。
■主イエスとは何者か
さて、現在、読んでおりますルカによる福音書の9章の1〜50節は、ルカによる福音書の分水嶺とも言うべき重要な折返し地点に達していると思います。主イエスは、4章14節から、ガリラヤでの伝道を始められました。そして、この9章1〜50節が終わると、何が始まるのかと言いますと、9章51節〜19章10節のエルサレムへの旅が始まるのです。このエルサレムへの旅が非常に長いのも、ルカによる福音書の特徴です。このルカによる福音書の4章14節から8章の終わりまでの前半部分での中心テーマとしているのは、「主イエスは誰か?」ということでした。それに対して、9章51節〜19章10節の長い後半部分での中心テーマは、「主イエスは何のために来られたのか?」という受難と復活となってゆくのです。その主イエスのエルサレムへの旅とガリラヤ伝道との間の架け橋となっているのが、現在、取り上げている9章1〜50節なのです。そして、この9章1〜50節の中心のテーマは弟子たちの訓練なのです。主イエスがなぜそうしておられるのかと言いますと、主イエスは教会時代への準備を始められているのです。ご自分がこの世から去られた後、教会が設立されて、教会時代に入ってゆくわけですが、使徒と呼ばれる弟子たちが主イエスの働きを継続して行く、そのための準備がルカによる福音書のこの9章から始まっているのです。
9章の初めから、本日の聖書の箇所までの流れを少し復習してみたいと思います。9章の1〜6節では、主イエスが12人の弟子たちをガリラヤの村々へと派遣なさったことが語られていました。それは、2節にありますように、「神の国を宣べ伝え、病人をいやすため」です。12人の弟子たちはそのための力と権能を授けられて派遣され、そして、6節にありますように「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」のです。そして、7〜9節では、主イエスのことを聞いたヘロデが戸惑ったということが、挿入句的に12弟子の派遣と12弟子の帰還の間に記されていました。ここで、ヘロデは、この人は誰だ、ということを自問自答しているのです。従って、ルカは、主イエスは誰かという課題を強調するために、ヘロデの戸惑いのエピソードをここで挿入しているのです。そして、帰還した12弟子はどうしたかと言いますと、10節を見ますと、「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」と記されています。ここで注目したいと思うのは、それまで「12人」と記されていた弟子たちが、ここでは「使徒たちは」と記されているのです。「使徒」というのは「遣わされた者」という意味です。ルカは、ここで「使徒たち」という言葉を使うことにより、後に使徒たちの働きの時代に入った時に、使徒たちの奉仕にどういう意味があるのかということをここで予告しているのです。
そして、前回、お話しました「12弟子の帰還」では、五つのパンと二匹の魚で、5千人の給食を行ったという主イエスの奇跡が記されていました。この奇跡によって、「主イエスとは何者だろうか」という質問について、考え直すことを迫られて、12人の弟子たちは正しい信仰へと導かれて行くのです。この5千人の給食の奇跡は、今日の聖書の箇所の「ペトロの信仰告白」への道備えとなっていたのです。ここで、気をつけておかなければならないのは、5千人の給食の奇跡の直後に、ペトロの信仰告白を書いているのは、ルカだけだということです。それは、なぜかと言いますと、ルカは「主イエスは誰か」ということを強調しているのです。そして、そのことに対する答えが、本日のペトロの信仰告白なのです。
「主イエスとは何者だろうか」という弟子たちに対する問いは私たちの問いでもあるのです。私たちも、聖書を通して、また教会の礼拝におけるその説き明かしを聞くことを通して主イエスのことをより深く知らされていくと、それにつれて、「主イエスとは何者か」という問いをより深く抱くようになるのです。この問いを大切に抱き続け、答えを求めていくことが信仰を求めていくことであり、この問いへの答えを得ることが信仰に至るということです。と言ってもこの問いは一度答えが得わかったらそれでもう解決、おしまいというものではありません。弟子たちは、主イエスと共に歩む体験が深まるにつれて、「主イエスとは何者か」という問いもまた深まっていくのです。信仰者として生きるということは、この問いが常に新たにされ続けていく歩みだと思います。
■主イエスからの問い
それでは、本日の聖書の箇所を見てゆきたいと思います。18〜19節には、『イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」』と記されています。今日の聖書の箇所で、ルカは、他の福音書が記している記載の多くを省略しています。マタイによる福音書を見ますと、本日のペトロの信仰告白が行われたのは、フィリポ・カイサリア地方であったことがわかります。フィリポ・カイサリアは、ガリラヤ湖の北端からさらに北西に40kmに位置する町で、ヘルモン山の南西の山麓にある町です。しかし、ルカはどこでそのことが起きたのかということよりも、何が起きたのかということに集中しているのです。つまり、「主イエスとは何者か」という問いについて、ヘロデも問うた、そして、5千人の給食を受けた群衆も間接的に問いました。そして、今日、弟子たちはその答えを出さなくてはならないところにいるのだというところに意識を集中させているのです。この「主イエスとは何者か」という質問に対する回答が、ペトロの信仰告白なのです。「主イエスとは何者か」という質問は、大変重要な質問です。「主イエスとは何者か」という質問に対して、どのように答えるかで、私たちの生き方というものは、変わってくるのです。主イエスは単なる道徳の教師なのか、あるいは、主イエスは単なる宗教の創始者なのか、あるいは、主イエスは神の子が人となられ、私たちのために十字架につけられ、死にて葬られ、3日目に復活された方で、今も生きていて、私たちをお救いになられる方であるのか、主イエスは神なのかどうか。この質問にどう答えるかで、私たちの生き方は変わって来るのです。
さて、18節には、『イエスがひとりで祈っておられたとき、』と書かれています。この記載もルカだけが伝えていることなのです。主イエスの祈りの生活が豊かであったことを伝えているのもルカによる福音書の特徴です。主イエスは何かを行うとき、何か答えを頂きたいときには、必ず父なる神に祈りを捧げています。ここでは、主イエスは弟子たちが正しい信仰に導かれるように祈られたのだと思います。
そして、祈りの後に、主イエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになったのです。主イエスの祈りに対する答えが、ペトロの信仰告白なのです。群衆と書かれていますが、これはまだ態度を決めていない人たちのことです。この質問は、群衆は主イエスが果たしている役割をどのように評価しているのかということです。主イエスの教えや、行ったしるしや奇跡をどう評価しているのかという質問です。19節には、『弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」』とあります。これが、周囲の人々の主イエスに対する評価で、その意見は分かれていたのです。このことを聞いた後、20節では、『イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」』とあります。これが、ペトロの信仰告白です。ペトロが答えていますが、ペトロは弟子集団を代表して答えているのです。ペトロの答えに注目したいと思います。ぺトロは、「神からのメシアです。」と答えているのです。当時、主イエスは偉大な預言者の一人だというのが一般的な見方でしたが、ペトロはそれを否定しているのです。ペトロは、主イエスを偉大な預言者の一人だと見る理解を否定して、「神からのメシア」だと言ったのです。イスラム教では、主イエスを認めていますが、それは偉大な預言者の一人として認めているのです。聖書的には、それは完全な間違いです。ペトロは「偉大な預言者の一人」ということを否定して、「神からのメシア」だと言ったのです。ここで、ペトロが何を信じたのかと言えば、主イエスが旧約聖書で約束されたメシア、救い主であることを信じたのです。
当時のユダヤ人たちは、どのようなメシア理解を持っていたのでしょうか?まず1つ目、メシアはダビデの子孫である。そして、2つ目にメシアはローマの支配を打ち破り、地上に神の国を設立する。さらに、3つ目に、メシアを神とは考えず、神様から遣わされた偉大な人物と考える。これらが、当時のユダヤ人たちが持っていた認識であったのです。ペトロはそれを否定して、「神からのメシア」だと言ったのです。ペトロは主イエスを神だと認めているのです。
ここで、今日の聖書の箇所の並行記事であるマタイによる福音書16章15〜16節を見てみたいと思います。『イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。』と、このように記されています。マタイは「生ける神の子です」と言っているのです。マタイの記述では、「メシア、生ける神の子」と主イエスの神性を示す言葉が使われています。ペトロが主イエスの神性を信じたことが分かります。ところが、ルカは「生ける神の子」という言葉を省略しているのです。なぜかと言いますと、ルカの理解では、異邦人は「メシア」という言葉を聞いただけで、それが神性を示しているということを理解している、「メシア」というのは神なのだということを理解していた、従って、ペトロの告白を聞いただけで、神であるということを理解した、と考えられると思います。ルカもマタイも同じことを言っているのです。即ち、ペトロはここで主イエスが神であることを認めたということです。主イエスは、弟子訓練の一つの大きなハードルを越えたと、ホッとされたことと思います。
ペトロはこの信仰の告白によって、主イエスとは何者か、という問いの正しい答えを語ったのです。主イエスは神のキリストである。み言葉を語るために派遣された預言者や救い主のための備えをする者ではなくて、神様が私たちのために立てて下さった救い主ご自身である。これこそ、キリスト教会の信仰の根本です。後の教会の土台となる信仰告白が、ペトロによってなされたのです。私たちは、このペトロの信仰告白を受け継ぎ、「あなたこそキリスト、救い主なる神です」と告白しつつ歩んでいるのです。
■受難予告
ペトロは主イエスが神であると告白をしましたが、主イエスが苦しみに遭うということを理解するのは非常に難しかったのです。このことが、弟子訓練の次の大きなハードルであったのです。21〜22節には、『イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」』、このように記されています。主イエスが弟子たちに、「このことをだれにも話さないように」とお命じになったことが語られています。「このこと」とは、「主イエスとは何者か」という問いの答え、主イエスは神のキリスト、救い主であられることです。そのことを語ってはいけないのはなぜかと言いますと、そのことを言えば、群衆は騒ぎ立て、今後の奉仕に支障が出るからです。しかし、時が来れば、主イエスご自身がそのことを明らかにされるからです。そして、その時とは、いつのことでしょうか。それは、主イエスがエルサレムに入城されるときです。主イエスはエルサレムに入城されたときに、主イエスはご自身が神のキリストであることをユダヤ人たちの前で公にされたのです。主イエスはその時が来るまでは、誰にも話さないように、弟子たちにお命じになったのです。次の22節には、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」という、いわゆる受難の予告が語られています。ここで、「人の子」とは主イエスがご自分のことを語られるときに使われるタイトル、称号とも言うべき言葉です。「人の子」という言葉は、旧約聖書のダニエル書、7章13〜14節の『夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。』という記載から来ています。このダニエル書の予言では、「人の子」は世界を統治する方として描かれています。主イエスは受難の僕なのですが、殺されて、復活して、世界を統治するようになる。そのような意味で、主イエスはご自身のことを、「人の子」という言葉で表現されたのです。
ここでも、ルカはいくつかの重要な情報を省いています。マタイによる福音書では、ペトロの信仰告白の後では、教会設立の予言が出てきています。それから、ペトロが主イエスを諌めたという出来事がありました。ルカはそれも省いています。それに対して、主イエスがペトロを叱責して、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言ったことも、ルカは省略しているのです。ところがルカは、これらの出来事を省略して語っているのです。このように省略することによってルカは、主イエスとは何者であるかという問いと、もう1つの弟子訓練の課題である受難の予告とは分けることのできない一つのものだとことを示そうとしているのです。
そして、ここで主イエスの受難の予告が語られていますが、ここでの受難の予告が、主イエスが語られた最初の受難の予告なのです。この記事の文脈は、弟子訓練で、「神からのメシア」というところまでは、告白できたのです。その主イエスが受難の僕であることまではまだ理解できていないのです。しかし、メシアの受難というのは、ルカによる福音書の重要なテーマなのです。
神のキリスト、救い主であられる主イエスが、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される、そして三日目に復活すると言っておられるのです。「必ずこうなることになっている」という言い方は、「神様のご意志がそうだ」という意味です。つまり主イエスに油を注ぎ、救い主キリストとして立てた父なる神様のご意志として、主イエスが多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することが既に決定していると、主イエスは語っているのです。主イエスが神のキリスト、救い主であることは、神様のご意志によるこの受難と復活によって実現するのです。つまり、受難予告は、「主イエスとは何者であるか」という問いへの答えでもあるのです。ペトロは弟子たちを代表して、「主イエスこそ神のキリスト、救い主です」という信仰告白をしました。それは主イエスとは何者かという問いの正しい答えです。しかし、十分な答えではないのです。神のキリスト、救い主が何のために来られたのか、そこまでを知らなければ、主イエスとは何者かを正しく知ったことにはなりません。
主イエスは、私たちのために多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することによって、救いを実現して下さる方なのです。即ち、主イエスの受難の予告は、復活の希望で終わるのです。主イエスが神のキリストであることが分かるとは、このことが分かることなのです。主イエスがご自分こそ神のキリストであることを誰にも話すなとお命じになったのは、そのキリストが苦しみを受け、排斥されて殺される、しかし、それだけでは終わらずに、復活の希望で終わるということを伴わずに「神のキリスト」ということだけが伝わっていくと、人々が主イエスのことをかえって全く誤解してしまうことになるからです。
■十字架を背負って従う
次に、主イエスは23節以下で、『それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」』と教えられました。弟子というのは、先生である師に従って行く者です。従って、師である主イエスが苦難を通過するならば、従う者である弟子たちは当然、苦難の中を通過することになります。主イエスはここで、弟子たちが経験することになる苦難について教えておられます。「わたしについて来たい者は、」というのは、「私の弟子となりたいという者ならば、」という意味です。その人はどうするのでしょうか。主イエスの後について、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従っていくのです。
それは大変なことだ、そんなこととても出来そうにない、と私たちは思います。けれども主イエスは、24節で「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言っておられます。つまり、自分を捨て、十字架を背負って主イエスに従うことは、本当の意味で自分の命を救うことだと言っているのです。「自分を捨て、」というのは、古い自分の性質を捨て、という意味です。自分の栄光ではなく、神様の栄光を求める姿勢、それが弟子としての根本的な姿勢だというのです。そして、「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあるのは、日々、弟子であることに由来する非難を甘んじて受けることを指しています。それが、自分の十字架を負うということです。弟子が負う十字架というものは、弟子でなければ負う必要のなかったものであったと思います。主イエスに従う者となったが故に受ける非難、苦難があるというのです。なぜならば、この主イエスに従って共に歩むところでこそ、私たちの全ての罪を引き受けて多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、そして三日目に復活して下さった救い主と出会い、その救い主が私たちを愛していて下さり、私たちのためにとりなし祈っていて下さることを知ることができるからです。主イエスに従っていくことの中でこそ私たちは、主イエスとは何者かを知ることができます。そして主イエスとは何者かを知ることによって、本当の自分として新しく生き始めることができるのです。本日の箇所に即して言えば、自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従っていくことの中でこそ、私たちのために多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、そして三日目に復活して下さった救い主を知ることができるのです。この救い主を知ることによって私たちは、本当の自分を見出して新しく生き始めることができるのです。本当の自分を見出すとは、主イエスの十字架の死によって自分の罪が赦されていることを知り、主イエスの復活によって自分にも死に勝利する新しい命の約束が与えられていることを知ることです。
ここでは、私たちには2つの道が与えられていることが語られています。1つの道は、自分の栄光を求めて生きる道です。自分の栄光を求めて生きているその人は、最期は自分の人生の意味を見失うというのです。もう1つの道は、神様の栄光を求めて生きる道です。その道は、人生の本当の意味を見出すのです。若いうちは、体力も気力もあります。そのため、どちらの道を選んでも、それほど差はないように見えます。しかし、何十年も時間が経つと、自分の栄光を求めて生きている人と神様の栄光を求めて生きている人の差は歴然として来ます。「全世界を手に入れても、」とあるのは、物質的に富むことです。全世界を手に入れても、本当の人生を味わっていないならば、何の益もないと主イエスはおっしゃっておられるのです。さらに、26節では、今の状況と将来の状況を対比させて、神様を信じている人であっても、この世で今生きている状況の中で、主イエスと神様の言葉とを恥ずかしいと思うのならば、ということが書かれています。自分がキリスト者であることを口にし辛いということは、日本のような、同調圧力が強く、空気感に従うことが強い異教社会では、誰もが経験することではないでしょうか。今、主イエスや、神様や、自分がキリスト者であることを恥ずかしく思っている人は、将来、どうなるのでしょうか?主イエスは今も生きて、働いておられるのです。苦難は、必ず希望で終わるのです。最期は、キリストが再び地上に戻って来られるのです。そのときには、栄光の姿で再臨されるのです。そのときに、キリストは地上生活で、自分のことを恥じた人たちを、恥じると言っているのです。来たるべき世に於いては、より大きな恥を受けることになると言うのです。今、恥ずかしいと思っている人は、キリストが再臨された神の国に於いては、より大きな恥を受けることになると言うのです。これは、終末論的な、未来の視点から、今を振り返って、今をどう生きるべきか、ということを、主イエスは語っておられるのです。キリストを誇りとし、苦難を甘んじて受け、最期は希望で終わるということを知って、生きる人は、最後はキリストの称賛を受けるというのです。私たちは、私たちのために十字架を背負い、苦しみを受けて死んで下さり、そして父なる神様によって復活の命を与えられた主イエス・キリストに従って行きたいと思います。
■神の国を見る
そして、本日の聖書の箇所の最後の27節には、「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とあります。ここで、『神の国を見る』とありますが、なかなか難しい言葉です。これはキリストが栄光の姿で戻って来られるときの様子がどういう様子であるのか、少しだけ目撃することが許されるという意味です。注目したいのは、『神の国を見るまでは決して死なない者がいる』と書かれていることです。これは、誰のことかと言いますと、次回、お話しします、ペトロとヨハネとヤコブの3人のことです。3人だけが見るのだということです。このことが成就するのは、次回、お話します聖書の箇所に於いてです。主イエスの変容というのが、その成就なのです。主イエスの変容では、神の国の予兆が現れるのです。神の国がどのような栄光に満ちたものであるかが、予兆として現れるのかを、ペトロとヨハネとヤコブが目撃するのです。
しかし、神の国という言葉の意味が非常に難解なので、この聖書の箇所には、様々な見解が出てきています。それらを紹介しますと、1つ目には、「神の国を見る」ということは、「復活をみる」ということだと主張する学者がいます。しかし、これは筋が通りません、それはイスカリオテのユダを除いた全員が復活した主イエスに出会うのです。それ故、『ここに一緒にいる人々の中』の一部の人たちという主イエスの言葉はおかしいということになってしまいます。復活はイスカリオテのユダを除く全員が見るわけですから、この解釈の可能性はないと思います。2つ目は、「ペンテコステを見る」ということだと主張する学者もいます。ペンテコステの日に、聖霊が降臨して、教会が誕生したことを、「神の国を見る」ということだと主張する人たちです。「神の国を見る」のは、わずか3人だけなのです。しかし、ペンテコステの出来事も、使徒たち全員が経験しているのです。それ故、この可能性もないのです。そもそも、ペンテコステの出来事は、神の国、千年王国の始まりではないのです。これは、教会時代の始まりなのです。従って、この考え方も違っているのです。3つ目は、「エルサレムの崩壊を見る」ということを主張する人たちもいます。しかし、「エルサレムの崩壊」というのは、メシア的王国をもたらした訳ではありません。これは、ユダヤ人たちが世界に離散してゆくきっかけとなった悲劇です。従って、「エルサレムの崩壊を見る」ということが、「神の国を見る」ことだとは考えられません。4つ目は、「メシア的王国そのものが始まるのを見る」ということだと主張する人たちもいます。しかし、使徒たちが生きている間に、メシア的王国が始まった訳ではありません。従って、メシア的王国が始まるのを何人かの使徒たちが見るというのは、成り立たないのです。5つ目は、「神の国を見るとは、主イエスを信じることである」と主張する人たちもいます。神の国を見ない人たちは、主イエスを信じない人たちであると言うのです。しかし、今日の聖書の箇所の文脈の上では、不信者は出てこないのです。これは、弟子たちに対する言葉ですので、文脈の上で、「神の国を見るとは、主イエスを信じることである」という可能性はありません。6つ目の答えが正解です。「神の国を見る」とは、「栄光の主イエスを見る」ことです。主イエスの姿が栄光に輝いたという主イエスの変容は、メシア的王国の予兆なのです。そして、主イエスは「ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる」とおっしゃられましたが、主イエスの変容を3人の弟子がまさに目撃したのです。それから、主イエスの変容を目撃した3人の弟子たち以外の弟子たちは、彼の国を見る前に死ぬことが暗示されているのです。このことは重要で、主イエスは神の国の成就が延期されたことを示しておられるのだと思います。もしも、神の国が直ちに成就するのであれば、弟子たちは全員、そのことを目撃することになるのです。従って、神の国の成就は、今、直ぐにではなくて、将来に延期された出来事であるということを示しているのです。そして、現代にあっても、未だに「神の国」は成就していません。やがて、キリストの再臨と共に、そのことが成就する時代が近づいているということです。神の国というのは、とても重要です。神の国がいつ、どのように成就するのか、それはキリストの再臨と共に、文字通り成就するのだということを、未来から発想して、今をいかに生きるべきかを考えてゆくことが重要です。弟子たちは神の国が直ぐに来ることを期待しましたが、直ぐには来なかったのです。しかし、弟子たちが期待した神の国は、再臨のメシアによって地上に成就するのだ、それ故、私たちは主イエスよ、来て下さいと、祈るのです。神の国が来る前に、教会が天に上げられる携挙が起こります、それから、やがて再臨の主イエスが地上に来られた時に、私たちも主イエスと共に戻って来て、そこに神の国が成就するのを見るのです。
私たちの日々の生活には、様々な課題や問題があり、私たちはそれらの問題に押しつぶされそうになりながら、生きています。しかし、そのような私たちの日常の生活の中で、主イエスに従うとき、私たちの負うべき十宇架があります。私たちはそれぞれに最もふさわしい務め、担うべき十宇架を主が備えて下さるのです。負いきれない重荷を背負って、苦しみながら行くのではありません。主イエスが先立って歩まれる道は、十宇架の死という苦難を経て、復活の希望へと続くのです。私たちが主イエスの後に従って歩む道もまた、十宇架から、復活の希望に至るのです。私たちの歩む道は、茨にふさがれたような道であるかもしれません。しかし、先頭を歩まれる主イエスがその道を切り開き、私たちが歩けるように、踏み固めていてくださるのです。主イエスご自身がまことの命の道となって、父なる神と私たちを確かにつないでいてくださいます。そして、やがて終わりの日には、その道の向こうから、主イエスが、天の父なる神様の栄光に輝いて、聖なる天使たちと共に来られるのです。とこしえに主の御名を讃える天の礼拝を慕い求めながら、私たちは、この地上において、礼拝を守り、主イエスの後に従う歩みを続けたいと思います。私たちは主イエスの言葉に養われつつ、神の国への旅を続けて行くのです。私たちは、この主イエスをまことの神のキリストであると、告白してゆきたいと思います。
それでは、お祈り致します。