小倉日明教会

『儚く美しい―雑草の花一輪』

マタイによる福音書 6章 25〜34節

2023年 10月 22日 聖霊降臨節第22主日礼拝

マタイによる福音書 6章 25〜34節

『儚く美しい―雑草の花一輪』

【説教】 沖村 裕史 牧師

■いのちの姿

 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」

 五年前の春、年老いた母の傍にいようと故郷に戻り、父と母が大切にしていた畑の草刈りをしていた時のことです。竹林(ちくりん)の薄暗い根元に、紫の色鮮やかな蔓日々草(つるにちにちそう) が咲いていました。地中海沿岸原産のこの花の学名は、Vinca majorヴィンカ・マヨール。Vincaはラテン語で「結ぶ、巻き付く」が語源、majorは「巨大な、より大きい」という意味です。紫色の五枚の花びらを持つ大きめの花を、つる状に伸びた茎の先につけるその姿を形容したものでしょう。常緑の雑草で冬の間も枯れないことから、ヨーロッパでは「蔓日日草を身につけていると悪いものを寄せつけず、繁栄と幸福をもたらしてくれる」と言われます。

 「日陰の花」は存外たくましい、そう思いながら周りを見渡すと、畑に生い茂る青草に紛れて、あちらこちらに小さな白い花や青い花が咲いています。オオイヌノフグリです。「大きな犬の陰嚢(いんのう)」という奇妙な名前は、その可憐な花からではなく、花が散ったあとにできる実の形からつけられたもので、小さな花にも敬意をもって観察し続けた人が、そう名付けたのでしょう。ちなみに、オオイヌノフグリもまたヨーロッパからの外来植物で、本来の呼び名はVeronicaヴェロニカ。十字架の丘、ゴルゴダに向かうキリストの汗をふき取ったと伝説される「罪ある女」の名前です。小さな雑草の花にそんな名前をつけたヨーロッパの人々の信仰に思いを馳せながら、踏みつけられ、泥をかぶり、刈り取られて、根ごと引き抜かれてしまうだろう雑草の花が、何とも「儚(はかな)く美しく」思え、見惚(みと)れながらこんなことを考えていました。

 「イエスさまが『野の花』『野の草』言われていたのは、いったいどんな草花(くさばな)だったのだろう…」

 当時、ギリシア語のクリノンという言葉で呼ばれていた花が、今で言う何の花なのか、はっきりとはわかりません。ただいつ頃からか、「百合」と訳されるようになりました。 しかし、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ」とは、それが人々から愛され好まれる花ではなく、嫌われ者、厄介者として捨てられる草、まさに雑草であったことを示しています。近年、クリノンとは野アザミのことではないかと言われるようになったのも、それに棘があり、蔓延(はびこ)ると手のつけられない、嫌われがちな雑草だからでしょう。

 そして今、人間の造った美と力と栄華の極みであると言われたソロモン王のそれよりも、この「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる」、雑草の花一輪の方がずっと美しい、イエスさまはそう言われます。

■悲しい姿

 明日のいのちも知れない、人から嫌われる雑草の花一輪に、見えざる神の御手の業をご覧になりながら、「神はこのように装ってくださる」と言われます。

 いえ、イエスさまがここで本当に言おうとしておられることは、それでもありません。この後すぐに、「ましてやあなたがたは」と続けておられます。イエスさまがここで語っておられるのは「あなたがた」のこと―そこに集まっていた人々、弟子たち、わたしたちのことです。イエスさまにとって、わたしたち人間は、雑草の花、野の花一輪のように「儚く」、しかも、それよりももっと、もっと「美しい」ものであった、ということです。

 そう確かに、人間は何と儚いのでしょうか。わたしの愛する父も、尊敬する先生や先輩も、親しい友も、多くが天に召されました。このわたしも、あと十数年もすれば生きているかどうか。今を花の盛りと生きている人も五、六十年もすれば、大方はこの世から消えていることでしょう。何と短く儚いいのちでしょう。それだけではありません。思いもよらぬ仕方で、理不尽に、このいのちを奪い取られることさえあります。パレスチナでは、わずかな間に四千人を超える人のいのちが奪われてしまいました。地震に襲われ、波に飲み込まれ、あっという間に失われた多くのいのちがありました。 わたしたちは日々、心を揉みくちゃにされてもなお、額に汗して働き、懸命に生きていますが、何と儚く、小さく、泡のような存在であることでしょう。しかしイエスさまは、そんな儚い人間をこそ、この上もなく美しいものとご覧になり、そう宣言されるのです。

 とはいえ、ふと自分自身や周りを見回し、また聖書に描かれる人々を思い起こすとき、わたしたち人間の姿は、イエスさまが譬えられる雑草の花一輪とはかなり違っている 、そう思わざるを得ません。そしてそれこそ、イエスさまがここに繰り返して語られる、日夜わたしたちを捉えてやまない、「思い悩む」「思い煩い」の姿です。わたしたちはこの世に生きている間、飲むこと、着ること、食べること、そして住むことにあれこれと思い煩わずにはおれません。思い煩うことはむしろ人間の生きているしるし、証しである、とさえ言っても良いほどです。いえ、衣食住はわたしたちが生きる上で欠くことのできない、それなくしてはついに生きることのできない条件です。であればこそ、イエスさまも「今日の糧をお与えください」と祈るようにと教えておられ、キェルケゴールも、人間は額に汗して働いて生活するところに人間の美しさ、尊さ、品位がある、と書きました。

 しかし、この人間の生きるしるしに、その美しさ、品位と紙一重の違いで、人間の卑しさ、醜さが表れます。寝ても覚めても、一人でいても他人(ひと)と一緒にいても、ただ自分の衣食住、金、容姿、地位や名誉を求めて、思い煩っています。しかもこの思い煩いは、様々な欲望と結び付き、そのためならばついには、人を陥れ、邪魔になる奴は密かに消してしまいたい、とさえ考えます。 互いに妬(ねた)み、憎み、争い、時には親子、兄弟、夫婦でも傷つけ合っています。そこに人間のエゴ―自己愛と貪欲の醜い罪が隠されています。何とも悲しい姿です。

■愛に触れて

 それでもなお、イエスさまはそのような人間と共に生き、そして今、深い憂いと悲しみ、何よりも愛をもって呼びかけてくださるのです。そのようにして、失われている人間本来の美しい、尊い姿を回復し、わたしたちの生きていることの意味、生きがいを教えようとしておられるのです。

 「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ」

 松木治三郎という人が、自身のことを振り返りつつ、「若い日、わたしも[この]イエスの言葉を言葉としてわかったようなつもりでいたが、本当には自分のものとしてこれが、少しも生きて来なかったことを思い出す。しかしある時、わたしはそのいとぐちを与えられた」と、こんな一文を書き残しています。

 「少年期の終わりに胸を病んだ。三度もしくじって三年間過ごした。友だちは健康ですでに世に出て働いている。進学している者もある。しかしわたしは病人。小説や詩歌など読んで毎日すごしていた。生田春月の『虚無主義』を読んだのもこの頃だった。教えられていたことと反対に、自分の生きることのむなしさ、無意味さを思った。毎日毎日暗い日夜だった。今も思い出す。あわただしい年の暮の街を、医者からの帰り途、ひとりしみじみとわが病める身の情なさに思わず涙がこぼれたことを。そしていつしか死を思い続けていた。そんなある日、いつも心配していてもほとんど一言もいわなかった母が、小さい声で、『あまり恐ろしい事は考えないように。…養生さえすればもっとよくなると思うが、たといよくならないとしても、何もできないとしても、よいではないか。このままでもいい、とにかく生きていてほしい…』と。わたしはどのように生き、どのように成るか、どんな生活をし、どんな仕事をするかということに思い煩い、心を奪われて、わたしという人間そのものの存在の意味をまったく忘れていたのである」

 自分は弱く虚しい、何の役に立たない人間だけれどもしかし、このままでも、少なくとも両親にだけは大切なものなのだということに気づかされました。生きる意味を見失っていた「わたし」が両親の「愛」の中で、そのことを発見したのでした。こうした具体的な隣人の愛を一つのきっかけとして、 今朝の言葉の背後にあるイエスさまの恵み、「わたし」という人間に対する神様の愛—その一端に触れる、そんな経験は何某(なにがし)か、誰にもあるのではないでしょうか。

 イエスさまは今、飲み食い着ることに思い煩う人々、富と名と権力の座を巡って心狂う人々、あれこれと苦しみ罪をつくり、罪の中に死んでいく人々を、はっきりと見ておられます。しかもイエスさまは、思い煩う人々のその中に、裸で生まれて裸で死んでいく人間、それこそ本当に儚く悲しい姿ですが、しかし無限に美しく尊い姿の人間を、そこに見出しておられるのです。いえ、むしろイエスは、この人間を、一人ひとりありのままの人間を、かけがえのないものとして、その身になって大切にしておられるのです。

 イエスさまは、人間を「本当に」愛しておられるのです。

■その愛を信じて

 であればこそ、三〇節以下、イエスさまは人々に、わたしたちに「信仰の薄い者よ」と呼びかけ、そして「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」と教えられ、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と諭されました。

 「ご存じである」とは、よく知っていて、そのために心配し配慮してくださっている、という意味です。あなたたちが思い煩い心配する前に、神様が…ということです。さらに続けてイエスさまは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と呼びかけ、「そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と約束されます。神の国は、神様の愛は、わたしたちが望むよりも前に、すでにわたしたちにもたらされている。今ここに備えられ、与えられている。わたしたちには今ここに、すでに新しく生きる道が示されているのだ、ということです。

 裸のままに生まれ、裸のままに死んでいくほかない、儚いこのわたしたちが、あるがままに美しいと呼びかけてくださる。しかし容易にその福音に生きることができないでいるわたしたちにも、生かされ生きる道が備えられている。そのことが今、この「信仰の薄い者よ」という言葉によって示されているのです。

 「信仰が薄い」。この言葉を、マタイはこの箇所を含めて五回使用していますが、今、思い起こしていただきたいのは、一七章一九節以下の言葉です。

 「弟子たちはひそかにイエスのところに来て、『なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか』と言った。イエスは言われた。『信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない』」  

 「からし種一粒ほどの信仰」とはどういうものでしょうか。

 誰でも、病気になればいやされることを願います。そして、そのために助けてくださるのが神であると信じるでしょう。当たり前のことです。しかし、そういう当たり前の信仰とは別の、もう一つの信仰があるのだということです。それは、生きるための様々な思い煩いの中で、病の苦しみの中で、思いもしない困難の中にあってなお、「わたしの恵みはあなたに十分である」(Ⅱコリ一二・九)とのみ言葉を聞いて、病にも、苦難にも、身を委ねることのできる信仰です。苦難から救い出されるよう祈り、病がいやされるようお願いをして、神様に、いわば「請求書」を出すような信仰ではなくて、嵐のような苦難の中にあっても、苦しく、辛い病においても、共にいて、儚くも美しいと言ってくださる神様の愛を信じて、「恵みは十分」と神様に、そう「領収書」を出す信仰です。その領収書の信仰こそ、「からし種一粒ほどの信仰」と言われるものでしょう。

 「薄い信仰」となったのは、この領収書の信仰が欠けていたためでした。弟子たちに、イエスさまのもとに集まってきていた人々に、そしてわたしたちに信仰がないわけではなく、またその信仰に熱心さや純粋さが足らないわけでもなく、そういうこととは別の問題、すなわち信仰を、神様に請求書を書くことと思い込んで、領収書を書くこととは思ってもいないためなのです。

 どれほどの苦難、病気の状態がどのようなものであれ、たとえ死の床であれ、そこでこそ、儚くも美しいと言ってくださる神様の愛を信じ、「わたしの恵みはあなたに十分」、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」というイエスさまの言葉を信じることのできる信仰があれば、祈りの内に「今ここで、あなたの愛に包まれています」と告げて、思い煩うことなく、平安を味わうことができたのではないか。そしてそれこそが真のいやしであり、真の救いであるはずです。

 信じる、信頼するということは、苦難がなくなるということでも、思い煩いがなくなることでもなく、たとえどんな苦難の中にあっても、たとえどんな思い煩いにとらわれていても、平安の内にあるがままに生きること、人としてできること、いささかなりとも神様の愛に応えようとすること、そのことを誠実に為し遂げていこうとすることです。 今ここにわたしたちが集められていることを、心から喜び会いたいと思います。わたしたちの傍に、愛の神様が、イエスさまが共におられるからです。誰の疑いも、誰の恐れも打ち破るために、今もここにいてくださるのです。その恵みを、ともに味わい、ともに感謝したいと思います。