■審きと救い
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、今から231年前の1791年、冬、天に召されました。そのとき、完成されずに残された名曲があります。「レクイエムニ短調K・626」です。死者のためのミサ曲としてモーツァルトが作曲した、この「レクイエムニ短調」の荘厳さ、美しさは形容し難いものです。そして、その歌詞もとても印象的です。入場聖歌、キリエに続く、「センクエンツィアSenquenz」の賛美の言葉です。
怒りの日よ、その日/地上は灰に帰する/…/何という恐怖のくることか/審判が至り/ものみな厳しく試される時は。 /…/
審判者が席に着く時/隠されたものはすべて見出され/罪を免れるものはない。
哀れなるわれは、何をいおう、/…/恐るべき御力の王よ、/贖いし者を自由に救いたもう方よ、/憐みの泉よ、われを救いたまえ。
思い出したまえ、義なるキリストよ、/われこそ、あなたの来臨の理由であることを/そしてその日、われを見放したもうな。
「終わりの日」に御子キリストがわたしたちのもとに再びやってこられ、厳しい審きと、愛と平和に満ち溢れる救いをもたらせてくださる。そのことを待ち望み、その時に備える大切さを思い起こさせる歌です。
預言者イザヤが語った、「あなたがたの罪は緋の如くあるとも雪の如く白くなり、紅の如く赤くあるとも羊の毛の如くならん」(一・一八)という美しい言葉も、審きと同時に救いを語ります。緋のごとく、紅のごとく赤い罪に対して神の審きが臨む。しかし、神はその民を裁いて滅ぼしてしまわれるのではなく、その罪を雪のごとく、羊の毛のごとく真っ白に清めてくださる。わたしたちをお救いくださるためにこそ、神様はわたしたちを裁かれる。神様は、裁くことによって、わたしたちを神の民にふさわしく整え直して受け入れてくださる。
聖書の神は、徹頭徹尾、愛の神です。愛の神は、審きのために裁くのではなく、救いのために裁かれます。審きは、人を脅すためのものではなく、その審きを通じて、主の恵み、回復のみ業がもたらされるという、希望に満ちたものです。それが「終わりの日」の本来の目的です。
もちろん、その「終わりの日」の救いのみ業は、わたしたち人間によるのではありません。それは、神の恵みのみ業、神様の愛ゆえです。わたしたち人間はそこに指一本も触れることはできません。
■脱いで着る
先ほどお読みいただいたパウロの言葉、ローマの信徒への手紙13章11節から14節が語っているのは、そのことです。
「今がどんな時であるか」とパウロが語る、今この時とは、「眠りから覚めるべき時」であり、「救いが近づいている」、そのような時です。それはまさに、審きと救いの成就する「終わりの日」に他なりません。そしてパウロは、今この時こそ「終わりの日」なのだから、「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着け」「主イエス・キリストを身にまといなさい」と、わたしたちに勧めます。
「キリストを身にまといなさい」。含蓄ある言葉です。
「身にまとう」「着る」ために、わたしたちはまず、今着ているものを脱がなくてはなりません。コロサイの信徒への手紙にも、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」(3・9~11)とあります。
まず、あなたの身に纏っている、人と自分とを比べて隔てるもの、欲望、悪意という古い着物を脱ぎすてなさい、そうパウロは言います。それは、裸になりなさいということでもあります。裸のあるがままの自分を受け入れる、と言い換えてもよいかも知れません。信じて生きるということは、脱ぐことと着ることにつきます。脱がずに重ね着するわけにはゆきません。自分の着ている古い着物を脱いで裸になって、あるがままの弱く、欠け多い自分を受け入れて、キリストを着るということです。
そうしないと、いつもきまって自分の着物が問題になります。奴隷と自由人、男と女、ユダヤ人と異邦人、社会的・経済的な優劣、文化の違い、宗教的な態度など、わたしたち人間が自らを誇り、自らを頼みとする着物。他人と自分を比べては、時にうぬぼれ、時には卑下する、そんな比較と差別、競争と抑圧に繋がるエゴに囚われている着物。わたしたちは信じると言いながら、まだそんな古い着物を問題にしてはいないでしょうか。だとすれば、そのときわたしたちは、本当にキリストを着ていないか、重ね着をしているのです。
では、自分が自分がというエゴを脱ぎ捨てて、キリストを身にまとうということは、具体的には、わたしたちがどのように変えられることなのでしょうか。パウロはそのことを前段の8節から10節で、わたしたちに教えています。
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。」
パウロは「互いに愛し合うこと」を、律法、神のみ言葉として、わたしたちに勧め、求めています。「キリストを身にまとう」とは、神の愛、キリストの愛という、その光の中を歩むことです。それは、愛の光に照らされて、愛されている自分をあるがままに受け入れ、そのように愛されている者として互いに愛し合うということでしょう。
■借りるしかない
それとしても、「愛が借り」とはどういうことでしょうか。
「借り」という言葉からわたしたちが思い浮かべるのは、借金です。誰でも借りたものは返さなければなりません。借し返りのために人間関係が歪んだり壊れてしまったりすることが間々あります。そのためでしょう、「親しい者の間で金の貸し借りだけはしてはならない」と子どものころから繰り返し教えられてきました。それほどまでに、貸し借りは難しく、やっかいなものです。
ところが最近、Give and Take とか、互いに酬(むく)いると書く互酬、あるいは互いに助ける互助といった言い方で、貸し借りの関係を肯定的に捉えることが多くなってきているように思えます。ボランティア活動も、人に対する無償の奉仕、隣人への愛ではなく、自分の生きがいや自己実現のためのものであるといった考え方が中心になり、タイムバンク制といったボランティアとして奉仕した時間を貯蓄する制度や、お金をもらってのボランティア活動なども見受けられます。確かに、ボランティア精神の根付きにくい日本社会にあっては、ひと昔前までの共同体の中に見られた互助的な考え方によって、近隣地域の助け合いや奉仕活動を進めようとすることも止むを得ないことなのかもしれません。
しかし、そうした関係は、意識するかしないかは別として、簡単に支配・被支配の関係になってしまったり、助け合いを数量化して均質なものに保とうとし、そうできないと途端に助け合うことができなくなったり、あるいは「義理、人情」といった益もない貸し借りで、人をがんじがらめにしてしまいがちです。貸し借りは、決してわたしたちを自由にすることはありません。むしろ、互いを縛り付けるばかりです。
とすれば、人を縛り付けてしまう貸し借りで愛を説明することなど、およそ相応しくないはずです。パウロは、ギブ・アンド・テイクの互助的な意味で愛し合うこと、つまり、愛してくれるから愛する、愛するから愛してくれて当たり前、これだけ愛したのだからもっと愛して欲しい、愛してくれないから愛する必要などないといった意味で、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」と言っているのではないはずです。そもそも、パウロは、貸し借りを推奨しているのではなく、互いに愛し合うこと以外に、そのような関係はあってはならないといっているのですから、貸し借りそのものについても否定的です。
ここで大切なことは、愛を「貸し借り」ではなく、「借り」と表現していることです。「借り」というこの言葉はもともと、負債、負い目という意味を持つ言葉ですが、それは、わたしたち人間の、神様への、イエス・キリストへの負債、負い目を意味する言葉でもあります。
ここで大切なことは、わたしたちの愛はわたしたちが捧げるものより、神様がわたしたちに捧げてくださっているという「事実」に基づいているのだ、ということです。ヨハネの第1の手紙4章7節に、「愛する者たち、わたしたちはお互いに愛しあおうではありませんか、愛は神から出たものなのです」とあるように、わたしたちから神様に向かってゆく愛や、わたしたち相互の愛はすべて、「神がわたしを愛する愛」から出てくるものにすぎません。
「わたしは誰の世話にもたっていない、この二本の腕ですべてをやってきた」という人に、よく出会います。しかし、本当にそうでしょうか、自分はいつも恩人で、与え主なのでしょうか。少し年を取ってまいりますと、そうでないとすぐに分かってきます。自分のからだが弱くなってまいりますと、否が応でも分かることです。
そのことが、さきほどのヨハネの手紙の続きに簡潔に表現されています。「わたしたちが神を愛したのではない」。これは、「わたしたち」、つまり人間が主語になる愛を否定するものです。悲しいかな、わたしたち人間の愛に真実の愛はありません。しかし、神様が主語になる愛があるのです。神様がわたしたちを愛してくださるのです。ですから、神様の愛は一方的な愛です。返すことのできない愛です。「貸し借り」などできない、ただ「借り」るしかない、無償の愛です。
そのような神の愛とはどのような愛か、ヨハネの手紙はさらに続きます。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4・10)。御子イエス・キリストの十字架に示された愛、自分を削りに削り、最後には自分のいのちまで削って、わたしたちに差し出してくださった愛です。だから、「わたしは賢い者にも愚かな者にもすべての人に負債があります」(1・4)とパウロは言います。それは、わたしたちの行いや能力、生まれや人種に関わりなく、イエス・キリストからの、ただ一方的に借りのある愛です。
それは、イエスさまのたとえに出てくる、一万タラントの負い目の人と同じです(マタイ18・23以下)。自分が王様から借りている一万タラントを忘れて、友だちに貸したわずかばかりの借金を責め立てている人、それがわたしたちの姿に他なりません。パウロはわたしたちに、「キリストの愛が、わたしに迫ってきませんか」(二コリント5・14)と問いかけるのです。 愛されるにふさわしい者であろうがなかろうが、そんなこととは全く無関係に神様に愛されている者―「愛の借りしかない」わたしたちです。愛せるかどうかではなく、ただ愛されている者として「感謝をもって愛そうとする者となる」ように、パウロはそう教え、励ましているのです。 パウロの励ましを受けて、このわたしたちも、キリストという着物をまとい、「主の光の中を歩む」者として、愛の光の中を共に歩んでいきたい、そう願います。