■天然痘の撲滅
おはようございます。人類史上ワクチンによって、完全に絶滅できた伝染病が一つだけあるということをご存知でしょうか。天然痘です。天然痘は、かつてローマ帝国を滅ぼし、平城京を滅ぼし、インカ帝国を滅ぼした恐るべき感染症です。1980年にWHOによって根絶宣言が出されました。この病気の撲滅の総合責任者として立ち上がったのは、実は日本人ドクター蟻田功さんという方だったのです。
1970年代の後半、地上に残った数少ない天然痘被害に悩む国がアフリカにありました。それはエチオピアという国です。蟻田さんはスタッフであるブラジル人ドクターのアマラルさんと妻のアウーバさんを派遣したのです。ところがその頃、エチオピアは内戦状態だったのです。エチオピアから分離独立しようとしている西ソマリア解放戦線というゲリラ集団とエチオピア政府とは、戦闘状態にあったのです。しかも、彼らが活動するオガデン砂漠というのは遊牧民たちの活動エリヤでした。天然痘にかかった遊牧民はじっとしていないで常に移動続けています。その為、病気を一箇所に封じ込めることができず、移動とともに感染がどんどんどんどん広がっていったのです。
アマラルさんは現地でワクチンを打ちながら、現地の器用なひとりの青年と出会いました。そして、その彼にワクチンの打ち方を教えて共に行動したのです。ところが、ようやく彼が戦力になりかけた時、彼は突然姿を消してゲリラグループの仲間になってしまうのです。そういう中で、アマラルさんは地道にワクチンを打ち続けたのです。ところがある日、アマラルさんはゲリラの襲撃を受け行方不明になってしまうのです。そして、ゲリラからエチオピア政府からのスパイに違いないという疑いを受け、彼は全裸にされ、猛毒を持った虫がいる牢の中に閉じ込められてしまったのです。処刑も時間の問題かと思われたその時、かつて、彼のもとで働いていたあの青年がアマラルさんのことを見つけるのです。そして、司令官に向かって「彼は良いものをもたらすために来た人です。天然痘にかからないワクチンを無料で打ってくださる人です。」と言って弁護したのです。ようやくアマラルさんは誤解が解け、そして、2週間後にようやく解放されたのです。解放されるまでの間、アマラルさんは何と4,000人ものゲリラにワクチンを打ったのです。どんなに酷い目に遭わされても決して志を変えず、ゲリラたちにもワクチンを打ち続けたドクターの志、その真実が分かった時、さしものゲリラたちも心からの感銘を受けたのです。
ところで、このWHOから派遣された医師以上に良いものをもたらすためにこの世に来られたのに、酷い目に遭われた方がいます。主イエス・キリストです。主イエスは罪からの解放のためにこの世に来られたのに、人々はこの方を丸裸にし、鞭打ち、殴り、唾をかけ、十字架にかけて処刑したのです。しかし、この十字架に架けることによる処刑は、私たちの罪の償いのために主イエス・キリストが命をお捧げになった場所でもあったのです。神様はこの主イエス・キリストを死後三日目に復活させなさったのです。
今日は、なぜ主イエスは、エルサレムのために嘆かれたのかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■ここを立ち去ってください
さて、本日の聖書の箇所の31節を見ますと、『ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」』とあります。31節の始まりが、『ちょうどそのとき、』という言葉で始まっています。『ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、』とありますので、それまでの文脈を受けて、ファリサイ派の人々が登場して来ていることが分かります。ここで登場するファリサイ派の人々は、それまで主イエスが語る教えを聞いていたことが分かります。では、どういう教えを聞いていたのでしょうか?前回、ルカによる福音書で取り上げた、狭い「神の国の戸口」から神の国に入るというテーマでした。神の国に誰が入るのかというエピソードで、最後のところで、ユダヤ人は神の国の宴会から排除される。そして、そこでは異邦人が入国を許可されて、宴会の席にアブラハム、イサクやヤコブやすべての預言者たちと共についている、というはなしでした。その話を、この場にいたファリサイ派の人々は聞いているのです。このファリサイ派の人々がどう思ったのかと言いますと、主イエスが、ユダヤ人は神の国から排除され、異邦人が神の国に入れると言ったら、当然、強い憤りを覚えたはずなのです。福音記者ルカは、このルカによる福音書の中で、一貫して、ファリサイ派の人々を主イエスに対する敵対者として描いています。従って、ここでのファリサイ派の人々の言葉を、ファリサイ派の人々の中にも、主イエスのことを心配する人々がいたのだと解釈したとしたら、それは誤りになるのです。そうではなくて、これは主イエスに対する策謀から、出てきた言葉なのだと解釈するべきなのです。つまり、彼らが、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」と、親切そうに声を掛けていますが、彼らの言葉には、主イエスを排除しようとする、隠された意図があったと考えるべきなのです。
ここで「ヘロデ」とありますが、ここに登場するヘロデとは、ヘロデ大王の息子の1人のヘロデ・アンティパスという人物です。ヘロデ・アンティパスが、どういう地位にいたかと言いますと、ガリラヤとペレアを領主として治めていたのです。領主というのは、王ではないのです。王よりもワンランク低い、ガリラヤとペレアの領主であったのです。当時、主イエスはどこにいたかと言いますと、エルサレムへの旅を始めていましたが、まだ、ガリラヤ地方の中にいたのです。従って、「ここを立ち去ってください。」というのは、ガリラヤの領地から立ち去りなさいということです。理由は何かと言いますと、「ヘロデがあなたを殺そうとしています。」、即ち、命が奪われてしまいますよ、ということだと言うのです。
ヘロデ・アンティパスはこのとき既に、バプテスマのヨハネという有名な預言者の首を切って、殺しているのです。だから、早く逃げないと、バプテスマのヨハネの二の舞いになってしまいますよ、という警告なのです。それでは、ここを立ち去って、どこへ行くのかと言いますと、隠された意味は、早くエルサレムに行け、という忠告なのです。ここに登場するファリサイ派の人々は、ヘロデ・アンティパスと意を汲んで、やって来ていると思います。それは、なぜかと言いますと、ヘロデ・アンティパスがこのとき主イエスのことをどう思っていたのかを見る必要があると思います。ヘロデは主イエスのことを、恐れていたと思います。主イエスがガリラヤの民衆の間で、人気があることで、恐れていたのです。ちょうどバプテスマのヨハネのときも、同じだったのです。ヘロデは、バプテスマのヨハネのときのような事件を繰り返したくないと思っていたと思います。どうしてかと言いますと、ヘロデ・アンティパスは臆病なのです。マタイによる福音書14章1〜2節を見ますと、『そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」』とあります。主イエスの噂を聞いた時に、あれは復活したバプテスマのヨハネかもしれない、と言って、心配しているのです。従って、ヘロデとしては、自ら手を汚して、主イエスを殺すようなことはしたくないのです。それでは、どうしたら主イエスを排除できるのかと考えたかと言いますと、早くガリラヤを出て行って、エルサレムに行ってくれれば、エルサレムで直ぐに逮捕されてしまうに違いないと考えていたと思います。自分の手を汚さなくても、エルサレムに行けば、ファリサイ派の人々と律法学者たちがおり、また、ローマ兵たちもいるので、直ぐに逮捕されてしまうに違いないと考えたのだと思います。
そのことは、ヘロデが本当には、自分の手で、主イエスを殺そうとはしていなかったのにもかかわらず、大げさに言って、脅しているのだと思います。そのことは、ルカによる福音書9章9節を見ますと、『しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。』とあることからも分かります。ヘロデは、「殺したい」と言ったのではなくて、「会ってみたい」と思ったのです。さらに、ルカによる福音書23章8節には、『彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。』とあります。エルサレムで主イエスが逮捕され、ポンティオ・ピラトがヘロデのところに、主イエスを送って来た時の話です。ヘロデは、主イエスを見ると、非常に喜んでいて、殺意を見出すことができないのです。そして、ヘロデは主イエスをピラトに送り返しているのです。
これらの聖書の記述から考えて、ファリサイ派の人々がやって来て、「ヘロデがあなたを殺そうとしています。」と言っているのは、早くガリラヤから立ち去ってもらい、エルサレムに行ってもらおうという謀略からのことだということが分かります。このファリサイ派の人々が言った、この機会を捉えて、主イエスは、重要な真理を語るのです。これから、主イエスは3つのことを話されるのです。1つ目が、主イエスの公生涯での奉仕のゴールがどうなるのかということです。2つ目が、エルサレム崩壊の予言です。3つ目が、メシアの再臨について、語られるのです。
■今日も明日も、その次の日も
本日の聖書の箇所の32節には、『イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。』と記されています。主イエスは、これがファリサイ派の人々とヘロデ・アンティパスとが申し合わせて行っている陰謀だということに気がついているのです。ですから、ファリサイ派の人々がヘロデの意を汲んでやっていることを見抜いて、ファリサイ派の人々をヘロデのもとにメッセージを託して、送り返しているのです。ここで、「あの狐」と、主イエスが言っているのは、ヘロデのことです。狐は、狡猾で、臆病な動物です。ヘロデもまた、狡猾で、臆病な領主でした。さらに、当時の人にとって、狐がやっかいな動物であったのは、狐は隙を伺っては、鶏を襲って、食べようとするように、厄介で、危険な動物であったのです。そして、主イエスは光の中を歩まれましたが、狐は夜、闇の中で行動する動物なのです。従って、主イエスが、ヘロデのことを「あの狐」と呼んだ理由が、分かるかと思います。狐のように、ヘロデは狡猾で、臆病で、危険で、厄介で、そして、暗闇を動き回る、こういう人物だと言っているのです。
そして、主イエスは、ファリサイ派の人々に、ヘロデへのメッセージを伝えるのです。『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とあります。ここで、『三日目に』とありますので、三日目の復活の出来事と関連付けて考えたくなってしまうのですが、これはそういうことではないのです。主イエスが何をおっしゃられているかと言いますと、あなた方はガリラヤを去って、早くエルサレムに行けと言うけれども、私は父なる神様の計画に従って、予定通りにエルサレムに向かうと言っているのです。『今日も明日も、』、そして、『三日目に』という言葉がありますが、これはユダヤ的には格言的表現で、短い時間を意味する言葉なのです。『今日も明日も、』、そして、『三日目に』という格言的表現で、主イエスは何とおっしゃられているのかと言いますと、残された時間は短い、しかし、自分はいつものように、計画通りに奉仕を続けるということをおっしゃられているのです。その内容は、いくつかの悪霊を追い出し、いくつかの病気のいやしを行うという、まだ残されているいくつかの働きがある、そして、三日目に働きを完了すると言うのです。これは、残された時間は短時間だけれども、まだなすべきことがあり、そして、それらを全て終えて、私の公生涯における最後の奉仕を全うするのだ。あなた方の言葉によって、動くのではないのだ、ということをおっしゃられているのが、主イエスの答えの内容なのです。
次に、33節には、『だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。』と記されています。主イエスの旅は、父なる神様に従順に従って歩む旅です。主イエスは一貫して、忠実な僕として歩まれました。ですから、人間の言葉に従って歩むのではないのです。父なる神様の計画に従って、主イエスは忠実に歩まれたのです。主イエスの旅のゴールはどこかと言いますと、エルサレムなのです。そこで、主イエスは、エルサレムと旧約聖書の歴史とを結びつけて、話をしておられます。主イエスはエルサレムで受ける苦しみ、エルサレムでの十字架での受難を、公生涯における奉仕の総仕上げと見ておられたのです。ここで、主イエスは、多くの預言者がエルサレムで殺されたことを語っておられます。主イエスは、『預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。』と語っておられますが、これは、旧約聖書の預言者全員がエルサレムで殺されたということではないのです。そうではなくて、旧約聖書の預言者の伝統から言いますと、その大半がエルサレムで殺されている、つまり、預言者たちの活動の中心の地で殺されている、ということなのです。主イエスは、預言者の中の預言者ですので、ですから、主イエスは自分がそのユダヤ人の伝統から外れることはありえない、自分もまたエルサレムで死ぬように、導かれているのだと語っておられるのです。これが、主イエスの決意なのです。
■主イエスの嘆き
次に、本日の聖書の箇所の34節には、『エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。』と記されています。ここで、34節では、『エルサレム、エルサレム』と、エルサレムという言葉が2回出てきます。33節では、『エルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。』と、エルサレムという言葉が出てきていました。ですから、エルサレムという言葉が、3回、立て続けに出て来ているのです。つまり、聞いている人の関心がエルサレムに向かっているということなのです。エルサレムは、神様の救済計画が進展するための中心地なのです。そこに、人々の関心が集められているのです。エルサレムはどういう町なのか、エルサレムは神様の愛を拒否し続ける、これはエルサレムの住民、あるいは、イスラエル人のことを言っているのです。エルサレムはイスラエルの民、全体を象徴する言葉です。エルサレムは神様の愛を拒否し続ける。彼らは預言者たちを殺す。彼らは自分に遣わされた人たちを石で打つ。そういう民なのだと言っているのです。しかし、反抗し続けるエルサレムを、主イエスは愛されたのです。どのように愛されたのかと言いますと、『めん鳥が雛を羽の下に集めるように、』エルサレムを愛されたのだと言うのです。
ここで、『めん鳥の羽の下』という言葉ですが、ユダヤ教の伝統では、ユダヤ人は神様の羽の下に、置かれている、という考え方があるのです。神様の守りのことを、比喩的に鳥の翼に例えるというのが、ユダヤ的な伝統なのです。ユダヤ人は、神様の羽の下に置かれている、これがユダヤ人の自己認識なのです。ですから、ユダヤ人が異邦人伝道をして、その異邦人がユダヤ教に改宗した時、ユダヤ人たちはどのように言うかといいますと、私はあの異邦人を神様の羽の下に置いた、という言い方をするのです。改宗した異邦人は、神様の羽の下に置かれた異邦人である、とこのような言い方をするのです。旧約聖書の伝統の中でも、鳥の翼ということでは、いろいろな鳥が出てきますが、鳥の翼が神様の守りを象徴する聖句がいくつもあるのです。
例えば、申命記32章10〜11節には、『主は荒れ野で彼を見いだし/獣のほえる不毛の地でこれを見つけ/これを囲い、いたわり/御自分のひとみのように守られた。鷲が巣を揺り動かし/雛の上を飛びかけり/羽を広げて捕らえ/翼に乗せて運ぶように』と記されています。羽が雛を捕え、雛を乗せて運ぶように、神様はイスラエルの民をエジプトから導き出し、荒野の旅を守り、約束の地に連れてゆこうとしておられるのだと言うのです。私たちは、神の国に向けての旅をしていますが、自分の力で旅をしているのではないのです。神様の守り、即ち、比喩的には神様の翼の上に乗せて頂いて、運ばれているのです。この比喩は、とても素晴らしい比喩だと思います。主イエスは、神様の役割に関する伝統的な比喩を、ご自身に適用されたのです。
それで、本日の聖書の箇所で、主イエスは、『めん鳥が雛を羽の下に集めるように、』主イエスは何度も、何度も、イスラエルの民をご自分の下に、集めようとしたと言うのです。つまり、主イエスはユダヤ教の伝統の中で使われてきた豊かな比喩を用いて、優しく民に語りかけたということをおっしゃられたのです。このことから分かることは、1つ目としては、主イエスは神様だということです。羽というのは、神様の守りのことです。ですから、翼を広げて、あなた方を招いたというのは、主イエスは神様として、イスラエルの民を招いておられるということなのです。次に、2つ目としては、主イエスは、ローマ軍の破壊から、イスラエルの民を救おうとされたということです。そして、3つ目には、主イエスに信頼するということは、主イエスの臨在という羽の下に逃げ込むことだということです。しかし、イスラエルの民は主イエスの招きに応じようとしなかった、と言うのです。これまでに、主イエスはイスラエルの民に、神の国を提供し続けて来たのです。しかし、彼らはそれに応答しなかったと言うのです。主イエスの招きを拒み続けていると、神様の忍耐の時が切れる時が来るというのです。従って、私たちは神様に心を開いて、神様の祝福を受けたいと思います。その一方で、神様の忍耐が切れる時には、どうなるのでしょうか?その時には、主イエスが提供してきたことは、そこで終わるのだというのです。終わったら、何が起こるのでしょうか?
■主の名によって来られる方に、祝福があるように
破壊が起こるのです。それが、35節で、『見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。』と書かれています。主イエスが提供している神の国を拒否した結果、破滅がやって来るのです。『見よ、お前たちの家は見捨てられる。』とありますが、これはエルサレム崩壊の予言なのです。『お前たちの家』という言葉がありますが、これは神殿のことだと解釈できます。あるいは、エルサレムのことだと考えることもできるのです。あるいは、イスラエルという国、全体を指していると考えても良いのです。ユダヤ人たちは頑なな心を捨てようとしなかった、その結果、世界に離散してゆく民となるのです。このエルサレム崩壊は、紀元70年に起こったのですが、彼らは世界に離散して、その状態というのは、今も続いているのです。全世界のユダヤ人の半分位は、再建したイスラエルという国に住んでいます。しかし、残り約半分が、離散の地で、まだ生活しているのです。主イエスのこの予言が成就し、この影響が今も続いているのです。主イエスは嘆かれましたが、主イエスの嘆きは、バビロン捕囚を予言したエレミヤの嘆きに似ています。エレミヤは、イスラエルの民の偶像礼拝の罪を指摘し、イスラエルが捕囚に引かれてゆくことを、涙と共に予言したのです。とても似ているのです。
エレミヤ書12章7節には、『わたしはわたしの家を捨て//わたしの嗣業を見放し//わたしの愛するものを敵の手に渡した。』とあります。これは、エレミヤが語っている予言です。エレミヤは涙の預言者とも呼ばれていますが、主イエスがエルサレムのために嘆いた嘆きの内容とそっくりなのです。もう1箇所、エレミヤ書22章5節には、『しかし、もしこれらの言葉に聞き従わないならば、わたしは自らに誓って言う――と主は言われる――この宮殿は必ず廃虚となる。』とあります。『自らに誓って言う』というのは、エレミヤのことではないのです。エレミヤは、主の言葉を伝えているのです。『この宮殿は必ず廃虚となる。』、主イエスの嘆きとそっくりだと言うことができます。そして、35節の予言の最後に、希望のメッセージが語られているのです。それが、『言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。』という箇所なのです。かの箇所は、主イエスの希望のメッセージなのです。なぜかと言いますと、「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」とありますが、それは、見ることができる時が来るのだ、それがいつかと言うと、「お前たちが、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時に、メシアが来られる条件が整うのだというのです。
『主の名によって来られる方に、祝福があるように』という、この言葉は主イエスを歓迎する祈りなのです。主イエスは、公生涯の最後の1週間前に、勝利の入城をされました。人々は、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マタイによる福音書21章9b節)という祈りによって、主イエスをエルサレムに迎えたのです。しかし、1回目の勝利の入城によって、主イエスのこの予言が成就した訳ではないのです。マタイによる福音書23章39節を見ますと、『言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」』と書かれています。同じことが、書かれているのです。このマタイによる福音書を見ると、主イエスの勝利の入城は21章9節で、起きているのです。『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときが予言されているのは、23章なのです。これは、地上での公生涯における、勝利の入城が終わった後で、主イエスは語っているのです。ですから、1回目の勝利の入城を指しているのではないのです。では、いつのことかと言いますと、これは終わりの日における勝利の入城のことなのです。つまり、メシアの再臨のときのことなのです。
「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、」と語られている「主の名によって来られる方」というのは、救い主、メシアのことです。そして、この「言う時」の「時」は主イエスがメシア、救い主としてこの世に来られる、その時までという意味です。主イエスは再び、この世界に救いの完成者として来られる、その時までということです。主イエスの厳しい災いのみ言葉が十字架を目の前にして語られます。その締めめくりは、主イエスのエルサレムに対する、イスラエルに対する嘆きの言葉、しかしそれは主イエスの愛から来る言葉なのです。主イエスのこれらの厳しいお言葉の数々は、めん鳥が雛を何とかして、どうにかして、翼の下にだき抱えようとされる、愛から来る言葉なのです。この愛の嘆きがこれらの厳しさの背後に湛えられています。私たちはこの愛の主イエスの前にひざまずいて、罪を告白し、赦しのもとに、新しい歩みへと向かわせられるのです。めん鳥が雛をその羽の下に、どうにかして、集めるように、「わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」と主イエスは、私たちにこの時も呼びかけられたのです。私たちは、この主イエスの言葉を信じ、主イエスの招きに応えてゆきたいと思います。
それでは、お祈り致します。