■憤慨して
イエスさまと人々との出会いの場面は様々ですが、そのどれもが、わたしたちのたどたどしい歩みに、勇気と、生きる意味と、希望を与えてくれます。
「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』」(三~五)
マリアとユダの出会いの中で交わされたこのユダの言葉を、皆さんはどう思われたでしょうか。なるほど、それもそうだ、と頷(うなづ)かれはしなかったでしょうか。
表面的に見る限り、マリアのふるまいは「気持はわかるけど、どうもちょっとね」という感じがしないでもありません。当事者というものは、一生懸命になりすぎるあまり心にゆとりを失い、自分のしていることが他人(ひと)の目にどう映っているかとか、それが相手にどういう結果をもたらすかということについてまで、考えが及ばないことが多いものです。それにひきかえ傍(はた)から見ていたユダの目には、マリアのふるまいは、その動機は純粋でイエスさまヘの感謝に溢れているにしても、その表現の仕方はそれで良かったのだろうか、もっとふさわしい表現の仕方があったのではないか、それはイエスさまにとっても意に沿わぬ有難迷惑なものではなかったのかと写り、疑問が生じたのでしょう。
売れば、三百デナリオンにもなるとあります。当時の一年間分の給料に当たります。今で言えば、何百万円にもなる最高級の香油です。食べ物に換えれば、多くの人が十二分に食べても有り余るほどになります。そんな贅沢で貴重な香油の香りが、ベタニアに暮らす人々の貧しい食卓の肉や野菜の臭いを突き放すように、芳(かんば)しく薫(かお)りました。
その時のことです。同じ出来事を記すマルコ福音書一四章には、「そこにいた人の何人かが、憤慨して」とあります。食事の席に一緒に着いていた十二人の弟子たちやシモンばかりか、料理の用意をしていたマルタたちも炊事場から飛び出してきた、そんな光景が目に見えるようです。女たちは高価な香油の香りに敏感だったでしょう。誰もが「憤慨して互いに言った」。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。「貧しい人々に施しをする」ことは、律法に定められた「善行」です。声に出して、はっきりと咎める男たちに賛同し、「当然だわ」「あきれるわ」と言わんばかりに大きくうなずく女たちの冷たい視線を感じます。 マリアは反論の余地もないほどの正論を浴びせかけられました。そしてヨハネ福音書によれば、マリアにそんな疑問を率直に表明し、憤慨と共に正論を浴びせたのが、他の誰でもない「ユダ」でした。
このマリアに対するユダの批判は、わたしたちのものです。他人のやっていることが赦せなくて、苛立(いらだ)ったということはないでしょうか。このときのユダがそうです。マリアの言動が気になってしようがありません。何ともったいないことだろう、それでどれだけの人が救えるだろう、愚かことをする女だ!ユダは、マリアの誤りを正そうとします。一見、ユダの正義の怒りに見えます。
■同じ欠点
しかし、実は違っていました。
「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」(六)
悲しいことに、ユダ自身が問題を抱えていました。彼は弟子たちの中で会計係を担当していましたが、その金をごまかしていたと言います。誰よりも愚かだったのは、偽善者だったのは、ユダ自身でした。そんな自分の弱さを、愚かさを強烈に意識していたからこそ、マリアのお金の使い方にユダはいち早く反応したのかもしれません。罪を抱える者こそ、同じような罪を持つ相手に敏感に反応するものです。心静かに振り返ってみれば、他人の言動に苛立つ時、わたしたちはしばしば、相手の中に自分と同じ欠点を垣間見ています。自分の欠点を相手の中に見いだす時、人は怒り出します。
そんな惨めな人間の姿を、イエスさまはこんな言葉で暴きます。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず、自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」(ルカ六・四一~四二)
おが屑と丸太、どちらも同じ材質、木材です。そう、わたしたちは相手の中に、同じ材質のもの、自分と同質の欠点を見いだす時に苛立ちます。自分が丸太のような大きな問題を抱えているのに、いえ、だからこそ、相手のおが屑程度のことが気になってしようがないのです。おが屑に、他ならぬ自分自身を見てしまうからです。
ある時のこと、わたしはどうしてもある人のことが好きになれず、彼の悪口をブツブツと妻の前で言いました。すると、それを聞いていた妻がこう答えます。「ハハハ、あの人、あなたとよく似てるわよ!」何とひどいこと言う妻でしょう。しかし…図星です。自分が見ないようにしてきた自分の欠点、抑えつけていた何かを、わたしは彼の中に確かに見ていたのです。それは悔しくても、否定できません。自分が一番見たくないものを、彼を通して無理矢理見せられていたのです。
これはとても辛いことです。ユダも一番見たくない自分の問題を、マリアを通して見せつけられたのでしょう。だから、必要以上にこだわり、騒いでいます。マリアを前にユダは、本当はおびえているのです。震えています。
■沈黙の中で
一方のマリアはどうでしょう。彼女は騒々しいユダの非難をよそに、沈黙の中にいます。一言も語りません。立ち入りがたい静けささえ感じられます。どうしてマリアは、別世界にいるかのように黙っているのでしょうか。この静けさの意味を、聖書はよく似た別の物語で説明します。それは異なった登場人物を配してはいますが、マリアとユダのこの物語とほとんど同じ筋の物語です。
ある罪深い女がイエスさまを愛し、その足に香油を塗りました。この女もとても静かで一言も語りません。ところが、それを見ていたシモンという人が、「イエスはこんな卑しい人間と付き合うのか」と忌ま忌ましく思います。すると、それを見抜いたイエスさまがシモンに向かって話し始めました。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。…この人(罪深い女)を見ないか。…あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ七・四一~四七)
イエスさまは女の愛の深さを、女が「五百デナリオン」の量の罪を神から赦されたからだ、と説明します。一方、シモンの愛の少なさは、「五十デナリオン」の量の罪を赦されただけだからだ、と言います。ここで言う、五百デナリオンと五十デナリオンの違い、それは罪の量の違いではありません。それは、あくまで「罪の自覚」の量です。神から見れば、シモンも女も同じ五百デナリオンの借金があるのです。ところがシモンは、それを五十デナリオンしか自覚できていないね、とイエスさまは言われるのです。多額の借金を許された方が金貸しを愛するように、罪の自覚が大きい女の方が自覚のないシモンよりも深く、神の赦し、神の愛に感謝できる、と言われているのです。シモンは自分には甘く、他人のおが屑しか見えない。しかし女は他人のおが屑よりも、自分自身の丸太を、借金全額を図らずも発見しているのです。
この借金全額の自覚こそ、立ち入りがたい静けさを人に与えます。ユダの前で座り込むマリアも、間違いなくこの自覚を持っていました。マリアも自分の中の正確な罪の量を、五百デナリオンを、丸太を、強烈に自覚してしまったのです。一番見つめたくなかった自分の問題を、イエスさまを通して生まれて初めて見せつけられました。その時、彼女の視界から他人のおが屑が消えました。彼女に見えるのは、自分が今まで心の底に抑え続けてきた、大きな丸太だけです。イエスさまを通し、自分自身の本当の姿とマリアは出会ったのでした。
■受け入れられる
マリアがイエスさまに香油を塗った時、家は香油の香りでいっぱいになりました。それは、自分の丸太を見いだし、自分と出会った者のみが醸し出す、豊潤な香りでした。その香りを、ユダはどんな気持ちで嗅いだことでしょう。自分自身と出会えないユダが、自分自身と出会ったマリアの香りを嗅ぐのです。その出来事を目の当たりにするのです。はがゆいほどの悲しさがそこにはないでしょうか。そう考えると、ユダのことが少しばかり可哀想になってきます。
本当はわたしも、自分自身とだけは出会いたくないのです。ユダやシモンのように、自分の丸太だけは見たくはありません。それよりも、他人のおが屑探しの方が楽しいにきまっています。みなさんはいかがでしょうか。
「宇宙飛行は自己逃避にすぎない。なぜなら、自我の奥底に分け入るよりも、火星や月に向かうほうが楽だから」とのユングの言葉は、全くその通りです。自分の丸太を見ないためなら、やがてわたしたちは銀河系をも突破することでしょう。そして、他人のおが屑を発見しては喜び踊り、宇宙の果てまで憎み合うことでしょう。自分は変わらないまま、相手に変わることばかりを要求し、結局何も変えられず、死のときを迎えることでしょう。
そんなわたしたちの前に、ひとりの女が深く静かに沈むように、座っています。自我の奥底に分け入り、借金全額五百デナリオンを、目の中の丸太を見いだし、自らと出会ったマリア。この女のことを、部屋に満ちる香油の香りを、わたしは深く恐れるほかありません。
そしてこのとき、イエスさまはそんなマリアを受けとめてくださいます。
「するままにさせておきなさい。」
この言葉によって、イエスさまはマリアのしたことすべてを受け容れられました。マリアの考えを、思いを認められたのです。周囲の傍観者的な、偽善的な批判者たちに対して、たった一人、マリアの傍らにあって理解を示されたのです。ただイエスさまだけが、この時、彼女の味方になってくださったのでした。
わたしたちはここに、イエスさまのマリアに対する無条件の受容、愛を見ることができます。彼女のしたことは、わずか数分のことでした。どんなに高価な芳しい香油でも、注がれてしまえば、その香りはやがて消えてしまいます。それで、飢えが減るわけでもなく、生きることにプラスになるわけでもありません。たしかに合理的に考えれば、彼女のしたことは賢明な行いではなかったかもしれません。しかし、イエスさまはそんな常識的な枠を超えて、マリアの思い、行い、存在、そのすべてをあるがままに、全面的に受け入れられたのです。
■葬りの準備
そしてマリアの行いに、「わたしの葬りの準備だ」という、この上もない意味をお与えになったのです。
この香油を注いだマリアのように、わたしたちの人生の意味は、しばしば隠されています。しかしマリアの行いに、イエスさまが彼女の知恵では思いもつかない大きな意味を与えられたように、神はわたしたち一人ひとりをそれぞれに異なる目的をもってお造りくださり、導いてくださっているのです。だから、それでいいのです。神がわたしたちを造られた以上、神が責任を持ってくださるのです。そこにお任せしていいのです。イエス・キリストがわたしを受け入れ、「そのままでよい」と受容し、存在を認めてくださっている以上、その愛の中でわたしたちの存在の意味、人生の意味はもう既に与えられていて、他の人々には隠されていても、そこには大きな意味があるのです。
イエスさまが、わたしたちのことに責任を持ってくださり、不都合なことまで含めて、すべてを赦してくださった。ご自身が十字架にかかられ、神の御前によしとされる者にしてくださった。そこにキリストの赦しと、計り知ることのできない愛があるのです。 イエス・キリストは、到底受け入れることのできないものさえをも無条件で受け入れてくださり、十字架という大きな重荷を負ってくださったのです。イエスさまは、とうてい不可能と思われることを、ご自身が十字架に死ぬことを通して可能にされたのです。主ご自身の十字架の死と復活においてのみ、初めて成り立つ、大いなる受容です。これは、神の側からの全くの賜物、恵み、神の愛なのです。