小倉日明教会

『先を進み、しんがりを守られる神』

イザヤ書 52章 1〜12節

2023年12月10日 待降節第2主日礼拝

イザヤ書 52章 1〜12節

『先を進み、しんがりを守られる神』

【説教】 沖村 裕史 牧師

■創立の時代

 教会では、クリスマスから新しい年を迎え、祝います。そこで役員会では、一九三〇年一月一日を創立記念日とするわたしたちの教会の創立記念礼拝を、一二月のいずれかの主日に守ることにしました。今日は、その創立九四周年を記念する礼拝の日です。教会設立の経緯がホームページの「教会の歴史」に、次のように掲載されています。

 「小倉日明教会は、一九三〇年に北九州小倉の地で日本組合教会小倉日明教会として伝道を開始し、一九四一年の教会合同によりに設立されました。

 小倉日明教会は、一九二八年から、数名の有志により、福岡より当時の日本組合教会福岡教会(現、日本基督教団福岡警固教会)の中村正路牧師の応援を得て、小集会を営んでおりましたが、一九三〇年一月一日日本組合教会小倉伝道所を小倉市鋳物師町に開始し、小山寅之助牧師を迎えました。一九三二年十二月現在の会堂建築完成し、ここに移転しました」

 続く「教会総会資料 二〇一三年度教師総括より」には、こう記されています。

 「当教会は、翌年から一五年におよぶ戦争の時代が来る直前に創立しています。信仰の先達を思い、今、ふたたびきびしい時代の到来を予感しつつ、『神こそ主である』を宣教の土台にして共に歩んで行きたいと願っています」

 教会設立の前後から、戦争の足音がはっきりと聞こえるようになっていました。設立前年の一九二九年には世界恐慌が日本にも波及。設立の一九三〇年三月にはロンドン軍縮会議が開催され、同年一一月には濱口雄幸首相が狙撃。翌一九三一年九月に満州事変が勃発し、一九三二年三月に満州国建国が宣言、五月には犬養毅首相が射殺され、政党内閣制が終わります。一九三三年三月に国際連盟を脱退、いよいよ国を挙げての戦争へと時代は進み始めましていました。

 そんな時代の中にあって、わたしたちの教会が設立され歩み始めたことを、神のみ心として心より感謝しつつも、今日、わたしたちの国が戦争のできる国になろうとしていることを踏まえ、より一層、深い反省の上に振り返らなければならないでしょう。

■喜びの知らせ

 「国破れて山河あり」とは中国・唐の時代の詩人杜甫が詠んだ歌ですが、国と国との戦いは、ことに戦いに敗れた国の民の心と生活は言葉にできぬほど悲惨なものです。生きる拠り所であった信ずる神を否定され、処かまわぬ破壊によって日ごとの糧を得る術も奪われ、征服者の圧倒的な力の前に身をかがめる他ありません。日本によって侵略されたアジア諸国の人々が忘れがたいほどの苦難としてそれを味わい、そして戦争に敗れた日本人の誰もが直接体験をしたことです。戦争とは酷いものです。

 しかしイスラエルの民には「国破れて山河」さえありませんでした。紀元前六世紀の初め、圧倒的な軍事力を誇る新バビロニア帝国による攻撃によって、イスラエルの国は滅び去ります。ただ滅び去ったのではなく、エルサレムに住んでいたイスラエルの人々のほとんどが囚われの身となり、新バビロニア帝国の主都バビロンへと連れ去られたのでした。はるか遠くへ連れ去られ、故郷と呼べる土地も風景も、信仰の拠り所であった神殿さえをも失ってしまった生活の辛さと悲惨さ、何よりも空しさ。それがバビロン捕囚と呼ばれる出来事でした。

 イザヤと呼ばれる複数の預言者たちは、その捕囚の危機を警告し、そして直接経験し、さらには五〇年―半世紀にも及ぶ異郷バビロンでの捕囚生活の只中を生きて、神の言葉を語り続けた人たちでした。

 半世紀にも及ぶ長い捕囚生活は、イスラエルの人々に自分たちの伝統的な信仰や生き方に対する疑念を抱かせるに十分でした。 しかし、預言者イザヤはそんな人々に神のみ声を告げます。四九章一五節、

 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。/母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。/たとえ、女たちが忘れようとも、/わたしがあなたを忘れることは決してない」

 忘れることは決してない…イザヤは過酷な現実の只中にあってなお、苦難に満ちた捕囚に必ず終わりが訪れるという確信を与えられていました。だからこそ、捕囚の民が大きな喜びで満たされる様子を歌うことができました。それがさきほどの七節から一二節の歌です。

 そこには、エルサレム神殿から持ち去られた祭具を携え、補囚の地バビロンを後にする、イスラエルの民の姿が描かれています。バビロンからの脱出は、あの出エジプトのときと同じように、海さえも分けてイスラエルの民を守られ導いてくださった神様によって成し遂げられる、と歌います。さらには、出エジプトのときとは違って、急いで出る必要も、逃げ去る必要もない、と語りかけます。なぜなら、人々の先頭としんがりに神様が立ち、故郷目指して帰り行く人々の行列を包み込むように神様が守ってくださるからです。

 この歌は捕囚の地で歌われたものです。言葉にならない苦難の中にありながらも、イザヤは、池に投げ込まれた小石の波紋が隅々にまで拡がるように、エルサレムが、さらには地の果てまでもが喜びで満たされる、そんな出来事が今、起ころうとしていると歌うことによって、神様による救いと解放を信じて、今ここを生きるべきだ、と教えているのです。

■先を進む

 思えば、この世はわたしたちの手で簡単にどうにかできるようなものではありません。それほど強大です。巨大な壁のように立ち塞がるこの世の中に置かれたわたしたちは、今ここを生きる他に、このいのちを生きる術を持ち合わせません。神様はわたしたちに豊かな恵みを注いでくださっていますが、しかしそれは、自分の思うような人生が送れるようになるといった、単なる人生の方便ではないようです。

 わたしたちの人生にはいろいろなことがあり、まさかと思うようなことが起こってきます。誰に話してもどうにもならない、そんなことがあるものです。そういう時、わたしたちは自分ひとりがその荷を負っているかのように思ったり、自分の負っている荷が世界で一番大きい深刻なものであるようにさえ思ったりします。

 しかし、イザヤは今、そんなわたしたちに「あなたたちの先を進むのは主で」あると告げます。あなたが歩むところ、それがどんな重荷を担う道であろうとも、たとえ深い谷間であろうとも、一寸先は闇とも言える場所であっても、あなたよりも先に、あなたの歩みに歩みを合わせ、あなたの前に道を歩んでくださっているお方がおられる。「わたしの今通っているこの苦しみ、この茨の道は、誰にも分かるまい」と思っても、「あなたたちの先を進むのは主」なのだ。神様は、あなたの茨の道も、苦悩の道も、その先を進み行かれる、百も承知、二百も承知のお方なのだ、とイザヤは教えます。

 神様は「あなたたちの先を進む」と約束をしてくださっているのです。あなたが涙の谷であろうが火のような試練であろうが、そこをあなたよりも先に歩いて、失敗であろうが成功であろうが、そのことを良く知っていてくださるお方なのです。ただ知ってくださるだけではありません。「お前、辛いだろうな。わたしも先に歩んだぞ。だから頑張れよ」とそんなことを言われているのではありません。エジプトを脱出したイスラエルの民が海を前にした時にも、神様はすでに彼らの先に進む者として道を開いておられました。「川があったら、わたしが先に泳いでいくから、みんなも泳いできなさい」などとは言われません。泳いで渡ることもできないその時に、海の水を乾かして、道を作って歩ませてくださいました。「あなたたちの先を進むのは主」であるということは、そういうことなのです。

■しんがりを守る

 とはいえ、先に行っていただいたらすべてうまく行くかというと、それでもうまく行かないのがわたしたちの現実です。ゴミを落としたり、道を荒らしたり…。しかし神様はただ先に行くというだけではありません。「後からもついて行ってやる」と言われます。「しんがりを守るのもイスラエルの神だから」と言われます。

 「しんがり」というのは軍隊用語です。部隊が行軍する時、一番後を固めている人々のことを「しんがり」と言います。最も敵からの攻撃を受けやすい場所です。体力のない弱い者、幼い者、傷ついた者、そうした人たちが、自然と一番後ろを歩くことになります。そうした人々を守りながら行軍することになるしんがりを守ることを、戦国武将は嫌がりました。

 織田信長が越前の敦賀を攻めた時のこと。前方の朝倉軍と戦おうとしていた矢先、浅井長政の軍が琵琶湖のほうから信長の退路を断って、後ろから攻めてきているという情報が入りました。人間は前の敵と戦えても、後ろの敵とは戦えません。後ろに敵が立つ、それは敗北を意味しました。「総員退却」と、すぐ方針が決まりました。しかし十万人もの大軍を、すぐには移動できません。昔から兵法でも「前進は易く、後退は難しい」と言われます。まかり間違えば、全軍が滅ぼされる恐れがあります。誰でも一番に逃げだしたい。しかし誰かが最後にならなければならない。その時、木下藤吉郎が「しんがりの役、それがしにお申しつけください」と申し出ました。日頃、藤吉郎のことを詭弁家だとか成り上がり者だとか陰口をたたいていた同僚たちも、彼を見直し、心からの感謝を述べつつ逃げのびていったと言います。

 背後を守る。それは最も危険なことであり、困難なことです。ですから登山の時にも、いちばん後ろを歩く人は、先頭を歩く人と同じくらい熟練の人を当てます。

 イザヤは、神様がイザという時にいちばん後ろに回り、そのしんがりをつとめてくださる、と人々に告げます。エジプトを出てゆくイスラエルの民を、エジプト軍が砂煙をあげながら追いかけてきました。足の遅いお年寄りや子どもたちは、どんなにか恐ろしかったことでしょう。その時も神様は、イスラエルの民のいちばん後ろに回って、彼らを守られました。

■十字架という翼の下に

 この「しんがり」という言葉には、ヘブライ語でもギリシア語でも「集める」という意味があります。特にギリシア語では「散っていたものを集める」という意味があります。先に行ってくださっても、羊は愚かですから行きたい所に行ってしまいますから、後からちゃんと道を外れないように集めながら整えてくださるお方というのが、この意味です。

 神様が先に行ってくださっても、弱いわたしたちです。そんなわたしたちのために後ろからしっかりと支え導いてくださるために、神様がわたしたちのもとに遣わしてくださったのが、イエス・キリスト、わたしたちを贖ってくださる救い主でした。

 わたしたちは、表の顔はつくろえますが、背中はつくろえません。疲れや寂しさや悲しみは、背中に表れます。イエスさまは、表向きのわたしたちと接してくださるのではなく、裏の部分を見つめ、愛し、守っていてくださるのです。頑張らないとだめと言われ、自分でもそう言いきかせながら頑張って生きているわたしたちを、頑張れている面から見ていてくれる友とは別に、頑張れなくなっているわたしたちの背中を見つめて、愛し、赦し、支えていてくださるのが、イエスさまなのです。

 ルカによる福音書一三章三四節に、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」とあります。「集める」「しんがり」という言葉がここにも用いられています。イエスさまは地上においでになった時、エルサレムの人々が神の怒りにふれないよう、悔い改めて帰ってくるようにと教えられました。ところが彼らはその言葉を聞き入れませんでした。イエスさまの働きはめん鳥がその翼の下に雛を集めるようなものでした。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と言われます。

 イエスさまが十字架に架かられたということは、このことでした。神様の怒りがわたしたちに及ぼうとしたとき、十字架に架かって、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」イエスさまの愛の翼をこの世界全体に広げ、その翼の下に隠れてくる者を救おうとされた翼、それが十字架でした。神様の怒りは、人間の罪に対して容赦なく天からイエスさまの上にくだりましたが、広げられた十字架の翼の下に自らを憩わせる者には、十字架を貫いてまでは神様の怒りも及ばないということを、わたしたちは知っています。

 十字架の上に「わが神、わが神、なんぞわれを見棄てたまいし」と呪われ、血だらけになって、わたしたちの罪のためにいのちを捨ててくださった、そこに罪に対する神様の怒りは全部注がれたのです。あの十字架の翼のもとに、「主よ、わたしの罪の身代わりが、この十字架であったと信じます。わたしの罪を代わって負ってくださったことを、イエスさま、ありがとうございます」と、み前に跪く者を救おうとして、わたしたちのために死んでよみがえってくださったのです。それがここで言う、「しんがり」の神です。

 神様は、ひとり子であるイエス・キリストさえも、わたしたちのために惜しまないでお与えになりました。最高のものを惜しみなく手放してくださった神様が、ましてその他のことは、どんなことでもしてくださることでしょう。 わたしたちもまた、そのように神様から愛され、かけがえのないものとされ、期待されている自分であることを確信しながら、「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ/汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ/主の祭具を担う者よ」という言葉に堅く立って、アドヴェントの日々、イエスさまに従い、イエスさまのみ国を待ち望んで歩んでまいりたいと願う次第です。