■「わたしはあるもの」
出エジプト記の出来事がわたしたちに伝えようとしていることとは何でしょうか。ふたつ挙げることができます。そのひとつは、神様がどのようなお方であるのかということ、もうひとつは、その神様を信ずるわたしたちとは何者なのか、ということです。そして、「あなたはだれ?」と聞かれたときに、「わたしは何か」ではなく「わたしはあるもの」とただひとこと言えるお方がおられることを、今日の三つの言葉が教えてくれています。
一つは、「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、そしてヤコブの神である」という言葉です。注目していただきたいのは、「アブラハムの神、イサクの神、そしてヤコブの神」という表現です。三人はイスラエルの先祖です。なぜ、ひとまとめにして「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言わないのでしょうか。
それは、神は「ただひとつ」であっても、神様が臨んでくださるとき、その場、その時、その相手にとって、もっともふさわしいカタチをとってくださるのだ、ということを示すためでした。アブラハムには「アブラハムの神」、イサクに対しては「イサクの神」、ヤコブにとっては「ヤコブの神」として臨んでくださる。一人ひとりの神でいてくださるお方、それが神様です。一人として同じでない「いのち」を与えてくださった神様は、ここにいるわたしにとって、そしてあなたにとって、たった一人だけの神様になってくださるのだということです。
二つ目は、「わたしは必ずあなたと共にいる」という言葉です。「いる」と訳される単語は未完了形と呼ばれる行為を表す言葉ですが、古代ヘブライ語にはもともと時制がありません。ですからこれは、そうなるかもしれない行為、くり返し反復される行為を意味することになります。ただ「いる」というのではなく、昔も「いた」し、今も「いる」、そしてこれから先も「いるだろう」という意味になります。
ちなみに「共に」のヘブライ語は「イマフ」で、御子イエスがお生まれになった時に与えられた言葉、「イマヌ・エル」という言葉はここから生まれました。「イマヌ」=「共に」と「エル」=「神」との組み合わせ、神様はわたしたちと共におられる、です。しかも今日のこの言葉は、昔も今も、そしてこれから先も、ズッーとわたしたちと共にいてくださるお方、それが神様だと告げています。
そして三つ目は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」という言葉です。この「ある」という言葉もまた、とても意味のあるものです。「ある」という言葉を漢字に書くとき、わたしたちは二つの漢字を当てます。一つは、どこそこに「いる」、「存在している」というときの漢字の「在」を使って書く「在る」。そしてもう一つは、「所有する」という言葉の「有」という漢字を使って書く「有る」です。
存在するという意味合いでの「在る」は、英語で言うbe動詞、神様がはるか遠く天に鎮座ましまして、全く動かず、ただじっと存在しておられる、というニュアンスとなります。しかし、今日の「わたしはある。わたしはあるという者だ」という時の「ある」は、存在の「在る」ではなく、もうひとつの「有」という漢字での「有る」です。これは、動きのある、ダイナミックな言葉です。天に鎮座ましまさず、わたしたちの傍に来てくださって、わたしたちの共にいて、わたしたちに働きかけてくださり、声をかけ、招き、わたしたちに手を差し伸べてくださるようにして共にいてくださるお方、それが神様だと教えてくれています。
わたしたちが生きる一日一日が、どんなに重苦しい一日であっても、愉快な一日であっても、また働いて疲れ切り、後は眠るだけの一日であったとしても、たとえ誰とも言葉を交わすことのなかった孤独な一日であったとしても、その日々は、すべての人に等しく与えられる、そして決して繰り返すことのできない、かけがえのない日々、人生そのものです。
今日のみ言葉は、そんなわたしたちがたとえ、どんな時を、人生を過ごそうとも、いつも「神様があなたを見ていてくださる」「神様がいつも共にいてくださる」「神様が今ここに働きかけてくださる」ということを信じて生きることができる、またそうすることができるようにと神様ご自身が必ず、すべてを備え、整えてくださっているのだ、と教え、約束するものです。
■信仰の旅路
しかし、わたしたちの心の内を振り返ってみれば、いつも世の煩いに惑わされて、心が鈍くなっていることに気づかされます。生活の中には、いろいろの世の煩いが迫ってきます。わたしたちの生活は忙(せわ)しなく、いつも他のことに心を奪われています。神様の言葉に耳を傾けることができず、いつの間にか、この世的な判断が始まっています。神様が必ず道を備えてくださっている、そのことが見なくなります。
その心を神様は嘆かれるのです。そして他でもない、燃える芝の中で栄光に輝かれた神ご自身が、そのようなわたしたちのことを、それでもなお信頼し、共にあって、いつも祈り支えてくださっているのだ、今日のみ言葉はそのことをわたしたちに教えてくれています。
アメリカの神学者ウィリアム・ウィリモンがこう語っています。
「この聖書の物語の教訓は、神は、[自分の平安だけ求める、臆病なクリスチャン]を驚かせることがお好きだ、という点にあると私は思います。私たちが自分自身を信じている以上に、神は私たちを信じていてくださるのです。私たちは自分で思っているほどに弱く、限界があり、完成した存在ではないのです。…信仰とは、疑いが一切存在しない確実さ、というよりも、疑いのただ中にある確信、と言うべきものです。信仰とは、細かい旅程が書き込まれた詳細な地図ではなく、正しい方向を指し示すコンパスを手にして行く旅のことです。信仰とは、自分がどこに向かっているのかは定かではなくても、旅の仲間を気に入っていて、しかも道案内をしてくださる方がどなたであるかを知っているゆえに、ともかく歩み出してみることです。信仰とは、絶望してほかに行く場所がなくなったのちにようやく歩み出す旅でもありませんし、あるいは、打ちのめされ、惨めさを味わって、強いられて歩み出す旅でもありません。信仰とは、歩き続けていくことです。それは、この旅の先導者が信頼のおける方であり、この旅は犠牲を払うに足る旅であるとの福音を、あなたは聞いているからです」。
■神の愛が降り注いでいる
このみ言葉の福音を心により深く味わっていただくために、少し長くなりますが、ひとりの女性の言葉をご紹介して、今日のメッセージを閉じさせていただきます。
光明園家族教会。岡山県瀬戸市にあるハンセン病患者の人々のために一九〇九年に立てられた教会です。その教会に、難波紘一さんという方がおられました。筋ジストロフィーという不治の病に冒され、発病から一〇年後、天に召された方です。パートナーである幸矢さんがその一〇年間の日々を振り返りつつ、こう書き残しておられます。
「発病当時、彼は病気の初期から自分の体に表れ始めた症状と照らし合わせて察知していたようだ。難病中の難病で現在の医学では治らない死にゆく病であることを私に隠していた。平静を装ったところで死ぬほどの病に苦悩しないでおれるはずもなく、本当に性格が変わってしまった。何も知らない私は、夫の心の変化に戸惑ってばかりだった。あの頃はもちろん現在でも、病気になると本人の苦悩に対しては目を向けるが、家族の苦悩に対しては気付かない人が多い。家族の不安や悲しみ、不条理に対する怒りや苦悩など、本人と同じ苦悩を辿ることなど想像してもらえなかった。そしてそれぞれの心がそれほどに苦悩して怒って悲しんでいるのだから、当然この頃が夫婦の危機だった。離婚も一家心中も自死も考えた。彼の不自由より何より、愛して尊敬してこの人だったら社会を見る目もある、信仰も確かで神様の道から反れないように導いてくれると信じて結婚した夫が、信じられないほどひねくれ、いじけ、懐疑心を持ち、想像できないほどの醜態を演じるようになったのだから、彼に対する落胆以外の何ものでもなかったのだ。
あの当時、祈って、祈って、祈った。神様を揺さぶって祈った。『主よ、なぜですか?お金も時間もあなたに捧げて、礼拝は欠かさず、教会学校の校長もし、ちょっと待って下さいというほど献金してきたではないですか。その夫がなぜ?』と。そして続く試練に『夫の病気の答えもいただいていないのに今度は娘の不登校ですか。息子の大病の試練ですか。主よ、答えを下さい』と祈り、やがて『私の人生、何もいいこと無いじゃない。何よ神様!クソッタレ神様』と抗うまでにすさんでいった」
紘一さんの、また家族の苦悩に言葉を失います。しかし苦悩は苦悩で終わることはありませんでした。紘一さんの病が快方に向かったというのではありません。神様の愛のみ言葉がもたらされました。
「そのような時出会ったのが、Ⅰコリント一三・四~七の「愛は情け深い」だった。聖霊の働きによって神の前にくずおれた。私が…頑張ってここまでしてきた!と、褒められこそすれ批判されないように身を粉にしてやってきたかはあっても、愛がなかった。『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない』という言葉が身にしみた。すべてを信じてないし、すべてを望んでないし、すべてに耐えてない。自分のことばかり、どうしてくれるのよ!と。このみ言葉に出会って、一歩下がって私を含めて家庭全体を客観的に見つめ直した。…そうしたら、私が相手に対して我慢し努力し、神経すり減らして忍の一字で耐えてきたと思っていたが、反対に相手に我慢してもらっていたのではないかと気付かされた。一人被害者みたいな顔をしていたけれど人を傷つけつつでないと生きられない人間なのだと腹から分った。自分という人間は何者なのか、ヘタヘタと座り込むほどに分った。罪人であるとおお分かりすることは人生にとってどんなに大事なことか。主体が『私が』から『神』に変わる。『生きる』から『生かされている』に変わる。『こんな者が赦されてある』と感じたらワクワクと喜びがあふれ出て、この神をお伝えしないではおれない者へと変えられた。私の頭の上は燦々と神の愛が降り注いでいる」
神様の福音に導かれた幸矢さんは、それまでの苦しみと悲しみ、絶望と悲嘆に埋め尽くされていた苦闘の日々を、まったく違う目で見つめ直すことができるようになっていることに気づかされます。
「人生まったく無駄がない。夫が私に病気を隠して心の醜態だけ見せつけられたので、夫を憎んだり恨んだり人生を嘆いたりした。しかしそのために自分の何者であるかに気付かされた。最高の啓示だ。もし早くに『実は僕は難しい病気になったようだ…』と訴えてくれていたら、夫を愛していたのだから、二人で抱き合って泣いて、そして『私も出来るだけのことはするから頑張りましょうね』と言っていただろう。そうしたら夫の死後、どんな私になっていたか。命の大切さなどの意味は分ったかもしれないが、『大変な中、一生懸命介護しました』という誇らしげな私になっていたかもしれない。夫が病気を隠したことは見事すぎる神の計画の中にあったことだ。泣くに時があり、悲しむに時があり、憎むに時があって神と出会った。…神様多すぎます、酷すぎますと喚いたが、神の計画はたった一つの無駄もなく、むやみにもなく、無神経にもない。神を神とすること、神の前にひれ伏す時が息子にも娘にもきっと来ると、まだ神を信じていない今、確信することが出来る。私ほどの傲慢な者が変えられたのだから。
真面目な日本人。一生懸命生きていればきっと神様は助けて下さる、いや助けて下さらないはずがない、などと思っている人が多い。それは本末転倒だ。私達の思いをはるかに超えて神のご計画がある。ベターではなくベストの計画だ。しかも私達一人一人が平安というものをいただけるためのご計画であって懲らしめではないのだから、試練に置き去りにされることはない 」
燃え尽きることのない柴が燃えたように、聖霊によってわたしたちにも、この内側が燃える時があります。わたしたちの人間的なすべての可能性が尽きたとしか思えないそのときにこそ、主が入って来られる時です。 その時、新しさが与えられます。今までになかった新しさです。神の与えられるその新しさによって、わたしたちは新しいいのちを、新しく生きる力を与えられます。み言葉の新しさに触れることができます。み言葉が今日成就したという新しさがわたしたちの中に起こります。 そして「イマヌ・エル」というみ言葉の成就そのものである御子キリストが、この世に来られ、十字架につけられ、復活され、天に昇り、そして今もここに共にいてくださるのです。このことに励まされて、この地上に与えられたわたしたちの人生の日々を、皆さんと共に、何よりも神様と一緒に歩んで参りたい、そう心から祈り願います。イマヌ・エルの主よ…。