■ピンポンパン
おはようございます。皆さんは、『ピンポンパン』と聞いて、何を想像されますでしょうか。少しお歳の召した方でしたら、1966年10月から1982年3月までフジテレビで放送された子供向けのテレビ番組『ママとあそぼう!ピンポンパン』を想像されるのではないでしょうか?20代後半から30代の方は、『ママとあそぼう!ピンポンパン』のリメイク番組の『うたであそぼうピンポンパン』を想像されるかもしれません。あるいは、「ピンポンパン体操」だったら、覚えているという人もいるかもしれません。『ママとあそぼう!ピンポンパン』は、最盛期には、子ども向け番組としては珍しく、朝の視聴率が7〜8%、夕方の再放送が9〜10%と、合わせて20%近い視聴率のおばけ番組だったのです。従って、多くの日本人にとって、『ピンポンパン』と聞いて思い浮かべるのは、人気の子ども向けのテレビ番組だと思います。
でも、『ピンポンパン』と聞いて、全く別のことを思い浮かべる人たちもいるのです。それは、オペラファンです。オペラファンなんて、どこにいるんだと思われるかもしれません。でも、いるところにはいるのです。昔、出張でイタリアのミラノに行ったことがあります。昼間は、ミラノ工科大学のリド・ポーリという教授とディスカッションをし、夜は時間があったので、ミラノ・スカラ座というオペラハウスで、プッチーニ作曲の『マノン・レスコー』というオペラを見ることにしました。少々、探し回って、ようやく券売所を見つけて、一番安いチケットを買って、スカラ座の正面の入り口から入ろうとすると、守衛に君はここからは入ることができないと言われたのです。このチケットは向こうの入り口から入って、4階より上の階に行かないといけないと言うのです。守衛が指差した方向を見ると、スカラ座の豪華な正面玄関とは打って変わって、みすぼらしい勝手口のような小さな木の扉が見えます。そこから入って、狭い階段を登って、登って、6階か7階まできて、ようやくホールの中に入りました。そこは、天井桟敷と呼ばれるところで、天井桟敷には、一人一人別れて腰掛ける座席はなくて、丸太がずっと渡されているだけなのです。天井桟敷の聴衆は、立って聞くか、その丸太の上にちょこんと腰掛けて、オペラを観るのです。ミラノ・スカラ座でオペラを観るという経験はほとんど一生に一度の経験なのに、何で天井桟敷のような、一番安いチケットを買ったのかと言いますと、天井桟敷にいる人達と共に、オペラを見たかったからです。どういうことかと言いますと、本当のオペラ好きは、しょっちゅうオペラを観に行きたいので、チケットの安い天井桟敷で観るのだと聞いていたからです。また、天井桟敷の席は、音楽を志す学生さんが本物の音楽により多く接することができるように、音楽大学の学生さんはさらに安くチケットが入手できるようになっているのです。そういう音楽好き、オペラ好きの人たちに混じって、オペラを観たいと思ったのです。そして、オペラ好きの人たちは、確かにいたのです。私の前には、4人の男女がおりましたが、互いに初対面のようでもありましたが、開演前や幕間の間、ずっと喋っているのです。私は、イタリア語が分かりませんので、話の内容の詳細は分かりませんが、ズービン・メータというのが聞こえて来れば、有名なインド人の指揮者のことだと分かりますし、ラ・トラヴィアータという言葉が聞こえてくれば、オペラのタイトルだということは分かります。ヴェルディと言っていれば、作曲家のことだなというくらいの事は分かります。そうやって、聞き耳を立てていると、ずっとオペラの話をしているのです。話が随分、脇道に逸れてしまいましたが、このミラノ・スカラ座にいるオペラファンに『ピンポンパン』て、何のことでしょうか、と尋ねたら、何と答えるでしょうか?
彼らは、プッチーニ作曲のオペラ「トゥーランドット」の登場人物で、狂言回し役の3人の大臣ピンとポンとパンのことだと答えると思います。従って、同じ『ピンポンパン』という言葉を聞いても、子ども向けのテレビ番組とプッチーニ作曲のオペラ「トゥーランドット」の登場人物と、全く異なるものを思い浮かべる人たちがいるということです。そして、驚くことに、オペラ「トゥーランドット」の登場人物のピン・ポン・パンの名前が、子ども向けのテレビ番組の『ママとあそぼう!ピンポンパン』の番組名の由来となっているのです。
同じ言葉なのに、全く異なるものを思い浮かべてしまう。そして、本来語られていることとは、全く異なる理解をしてしまう、このようなことは、聖書を読むときに、よくあることではないでしょうか。それでは、そのような間違いを避けようと思えば、どうしたら良いのでしょうか。それは、教会に繋がって、教会で行われる礼拝に接して行くことだと思います。ルカによる福音書の7章18節からの本日の聖書の箇所は、話の流れから言えば、35節までを一度に取り上げたいところなのですが、かなり難解な箇所なので、3回に分けて、この聖書の箇所が私たちに語りかけているメッセージを皆さんと一緒に学びたいと思います。
■洗礼者ヨハネの問い
本日の聖書箇所の冒頭には「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。」とあります。「これらすべてのことについて」とは、7章1節から10節で百人隊長の僕が癒された奇跡物語が語られていました。そして、前回お話ししましたが、7章の11節から17節に主イエスが憐れみによってなされた奇跡物語である、やもめの息子を生き返らせたことが語られていました。
これらの奇跡に接した人々の間には、主イエスとは誰なのかという疑問が湧いてきます。このときに主イエスの奇跡を目撃したり、目撃者の伝聞情報に直接接したユダヤの人々の抱く疑問は、旧約聖書の知識がそれほどない、現代の日本に生きる私たちが抱く疑問とは本質的に異なります。ユダヤの人々は旧約聖書の内容を非常によく教えられています。従って、ユダヤの人々は旧約聖書との関係で、主イエスはどういうお方なのかということを考えるのです。ユダヤの人々は、どのような可能性を考えたのでしょうか。
主イエスは旧約聖書に登場する預言者なのか、あるいは、もっと具体的にエリヤなのか、あるいは、それ以外の預言者なのか、あるいは申命記18章18節に、「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。」と書かれていますが、これはモーセの言葉ですが、主が私(モーセ)のような預言者を立てられると言っています。従って、主イエスはモーセのような預言者なのか、あるいは、メシアなのかということです。あるいは、イザヤ書7章の14節では、「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」という預言が出てきますが、主イエスはインマヌエルと呼ばれるお方なのか、こういった疑問がユダヤの人々の間に出てきたのです。つまり、主イエスとは誰なのかということを決めなくてはならないという状態になっているのです。
さて、このような文脈の中で、本日の聖書の箇所で、洗礼者ヨハネが登場するのです。洗礼者ヨハネも戸惑ったのです。一般の民衆が戸惑っているように、洗礼者ヨハネも戸惑ったのです。なぜ、洗礼者ヨハネは戸惑ったのでしょうか。まず、一つには、主イエスはメシア預言を成就しておられたということです。義を宣べ伝え、病人を癒やし、悪霊を追い出し、死者を蘇らせたということ、これらのことは全てメシア預言の成就なのです。ところが、成就していないメシア預言もあったのです。それが何かと言いますと、それは囚人の解放なのです。このとき、ヨハネは囚人だったのです。あるいは、イスラエルの敵の裁き、あるいは、ダビデ王国の回復、こういったことはまだ起きていないのです。これはどういうことかと言いますと、先にお話しました義を宣べ伝え、病人を癒やし、悪霊を追い出し、死者を蘇らせたということは、初臨のメシアが行う預言が成就したということです。そして、囚人の解放、イスラエルの敵の裁き、あるいは、ダビデ王国の回復、こういったことは再臨のメシア預言の成就なのです。
洗礼者ヨハネは、初臨のメシア預言と再臨のメシア預言をごちゃごちゃにしていて、分けることができていないのです。ですから、洗礼者ヨハネは主イエスがメシアかどうかということについて戸惑ったのです。ルカはどうして、洗礼者ヨハネの疑問を詳しく書いている理由はなぜなのでしょうか?今日の聖書の箇所の並行記事は、マタイによる福音書の11章の2節から19節ですが、ルカによる福音書の方が、詳しく書かれているのです。なぜ、福音記者ルカが主イエスが誰かということについて詳しく書いているのかというと、主イエスを信じる人はいつの時代でも、主イエスは誰かという論争に巻き込まれるからです。主イエスとは誰なのか、なぜ、私たちは主イエスをメシアだと信じるのか、こういう論争に巻き込まれるからです。従って、福音記者ルカは、宗教的指導者たちを叱責し、普通の信徒たちを励ます物語として今日の聖書の箇所を書いているのです。そして、福音記者ルカがこの福音書を著したのは、異邦人伝道に於いて、主イエスは神であるということを示すことであったことから、現代の日本の教会に通う私たちをも励ます物語として、今日の聖書の箇所を書いているのだと思います。
■牢の中の洗礼者ヨハネ
さて洗礼者ヨハネですが、ルカによる福音書では、本日の聖書の箇所の前には、3章1〜20節に登場しています。3章でヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」(3章2節)ていました。彼は3章16節で、メシアを待ち望んでいる民衆に次のように言っています。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」そして、3章1〜20節の最後の部分、19〜20節ではこのように報告されています。「ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。」とこのように書かれていますが、洗礼者ヨハネが閉じ込められたのは、ヨルダン川東岸のマケルス要塞でした。そして、洗礼者ヨハネがマケルス要塞の牢に閉じ込められた後で、主イエスはヨルダン川で、民衆と共に、民衆の一人として洗礼を受けられたのです。おそらく、洗礼者ヨハネの弟子の一人から洗礼を受けられたのです。すなわち、洗礼者ヨハネは主イエスと直接は出会っていないのです。洗礼者ヨハネは、主イエスのことをどこまでも洗礼者ヨハネの弟子たちがもたらす伝聞情報によってのみで知っているだけなのです。しかも、その伝聞情報も彼の弟子たちですので、自分たちの先生の方が主イエスよりも立派な方ではないかというバイアスのかかった情報なのです。自分が囚人のままであるだけではない、そのような数々の困難な条件の中にいる洗礼者ヨハネは、彼の弟子たちから、主イエスが百人隊長の僕を癒されたこととやもめの一人息子を甦らせたことを、また主イエスのみ言葉やみ業のすべてを伝えたのです。
■来るべき方、来たりつつある方
洗礼者ヨハネは二人の弟子に主イエスへの言葉を託します。その言葉が19節と20節にある「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」という言葉です。このヨハネの言葉の背後には、今日、招詞でお読みしました、旧約聖書ハバクク書2章3節があります。ここでは、「定められた時のために もうひとつの幻があるからだ。それは終りの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と語られています。
「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る」とありますように、必ず来る、「来るべき方」を待つように告げられているのです。洗礼者ヨハネは、戸惑いつつも、このハバククの預言が、つまり「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る」というみ言葉が、主イエスにおいて実現したと信じたのです。先ほどお話しました3章16節で、洗礼者ヨハネは「わたしよりも優れた方が来られる」と言っていますが、洗礼者ヨハネより優れた方こそ、「来るべき方」であり、メシア(救い主)であり、主イエスなのです。ですから、洗礼者ヨハネが問いながらも語っているのは、主イエスが「来られる」ということに他ならないのです。それは、主イエスが「いつか来たらいいなあ」ということではなく、「今、来たりつつある」ということです。主イエスが、「今、来たりつつある」、主イエスこそ「来たりつつある方」ですよね、と牢の中の洗礼者ヨハネは戸惑いつつも、告白しつつ、問うているのです。
■「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」
このヨハネの切実な、実存のかかった問いに対して主イエスはどうお答えになったのでしょうか。22、23節に、主イエスのお言葉があります。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。主イエスは、ヨハネの問いに正面から答えてはおられません。「来るべき方はあなたでしょうか」という問いに、「そうだ」とも「違う」ともお答えになっていないのです。その代わりに主イエスがヨハネに伝えなさいと言っておられるのは、この弟子たちが見聞きしたことです。21節には、丁度その時にも、主イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々を癒し、目の見えない人を見えるようにしておられたところだったと語られています。あなたがたが見聞きしたこれらのことをヨハネに伝えなさいと言われたのです。主イエスご自身がそれをまとめておられます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。私がこれらのことを行なっていることをあなたがたは見聞きしている、それをそのままヨハネに伝えなさいと主イエスはおっしゃったのです。
「目の見えない人は歩き」から「耳の聞こえない人は聞こえ」までは、病気や障碍の癒しのみ業です。これらは、旧約聖書のイザヤ書第35章の8節以下に語られていることの実現であると言えます。このイザヤ書35章は、主なる神様によって完成する救いの有り様を描いているところです。神様による救いが完成する時、人間の現在の病や障碍などの苦しみの全てが解消され、喜びと平和に満ちた世界が実現するのです。主イエスの臨在によってこの救いのみ業の完成が既に始まっているのです。そして、これらの癒しのみ業をしめくくるのが「死者は生き返り」です。病や障碍の行きつく先は死です。人間を支配している病などの苦しみからの救いは、究極的には死の支配からの解放、復活なのです。その救いが主イエスによってもたらされている、それはこの直前の11~17節の、やもめの一人息子を生き返らせた話において語られたことです。そのことをヨハネに伝えよと、主イエスは言われているのです。
■貧しい人は福音を告げ知らされている
これらの病の癒しや死者の復活をさらにしめくくる形で、「貧しい人は福音を告げ知らされている」と語られています。福音が告げ知らされること、それこそが、主イエスによってもたらされている救いの中心なのです。そこには、主イエスによって語られたみ言葉、教えが含まれています。数々の奇跡、癒しのみ業も、この福音を告げ知らせるためになされたのです。貧しい人に福音を告げ知らせることこそ、父なる神様が主イエスをこの世にお遣わしになった目的なのです。神様が、貧しい人、苦しみや悲しみの中にある人に、救いの到来を告げる福音、喜びのおとずれを知らせて下さる、そのことが主イエスによって実現しているのです。このことをヨハネに伝えなさい、と主イエスはおっしゃったのです。
しかし、先ほども申しましたように、これらは、洗礼者ヨハネの問いに対する正面からの答えではありません。これらのことは、ヨハネも既に弟子たちからの報告を聞いて知っているのです。そして先ほど見たように、洗礼者ヨハネの思いの深みを見つめるならば、人々が病を癒されたり、死んだ者が復活したりしていることは分かった、しかし、この私、今獄に捕えられ、まさに殺されそうになっているこの私に対して、主イエスよあなたは何をして下さるのか、という問いがここにはあるのです。この問いへの答えは、これらのことによってはまだ与えられていないのです。洗礼者ヨハネのこの切実な問い、彼の心の底からの叫びに対する答えはどこにあるのでしょうか。
■英語辞書を作ったイギリスの文学者
18世紀のイギリスの文学者にサムエル・ジョンソンという人がいました。彼の作った英語辞書は傑作中の傑作と言われています。ところが、彼の少年時代はたいへん貧しかったのです。それで、栄養失調のために結核にかかってしまったサムエルは、片目を失明し、片耳も聴こえず、顎の下には結核の後遺症として、こぶが並んでいました。苦労して、勉強してオックスフォード大学に入るのですが、授業料が払えずに中退を余儀なくされてしまいます。しかし、後年彼が著した英語辞書があまりにもすばらしかったために、彼はオックスフォード大学から修士号、マスターを授与されるのです。
そして、小説を書けば大当たり、評論を書けば絶賛の的、やがて文壇の大御所と呼ばれるまでになるのです。ところが、そのような名声を欲しいままにしていた彼が、ある日のこと、町の広場でひたすら直立不動で突っ立っているのです。炎天下の中、帽子もかぶらず、全身汗まみれになりながら、ひたすら苦行に耐えるかのように突っ立っているのです。ある人が、「先生、何をなさっているのですか。」と尋ねると、サムエルはこう答えたといいます。「実は私の父は路上で本を並べて売る、小さな古本屋だったのです。ある日のこと父が言いました。今日は身体の具合が悪いので、私に代わって店番に行ってくれないか。しかし、私は行きたくありませんでした。父は、それじゃ仕方ないな、と言い、無理して店番に行き、そして、家に戻ってくると倒れ、病に伏し、間もなく死にました。父を死に追いやったのは私なのです。私の罪のために父は死んでしまったのです。ですから、私は父が店を出していたこの場所に、今、炎天下の中、立っているのです。」サムエルのお父さんが亡くなられたのは、もう何十年も前の事でしょう。しかし、彼は、自分のわがままという罪が父を死に至らしめたと考えていたのです。
主イエス・キリストが十字架で死なれたのは、今から二千年も前のことです。しかし、主イエスの死は本来経験しなくてもよい死でした。罪がまったく無かった主イエスは、死とは無関係の方だったのです。それでもなお、主イエスは私たちの罪を贖うために、十字架で死なれたのです。しかし、主イエスの十字架は信仰のつまづきにもなるのです。
■わたしにつまずかない人は幸いである
主イエスが洗礼者ヨハネの、主イエスよあなたは何をして下さるのか、という切実な問い、彼の心の底からの叫びにお答えになった言葉は、23節の、「わたしにつまずかない人は幸いである」という言葉だと思います。つまずく、という言葉は聖書において、信仰に関わる言葉として用いられています。それは神様を信じることができなくなってしまうこと、信仰を失ってしまうことを意味していますが、そのつまずきには二種類あります。一つは、私たちが人をつまずかせてしまう場合、つまり人を傷付けてしまうことによって、その人が信仰を失い、神様への信頼を失ってしまうような場合です。もう一つは、私たちが主イエスにつまずき、信じることができなくなる、主イエスを受け入れることができなくなるというつまずきです。この箇所では、私たち自身が「つまずく」ことが見つめられています。主イエスを自分の救い主と信じ、受け入れ、信頼することができなくなる、というつまずきの危機の中に、今、洗礼者ヨハネもいるのです。私たちも、「主イエスよ、あなたは本当に私の救い主なのですか。今苦しみ悲しんでいる私に、あなたは何をして下さるのですか」という問いを抱く時、ヨハネと同じように、主イエスにつまずく危機に直面しているのです。そして、この問いに対する決断は、論理的に導き出される決断などではなくて、自分の実存を賭けた決断なのです。
しかし、「わたしにつまずかない人は幸いである」と主イエスはおっしゃいました。この主イエスの言葉は、私たちへの問いかけであると同時に、「幸いである」という祝福の言葉でもあるのです。主イエスのみ業、主イエスが成し遂げて下さったことの中に、自分の救いがあることを信じ、受け入れる者は幸いだ、ということです。主イエスが成し遂げて下さったこと、その最大のみ業、最大の奇跡は、神様の独り子であられる主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことであり、主イエスを捕えた死の力を父なる神様が打ち破って主イエスを復活させて下さったことです。この主イエスの十字架と復活において、私たちに対する神様の救いが、私たちを罪と死の支配から解放し、神の子として新しく生かして下さる恵みが実現しているのです。
ここに実現している救いは、私たちがこの世の人生において体験する様々な具体的な苦しみや悲しみ、人間の力ではどうすることもできない困難、行き詰まり、挫折の中で、私たちを支え、生かし、希望を与えるものだからです。その希望は、この人生を越えた、死の彼方にまで及ぶ、永遠の命の希望です。洗礼者ヨハネは、獄中で首を切られて死にました。しかし、彼は、「わたしにつまずかない人は幸いである」という主イエスのみ言葉によって、つまずきを乗り越え、主イエスが成し遂げて下さる救いと、永遠の命への希望の中で、幸いな者、神様の祝福を与えられている者として生涯を歩み通すことができたと思います。「わたしにつまずかない人は幸いである」という主イエスの言葉によって、私たちも、この世のいかなる苦しみ悲しみによっても失われない、死の力にも打ち勝つまことの幸いへと招かれていることを信じて歩んでゆきたいと思います。
それでは、お祈り致します。