小倉日明教会

『見失った一匹を見つけるまで』

ルカによる福音書 15章 1〜10節

2024年 2月18日 受難節第1主日礼拝

ルカによる福音書 15章 1〜10節

『見失った一匹を見つけるまで』

【奨励】 川辺 正直 役員

ジャック、きっと来てくれると思っていたよ

 おはようございます。アントニー・デメロという方の書いた作品に、戦場の兵士の物語があります。戦友が一人戻って来ないので、連れ戻しに行かせてほしいと上官に懇願する兵士の話です。しかし、上官は却下するのです。死んでいるかもわからない兵士を捜すために、生きている兵士を危険にさらすことはできないと言うのです。

 ところが、この兵士は命令に背いて出かけて行き、そして、一時間後に戦友の遺体を抱えて戻ってくるのです。しかも、彼自身も重傷を負ってしまっていたのです。上官は烈火のごとく怒って言いました。「奴は死んでいると言ったはずだ。これで貴重な戦力が2人も減った。遺体を担いで戻ってなんになる」。しかし、兵士は息も絶え絶えにこう言うのです。「そうですが、上官。彼のもとに行った時、まだ息があったのです。彼はこう言いました。ジャック、きっと来てくれると思っていたよ」

 死を受け入れていた戦友は救命処置を求めていたのではありません。兵士としては役に立たなくなった自分をも愛して捜しに来てくれる、人間のかたちをしたふるさとを求めていたのです。

 ルカによる福音書の15章には、よく知られた3つのたとえ話が収められています。見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、そして放蕩息子のたとえです。この3つのたとえ話は「失ったものが見つかることで喜びがわき起こる」という同じテーマを3つのたとえ話を重ねることで強調しているのです。全体に一定のパターンを与える目的で、2つ以上の文の部分に類似の形式を与えることをパラレリズムと言います。ヘブライ語の聖書の詩などでは頻繁にパラレリズムが使われていて、これはヘブル的表現の特徴だと言うことができます。本日は、15章の3つのたとえ話の中の最初の2つのたとえ話について、読んでゆきたいと思います。ルカによる福音書の15章に出てくるたとえ話は、福音書の中で最も有名なたとえ話だと思います。有名なたとえ話が並んでいることもあって、この15章は、ここだけを取り上げて読まれることが多いのではないかと思います。私たちの多くは、そうやってここだけを切り取って、前後の文脈からは切り離された仕方で、それぞれのたとえ話だけについてのメッセージを聞いてきたのではないでしょうか。しかし、私たちは、ルカによる福音書を連続して読んで来る中で、今日、この聖書の箇所にさしかかっているわけですから、ルカによる福音書の文脈の中でこの箇所を読んでいきたいと思います。

ファリサイ派や律法学者たちの非難

 15章の最初のたとえ話は見失った羊のたとえですが、それは4節以下です。3節までのところには、このたとえ話が語られた経緯、事情が語られています。1節〜2節を読んでみますと、『徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。』と書かれています。これが、たとえ話が語られた場面設定なのです。主イエスの立ち居振る舞いについて見てみますと、主イエスというお方は、徴税人や罪人たちを受け入れたお方です。従って、時には食事まで一緒になさったのです。だから、徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たのです。この文脈の中で、罪人という言葉が出てきていますが、この意味するところは、遊女、あるいは、売春婦のことです。主イエスの時代にも、春を鬻ぐ(ひさぐ)女性がいたのです。昔は、社会保障制度がほとんどありませんでしたので、生活苦からそのようになった女性はたくさんいたと思います。ですから、ここでは徴税人と売春婦たちが主イエスのもとに来たということなのです。それはなぜかと言いますと、主イエスというお方に魅力を感じたのです。主イエスの言葉に力を感じたのです。主イエスが語られている言葉と行動が一致するのを見たのです。主イエスというお方の魅力を彼らは感じ取ったのです。徴税人と罪人である売春婦たちが主イエスというお方の魅力に惹かれて、主イエスの周りに集まって来ているのです。

 それに対して、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、どうかと言いますと、主イエスを非難するのです。彼らはなぜ主イエスを非難するのでしょうか。彼らは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と言っています。ファリサイ派の人々や律法学者たちが言っている意味はどういうことかと言いますと、『もしイエスがメシアであるなら、イエスは徴税人や売春婦たちと交際するはずがない。だから、イエスはメシアではない。』と言っているのです。つまり、ファリサイ派の人々や律法学者たちは口伝律法に固執していたのです。彼らは、口伝律法というモーセの教えではない、人間が教えた教えに固執していたために、主イエスがメシアであることが分からなかったのです。彼らは口伝律法に基づいて主イエスを批判している訳ですが、紀元1世紀に於いて、ユダヤ人たちが口伝律法に従っていた時にどうなっていたのでしょうか?口伝律法では、徴税人や売春婦たちと交際することを一切禁じていたのです。もう少具体的に言いますと、ファリサイ派の人々は徴税人たちとは売買取引をしてはいけない、つまり、徴税人たちから何かを買うことも、徴税人たちから何かを買うことも禁じられていたのです。それだけではないのです。ファリサイ派の人々は、徴税人の食卓につくことも禁じていたのです。一緒に食事をしてはいけないのです。ですから、主イエスが徴税人や売春婦たちと一緒に食事をするというのは、とんでもないないことだったのです。どうして徴税人と一緒に食事をしてはいけないというように言われていたか、お分かりになりますでしょうか?

 その理由は、彼らが考えていたのは什一献金ということなのです。什一献金というのは、毎月収入の10%を信仰共同体に献金することを言いますね。徴税人というのは、通常、貪欲ですので、什一献金をしていない可能性があるのです。つまり、10分の1を神様に返していない人の食事を食べると、あなたは、本来は神様の分を食べてしまうかもしれないよ、ということなのです。現代に於いて、ユダヤ人たちが飲むワインというのは、「カシュルート」と呼ばれるユダヤの厳格な食物規定に適合したワインで、コシェルのワインと言います。このコシェルのワインというのは、どういう規定に適合したワインかと言いますと、1)作る人たちが安息日を守っていること、2)作る人たちが、神様に対して頭を隠すことで謙遜の意を表す円形の小さな帽子であるキッパーをかぶって仕事をしていること、3)7年に1度土地を休ませていること、そして、4)製造したワインの10分の1は地に戻していること、こういった規定をクリアしているものがコシェルのワインと言うのです。このコシェルのワインからも分かりますように、10分の1を神様に返すということを事細かく考えるが故に、細かい口伝律法の規定を頭の中に意識しているファリサイ派の人々は徴税人の食卓につくことを禁じたのです。もちろん、ファリサイ派の人々は徴税人を食卓に招くことも禁じたのです。

 もう一つ驚かされるのは、ファリサイ派の人々は罪人の面前で清めの律法について論じることも禁じていたのです。徴税人や売春婦たちのような罪人がいたら、そこで清めの律法について論じたらいけないというのです。なぜかと言いますと、彼らは罪人が清められることを望まなかったからなのです。もう一つ凄いのは、ファリサイ派の人々は罪人がいる前で、良き手本となってはいけないと言うのです。なぜかと言いますと、罪人が悔い改めて救われてしまうかもしれないからだと言うのです。ファリサイ派の人々は、神様は罪人の死を喜ばれると考えていたのです。罪人は、罪人のままで罪の中に閉じ込めて、そのまま死んでゆくことを神様が喜ばれると考えていたのです。それが、ファリサイ派の人々の誇りであり、口伝律法の教えであると考えられていたのです。主イエスは、そういう口伝律法の誤りを山上の説教で修正をしているのです。主イエスは、山上の垂訓で、あなた方は口伝律法で何々と聞いてきた、しかし、私は何々と言うと言っているのは、口伝律法の誤りを指摘して、モーセの律法の正しい解釈を教えているのです。

 ルカによる福音書15章の3つのたとえ話は、ファリサイ派の人々が口伝律法に基づいて、徴税人や売春婦たちはこう取り扱うべきだと思っていたことに対して、否と言っているのです。主イエスは、この3つのたとえ話によって、これが、神様が彼らを扱う方法なのだよと言っているのです。従って、本日の聖書の箇所は、徴税人や売春婦たちと、ファリサイ派の人々及び律法学者たちとの対比となっているのです。この両者の対比から、15章のたとえ話を見ると、これらのたとえ話のポイントが見えてくるのです。そこで、ここから3つのたとえ話が始まるのです。これらのたとえ話は、主イエスがファリサイ派の人々に反論するためのたとえ話なのです。

「見失われた一匹の羊」のたとえ

 ここで、不平を言っているファリサイ派の人々や律法学者たちに、主イエスは「見失われた一匹の羊」のたとえをお語りになるのです。3節〜7節を見ますと、「そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と記されています。このたとえ話ですが、主人公は羊飼いです。この羊飼いが誰のことを指しているかと言いますと、それは主イエスを指しているのです。

 しかし、羊飼いという言葉が、ファリサイ派の人々にとって、何を意味していたのかが問題となるのです。職業的には、ファリサイ派の人々は羊飼いを見下していました。従って、羊飼いの話が出てきた途端に、ファリサイ派の人々は、腹の中で何だそれはと、馬鹿にしていたと思います。ということは、15章の3つのたとえ話の全てで、主イエスは、まず最初にファリサイ派の人々が拒否するような内容でたとえ話を話し始めているのです。そのことは、2つ目のドラクメ銀貨のたとえ話の主人公は誰かと言いますと、女の人であることからも分かります。ファリサイ派の人々は、女性の権利は認めていなかったのです。ですから、2つめのたとえ話が女性の話になったときにも、腹の中で、馬鹿にしていたと思います。ですから、主イエスが話されるたとえ話は、話の冒頭から、ファリサイ派の人々にとって、心を閉ざすような構造になっているのです。3つ目のたとえ話の主人公は、放蕩息子の父親です。この父親は、弟の息子に、お父さん遺産をくれと言われているのです。このお父さんは、まだ元気で働いているのです。それなのに、息子がそのように言うのは、お父さん、早く死んでくれよと言っているのと同じなのです。ユダヤ人の父親は、そういう場合には、権威を持って、息子を張り倒す、それが賢い父親だと考えられていたのです。しかし、この父親は弟の息子に財産を分けているのです。従って、ユダヤ人にとって、この父親は愚かな父親なのです。従って、この3つ目のたとえ話も、ファリサイ派の人々にとって、心を閉ざすような構造になっているのです。羊飼い、女の人、愚かな父親というように、全て、ファリサイ派の人々が心を閉ざすような形でたとえ話が始まっているのです。ということは、本当に心砕かれて主イエスの話に耳を傾けるつもりがないと、主イエスのかけた仕掛けに絡み取られてしまうということだと思います。

 さて、今日の聖書の箇所の最初のたとえ話の中の「見失われた一匹の羊」というのは、悔い改めた罪人を指しています。この羊飼いは、合計100匹の羊を飼っていたのです。100匹というのは、羊の群れを移動させますので、羊飼いが一人で導くことのできる平均的な数なのです。100匹の羊を、1人の羊飼いが導いているのです。その中の1匹がいなくなったのです。そして、99匹が残されたのです。さて、残された99匹は誰を指しているのでしょうか?見失われた1匹は、悔い改めた罪人です。そうしますと、このたとえ話の対比しているものを考えれば、残された99匹というのは、ファリサイ派の人々と律法学者たちを指していることが分かるかと思います。この99匹は、安全な囲いの中に残されているのではありません。いつ野獣に襲われたり、盗人に連れ去られたりするか分からない、野原に残されているのです。野原というのは、原文では荒野です。7節で、『悔い改める必要のない九十九人の正しい人』という言葉が出てきますが、悔い改める必要がない訳ではないのです。自分たちは、悔い改める必要がないと考えている99匹なのです。そして、この羊飼いはどこまでも見失った1匹の羊を捜し回るのです。さらに、見つかると、『喜んでその羊を担いで』帰るのです。羊飼いは、羊を肩に担ぐのですが、これが絵画や彫刻などで良き羊飼いとして描かれる羊飼いの姿なのです。この羊飼いに担がれた羊の姿は、悔い改めた罪人、つまり、主イエスを受け入れた罪人が、主イエスと本当に親密な関係にある姿を表しているのです。私たちは、主イエスの肩に担がれて、人生という道を歩いているのです。私たちは、主イエスに語りかけようとしたら、方に担がれた羊のように、すぐそばに主イエスの耳があるのです。そして、その羊飼いは友達や近所の人々を呼び集めて、共に喜ぶと語られているのです。

 この「見失われた一匹の羊」のたとえ話で語られている神様の喜びとは何なのでしょうか?神様が何を喜ばれるのかを考えてみますときに、7節で、『悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。』と記されていることに気がつくかと思います。『天』と書かれている言葉は、神様のことです。ユダヤ人は、神という言葉を使いませんので、天という言葉になっているのです。『悔い改める一人の罪人については、』大きな喜びが天にあることだ、神様はそのことを大いに喜ばれるというのです。99匹はどうでもいいという意味はここには全く示されていません。ここでは、『悔い改める必要のない九十九人の正しい人』というのは、ファリサイ派の人々であり、律法学者たちなのです。彼らは、自分たちは悔い改める必要がないと考えていました。ここに、主イエスに近づく道が2種類あるということが分かります。1つ目の道が、口伝律法を守る、つまり、技によって救いを得ようとする道と、もう一つが信仰を持って近づくという道です。神様は、信頼を持って近づくことを喜んで下さるのです。そして、もう一つは、神様の友とは誰かということが明らかになります。共に見失われた羊の回復を喜ぶ人が神様の友なのです。友達や近所の人々が、共に喜んでいます。この聖書の箇所では、ファリサイ派の人々や律法学者たちは喜んでいないのです。主イエスを非難しているのです。つまり、主イエスを非難するファリサイ派の人々や律法学者たちは、神様の友ではないということを示しているのです。これがこの「見失われた一匹の羊」のたとえで明らかになったことなのです。そして、これと同じテーマが、「無くした銀貨」のたとえで繰り返されるのです。

「無くした銀貨」のたとえ

 本日の聖書の箇所の8節〜10節を見てみますと、『あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」とイエスがお語りになられていることが分かります。この「無くした銀貨」のたとえでは、主人公は女の人です。先にお話しましたように、ファリサイ派の人々は、女性の価値を認めておりませんでしたので、主イエスはこのたとえ話でも、ファリサイ派の人々が最初から拒否するであろうという構造で語り始められておられることが分かります。

 この女性は、ドラクメ銀貨を10枚持っていると書かれています。このドラクメ銀貨というのは、1枚が1ドラクメのギリシアのコインです。私たちはドラクメという通貨はあまり聞くことはないかと思いますが、聖書を読んでいますと、デナリという通貨はよく耳にするかと思います。1デナリが労働者1日分の給与の価値があるのです。ドラクメとデナリとは、貨幣的には同じ価値のものなのです。この女性が、ドラクメ銀貨10枚を持っていたというのは、労働者10日分の賃金の価値がある銀貨を持っていたということです。このドラクメ銀貨10枚というのは、おそらく花嫁料であったと考えられます。花嫁料というのは、結婚をする前に、花嫁が頂くプレゼントであったのです。誰からもらうかと言いますと、花婿からもらうのです。あるいは、父親から花嫁料を受け取ることもあったのです。紀元1世紀のパレスチナでは、ドラクメ銀貨10枚というのが、この花嫁料の標準的な相場であったのです。この花嫁料というのは、離婚してもこの女性が所有権を主張できるお金だったのです。ということは、この花嫁料というのは、女性を守るために、僅かばかりであっても、女性が自分の財産を持つというものなのです。

 さて、この女性はドラクメ銀貨を10枚持っていたのですが、1枚を無くしたのです。この1枚無くしたというのは、貨幣的な損失ということ以上に、精神的なダメージがあったのです。10枚持っているということは、現代で言えば、あたかも結婚指輪を嵌めているのと同じような象徴的価値があったのです。それが、1枚無くして、9枚になったというのは、10という数字が欠けてしまったということなのです。それ故、この女性は必死で探し始めるのです。私たちは、そんなに必死ならなくても直ぐに見つかるのではないかと、現代の私たちは考えてしまうかと思います。しかし、現代の私たちが暮らしている家と違って、主イエスが生きておられた当時の家では、そんなに簡単には見つからないのです。当時のパレスチナの貧しい人の家というのは、床が土間なのです。ということは、床がデコボコで、裂け目やすき間がたくさんあるのです。しかも、建物の強度を維持するために、小さな窓しかつけられないので、昼間でも暗いのです。ですから、直ぐには見つけられないのです。この女性は、念入りに探すのですが、そのために何をしたかと言いますと、『ともし火をつけ、』とありますが、手で持つランプに火を灯したのです。窓が小さいので、窓から差す光がとても小さいので、『ともし火をつけ、』それから、家を掃いたのです。どうして、箒(ほうき)で掃いたのでしょうか。それは、無くした銀貨がどこにあるか分からないからで、銀貨があれば、箒で掃けば、チャリンと音がするのです。銀貨の音がして、見つけるまでやると言うのです。それはなぜかと言いますと、その辺にあることが分かっているからです。見失った羊の場合と違って、銀貨は家で落としたからです。家の中で落とした貨幣がどれだけ見つけ難かったということは、考古学者が古代の家を発掘すると、時々、コインが床の裂け目から出てくることから分かります。しかし、この見つけ難い床の裂け目から出てきたコインというのは、考古学調査ではとても役に立つのです、それは、コインがいつ頃使われたものであったかが分かると、その家に人がいつ頃住んでいたのかという年代推定ができるからなのです。現代では、失われたコインは、古代の家の年代推定に役立っているのです。

 ところで、この女性は、探し続けるのです。そして、ついに見つけるのです。それから、「見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言う」というのです。主イエスが、『神の天使たちの間に喜びがある。』と語りましたが、ユダヤ教の伝承では、天使たちは地上における神様の働きに大いに関心を抱いている、それ故、天使たちも一緒に罪人の救いを喜ぶのです。この「無くした銀貨」のたとえ話での神様の喜びとは何なのでしょうか?1枚のドラクメ銀貨が見つけ出されたことを喜ぶのです。1人の罪人が救われたことを喜ぶのです。残りの9枚の銀貨は、ファリサイ派の人々や律法学者たちを指しています。彼らは、自分たちは悔い改める必要がないと考えている者たちです。神様の友とは、誰のことでしょうか?この女性と共に、銀貨を見つけたことを喜ぶ友達や近所の女たちです。従って、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、神様の友ではないのです。

なくなったものの価値

 本日の聖書の箇所の2つのたとえ話で、なくなったものの価値が、話の後半に往くほど増しているのです。1つ目の「見失われた一匹の羊」のたとえでは、最初は羊が100匹で、見失ったのは1匹で、100分の1なのです。2つ目の、「無くした銀貨」のたとえでは、最初が10枚で、無くしたのは1枚ですので、10分の1なのです。さらに、3つ目の放蕩息子の帰還のたとえ話を考えると、2人の息子の内の1人であることから2分の1なのです。この3つのたとえ話は、100分の1、10分の1、2分の1というように、失われた衝撃が大きくなっていっているのです。このことは、神様がいかに私たちを愛しておられるかということが、クライマックスに向かって、切実に表現方法が深くなって行っているのです。

 さらにもう一つ、注目したいのは、三位一体の神様が全て失われた者を探し求めることに関与しているということです。見失った1匹の羊を捜し回る羊飼いは、主イエスのことを指し示しています。つまり、子なる神様が見失った羊を捜し回っているのです。ユダヤ教のラビの中には、例外的ではあるのですが、罪人が神様のもとに来て、悔い改めるのなら神様は赦して下さると、教える者もいたのですが、主イエスのこの教えは、さらに革命的なものであったのです。なぜかと言いますと、この教えは罪人が来たら赦すというのではなくて、神様ご自身が失われた者を捜し回っているというのです。そして、主イエスご自身が、まさに捜し回って下さらなければ、私たちは今日、この教会にはいなかったと思うのです。主イエスが捜し回って下さらなければ、私たちは神様のことを神様とも思わず、自分勝手に生きようとしていた私たちが、主イエス・キリストを信じるようになり、今日、この小倉日明教会に集まって礼拝しているというのは、主イエスによって、まさに見出されたということなのだと思います。私たちを捜し回る羊飼いの労苦を思います時に、見つけるまで捜し回るというのは、当たり前のこととは考えることはできません。主イエスの生涯を思います時に、誕生の時から、天から地に降られるという、想像を超えて危険に満ちた長い旅を経て、私たちを探すために来て下さったのです。主イエスの公生涯は、埃だらけの道を、サンダルを履いて、歩きながら、サマリアのヤコブの井戸のほとりで、喉の乾きに耐えておられたこともありました。人々から拒否されたこともありました。主イエスは、愛を与え尽くしたけれども、人々はさらにしるしを見せろと言って、主イエスに反抗しました。最後は十字架につけられ、死んで葬られ、そして、3日目に復活されました。ですから、羊飼いである主イエスが私たちを見出すために歩いた距離、歩いた道のりは、愛以外の何物でもないと思います。主イエスは、今日、なおも私たちを探し求めておられると思います。私たちは、探し求めておられる主イエスの思いに、信仰によって応えて行きたいと思います。

 「無くした銀貨」を探す女性は、聖霊なる神様を指し示しています。この女性は、ともし火を掲げて、探し回っています。それは、御言葉の光を掲げて、聖霊が失われた人を探しているということです。この女性は、部屋の中に失われた銀貨があることが分かっているのです。ですから、失われた銀貨よ、どこにいるのですかと、お前に口があるのなら、ここにいると応えなさいという切実な思いで、探し回っているのです。創世記3章で、アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べて、「どこにいるのか。」という神様の声を聞いた時、アダムとエバはエデンの園の木の間に身を隠したのです。そして、神様は怒られて、「どこにいるのか。」と言われたのです。神様は、アダムとエバがどこにいるのかは、ご存知なのです。しかし、彼らの方から出てくるように、神様は声を掛けて下さったのです。神様は、私たちがどこを通り抜けて、どこに身を隠そうとしても、全てご存知で、それでもなお、御言葉の光を掲げて、私たちを見つけ出そうとしておられるのです。

 最後が、放蕩息子を持つ父のたとえ話です。この話の父親は、父なる神様を指し示しているのです。ルカによる福音書の15章というのは、ですから、子なる神、聖霊なる神、父なる神が全て、見失われた大切な命を探し求めている神様の愛が、切々と語られている箇所なのです。三位一体の神様が、いかに私たちの人生に深く関わっているかということを、私たちは覚える必要があると思います。私たちが、信仰に生きるということは、これほどまでして私たちを探し回ってくださっている三位一体の神様を信頼するということから始まるのだと思います。私たちは、三位一体の神様を信頼し、主イエスによって語られた言葉の一つ一つに応えて、主イエスに従って歩んでゆきたいと思います。  

 それでは、お祈り致します。