■クリスマスケーキ
おはようございます。第2次世界大戦の時、ドイツにフランク家というユダヤ人の一家がいました。300年以上も、ドイツで生活して来た人たちだったのです。ところが、ナチスによるユダヤ人狩りが始まったのです。ここにいては、全滅するということを悟ったお父さんは、一大決心でオランダに移住します。ところがそのオランダにも、ナチスの魔の手が伸びてきました。そしてとうとう彼らは、オランダのとある隠れ家に引っ越しをしたのです。
この一家のひとりがアンネ・フランクです。彼女は日記の中に隠れ家の生活を克明に記録しています。狭い空間に8人で生活するのですね。外へは一切出られません。ほんの少しでも音を立てて誰かに見つかれば、一巻の終わりです。
カーテンは閉めたままで、水を流す音が響かないよう、トイレが使用できるのは早朝と夕方以降のみです。部屋の空気の入れ替えも深夜になってからです。咳ひとつ自由にできない生活の中で、「一度でいいから心から大声で笑いたい」、「ひとりになりたい」、「新鮮な空気を深呼吸したい」、「太陽の下で走り回りたい」ということを思うのです。
しかし、そのようなことはすべてかなわぬ夢なのです。このような状況が、家族のひとりひとりにストレスを生み、家族の間の関係が少しずつギスギスし始めて行くのです。
さて、ところが1943年の12月、フランクの一家をかくまっていたオランダ人女性から、サプライズで、クリスマスケーキが差し入れられたのでした。ケーキの上には「1944年を平和の年に」と書かれていました。この優しい隣人のプレゼントは、この一家に喜びを吹き入れたのです。特にアンネの心の中に、感謝の気持ちが沸き上がりました。このことをきっかけにアンネは、自分がお母さんに悪態をついたこと、日記の中にひどい悪口を書いたことなどを反省するようになります。そして辛いことばかり考えていても仕方がない、これからは楽しいことを、感謝すべきことを見つける達人になろうと決心し、やがてこの出来事を境に、日記の中に彼女が見つけ出したささやかな喜びの記録が書き込まれていくことになるのです。そしてそれが、家族を愛していく力になっていくのです。
誰かを愛するようになるためには、まず誰かから愛される必要があるようです。戦時下のクリスマスケーキは、彼女の心に愛を届けるメッセージとなりました。今、世界のどこにもナチス・ヒットラーはいません。しかし、私たちの人生の中には、私たちを踏みつけたり、脅かしたりする者や、苦しめる事件はやはり現在もあるのです。神様はそんな私たちを力づけるためにクリスマスケーキではなく、クリスマスの主人公である主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったのです。
本日の聖書の箇所では、主イエスは『神の国』について、『狭い戸口から入るように努めなさい』と、語られました。本日の聖書の箇所とよく似たみ言葉に、マタイによる福音書7章13節には、「狭い門から入りなさい」があります。今日の「狭い戸口から入るように努めなさい」は、ほとんど同じ言葉で、違う点と言えば「努め(闘い)なさい」という言葉があることです。門や戸口の「狭さ」とか、その狭さから入るように「努める」とは、どういうことなのかということも考えながら、今日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■救われる者は少ないのか
本日の聖書の箇所の22節には、『イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。』と書かれています。主イエスはエルサレムに向けて旅を続けておられることが分かります。そして、このような形で、地理的な情報が出てきていることから、福音記者ルカは、話題は次に移りましたよということを伝えようとしていることが分かります。ルカはこの福音書の続編である使徒言行録でも、この手法を多用しています。つまり、話を次に進めたい時には、地理的情報が出てくるのです。この地理的な情報から、私たちは何が分かるのかと言いますと、もう一度、私たちは主イエスの旅のゴールがエルサレムであることを思い出すのです。主イエスはエルサレムに向けて旅をしておられる、ということはどういうことかと言いますと、主イエスは十字架に向かって進んでおられるということなのです。このことが、本日の聖書の箇所の底流にながれているのです。主イエスは十字架に向かって進んでおられますが、しかし、時間を遅らせることもなく、また、急ぎ過ぎることもなく、十分な時間を取りながら、弟子たちを訓練しておられるのです。この時間の流れが、この22節の中で描かれているのです。今日の聖書の箇所の狭い戸口であるとか、あるいは、家の主人の教えは、マタイによる福音書にも出てくるのです。しかし、よく比較してみると、これらの話が出てくる文脈が異なっているのです。それはどういうことかと言いますと、主イエスは何度も同じ話をされたのだということを示していることが分かります。
さて、地理的情報が提示された後、23a節には、『すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。』と書かれています。これは、突然出てきた質問のように思われますが、文脈を意識しますと理解できると思います。前回、お話したのは神の国に関するたとえ話でした。内容はからし種のたとえとパン種のたとえでした。秘儀としての神の国、つまり、主イエスの初臨と再臨の間に存在するキリスト教会は大きく広がりますが、その中には、悪の影響や誤った教えが入り込んでくるということをお話しました。主イエスの死と復活、そして、昇天の後に、聖霊降臨の出来事以降にキリスト教会が誕生し、秘儀としての神の国は広がりますが、そこには悪霊たちの影響や誤った教えの悪影響が入り込んでくるということをお話しました。その主イエスの話を人びとは聞いているのです。神の国は、もっと理想的なものだと考えていたのに、そうでもなさそうだ、というより、真逆のことが教えられたのです。つまり、神の国に関する主イエスのたとえ話は、人々が期待していたようなものではなかったのです。
そして、神の国がそういうものになるのであれば、今日の聖書の箇所の質問、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問が出てくるということがよく分かるのです。そして、『救われる』という言葉ですが、ユダヤ人にとっては、救われるということは、神の国に入るということと同じなのです。神の国に入る、メシア的王国に入れる人は少ないのですか、という質問なのです。この質問を誰がしているのかということですが、この人がどんな人であったかは何も書かれていません。弟子の1人なのか、あるいは、群衆の一人なのかということを、ルカは書いていないのです。つまり、誰が質問したかということよりは、質問の内容の方が重要なので、その質問の内容だけをルカは取り上げているのです。そして、主イエスはこの質問のような何気ない機会、あるいは、こういう質問を弟子の訓練のための良い機会と考えて、重要な真理を教えられるのです。主イエスは突然、教えを語るのではなく、日常の中で生まれてきた状況を取り上げて、質問した人が考えている以上の真理を、周りにいる人にも役立つ真理を語るのです。
■狭い戸口
ここから、主イエスの教えが始まるのです。この人の質問に対する主イエスの答えなのですが、質問をした人が考える以上の答えになっているのです。本日の聖書の箇所の23b〜24節を見ますと、『イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。』とあります。これが、狭い戸口の教えです。この人は『救われる者は少ないのでしょうか』という質問をしたのですが、これは興味本位の質問なのです。この人は、自分の信仰の成長や自分の救いとは、関係のない質問をしているのです。なぜ興味本位の質問だと言えるのかと言いますと、主イエスに訪ねたこの人は、ユダヤ人なのです。この人は、自分が選ばれたイスラエルの民、選ばれた神の民であるという思いを持っていたはずなのです。そうであれば、自分が救われることを心配していたのではなく、自分のほかに救われる者がどれ位いるのかということに、興味があっただけなのだと思うのです。この人は、好奇心から主イエスに、「救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたのです。
これに対して、主イエスはこの人の質問に直接には答えないのです。主イエスの答えは、救われる人が多い、とか、少ないとかの答えではないのです。主イエスはこの質問には直接答えないで、もっと重要な回答をされるのです。それが何かと言いますと、どうすれば神の国に入ることができるかということを教えられたのです。『救われる者は少ないのでしょうか』という質問に対して、主イエスはどうすればあなたも神の国に入れるのかという話をされたのです。
その内容が、狭い戸口の教えなのです。狭い戸口とは何なのかと言いますと、それは主イエスの教えを信じる道なのです。主イエスは、なぜ狭い戸口だと言っているのかといいますと、それは周囲の評判が決して良くない道だからです。この戸口から入ろうと決断するのが難しい戸口なのです。それはなぜかと言いますと、狭い戸口に対する広い戸口が何になるかと言うことですが、広い戸口というのは、当時のユダヤの宗教的指導者たちの教えのことです。より具体的には、律法学者やファリサイ派の人々の教えのことです。広いと言われている理由は、その教えは社会的に広く受け入れられている戸口だからです。広い戸口は、みんなが、それが正しいと信じているから、安心できるよねと考えられている戸口なので、その広い戸口から入ることを決断するのが簡単で容易なのです。主イエスの教えを信じることは難しい、しかし、ファリサイ派の人々の教え、律法学者たちの教えを信じることは易しいのです。
主イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい。」と語られました。つまり、主イエスの教えは直ぐには信じられなくても、よく考えて、信じるべき教えだと言うのです。また、主イエスの教えは、それを信じたら、迫害に遭う可能性があるのだけれども、それでも信じるべきである、というのが「努めなさい」という言葉の意味なのです。「狭い戸口から入るように努めなさい。」と語られているのだから、私たちは何か大学入試のように、沢山の人々が押しかけている中で、他の人をかき分けて、何かを獲得しようとして、努力して、苦闘することをイメージしてしまいがちです。しかし、今日の聖書の箇所は、自力救済を教えているのではないのです。マタイによる福音書7章13〜14節を見ますと、『狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。』と記されています。従って、今日の聖書の箇所の『狭い戸口』とは、『それを見いだす者は少ない。』という意味なのです。
「寄らば大樹の陰」ということわざがありますように、誰でも大きいことや多いことは安心でき、良いことだと考えます。ですから、多くの人たちがそうした戸口から入り、そうした道を歩もうとします。しかし、主イエスの語られるのはそれとは逆の道なのです。ルカによる福音書12章32節には、『小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。』と記されておりました。小さいこと、少ないことを恐れる者に、主イエスは神の国は、将来、必ず実現することを語り、「多くの人たちが見向きもしない道であっても、主イエスに従って、神の国を求め続けることを恐れるな、雄々しくあれ」と励まして下さっているのです。主イエスの教えに従うとはどういうことかと言いますと、主イエス・キリストは私たちの罪のために死なれたこと、死んで墓に葬られ、そして、3日目に蘇り、今も生きておられる、このことを信じるだけで救いが与えられるということなのです。しかし、それは大多数の人々が信じる道ではない、それは評判の良くない道である。ですから、そのような道であっても、主イエスの語る道を信じるように努めなさいと教えて下さっているのです。救いの条件は、信仰のみなのです。
しかし、多くの人々が「狭い戸口」から入ることができなくて、そうではない「広い戸口」から入ろうとしていたのです。しかし、「狭い戸口」から入らなければ、神の国に入れないのです。だから、「広い戸口」から入ろうとする人は、神の国に入ることができない、このことを説明するために、次の家の主人の話が語られるのです。
■家の主人
25節には、『家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。』とあります。前節までの文脈は、25節の家の主人の話に続いていることが分かります。「狭い戸口」と「広い戸口」の対比があって、「狭い戸口」から入らない人たち、つまり、「広い戸口」から入った人たちに、こういう運命が待っているよという話を、主イエスはされるのです。ここでは、神の国が宴会にたとえられています。この宴会というのは、神の国が始まったということを表しています。その時、家の主人は戸を閉めたのです。つまり、宴会が行われている家の中に入れなくなったのです。神の国に入る可能性が閉ざされてしまったのです。この家の主人というのは、主イエスご自身です。そして、宴会が行われている家の中に入れなかった者たちはびっくりしたのです。そして、驚いた彼らは何を始めたのかと言うと、戸の外に立って、戸を叩き始めたのです。この外で戸を叩いている人たちは誰かと言うと、「広い戸口」から入ってしまったイエスラエルの民、ユダヤ人たちのことなのです。
その時に、家の主人は何と答えたのかと言いますと、衝撃的な言葉を家の主人は語るのです。『お前たちがどこの者か知らない』と語ったのです。つまり、主イエスは信仰のないユダヤ人たちに対して、お前たちは知らないと言われるのです。ユダヤ人であれば、アブラハム契約によって、神の国に入れると教えていた人たちにとっては、仰天するような主イエスの言葉なのです。
さらに、26節を見ますと、『そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。』とあります。家の外にいるユダヤ人たちは、家の主人にアピールしているのです。「いや、そんなことはありません。知らないはずがありません。だってご主人様と一緒に親しく食事をして、共に食べたり、飲んだり、したではないですか、ご主人様の教えを広場で聞いていたではないですか」と言うのです。確かにそうです。主イエスは何度も宴会に招かれ、そこで彼らに教えたことがありました。共に食べたり、飲んだり、しました。確かにその通りです。広場で主イエスが教える時には、多くの群衆が主イエスの周りに集まりました。その通りなのです。
しかし、27節を見ますと、『しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。』とあります。さらに厳しい言葉が語られます。家の主人は、外にいる人たちのアピールを一蹴したのです。撥ね退けたのです。その理由が何かと言いますと、外にいる人たちの関係というのは、見せかけの関係であって、本物ではないのです。つまり、口先だけの信仰では、救われないということなのです。彼らは広場で教えてもらったと言っています。彼らは、知っているかもしれません。知識を持っているかもしれません。ここで、大切なことは、真理を知っているだけでは、救われないということなのです。聖書の内容を知っているだけでは、救われないということなのです。主イエスに関する知識があるだけでは救われないのです。心からの信頼を主イエスの上に置いて、主イエスと愛の関係に入っていなければ、救われているとは言えないのです。家の主人は厳しい言葉を語りました。『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うこの言葉以上に厳しい言葉はあるでしょうか?主イエスの言葉を信じない者は、主イエスに知られてはいないのです。さらに、『不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』という言葉が語られるのです。つまり、主イエスを信じる信仰がないならば、その人は不義を行う者だと言うのです。主イエスを信じていないならば、その人は罪を赦されていない罪人なのだと言っているのです。そして、罪人は主イエスに近づくことができない。悔い改めと信仰をもって、近づくことしか、主イエスに近づく方法はないのです。このことが、「狭い戸口」と「家の主人」の話なのです。
■神の国の外で
次に、本日の聖書の箇所の28節には、『あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。』と記されています。ここには、驚くべきことが語られています。主イエスの時代のユダヤ人が、この言葉を聞くと、びっくりしたことと思います。28節で、神の国に入っているのは、アブラハム、イサク、ヤコブで、族長たちと言われています。それから、『すべての預言者たち』とありますように、預言者たち全員が神の国に入っています。どのようにして神の国に入ったのでしょうか?信仰によってです。その時代までに語られていた神様の言葉をそのまま受け入れたのです。そして、彼らはその信仰によって、神の国に入ることができたのです。終末論的に見れば、旧約聖書の時代の預言者たちは、今は死んでいます。しかし、彼らは神の国が設立される前に復活して、復活の身体を持って、神の国に入ってゆくのです。そのことを、ユダヤ人たちは見ることになるのです。そして、ユダヤ人たちは外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりすることになると言うのです。『泣きわめいて歯ぎしりする』という言葉は、地獄を描写する言葉です。苦しんでいる状態を描写する言葉なのです。主イエスは、あなた方は神の国から投げ出されて、地獄の苦しみを味わうようになるのだと語っておられるのです。
さらに、29節には、『そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。』とあります。ここには、驚くべきことに、異邦人の救いが予言されているのです。私たちは皆、ユダヤ人にとっての異邦人です。このことは、ここで初めて出てきたことではなく、旧約聖書からこのことが予言されているのです。旧約聖書は異邦人の救いを予言しています。代表的な聖句としては、イザヤ書25章6〜7節に、『万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。//主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし』とあります。この箇所は、諸国民が、つまり異邦人が、神の国の宴会に招かれている、神の国に入っている様子を描いています。29節の記載も同じで、『そして人々は、東から西から、また南から北から来て、』とありますが、これは異邦人のことを示しているのです。主イエスを信じないユダヤ人は外に投げ出されているのです。しかし、ユダヤ人たちにとっては、救われるのは難しいと考えられていた異邦人が、逆に神の国で、宴会の席に着いているのです。『神の国で宴会の席に着く。』というのは、メシア的王国の始まりに開かれる宴会のことです。その宴会に、信仰のある異邦人たちが招かれて、席に着いているというのです。
異邦人の救いが、ここで語られているのですが、異邦人の救いというのは、福音記者ルカにとっては、極めて重要なテーマなのです。ルカによる福音書の続編である使徒言行録の中心テーマは、異邦人がいかにして福音を信じ、救われるかという、異邦人世界への福音の広がりなのです。従って、この段階で、主イエスは、旧約聖書が予言していた異邦人の救いがまさにその通りに成就する、そして、広い戸口から入ってしまったユダヤ人は投げ出されてしまうけれども、狭い戸口から入った異邦人たちは神の国に招かれるのだと、教えておられるのです。では、「狭い戸口」から入るということはどういうことか、考えてみたいと思います。
■後の人で先になる者
そして、本日の聖書の箇所の30節には、『そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。』と記されています。「後の人」というのは、異邦人のことです。ここで言われているのは、異邦人がユダヤ人よりも、前に出るのだということです。ユダヤ人たちは、自分たちは異邦人たちよりも優れていると考えていました。ところが、ユダヤ人たちが神の国から投げ出され、異邦人たちが神の国に招かれる。つまり、異邦人が先になるのだということを、主イエスは教えておられるのです。それが、現在、起きていることなのです。救われる者は少ないのですかという質問に対して、主イエスはそのような興味本位の他人事のような質問には答えないで、あなたがどうしたら救われるかということ教えられたのです。「狭い戸口」のたとえと「家の主人」のたとえを適用して、「狭い戸口」から入らないと、異邦人の方が先に神の国に招かれる、そして、あなた方は外に投げ出されて、地獄の苦しみを経験するようになるのだと、主イエスは教えられたのです。非常に、深刻で重大な教えがここで語られているのです。
神様は、東から西から、南から北から、世界中の至るところから、私たち人間を救いへと招いておられます。一人でも多くの人が、すべての人が、神様の一方的な恵みによる救いを受け入れ、救いに入れられて生きること。それが神様のみ心であり、願いなのです。そこに、神様の恵み深い招きのみ心が示されています。神様は、罪のない清く正しい人間を招いておられるのではないのです。むしろ、深い罪を負い、それによって生じる様々な問題をかかえ、苦しみや悲しみ、嘆きの中にある私たちを招いて下さり、主イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を赦し、主イエスの復活にあずかる新しい命、永遠の命の約束を与えようとしておられるのです。罪人である私たちを招いて下さるために、主イエスは、十字架に架かって死なれるという、他の誰も入ることができないような深い苦しみの戸口を通って、墓に葬られ、復活し、天に上げられ、そのことによって私たちが神の国に入るための戸口を開いて下さったのです。主イエス・キリストは私たちのために「狭い戸口」から入り、細い道を歩み通して下さいました。私たちは、主イエスと共に、「狭い戸口」から入り、命に通じる細い道を歩んで行きたいと思います。この主イエスの苦しみと死とによる神様の招きを信じ、主イエスが開いて下さったこの戸口を通って、救いへと導かれてゆきたいと思います。
それでは、お祈り致します。