小倉日明教会

『今の時代の人たち』

ルカによる福音書 7章 29〜35節

2022年7月31日 聖霊降臨節第9主日礼拝

ルカによる福音書 7章 29〜35節

『今の時代の人たち』

【奨励】 川辺 正直 役員

ピーター・パン

 おはようございます。「ピーター・パン」という作品があります。デイズニー映画にもなりました。ネバーランドを舞台に繰り広げられる冒険物語です。私たちがディズニーのアニメで知っている、海賊のフック船長、人魚、人食いワニが登場し、永遠に年を取らない少年と、やがて大人になってしまう少女の物語の原作は、『ピーター・パンとウェンディ』という作品です。この『ピーター・パンとウェンディ』という作品の原作者は、イギリスの著名な劇作家のサー・ジェームス・マシュー・バリーという人です。名前に「サー」が付いていることからわかりますように、ジョージ5世から爵位をもらっている准男爵で、エディンバラ大学の学長まで務めた名士なのです

 私たちが知っている『ピーター・パンとウェンディ』という作品よりも前に、著者ジェームス・バリーが書いた作品に初めてピーター・パンが登場したのは、彼が1902年に発表した大人向けの長編小説『小さな白い鳥』です。ただし、ピーター・パンは主役としてではなく、登場人物の一人として描かれています。作品の舞台はバリーが住んでいたケンジントン公園でした。『小さな白い鳥』に登場するピーター・パンは、人ではないけれど妖精でもないのです。人間は生まれる直前まで小鳥の姿をしています。ロンドンにあるケンジントン公園の近くの家に生まれた赤ん坊、ピーター・パンは、生後1週間の時に自分がまだ小鳥だと勘違いして窓から飛び立ち、公園の中にある小鳥たちの住む島へ戻ってしまいます。でも彼の姿はすでに小鳥ではなく、小鳥たちの仲間には入れませんでした。一度飛び立ってしまったからには普通の人間でもなく、中途半端な存在になってしまったピーターは、どこにも行けずに公園の妖精たちとの暮らしを続けるのです。さて、本日の聖書の箇所で、主イエスは、「今の時代の人たち」と呼ぶユダヤの宗教的指導者層を、「広場」に群がり集まってゲームをする、子どもたちの2つのグループの掛け合いに例えています。本日はなぜ『ピーター・パン』が生まれたかということも見ながら、主イエスが私たちに語りかけているメッセージを一緒に学んで行きたいと思います。

来るべき方は、あなたでしょうか。

 さて、前々回よりお話しているルカによる福音書7章18〜35節は、洗礼者ヨハネと主イエスについて語られている箇所ですが、この部分は大きく三つに分けられます。第1の部分は前々回お話しした18〜23節です。洗礼者ヨハネが2人の弟子を主イエスのところに遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたのです。このヨハネの問いは、同時に私たち自身の問いでもあるのです。私たちは、洗礼者ヨハネと同じように、主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問いながら、「あなたは私たちに何をしてくださるのですか」と主イエスに問うからです。確かに主イエスはこの世に来られ、十字架の死と復活によって救いを実現してくださいました。しかし、現在を生きる私たちは苦しみや悲しみの多い日々を歩む中で、一体なぜ、この苦しみは取り除かれないのだろうか、この悲しみは癒されないのだろうかと思わずにはいられません。私たちの救い主が、「来るべき方」が来てくださったはずなのに、なぜ自分は、なぜ自分だけがこんなにつらい思いをしなくてはならないのだろうかと自問自答するのです。特に、「今の時代」、先の見えない不条理な現実がもたらす苦しみや悲しみが私たちを不安にしています。新型コロナ感染症の感染拡大やウクライナで起きている大きな戦争のために、将来に不安を覚え、日々の暮らしの中で苦しみを抱えています。突然、ご家族を亡くす悲しみがあります。歳を重ねる苦しみがあり、生涯、病を抱えていかなくてはならない悲しみ、突然、病を抱える苦しみがあります。そのような苦しみや悲しみを抱えて歩む中で、私たちは主イエスに「この私にとって、来るべき方はあなたですか」と問わずにはいられないのです。しかし、主イエスは私たちに「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われます。主イエスの癒しのみ業が行われ、福音が告げ知らされていることこそに、私たちが自分自身の救いを見ることへと招かれます。苦しみや悲しみに圧倒されて主イエスに躓き、神様に背を向けるのではなく、主イエスの到来によって、この地上においてすでに神の国が始まっていることを信じるように招かれているのです。

ヨハネより偉大な者

 第2の部分は24〜28節です。洗礼者ヨハネの弟子たちが去ると、主イエスは群衆に向かって話し始められました。群衆は、主イエスの言葉に耳を傾けたのです。主イエスは「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われました。「神の国で最も小さな者でも、ヨハネよりは偉大である」とは、能力の優劣や、生き方の立派さが比べられているのではなく、神の救いの歴史における位置が比べられていました。ルカによる福音書16章16節に「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ」とあります。ここで語られているのは、神様の救いの歴史におけるヨハネまでの律法と預言者の時代と、神の国の福音が告げ知らされているキリスト到来以後の時代との区別でした。洗礼者ヨハネとは、律法と預言者の時代の終りに立つ者であり、キリスト到来以前の時代とそれ以後の時代の架け橋であり、キリストを指し示し、キリスト到来以後の時代を指し示す者です。キリスト到来以後の時代とは、言い換えるならば、この地上において主イエスの到来によって、神の国がすでに始まっている時代です。キリスト到来以後の「今の時代」に入れられた者は、神の国がすでに始まっている地上に生かされている者にほかなりません。地上における神の国で最も小さな者でも、主イエスによって義とされているがゆえに、キリスト到来以後の「今の時代」に入れられている者は、神様の憐れみによって、ヨハネより偉大な者とされているのです。キリスト到来以前の「かつての時代」とそれ以後の「今の時代」の間に立っているヨハネより、神様は私たちを偉大な者とされているのです。

今の時代

 そして、第3の部分が本日の箇所である29〜35節です。第3の部分を読むときに、私たちは、主イエスの言葉の中の「今の時代」というのは、私たちが生きているこの時代でもあると思います。それはなぜかと言いますと、第1、第2の部分を振り返る中でも触れましたように、洗礼者ヨハネの登場が、律法と預言者の時代と、神の国の福音が告げ知らされているキリスト到来以後の時代の分水嶺を示していることから、キリスト到来以後の時代に生きる私たちは、7章18〜35節全体を、「今の時代」という立ち位置で、読んで行くことが求められていると思うのです。

 29節には「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた」とあります。前回、お話しましたように、民衆は荒れ野に洗礼者ヨハネを見に行きました。ヨハネの教えを聞き、ヨハネの洗礼、悔い改めの洗礼を受けるためです。第二の部分で主イエスが彼らに「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」と問われたのは、彼らがヨハネを見に荒れ野へ行ったことを忘れてしまったからではありません。彼らが荒れ野へ見に行った洗礼者ヨハネとは何者なのか、ヨハネの洗礼を受けるとは何を意味するのかを問うためでした。民衆はこれらのことをなにもかも分かっていたわけではないと思います。むしろほとんど分からずに荒れ野へ行ったのではないでしょうか。だからこそ第二の部分で主イエスはヨハネとは何者なのかを彼らに語ったのです。しかし彼らは分からないながらも「一歩踏み出し」ました。一歩踏み出して、普段の生活からかけ離れた荒れ野へ、ヨハネの教えを聞くために、その洗礼を受けるために出かけて行ったのです。

神様の正しさを認める

 ヨハネの洗礼を受けるとは何を意味しているのでしょうか。洗礼者ヨハネとは、主イエス・キリストを指し示す者であり、キリスト到来以後の時代を指し示す者でした。そのヨハネの洗礼を受けるとは、なによりもキリストの到来に備え、キリスト到来以後の時代に備えることを意味します。ヨハネの洗礼を受けた民衆と徴税人たちはその備えをしたのです。そして、ヨハネが指し示した主イエスは確かにこの世に来てくださいました。「来るべき方」は主イエス・キリストにほかならなかったのです。主イエスは群衆に、彼らが、ヨハネが指し示したキリスト到来以後の時代に入れられ、地上においてすでに始まっている神の国に生きる者とされていると告げました。その主イエスの言葉を聞いて、ヨハネの洗礼を受けキリストの到来に備えていた彼らはそれを受け入れたのです。彼らはヨハネまでの「かつての時代」ではなくキリスト到来以後の「今の時代」に自分たちが生きていることを受けとめました。民衆や徴税人が「神の正しさを認めた」とは、このことを言っているのです。

神様の御心を拒む

 そのような民衆や徴税人とは正反対の人たちのことが31節でこのように語られています。「しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」。民衆や徴税人はヨハネから洗礼を受け、主イエスの言葉を聞き「神の正しさを認め」ました。しかしファリサイ派の人々や律法の専門家たちはヨハネから洗礼を受けず、主イエスの言葉を聞いても「自分に対する神の御心を拒んだ」のです。この「御心」と訳されている言葉は特別な言葉で、ほとんどがルカ福音書とその続編である使徒言行録で使われていて、「神の計画」を意味します。その「神の計画」とはどんな計画でしょうか。この言葉が使われている使徒言行録2章23〜24節にこのようにあります。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」。「お定めになった計画」の「計画」がこの言葉です。ですからファリサイ派の人々や律法の専門家たちが拒んだ神の御心とは、キリストの十字架と復活によって実現する神の救いの計画にほかなりません。その神の救いの計画はファリサイ派の人々や律法の専門家たちに関わりのないものではありません。「自分に対する神の御心を拒んだ」とあるように彼ら自身に対する救いの計画なのです。彼らは自分自身に対する神の救いの計画を拒んだのです。

 主イエスがこの世に来てくださったことにおいて、キリスト以後の「今の時代」は始まり、この地上において神の国はすでに始まっています。その意味で、群衆も徴税人もファリサイ派の人々も律法の専門家たちも、キリスト以後の「今の時代」に入れられ、地上においてすでに始まっている神の国に生きる者とされています。しかしそれを受け入れる者と受け入れない者とがいるのです。自分に対する神の救いの計画を受けとめる者と拒む者とがいるのです。ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、主イエスの言葉を受け入れないことによって神の救いの計画を拒みました。彼らは、自分たちがキリスト到来以後の時代に入れられていることを拒み、この地上においてすでに始まっている神の国に生きる者とされていることを拒んだのです。キリスト以後の「今の時代」に自分たちが生きていることを拒み、ヨハネまでの「かつての時代」になお生きようとしたのです。

 31〜35節は主イエスのお言葉ですが、その冒頭で主イエスは「では、今の時代の人たちは何にたとえたらよいか」と言われます。ここで主イエスが言われる「今の時代の人たち」とは誰のことなのでしょうか。この後を読み進めていくと、主イエスが語りかけているのは、「神の御心を拒んだ」ファリサイ派の人々や律法の専門家たちだけであることが分かります。ですから主イエスが言われる「今の時代の人たち」とは、キリスト以後の「今の時代」に入れられているにもかかわらず、そのことを受け入れず、「かつての時代」になお生きようとしている人たちのことです。つまり「今の時代」に生きながら「かつての時代」に生きようとしている人たちのことなのです。

笛を吹いたのに、踊ってくれなかった、葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった

 そのような人たちは、「広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」と主イエスはたとえを用いて言われます。

 このたとえの元になっているのは、子どもたちが二つのグループに分かれ、片方のグループの子どもが呼びかけると、もう一方のグループの子どもがその呼びかけに応えるゲームです。これは、一方が笛を吹いて呼びかけたら、もう一方は踊る。一方が葬式の歌をうたって呼びかけたら、もう一方は泣く。そうやって一方のアクションに、もう一方が正しいアクションで応えるゲームであったのです。

 主イエスがこのたとえで語っているのは、何なのでしょうか。

 33〜34節で、主イエスは次のように語っています。「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」。

 洗礼者ヨハネは、33節に語られていますように、「パンも食べずぶどう酒も飲まずにいる」人でした。人々の罪を指摘し、悔い改めを求めるヨハネは、楽しみや喜びとは無縁な、禁欲的な生活をしていたのです。そういうヨハネをファリサイ派や律法学者たちは、『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった』、すなわち、笛を吹いたのだから、もっと踊れよ、すなわち、もっと人生を楽しめよと言っているというのです。自分の願い通り、期待通りでないから、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、荒れ野に行って神の言葉を聞こうともしないし悔い改めの洗礼を受けようともしないのです。

 一方、主イエスは、弟子たちや人々と飲み食いする宴会の席に着くことを厭いませんでした。この後の36節以下にも、あるファリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着いておられる主イエスの様子が語られています。主イエスは、断食もなさいましたが、また人々と陽気に明るく宴会を楽しむこともなさったのです。しかし、そういう主イエスのお姿に対して、『葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった』、すなわち、主イエスが徴税人たちや罪人たちと飲み食いをするという自由な振る舞いについては、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と、自分の願い通り、期待通りでないから、主イエスを避難するのです。洗礼者ヨハネが来た。主イエスも来た。それにもかかわらず、「今の時代」の人でありながら、「かつての時代」に生きている人たちは自分の願い通りでない期待通りでないと、批判ばかりして、自分たちがキリスト到来以後の「今の時代」に入れられていることを受け入れず、この地上においてすでに始まっている神の国に生きる者とされていることも受けとめず、神様の救いの計画を拒むのです。このような、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちのような当時のユダヤの宗教的指導者たちのありようは、人々にどのような影響をもたらすものなのでしょうか。

『ピーター・パン』の作者、ジェームス・バリー

 最初にお話ししました『ピーター・パン』の作者ジェームス・バリーが最初にピーター・パンを登場させた『小さな白い鳥』の中で、ケンジントン公園の妖精たちと暮らし続けるピーター・パンは、ある日、家に帰りたくなり、妖精たちの力を借りて自分の家の窓まで飛んでいきました。そこで見たものは、赤ちゃんを失って悲しみに沈むお母さんの姿でした。でも、ピーターは家に帰る決心がつかず、また公園へ戻ってしまいます。それからしばらくして、今度こそ家に帰ろうと思ったピーターは再び家の窓まで飛んで来ます。ところが窓は閉まっていました。家の中に見えたのは、新しく生まれた赤ちゃんを抱いた幸せそうなお母さんの姿だったのです。

 どうして、ジェームス・バリーこのような物語を作ったのでしょうか。ジェームス・バリーは、1860年、スコットランドのアンガスのキリミュアで、10人兄弟の9人目の子どもとして生まれます。ジェームス・バリーが6歳のときに、お母さんのお気に入りであったお兄さんのデイヴィッドが14歳の誕生日の前日に、アイススケートでの事故で亡くなってしまうのです。お兄さんの死を嘆いたお母さんはその日から寝たきりとなり、弟のジェームズのことは一切面倒を見なくなったのです。ジェームス・バリーは、お兄さんを亡くしてしまうだけではなく、お母さんの愛も失くしてしまうのです。ジェームス・バリーはお母さんに気に入られようとして、お兄さんのデイヴィッドの服を着たり、デイヴィッドの口笛を真似たりしていました。ピーター・パン得意のポーズは彼のお兄さんがよくしていた仕草であったそうです。ある日、ジェームス・バリーがお母さんの部屋に入ると、お母さんは「あなたなの?」と言いました。ジェームス・バリーはお母さんの回顧録『Margaret Ogilvy』(1896年)で、次のように書いています。「私は母が亡くなった少年に話し掛けたのだと感じた」。そして、小さな寂しい声で「違うよ、彼じゃない。僕だよ」と応えた、そのように書いています。お母さんは亡くなった少年であったお兄さんは永遠に少年のままで、成長せずに、いつまでも自分のそばにいると考えることで自分を癒したそうです。ジェームス・バリーは、心に大きな痛手を負いましたが、お母さんを慰めたいと考える彼は、その時から身長が伸びなくなってしまうのです。永遠に年を取らない、大人になれなかった少年ピーター・パンとは、まさにジェームス・バリー自身のことであったのです。

「かつての時代」と「今の時代」

 主イエスがファリサイ派の人々や律法の専門家たちを非難したのは、彼らが口伝律法と呼ばれる沢山の規定を設けて、沢山の規定を守れる人と少しの規定しか守れない人と、人々を選り分けていたのです。彼らは、主イエスが来られた「今の時代の人びと」であるのにもかかわらず、主イエスを認めず、キリストの到来がまるでなかったかのように「かつての時代」に生きようとしているのです。それは、ジェームス・バリーのお母さんが、目の前のジェームズ・バリーを認めず、死んだお兄さんを見続けたのと同じなのではないでしょうか。ジェームズ・バリーはなんとかお母さんの愛を得ようとして、お兄さんに似せて見せました。しかし、お母さんの愛を、得ることはできなかったのです。同じように、沢山の口伝律法の規定を振りかざすファリサイ派の人々や律法の専門家たちに、汚れた者、罪深い者とされた人びとは、洗礼者ヨハネを経て、主イエスに従ったのです。そして、聖書はヨハネのバプテスマを経て、主イエスに従う「取税人、罪人」こそ、神様の「知恵」の子たちだと伝えているのです。ジェームス・バリ―はお母さんの愛を得ることはできませんでした。しかし、それでもジェームス・バリ―はお母さんと幼い頃の思い出話を語ったり、『ロビンソン・クルーソー』や、スコットランド人作家ウォルター・スコットの作品、『天路歴程』などを読むことを楽しんだそうです。そこには、ジェームス・バリ―の真実があったと思います。きっとそのことで、お母さんは慰めを得たのだろうと思います。しかし、どんなにジェームス・バリ―が頑張っても、お母さんはジェームス・バリ―を完全な愛で愛することはできなかったのです。人間にはそんなことはできないのです。しかし、主イエスはどうでしょうか。完全な神様でありながら、人間を愛するあまり、全ての人の救いのために、完全な人間となって下さったのです。主イエスだけが、私たちを無条件の愛、一方的な愛、廃れることのない愛、たとい私たちが罪人になり果てたとしても、その罪を背負って身代わりに死んでくださるほどの愛で私たちを愛し、受け入れてくださる方なのです。 現代のキリスト教会も、主イエスの時代の「徴税人や罪人たち」と同様に、冷笑と無視の対象となるかも知れません。しかし、「徴税人や罪人たち」も主イエス・キリスト到来以後の「今の時代」に入れられ、この地上において始まっている神の国に生きる者とされていたのです。それでは、「今の時代」に生きるのと、「今の時代」に生きていながら「かつての時代」に生きようとするのと、その分かれ目はどこにあるのでしょうか。その分かれ目は、「一歩踏み出す」ことにあるのです。35節に「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」とあります。「知恵」とは「神様の知恵」のことであり、30節の「神の御心」とほぼ同じ意味で使われています。神様の知恵の正しさ、神様の御心の正しさは、「一歩踏み出し」、その御心を拒むのではなく受け入れる人たちによって証明されるのです。神様のみ言葉によって告げられている、私たちに対する神様の御心を、受け入れるのか拒むのか、ということが、私たちに問われているのです。私たちに対する神様の御心は、主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活において示され、与えられています。神様の独り子主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪を赦し、復活によって新しい命、永遠の命の先駆けとなって下さった、この神様の恵みのみ心を受け入れて、新しい時代を生きる者となり、神様の国の最も小さな者の一人に加えて頂くことを祈り求めて行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。