小倉日明教会

『正義の実行と神様への愛』

ルカによる福音書 11章 37〜54節

2023年 7月 30日 聖霊降臨節第10主日礼拝

ルカによる福音書 11章 37〜54節

『正義の実行と神様への愛』

【奨励】 川辺 正直 役員

歌川たいじ 『母さんがどんなに僕を嫌いでも』

 おはようございます。さて、2018年11月に、歌川たいじさんが自分の半生をつづった『母さんがどんなに僕を嫌いでも』というコミックエッセイが映画化されました。たいじさんは仲の悪い両親の二番目の子として生まれたのです。お母さんは少年のたいじさんにとって、あこがれの的でした。というのは道行くだれもが、振り返るほどの美人で、カリスマ性があり、いつも取り巻きができるほどの人気者だったからです。ところがこのお母さんは、なぜかたいじさんを邪険に扱うのです。たいじさんが5歳の時、お母さんは、彼のお姉さんだけを連れて家出をします。彼はいざとなったら見捨てられるという経験を、幾度も繰り返して育つのです。

 そんなたいじさんがひねくれずにおれたのは、両親が経営する工場の従業員のおかげでした。その中に年配の女性がいて、いつもたいじさんのことをかわいがってくれたのです。お母さんからは受け取ることのできない愛情を、このばあちゃんが注いでくれたのです。しかし、両親はたいじさんが10歳の時に離婚します。お母さんはふたりの子どもを連れて家を出るのです。そして、慰謝料で購入したレストランを経営するのです。ところが、妙な男性が入り込むと、レストランは飲み屋に変わります。お母さんは男性をくるくると変え、ひどい別れ方をし、そのたびに凶暴になり、そのしわ寄せはたいちゃんにふりかかって来るのです。ある時、キレたお母さんが包丁で、たいじさんの頭に切りつけてきました。腕でしのいだものの、深手を負ったのです。このままでは殺されると思った彼は、17歳で家出をし、東京食肉市場で働き始めます。そこでは、生きた牛や豚が運ばれ、2枚におろされた肉を水で洗い流す仕事をしていました。たいじさんは、屠殺前の豚を見ていると、まるで自分とそっくりに思えたと語っています。なぜなら、少しも大切にされないいのちだからです。たいじさんは、自分は豚のような生き方をしていると思ったのです。

 そんなある日のこと、父の工場で働いていた人とばったり会い、たいじさんをかわいがってくれたあのばあちゃんが、末期がんだと知らされるのです。見舞いに言ったたいじさんは、近況報告をしました。そして、自分は豚同然で、何をやっても、全体的に豚みたいなんだよね、と自虐ネタを披露するのですが、ばあちゃんは少しも笑わないのです。

 「たいちゃん、苦労したね。でもたいちゃんはきっと幸せになれるよ」

 「そうかなぁ」

 「なれるよ。ばあちゃん、一つタイちゃんにお願いがあるから聞いて。『僕は豚じゃない』って言って」

 たいじさんが小さな声でそう言うと

 「もっと大きな声で、はっきりと言って」

 「僕は豚じゃない」、そう言うと、止まらなくなったそうです。

 これこそが、自分が心の底から言いたいと思っていたことだということを、言いながらにして気づいていくのです。「僕だって大切にされたい」、「尊厳あるものとして扱われたい」、この告白が、彼の人生を変える大きなステップとなって行くのです。

 神様は、私たちの内側も外側も造られたお方です。そして、神様は私たちに内側も、外側も高貴なものとして生きてほしいと願っておられる方です。どんな人の内にも、高貴なものとして生きたいという願いは、必ずあると思います。本日の聖書の箇所では、主イエスをファリサイ派の人々の間で、人間の内側と外側をめぐって、対立がクライマックスを迎えます。本日の聖書の箇所で、神様に対する拒否という現実の中で、私たちはどのように生きるべきかということについて、皆さんと共に学びたいと思います。

食事の席で

 ルカによる福音書9章51節〜19章27節は、主イエスのエルサレムへの旅という大きな枠組みの中で、様々な機会で主イエスが弟子たちに語った教えが語られています。そして、本日の聖書の箇所を含むルカによる福音書11章14節〜54節も、弟子訓練に関する一つのブロックになっています。ここでは、主イエスと主イエスのメッセージに対する拒否が本日の聖書の箇所で、クライマックスを迎えます。そして、拒否という現実の中で、弟子としていかに生きるべきかが教えられるのです。この世から歓迎されるわけではない、その中でいかに生きるべきかが語られるのです。本日の聖書の箇所では、主イエスに対する敵意は、前回までの群衆からファリサイ派の人々に移行します。そして、主イエスの教えも、群集に対する警告から、ファリサイ派の人々に対する糾弾に移行しています。そして、本日の聖書の箇所で記されている出来事と同様の出来事が、マタイによる福音書の23章1〜36節という長い聖書の箇所にも記されていますが、ルカが記しているのは、マタイ福音書の記事よりも、もっと早い時期に起きた、異なった出来事だと思います。そして、ルカによる福音書では、今日の聖書の箇所が、主イエスがファリサイ派の人々に語った最後の教えであり、宗教的指導者の責任は大きいと糾弾しているが故に、クライマックスなのです。私たちは、本当に謙遜になって、主イエスの言葉を心で受け止めてゆきたいと思います。

 さて、本日の聖書の箇所の37〜38節には、『イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。』とあります。「ベルゼブル論争」が続いているその直後に、1人のファリサイ派の人が、主イエスを食事に招待したのです。ファリサイ派の人々は、主イエスと敵対しておりましたので、これはどういうこととお考えになる方も多いかと思います。ファリサイ派の人々の多くは、主イエスと敵対していましたが、例外的な人もいたのです。本日の聖書の箇所に登場するこのファリサイ派の人はそういう例外的な人であったと思います。この人は、主イエスを食事に招きたい、このことの意味は、主イエスから教えを聞きたいということです。当時は、食事の席というのは、ラビが参列者に律法を教える場となっていたのです。そのラビの周りに、人々が集まってきて、その教えに耳を傾けても良かったのです。従って、このファリサイ派の人は、まだ、主イエスに敵対はしておらず、教えに耳を傾けたいと考えていたのです。

 そこで、主イエスは家に入って、食事の席に着かれたのです。そこで、食事が始まるわけですが、主イエスはホストであるファリサイ派の人を驚かせたのです。なぜ驚いたのかと言いますと、『イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。』のです。食事の前に、まず身を清めるというのは、儀式的な清めの行為です。ここで理解しておかなくてはならないのは、モーセの律法は、食前の清めの洗いは命じていないのです。しかし、食前の清めの洗いというのは、ファリサイ派の伝統の一部となっていたのです。従って、ファリサイ派の人々の間では、食前の清めの洗いは常識になっていたのです。特に、どう考えていたかと言いますと、清めの洗いは汚れの予防策だと考えられていたのです。汚れないために、手を清めて、汚れを落とす。そして、食事をする、というようにファリサイ派の人々は考えていたのです。主イエスの行動とファリサイ派の人々の理解の間には、相当の隔たりがあることが分かります。

 主イエスが何とおっしゃられたのかと言いますと、39〜40節には、『主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。』とあります。ここで、もう一つ理解しておかなくてはならないのは、主イエスは律法が命じる命令を越えて、清めを行うことは、非難していないのです。主イエスが問題にしているのは何かと言いますと、この機会を捉えて、儀式的清めが持っている問題、矛盾を指摘しているのです。主イエスは、ファリサイ派の人々が教えている清めの洗いの教えは偽善的だと指摘されたのです。この主イエスが『愚かな者たち、』と語る指摘は、結果的にはファリサイ派の人々を怒らせることになるのです。

    

 外側と内側

 ここで、覚えておきたいのは、主イエスは真理のためには、闘うことを躊躇しなかったということです。『愛する』ということは、真理を語ることです。ここで、主イエスが教えられているのは、愛を持って、真理を語るということが、弟子となる者に与えられている使命だということです。ここで、主イエスが語っている問題とは何なのかと言いますと、ファリサイ派の人々は細かいことにこだわりながら、大切なことを無視していた、ここに問題があるということです。直前の食事の前の清めの洗いという細かいことにこだわりながら、心の汚れは無視しているということに問題があると言っているのです。食器の外側を清めても、それだけでは神様の御心を行ったことにはならないのです。外側の清めよりも、もっと重要なことは、内側の清めです。神様は、外側も内側も造られ、そして、共に清くあることを願われたのです。それが、外側だけの清めにこだわって、内側が汚れたままになっているならば、それは問題だと言わざるを得ないのです。

 ある神学者は次のように語っています。「汚い言葉は、歯磨きをして、清められるのではない。内側が清められて、初めて清められるのだ」。本当にその通りだと思います。外面にこだわりながら、内面が伴っていなければ、そこに問題があると思います。

 主イエスが本日の聖書の箇所で、私たちに示そうとされている事柄、私たちに考えるようにと願っておられる事柄は一体どのようなことでしょうか。それは、この形がどのような内容を表現しょうとしているのか、ということではないでしょうか。外面と内面とが正しく、関連したものになっているということが求められているのではないでしょうか。

 外側の清めの洗いをすることは、悪いことではありません。しかし、心の汚れがそのままであれば、それは偽善となるのだよというのが、主イエスの論点なのです。

 次に、今日の聖書の箇所の41節には、『ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。』とあります。ここでは、心の清めというのは、どういうことだと言っているのでしょうか。『器の中にある物』というのは、自分が大事にしているもののことです。自分が大事にしているものを、貧しい人たちに施すべきである。しかし、施しという行為を通して、心が清くなるわけではない。けれども、信仰によって、心の清さを得ている人は、施しという表現ができるようになる。施しは、その人の心が清くなっていることの証拠となる。そのことが、ここでのポイントなのです。

ファリサイ派の人々の3つの不幸

 次に、今日の聖書の箇所の42〜44節には、ファリサイ派の人々の3つの不幸が挙げられています。42節には、『それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。』とあります。ここでは、第1の不幸として、大事なことをおろそかにするという問題が書かれています。ファリサイ派の人々は、家庭菜園で採れる僅かばかりの収穫にまでこだわっていました。主イエスは、具体的に薄荷(はっか)や芸香(うんこう)を例として取り上げています。それほど、細かいことにこだわっているくせに、正義の実行と神への愛もおろそかにしていた。これがファリサイ派の人々の第1の不幸、大事なことをおろそかにするという第1の不幸だというのです。

 次に、43節には、『あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。』とあります。これが、第2の不幸です。食卓で、主イエスがあるファリサイ派の人に語っている。そして、それを大勢の人たちが聞いているのです。第2の不幸が何かと言いますと、それは虚栄心という問題です。その虚栄心の内容は、一つは、彼らは会堂では上席に着くことを好んだということです。当時、ユダヤ人が集まる会堂は、前の方の席に指導者が座るのです。そして、そこに座って、人々から称賛されることを彼らは好んだのです。もう一つは、広場では挨拶されることを好んだ、ということです。広場で、というのは、公の場で、ということです。公の場で、いろいろな人たちが挨拶をしに来てくれる、そうすると、虚栄心が満たされるのです。会堂で前に座りたい、広場で人々から挨拶をされたい、それがファリサイ派の人々が持っていた虚栄心という第2の不幸であったのです。神様の前に、謙遜に歩むよりは、人々からの評価を求めていたのです。

 さらに、44節には、『あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。』とあります。人目につかない墓のようだと、主イエスはおっしゃるのです。ここでの第3の不幸というのは、自分が汚れているだけではなくて、汚れを拡散しているという問題です。旧約聖書の民数記19章16節には、「野外で剣で殺された者や死体、人骨や墓に触れた者はすべて、七日の間汚れる」と述べられています。この民数記の箇所に基づいて、当時の人々は過越祭の時などに大勢の人々がエルサレムを訪問する時、誤って墓に触れて汚れないように、その時期には、夜中でもそこに墓があることが分かるように、路傍の墓をすべて白く塗りました。春の日には、光を受けて白く輝く墓は当時の美しい風物詩の1つでさえあったのです。しかし、白く塗っていないと、それは人目につかない墓で、誤ってその墓に触れた人は、儀式的な汚れを受けます。それと同じように、ファリサイ派の人々の教えに触れた人々は汚れるのだ、そのように主イエスがおっしゃられているのです。人々は、ファリサイ派の人々の教えが汚れていることを知らないのです。それは白く塗られていない人目につかない墓だからだというのです。ファリサイ派の人々の教えは、一部の人々だけではなく、国全体を汚れたものにしていたというのです。これらが、主イエスが叱責された3つの不幸なのです。

律法の専門家の3つの不幸

 次に、本日の聖書の箇所の45〜46節には、『そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。』と記されています。

 主イエスは、主イエスを招いたファリサイ派の人に語っていましたが、そこには律法の専門家もいて、主イエスが語る言葉を聞いていたのです。そして、その律法の専門家は主イエスに抗議をしたのです。「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」、ファリサイ派の人々を侮辱することは、私たち律法の専門家への侮辱になりますよ、と言うのです。この律法の専門家は、自分たちはファリサイ派の人々のようではない、ファリサイ派の人々ほど罪は重くないと主張しているのです。

 しかし、主イエスはその主張を認めないのです。主イエスが語る律法の専門家の第1の不幸は、愛がないという問題だというのです。律法の専門家たちは、専門的に律法の解釈に時間を費やしました。ファリサイ派の人々は、その解釈された律法を民衆に実行するように働きかけ、推進する宗教団体であったのです。これが、律法の専門家とファリサイ派の人々との違いとなります。そして、律法の専門家たちは、厳密な律法解釈を行って、民衆に重荷を負わせていたのです。それが、主イエスが指摘している点なのです。そして、律法の専門家たちは、自分たちのためには、それを守らなくても良いような「抜け道」を用意していました。それと同時に、自分たちは律法に従順であるかのように振る舞っていました。彼らには、民衆に対する愛がない、と主イエスは非難しているのです。律法の専門家たちが作り上げたミシュナ法とも呼ばれる口伝律法では、モースの律法に従うよりも、口伝律法に従うほうが重要だとしていたのです。モーセの律法は、難解なのです。それに対して、律法を解釈した結果、出てきた口伝律法は分かりやすいのです。分かりやすい口伝律法に違反するとしたら、より難解なモーセの律法に違反するのは当然だと言うのです。そして、モーセの律法に違反した場合には、難解だからねという言い訳も立ちますが、より分かりやすい口伝律法に違反するのは、そうはならず、より重大な罪となるとされていたのです。その結果、律法の専門家たちは、口伝律法はモーセの律法よりも重要だと、民衆に教えていたのです。そのことを、主イエスは、第1の不幸として、愛がないと非難したのです。

 本日の聖書の箇所の47〜48節には、『あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。』と記されています。

 イエスが非難する律法の専門家の第2の不幸は、預言者たちを迫害するという問題です。当時の律法の専門家たち、ファリサイ派の人々というユダヤ教の指導者達は死んだ預言者の墓を建てたり、正しい人たちの記念碑を飾り立てていました。なぜ、そのようなことが非難されるのでしょうか。むしろ、良いことのようにも思えます。しかし、ここでの預言者たちというのは、「自分の先祖が殺した」人々なのです。預言者イザヤは鋸(のこぎり)でひかれて死んだと言われ、エレミヤは石打ちにされたと伝えられています。ユダヤ教の指導者達がその墓を建てたり、記念碑を飾り立てたりするのはその償いのためであったのであり、それゆえに償いの礼拝堂と呼ばれて、そのような者たちを崇拝する儀式が行われるということもあったようです。しかし、主イエスは、この行為の中に、欺瞞を見ているのです。ユダヤ教の指導者達は、墓を建てることによって、罪滅ぼしをしているのです。つまり、先祖たちが罪を犯したということを認めた上で、墓を建てるというのは、先祖たちの罪に加担していることになっていると言うのです。その証拠に、先祖たちがしたように、今の彼らも、死んだ預言者たちを敬うが、生きている預言者たちを迫害すると言っているのです。今の預言者たちというのが、誰のことかと言いますと、バプテスマのヨハネ、そして、主イエスなのです。ですから、先祖たちと同じことをやっている、バプテスマのヨハネを受け入れない、主イエスを拒否する。これが、律法の専門家の第2の不幸、預言者たちを迫害するという問題です。

 次に、本日の聖書の箇所の49〜51節には、『だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。』と記されています。

 ここで、主イエスは、『神の知恵』を引用しています。『神の知恵』というのは、この文脈では旧約聖書のことです。ここで主イエスが引用しているのは、預言者たちの運命に関する啓示を要約しているのです。預言者がどう扱われるかという啓示を要約して、語っておられるのです。その要約がどのようなものであるかと言いますと、民は神様が遣わした預言者たちや使徒たち迫害してきた。神様は、すべての預言者の血の責任をこの時代のユダヤ人に問うと言うのです。なぜなら、この時代は、預言者の中の預言者である神様の御子ご自身を拒否したから、それまでの預言者の血の責任をこの時代のユダヤ人に問うと、主イエスは語られるのです。神様の怒りが、この時代の上に注がれるのだというのです。これは、紀元70年にエルサレムが滅びることの予言になっているのです。ユダヤ人が世界中に離散してゆくことを経験することになる悲劇が予言されているのです。

 そして、この時代はアベルの血から、ゼカルヤの血に至るまでの責任を負うことになるのです。アベルとは、創世記第4章の、いわゆるカインとアベルの物語のアベルです。最初の人間アダムとエバの二人の息子がカインとアベルでした。その兄弟の間で、人類最初の殺人が、兄が弟を殺すという出来事が起ったのです。アベルはいわゆる預言者ではありません。しかし、この殺人は、アベルの献げ物が神様に顧みられたのに対して、カインの献げ物は顧みられなかったことによって起りました。つまりアベルは神様と良い関係を持っていたが、カインはそうではなかったのです。そのアベルがカインに殺されたことがここでは、神様に従う預言者が敵対する人々によって殺されたという出来事の最初に位置づけられているのです。

 もう一人の、「祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤ」のことは、歴代誌下24章17節以下に語られています。このゼカルヤは、ユダ王国のヨアシュ王とその側近が主なる神様を捨てて、異教の神々に仕えるようになった時に、神様の霊に捕らえられて、そのことを諌め、そのために神殿の庭で殺された人です。まさに神様の言葉を語ったために、それを受け入れない人々によって殺されたのです。彼は死に際して、「主がこれを御覧になり、責任を追求してくださいますように」と言いました。アベルの血から始まり、このゼカルヤの血に至るまで、神様の言葉を語ったことによって殺された人々の血の責任が、「今の時代の者たち」に問われるのだと主イエスはおっしゃったのです。それが、律法の専門家の第2の不幸、預言者たちを迫害するという問題であったのです。

 次に、本日の聖書の箇所の52節には、『あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。』と記されています。

 律法の専門家の第3の不幸は、知識の鍵を取り上げているという問題です。ここで語られている『知識の鍵』というのは、神様の言葉であり、主イエスがこれまでに語って来られた言葉を理解する鍵のことなのです。主イエスは、律法の専門家たちは、民衆から神様の言葉を理解する鍵を奪っていると非難しているのです。それは、どういうことかと言いますと、律法の専門家たちは、主イエスの教えを拒否したのです。その結果、民衆が霊的知識を得る機会を奪ったのです。

 この知識の鍵を取り上げているという律法の専門家の第3の不幸が、ファリサイ派の人々の3つの不幸と律法の専門家の3つの不幸、合計6つの不幸のクライマックスなのです。つまり、神様の言葉を伝えるという使命を与えられた者たちが、その使命を放棄しているということなのです。教会の中で、指導的な立場にある人には、重い責任が負わされているのです。そして、そのことの責任を神様が、問うときが来るのです。そのことを私たちは覚えておきたいと思います。

主イエスに対する敵意

 本日の聖書の箇所の53、54節には、『イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。』とあります。主イエスに、合計6つの不幸について非難されて、律法学者やファリサイ派の人々の主イエスに対する敵意は、激しく燃えたのです。それで、彼らが何をしたのかというと、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始めたのです。真理を学びたいからではないのです。主イエスの信頼性を貶めるための質問をしているのです。言いがかりをつけるための質問が、この出来事以降、とても激しくなってゆくのです。これは、ルカによる福音書全体の中で見ると、宗教的指導者たちによって、公に主イエスがメシアであることを拒否した出来事となっています。これ以降、律法の専門家たちとファリサイ派の人々の殺意は、激しさを増してゆくことになります。そのことが、主イエスを十字架へと追いやってゆくエネルギーとなって行くのです。

 その十字架において主イエスは、人間の罪のために流された血の責任をすべて担ってくださり、私たちを救って下さったのです。この主イエスの救いの恵みの下で、私たちは生かされています。それでもなお、私たちは、神様の言葉に聞き従わず、自分の力や知識を頼みとしてほかの人を批判したり裁いたりしてしまうこともあります。しかし、私たちはもう、流されたすべての預言者の血の責任を問われることはありません。神様は、私たちの内側も外側も造られたお方です。そして、先に言いましたように、神様は私たちの内側も外側も共に清くあることを願われるお方です。そして、私たちの内側が清くされるのは、私たちが神様によって与えられる救いの恵みに感謝し、神様の言葉に聞き、み心を示され、それに従って生きていくことによるのです。神様の言葉に従う歩みにこそ本当の清さと幸いが与えられるのです。他でもない主イエス・キリストが、私たち人間の罪によって流された血の責任をすべて負われ、十字架でご自分の血を流して死んで下さったことに目を向けつつ、私たちは主イエスの言葉に従って歩んでゆきたいと思います。

 それでは、お祈り致します。