■空中ブランコのキャッチャー
おはようございます。木下大サーカスでは、空中ブランコは公演の最後に行う「サーカスの華」なのです。舞台に設けられた高さ10メートルのステージに、つり下げられたブランコに飛び乗った男女が、ステージの端から端へと自由に舞う姿は圧巻です。空中ブランコにはそれぞれ役割がしっかり決まっていて、ブランコから飛び出したり、回転しながら向こう側のブランコに飛び移ったり、受け止めてもらったりするフライヤーと、フライヤーを受け止めるキャッチャーがいます。空中ブランコというのは、フライヤーと呼ばれる、飛びついて行く人よりも、キャッチャーと呼ばれる掴む人の方がはるかに難しいそうです。一人ひとりの飛び方や体格が違うところに、キャッチャーの難しさがあるそうです。フライヤーが披露する技には、張られた紙を突き破る「紙破り飛行」や「目隠し飛行」もあるのです。キャッチャーはフライヤーのくせを把握し確実に捕まえ、また返すのです。飛びついて行く人は、キャッチャーを掴もうとすると失敗するそうです。ただただキャッチャーを信頼して、ブランコを手放して、飛んで行くのだそうです。そうしたら、キャッチャーが掴んでくれるというのです。
フライヤーが少しミスをして『ヤバイ!』と思ったとき、軌道修正をしてあげるのもキャッチャーの役割なのです。失敗しかけた状況をカバーして、成功に導くのがキャッチャーの腕なのです。キャッチャーを信頼して安心して飛ぶことができれば、フライヤーはより輝くことができるのです。
主イエス・キリストは最高のキャッチャーです。主イエス・キリストを信じるということは、今までしがみついている古いブランコから離れて、主イエスが必ず受け止めてくれるということを信じて、主イエスのブランコを目がけて、飛び込んでゆくことだと思います。
本日の聖書の箇所は、主イエスが、弟子の条件について語っている箇所です。主イエスの弟子になるためには、どうでなければならないかということを考えながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
■旅の再開
さて、現在、私たちはルカによる福音書を連続して、一箇所毎に聖書そのものに備わっている内容に導かれながら、丁寧に読んでいます。このように説教を構成してゆくやり方を連続講解説教と言います。それに対し、先にある決まった主題が説教の中心になっていて、その主題の内容に従って説教を構成してゆく方法を主題説教と言います。主題説教で構成してゆくとなった場合に、聖書の箇所として、今日の聖書の箇所を選ぶことはないと思います。しかし、連続講解説教で聖書を読んでゆくことの恵みは、このような普段取り上げられることの少ない箇所に描かれている聖書の真理に触れることができるということだと思います。
ルカによる福音書の14章の文脈を少し振り返りますと、1〜24節は一つのまとまった場面で、安息日にファリサイ派のある議員が催した食事会での出来事が語られていました。しかし、本日の箇所の冒頭には「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」(25節)とありますから、ここではその食事会の場面から、主イエスに大勢の群衆が一緒について行く場面へと移っていることが分かります。私たちは、主イエスが、今、エルサレムへ向かって進まれていることを思い起こすことが必要があると思います。9章51節で「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と語られていましたが、その時から、主イエスはエルサレムに向かって旅をされているのです。それは巡礼のためでも、物見遊山のためでもありません。51節に「天に上げられる時期が近づくと」とあり、また13章33節に「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」とありましたように、主イエスは十字架で死なれ、復活させられ、天に上げられるために、エルサレムへ向かっているのです。ひと時、エルサレムへ向かう足を止めて、ファリサイ派の議員の食事会に参加された主イエスは、本日の箇所で、再びエルサレムへ向かう旅を、十字架の死へ向かう旅を再開されたのです。本日の聖書の箇所がなぜ切実なのかと言いますと、十字架の時が迫っているからなのです。もう、あまり時間がないのです。ですから、本日の聖書の箇所で、主イエスは弟子としての心構えをしっかりと植え付ける必要があったのです。本日の聖書の箇所では、大変厳しい内容の3つの教えが出てきます。しかし、今日の聖書の内容は、どうしたら救われるかという話ではないのです。すでに、救われている人に向かって語られている話だということが、今日の聖書の箇所を理解する上での最大のポイントなのです。
■大勢の群衆が
本日の聖書の箇所には、3つの教えが出てくるということをお話しましたが、それが何かと言いますと、1つ目が、25〜27節の優先順位を明確にするということです。2つ目が、28〜30節の十字架を負う決心をするということです。それから、3つ目が、31〜35節の犠牲を正しく見積もるということです。それでは、最初の教えから見てゆきたいと思います。
さて、本日の聖書の箇所の25節には、『大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。』とあります。イエスの後ろの周囲には、大勢の群衆がついてきていたのです。普通、指導的立場にいる人は、自分について来る人の数が増えてくると喜ぶのではないでしょうか。今どきの言葉で、後をついて来る人のことをフォロワーと言います。フォロワーという言葉が一般化したのは、今はエックスと言っていますが、ツイッターが広く普及してからではないかと思います。2023年7月現在で、世界でエックスでのフォロワー数が一番多いのは、イーロン・マスクで、1.5億人近くのフォロワーがいるのです。2位が、アメリカの元大統領であるバラク・オバマで1.3億人以上のフォロワーがいます。3位がカナダの歌手であるジャスティン・ビーバーという人で、1.1億人以上のフォロワーがいるのです。こういった方々は、世界のトップポジションに入るために、時代を先取りし、人々が共感できるような、刺激的な情報を常に出して行く必要がありますので、戦略を立案する専属のスタッフを何人か抱えていることと思います。そういう意味で、現代はフォロワーが多いことを好む時代だと言うことができるかと思います。
しかし、主イエスは単にフォロワーが多いだけでは、喜んではおられないという話が、これから始まって行くのです。どうしてかと言いますと、たくさんのフォロワーが来た時に、主イエスは急に立ち止まって、後ろを振り向くのです。『イエスは振り向いて言われた。』とありますが、これは興味本位で従ってくる人たちに、主イエスは警告を発しているということなのです。本日の聖書の箇所では、主イエスはすべての人を招いているのではなくて、ふるいにかけているのです。主イエスによる、フォロワーのふるい分け作業が始まってゆくのです。そして、主イエスは弟子であることの条件を示すことによって、本物の弟子とうわべだけの弟子とを選別してゆく作業をこれから始めてゆくのです。気をつけなければならないのは、これはふるい分けの作業なのですが、救われる人と救われない人とをふるい分けているのではないということです。既に救われた人たちに向かってふるい分けの言葉を語っているということなのです。
■弟子の条件
26節を見てみますと、『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。』とスイエスがお語りになられていることが分かります。この主イエスの言葉を正しく解釈するためには、「愛する」と言う言葉と、「憎む」という言葉について、正しく理解しておく必要があるのです。私たちは、普通、愛するとか憎むとかいう言葉は、明確な理由もなく、ただ心がそのように感じているというように、感情的な要素が強い言葉であると考えます。ところが、聖書を理解するためには、それだけでは十分ではないのです。聖書の中では、「愛する」と「憎む」というのは、別の意味でも使われているのです。そして、本日の聖書の箇所は、その別の意味で使われる代表的な箇所の一つなのです。つまり、「愛する」と「憎む」という言葉が、感情的な要素とは関係なしに使われるケースがあるということなのです。本日の聖書の箇所の文脈の中では、「愛する」というのは、「選ぶ」ということなのです。そして、「憎む」というのは、「選ばない」ということなのです。この「愛する」と「憎む」ということについて、同じような用いられ方は、旧約聖書の中にも出てくるのです。
例えば、ローマの信徒への手紙の9章の10〜13節で、パウロは旧約聖書を引用して、『それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。』と説明しています。ここで、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と同じ言葉が用いられていることが分かります。これが、どういう意味かと言いますと、アブラハム契約の継承者として、ヤコブを選び、エサウは選ばなかったという意味なのです。そして、神様の選びの計画の確かさは、2人が生まれる前に決まっていたということから分かると言うのです。私たちは、ヤコブが信仰的で、エサウが俗悪であるから、神様はヤコブを愛し、エサウを憎み、ヤコブを選ばれたと考えがちですが、そうではないのです。生まれる前に神様がそのように選ばれた、神様の選びが誕生前から決まっていたということから、パウロは神様の選びの確かさについて語っており、その例話として、創世記の箇所を引用しているのです。
従って、本日の聖書の箇所で、主イエスは何を優先するかという意味で、「愛する」という言葉と「憎む」という言葉を使っているのです。ここで、26節に戻りますが、『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。』とあります。この言葉を誤解して、両親を憎まないと、主イエスの弟子になれないというように解釈したとしたら、主イエスの意図とは違ったものになってしまうのです。それはなぜかと言いますと、旧約聖書の十戒の第5戒には、『あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。』(出エジプト記 20章 12節)とあるからです。そして、主イエスが十戒に反するような教えを語ったことはないのです。今日の箇所では、主イエスは優先順位について、語っているのです。つまり、弟子の第1の条件は何かと言いますと、どんなに大事なものがあったとしても、主イエスよりも優先させてはいけないよと言うことなのです。個人的な居心地の良さよりも、主イエスの栄光が現れることを求めるのが弟子であると言うのです。弟子というのは、2人の主人に仕えることはできない、その決心が出来ていますか。それが本物の弟子なのですよと、主イエスは語られたのです。私たちが本当のところで、何を一番に考えているのかということが問われているのです。
■十字架を背負って
次に、本日の聖書の箇所の27節には、『自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。』と記されています。主イエスの時代の人たちは、十字架というと直ぐに身近なものとしてイメージが湧くのです。そのため、聖書では十字架とか十字架刑について詳しい説明は記されていません。それはなぜかと言いますと、詳しく説明する必要がなかったからです。みんながよく知っていたからです。しかし、現代の私たちは十字架という言葉が出てきたら、それがどういうものであったかを知っておく必要があるのです。ローマ時代の十字架刑というのは、大変残酷なものでした。罪人は、十字架の横木を負わされて、刑場まで歩いて行くわけです。これは、見せしめの刑でもあったのです。横木を負って、刑場まで歩いている間に、その罪人はどういうメッセージを発することになっているかと言うと、ローマの権威によって、強制的にそのようにさせられている、つまり、ローマは正しかった、私が間違っていたということを、その姿を通して、人々に伝えていることになっているのです。それが、ローマが十字架刑を執行する最大の理由であったのです。ローマは正しくて、罪人は間違っていた、それ故、強制的に十字架を負わされているということなのです。主イエスの弟子が十字架を負う際に、ローマの十字架刑と本質的に違っているのは何かと言うと、主イエスの弟子は自発的に十字架を負うのです。
この主イエスの話は、既に救われているキリスト者に向かって語られているのです。すでに救われている人の中には、弟子にならない人もいるのです。自分の居心地の良さや思いを優先させて、救われていても、主イエスの弟子にならない人もいるというのが現実で、このことは現代の教会にとっても関係の深い、大きな課題となっていると思います。その一方で、弟子になろうと思う人もたくさんいると思います。その人たちは自発的に十字架を負うのです。自発的であることに、十字架を負うことに意味があると思います。
現代のキリスト教会で、弟子が育てられてゆくためのあるべき姿は何かということを考えますときに、教師が生徒や弟子に向かって、こうあらねばならないと強制的に形を作ってゆくことではないと思います。聖書的な弟子の訓練というのは、主イエスがお語りになられている弟子としての基本を教えることによって、あなたはそれにどう応答しますかと問い、最後にその人がどう応答するかを決めることだと思います。そうでなければ、本当の弟子は生まれないのだと思います。十字架を負うことの意味は、主イエスが歩まれたように歩むということです。主イエスの歩みとは何かと言いますと、自己犠牲ということであり、辱めを受けるということです。迫害に甘んじるということです。誘惑を受けるけれども、それに対して戦うということです。このように、主イエスが歩まれたように、自発的に自分に死ぬという歩みをすることが、十字架を負うということだと思います。
■塔を建てようとする人のたとえ
さて、本日の聖書の箇所の28〜30節では、『あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。』とあります。これは、犠牲を正しく見積もることを教えるための、塔を建てるというたとえ話です。主イエスのたとえ話は、聞いている聴衆たちにとって、あの出来事を言っているなあと、直ぐに思い浮かべことができることを語っているのです。しかし、現代の私たちにとっては、時代が離れているので、いきなり塔を建てようとする人のたとえ話が出てくるので、そのことを理解するのに少なからぬ違和感を受けるのだと思います。しかし、主イエスの話を聞いている人々にとっては、ははあ、あの話だなということが直ぐに分かるのです。文献を見ますと、紀元27年、つまり主イエスがこの話をしている約3年弱前の紀元27年に、手抜き工事をした円形劇場が崩れ、約5万人の犠牲者が出ているのです。ということは、当時は予算がないために、手抜き工事をしたり、あるいは、まだ完成しないままで放置されたりした建物があちこちにあったということです。
現代でも、建て始めたけれども、そのまま残ってしまったという建物はありますね。バブルの頃に、別荘地として豪華な家々が建て始められたけれども、バブルの崩壊と共に放置された廃屋のニュースをご覧になられた方も多いかと思います。今も昔も同じだと言うことができます。つまり、十分な資金がないままで、塔を建てようとした人が失敗したという話なのです。塔を建てようとしてというのは、前にシロアムの塔が倒れた話をしたかと思いますが、塔は城壁を補強し、見張りのための塔なのですが、同時に農夫であれば、ぶどう畑の周りに見張り塔を建てるということもあったのです。ですから、塔を建てるというのは、当時の人たちにとっては、度々見聞きしていたことであったのです。この例え話では、塔の施主が完成できなかった為に、恥を見ることになるのです。中東の文化に於いては、名誉ということが最も重視されるのです。日本の文化でも、恥をかかされるというのは、相当にショックな出来事です。しかし、中東文化では、それ以上の衝撃的な出来事なのです。最近の中東での紛争を見ておりましても、過剰な報復の連鎖によって、紛争がエスカレートして行っているのが分かります。優しさとか、妥協とかいうのは、中東では弱さのしるしと見られるのです。周辺の国が軍事バランスは自分たちの方が勝っていると考えると、さらに攻撃を受けることになるのです。
従って、そのような中東文化をベースに考えると、この人は嘲笑われることになるのです。そして、恥を被ることになるのです。これは、中東の人にとっては、死ぬよりも辛いことなのです。これが費用を計算しないで塔を建てようとした人の話なのです。
■戦争をしようとする王のたとえ話
主イエスが語るたとえ話はもう一つあるのです。それが戦争をしようとする王のたとえ話なのです。本日の聖書の箇所の31節〜33節を見ますと、『また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。』と記されています。
このたとえ話も最後の結論は、自分の財産を全部捨てるということが弟子の条件になるのだよということです。つまり、あらゆる犠牲を払うのだよ、その心構えが出来ていますかという話なのです。払う犠牲を正しく計算しなさいということなのです。先程の塔が崩れた話というのは、当時の人たちには非常に身近に感じることのできる話であるということをお話しました。現代の私たちにとっては、この唐突に出てきたようなこの戦争をしようとする王の話も、何のことかよく分からない話かと思います。しかし、主イエスの話を聞いている人たちには直ぐに分かったのです。というのは、当時、ある王様が無謀な戦争をして、負けているのです。主イエスがここでほのめかしている王様という人物は誰かと言いますと、ヘロデ・アンティパスという人なのです。ヘロデ・アンティパスという人は、主イエスが「あの狐」(13章32節)と言った人です。ヘロデ・アンティパスは、バプテスマのヨハネの首を刎ねた人です。ヘロデ・アンティパスは、再婚していますが、再婚した相手が自分の兄弟の妻のヘロディアで、娘がサロメです。ヘロディアと結婚するために、もともと結婚していた妻のファサエリスと離婚したのです。離婚されてしまった前妻というのは、アラビアのアレタ王の娘なのです。このアレタ王という王は、当時のローマに従属する周辺国の中では、最強の王なのです。このアレタ王の名前が、パウロ書簡に一度だけ出てきます。コリントの信徒への手紙2 11章32節には、『ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、』とあります。主イエスの周りにいる当時の人がこのヘロデ・アンティパスの状況を見ていると、ヘロデ・アンティパスは大変なことをしたというのは、直ぐに分かるのです。それは、姦淫のために、結婚して真面目に生活していた自分の娘を離縁させるとは何事かとアレタ王が怒るのは当然のことだからです。それで、戦争が勃発したのです。この戦争がアラビア戦争というのです。この戦争で、ヘロデ・アンティパスは大敗を喫するのです。この戦争が、ヘロデ・アンティパスの没落のきっかけとなってゆくのです。
主イエスのこのたとえ話を聞く聴衆には、この戦争のことが記憶に鮮明に残っているのです。ですから、『また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。』と、主イエスが語った時に、聴いている人たちは、ああ、ヘロデ・アンティパスのことだ、無謀な戦争をして、負けて、いい様だなあと、みんな思っているのです。戦争を始める前に、しっかりと考える必要がある。これは勝てる戦争なのかどうか、よく吟味することは死活問題です。それと同じように、主イエスの弟子となるためには、その犠牲をしっかりと見積もりなさいよと、主イエスは語っておられるのです。
この2つのたとえ話は、弟子としての犠牲を数えることの重要性を教えています。つまり、中途半端な態度では、弟子になることはできないということなのです。
■地の塩として
次に、本日の聖書の箇所の34〜35節には、『確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。』とあります。塩気をなくした塩は、何の役にも立たないと、主イエスはおっしゃられました。現在、私たちが家庭で使用している塩が、いつの間にか塩気を失くしたという経験をお持ちの方は、おそらくおられないのではないでしょうか。現代の塩は、塩気がなくなることはありません。それは、精製された塩だからですので、ほとんど全てが塩分ですから、塩気をなくすことはないのです。しかし、この当時は、岩塩なのです。不純物の量が多いのです。塩分というのは、湿気があると、溶解してゆくのです。このため、不純物の多い岩塩は、しばらくすると塩分が溶けて、流れ出して、不純物が残るのです。しかし、見掛けは岩塩ですから、塩だと思っているのです。ところが、味わってみると、塩気が抜けているから、塩ではなくなっているのです。塩気の抜けた不純物は、耕作地の土壌として使うことも、肥料として使うことも出来ないのです。ですから、外に投げて、人々がその上を歩いて、そこで道ができるというくらいの使い方しか出来ないのです。それが、『畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。』ということなのです。主イエスは、弟子も注意しないとそうなるよと、語っているのです。
この聖書の箇所で、塩とは何かと言いますと、塩とは弟子のことなのです。塩とは、弟子が持つ性質のことを言っているのです。どういう意味で、塩の性質と弟子の性質とは同じなのかと、主イエスは語っているのでしょうか。「塩の契約」という言葉が、聖書にあります。例えば、歴代誌下 13章5節には、『イスラエルの神、主が、塩の契約をもって、イスラエルを治める王権をとこしえにダビデとその子孫に授けられたことを、あなたたちが知らないはずはない。』とあります。これは、ダビデ契約のことを言っているのです。このダビデ契約のことを塩の契約と呼んでいます。聖書には、塩の契約という言葉が何度か出てきます。塩の契約とは、どういう契約かと考えてみたいと思います。
まず、塩というのは生きるための必需品です。特に中東の暑い気候では、汗をかきますので、意識的に塩分を摂らないと、体調が悪くなってしまうので、なおさらです。また、塩というのは腐敗防止効果を持っていますので、防腐剤として用いられておりました。さらに、塩は調味料でもあります。さて、塩の契約という言葉が使われているということをお話しましたが、それは何を意味しているのかと言いますと、それは永遠に変わらない契約を意味しているのです。永遠に変わらない契約ということですが、それは塩の性質は永遠に変わらないということから来ているのです。それで、塩の契約というのは、この契約を結んだ者同士、これはずっと続く契約だよねという意味なのです。その契約の時に、当時の習慣で契約の食事をするのですが、その際、塩味のきいた料理が用意されて、契約の当事者同士がそれを食べたのです。ですから、塩分を舌で味わいながら、これが永遠に続く塩の契約だということをユダヤの人たちは確認したのです。
犠牲を計算し、全面的に主イエスに献身する弟子は、主イエスにとっては塩なのです。つまり、そのような弟子は、永遠に変わらない資質を備えているというのです。しかし、見掛けだけの弟子というのは、塩気をなくした、人々の物笑いを受ける弟子だと言うのです。主イエスは私たちが、塩味を失わずに、地の塩としての働くことを期待しておられます。キリスト者が失ってはならない塩味、それが、主イエスの弟子として、主イエスをこそ愛し、依り頼み、主イエスに従って生きるということだと思います。信仰者としての人生を生き抜いていくためには、この塩味を失わないことが大切だと思います。
主イエスの弟子として、主イエスをこそ愛し、主イエスに従って生きる、それは決して簡単なことではありません。そこには、主イエス以外のものを優先してしまうことへの誘惑との戦いがあります。苦しみや悲しみの中で、神様の導きを忍耐して待たなければならないこともあります。「自分の十字架を背負って」というのはそれらのことです。この十字架は、私たちが主イエスの後に従って行くことにおいて背負うものです。何かつらいこと、苦しいことがあったらそれが自分の十字架だ、ということではありません。「人生は重い荷物を背負って百里の道を行くようなものだ」という言葉がありますが、私たちはその人生の重荷と十字架とを混同してはならないと思います。十字架は、主イエス・キリストが私たちの救いのために背負って下さったものです。その主イエスに従っていく歩みにおいて、私たちも自発的に自分の十字架を背負うのです。しかし、主イエスに従っていく中で、私たちが背負う十字架は、既に主イエス・キリストがそれを背負って歩み抜いて下さり、その十字架にかかって死んで下さることによって私たちの救い、罪の赦しを実現して下さり、そして復活して新しい命を得て下さっているものです。この主イエスのご生涯によって、十字架を背負うことが、復活へとつながっていることが約束されているのです。私たちは、主イエスの語る言葉に耳を傾け、主イエスに従って歩んでゆきたいと思います。
それでは、お祈り致します。