■医師がさじを投げるとき
おはようございます。私の知り合いで胃がんを患った人の話を聞いたことがあります。彼は1年以上に及ぶ長い入院生活の中で、胃の全摘手術を受け、退院後は食事療法と生活習慣の改善による免疫力を高める治療に全てを掛けて、通常の日常生活を取り戻すところまで回復したのです。彼の話を聞くと、私などは、これはもう奇跡の生還だと思ってしまうのですが、彼に言わせると、彼のケースは奇跡の生還ではないのだそうです。
彼は、がん病棟に入院しておりましたら、たくさんの人が亡くなってゆくのを見ています。亡くなられてゆく方々には、もちろん苦しい闘病生活があったわけですが、いよいよ末期となって、手の施しようがなく、効果のある治療法も考えつかない状態になると、医師がさじを投げるときが来るのだそうです。そして、さじを投げるというのは、医師から家族に、もししてやりたいと思うことがあれば、民間療法であっても、して頂いて構わないし、身体に良いと思われる食べ物や薬も、本人が望めば与えて頂いても構わないという、お許しが出るという形で行われるのだと言うのです。そして、この医師の宣言に対して、家族や親類の中には、「これが良く効くということを聞いた!」と言って、何かのキノコを持ってきて、食べさせたり、この石を身に着けていたらきっと治ると言って持ってきたりする人がいるのだそうです。それでも、多くの場合は、家族や親族が走り回る甲斐もなく、医学書に書かれている通りに、亡くなってゆきます。しかし、年に1人くらいですが、医師がさじを投げたところから、奇跡の生還を果たす人が出るのだそうです。そして、奇跡の生還を果たす人に共通するのは、必ず、医師がさじを投げた後に、家族や親戚が動き回って、何かをしているのだそうです。家族や親戚が何もしなかった人の中からは、奇跡の生還を果たした人は、一人もいないのだそうです。
さて、本日の聖書の箇所で、病気で死にかかっている百人隊長の僕が登場します。死にかけている僕の主人である百人隊長は主イエスに味方になって頂きたいということをお願いしています。この百人隊長について、主イエスは「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と驚いておられます。本日は、主イエスが何に驚かれたのかということを皆さんと一緒に学びたいと思います。
■異邦人の百人隊長
本日の聖書箇所は、6章20節から始まる主イエスの「平地の説教」の結びの部分ルカによる福音書の第7章に入ります。6章の20節から終わりまでのところは、「平地の説教」と呼ばれる、主イエス・キリストがお語りになった説教が記されていました。7章からは再び主イエスの活動を語る部分に入ります。本日の箇所の舞台は1節にあるようにカファルナウムです。この町にはシモン・ペトロの家もあり、主イエスのガリラヤにおける活動の拠点となっていた町でした。この町にいたある百人隊長から、主イエスのもとに使いが来たのです。百人隊長というのは、ローマ帝国の軍制の中で、60人から100人の兵隊たちを率いる隊長のことを言います。今日の聖書の箇所で登場する百人隊長については、ローマ帝国の軍人とよむ解釈以外に、当時、ローマ帝国の属領としてガリラヤ地方を治めていた、ヘロデ・アンティパスという人の部下と読む解釈もあります。しかし、私は今日の聖書の箇所に登場する百人隊長は、ローマ帝国の軍人と読むべきだと考えるのです。まず、カファルナウムは交通の要衝であり、当時ローマ軍の駐屯地があったことから、ローマ軍の百人隊長と考えることに無理はありません。それから、この百人隊長は、ユダヤ人たちの信仰に理解があり、主イエスに対して謙遜であり、僕との間に厚い信頼関係がある、という点から、よく訓練され、見識があり、高潔な異邦人であると考えることができることから、高度の教育を受けたローマの貴族の子息であると考えられると思います。
このローマ軍の百人隊長が、3節にあるように、ユダヤ人の長老たちを、主イエスのもとに使いとして送ってきたのです。ユダヤ人の長老たち、つまりこのカファルナウムの町の指導的な立場にある有力者たちです。しかも、神様の民であるという自覚と誇りをもっているユダヤ人たちの中心をなす人々です。その長老たちが、異邦人でもあり、彼らの支配者でもある百人隊長の使いとなって主イエスのもとに来るというのは驚くべきことです。普通、ありえないことだと言って良いでしょう。どうして異邦人である百人隊長のためにそのような便宜を図っているのか、そのことが彼らの言葉から分かります。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」。この百人隊長は、ローマの軍人には珍しく、ユダヤ人たちの信仰に理解が深く、この町の会堂を建ててくれたのです。その会堂を建てたというのは、会堂の建設のための、殆どの金額を献金した、ということでしょう。これも驚くべきことです。このことに恩を感じている長老たちは、喜んで彼の使いをし、また、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と熱心に口添えをしたのです。
彼らはどういう使いとして来たのでしょうか。それは、この百人隊長の部下が病気で死にかかっているので、助けに来て欲しいという願いを伝えるためでした。ここでは「部下」と訳されていますが、使われている言葉は「僕」です。口語訳聖書や改定された新しい新共同訳聖書ではそのように訳されていました。新共同訳でも7節では「僕」となっています。そして僕とは奴隷のことです。また、2節の「重んじられている」という言葉には「価値のある」とか「大切な」という意味もあります。当時の奴隷制度を考えるとき、主人が病気の奴隷に対して、ここまでするというのは特別なことです。
なぜ、百人隊長にとってこの僕は大切な存在だったのでしょうか。裕福な古代ローマの貴族は、その子息に対して、同年齢の奴隷の子供の中で、優秀で見どころのある者を、特に忠実な奴隷として、2〜3人の従者をつけていました。この特に身近な従者となる奴隷は、子息の目となり、耳となる役目を負う者たちであり、子息が軍人として戦場で戦うときには、身体を張って、子息の命を守る者たちであり、子息がローマの執政官としてその職務をはたすときには、業務を担い、意見を具申するブレーンとなるのです。そのため、ローマの貴族はこの従者となる奴隷の子どもを小さな頃から、その子息と同じ家庭教師の教育を受けさせ、共に遊ばせ、共に軍事訓練を受けさせたのです。従って、この百人隊長にとって、この僕は、奴隷ではあっても、自分の肉親以上に親しい、自分の身体の一部と言っても良いほどの大切な存在であったのです。その僕が病気で死にかかっている。何とかして助けたいと思って百人隊長は、当時評判になってきていた主イエスのお力にすがろうとしたのです。そのために、ユダヤ人の長老たちに頼んで口添えをしてもらったのです。
■ユダヤ人と異邦人を隔てる中垣
主イエスはその願いを聞いて彼らと一緒に出かけられました。ところが、百人隊長の家の近くまで来た時、今度はその友人たちがやって来て、こう言っています。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」。これは、百人隊長の謙遜を示す言葉ですが、彼の謙遜の内容を正しくとらえなければなりませんが、現代の日本に生きる私たちにとっては理解が難しい言葉です。彼は、私は人間的に未熟で、罪深く、立派な人間とはとうてい言えない者です、と言っているのではないのです。彼が主イエスを家に迎える資格がないのは、彼が異邦人であるが故に、ユダヤ人から見て汚れているからです。この百人隊長はユダヤ人たちの信仰に理解が深く、私財を投げ打って、この町の会堂を建てたことからわかるように、神様を畏れるものであったのです。しかし、彼が自分はふさわしくないと言っているのは、百人隊長はローマの軍人であるが故に、ローマ軍の駐屯地の中の宿舎で生活しており、ユダヤ人たちが守っている食物規定を守ることができないのです。私たちは、和食でも、洋食でも、中華でも、何でも食べますので、食物規定と言っても、何だそれ、としか考えません。しかし、汚れた食べ物を食べている人とは、汚れてしまうから、とても交流はできないと思うほどのことであったのです。
使徒言行録の10章を見ますと、神様はシモン・ペトロを、カイサリアに住むコルネリウスという名前の百人隊長のところに派遣する記事があります。神様は天使を遣わして、幻で「コルネリウス」とその名前を呼び、語りかけられます。彼は怖くなりますが、「主よ、何でしょうか」とお答えします。すると天使が、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい、と命じます。天使が立ち去ると、コルネリウスは、ペトロがどこの誰だかも知りませんが、このことに関して問うたり、疑ったりせず、すぐに二人の召使いと、信仰のあつい部下の兵士を呼んで、ペトロがいると示されたヤッファへと送り出しました。
その一方、コルネリウスが幻を見た翌日に、今度は使徒であり、ユダヤ人であるペトロに幻が示されました。天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りてくる幻です。その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていたと言います。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声がしました。しかし、ペトロは言います。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」律法を守ってきたペトロは、神の仰ることに「主よ、とんでもないことです」と抵抗をしたのです。それに対して神様は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言います。こういうことが三度もあって、ペトロでさえも、ようやくコルネリウスの家に入ることができたのです。
福音記者ルカにとって、ユダヤ人と異邦人の関係は大きな課題でした。また、異邦人にどのように福音が述べ伝えられて行ったかが大きな関心事であったので、ルカによる福音書では異邦人とのやり取りが今日の聖書の箇所のように、丁寧に記されているのです。
■ひと言おっしゃってください。
異邦人である自分と神様の民とを隔てる一線を深く意識しつつ、それでも彼は主イエスに、自分の僕を病から救って下さるように願いました。彼は、主イエスこそ人を本当に救う力を持っている方だと信じていたのです。病気で死にかかっている僕を救うことができるのはこの方しかいないと確信しているのです。それで主イエスに「助けに来て下さい」と願ったのです。しかし、この主イエスによる救いを求める思いと同時に、異邦人である自分はユダヤ人と異邦人を隔てる中垣のゆえに、主イエスを自分の屋根の下にお迎えする資格がないと考えたのです。それが7節後半です。彼は友人たちを通して主イエスに、「ひと言おっしゃってください。そしてわたしの僕をいやしてください」と願ったのです。
「ひと言おっしゃってください。そしてわたしの僕をいやしてください」というこの言葉は、当たり前の言葉と考えることはできません。自分の大切な、大切な友が死にかけている、そのときに誰が言葉だけを望むでしょうか。普通は、傍らに来て、言葉を掛け、やさしく手で触れて頂きたいと願うのではないでしょうか。しかし、この百人隊長は「ひと言おっしゃってください。そしてわたしの僕をいやしてください」と、主イエスに伝えたのです。このことは何を意味しているのでしょうか。それは、主イエスが死にかけている僕を見なくても、触れることもできないほど離れていても、癒やすことができると、この百人隊長は確信しているのです。ですから、「ひと言おっしゃってください。そしてわたしの僕をいやしてください」というこの言葉は、主イエスは神であるという百人隊長の信仰告白なのです。
さらに、彼の信仰は8節に語られています。彼はこう言っているのです。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。彼の言っていることは、単に軍隊の規律について言っているように思えます。しかし、そうなのでしょうか。
■ウィリアム・シェイクスピア作、喜劇『終わりよければすべてよし』
イギリスの有名な劇作家であるウィリアム・シェイクスピアの喜劇に『終わりよければすべてよし』という作品があります。この作品の中で、フランス王が重い病気になります。直腸部の腫瘍という、当時の外科医がさじを投げるような難病に侵されたフランス王を、国中の多くの医師が治療しようと試みましたが、王を治すことはできませんでした。ここにヘレナという若い女性が登場します。「誠実な人柄があり,その人柄に見合う技術を持っていた」医師であったヘレナの父親は,ヘレナに処方箋を遺しました。ヘレナは父の遺した処方箋の中に王の病状に有効なものがあることに気付き,処方箋に従って王を治療することを思いつきます。
シェイクスピアは、ヘレナを、学歴のない若い女性という、患者から最も信頼を得ることが難しい立場の医師として設定しています。同時に、病人はフランス王という国の中で最上の身分で、医療不信に陥り,回復をあきらめているという、治療を行っていくことが非常に難しい患者として設定しています。周囲の人々は、彼女の思いつきに対して反対をするのです。しかし、周囲の反対に対して、ヘレナはこう答えるのです。「私の命を失う危険を冒してでも、王様の治癒には,それだけの価値があります」。こうして、ヘレナはフランス王の治療のために、パリに向かうのです。ヘレナはフランス王に会い、自分の提案する治療を受けるように説得します。しかし、フランス王はヘレナの説得を受け入れようとはしません。長い、長いやり取りがあり、簡単に信用することができないフランス王は次のように質問するのです。「もし、あなたの確信と自信が間違っていて、私を治すことができなかったら、どうするつもりだ?」。
しかし、ヘレナはこれに臆せず答えます。「可能なかぎり最も酷い拷問にかけて、死刑にして下さい」。ヘレナの、医療者としての責任を負う強い決意と覚悟が現れている台詞です。王の病状は,国中の優秀な医師が治すことができなかったほど深刻であるため、ヘレナが治療できないということは、すなわち王の命が助からないことを意味します。ヘレナは、患者の命を救うことができない場合、自分の命でその死を償うほどの覚悟をしています。一見矛盾しているように見えますが、命がそれほど大切なものであると患者に伝えたいという信念の現れです。半年前に父を亡くすという経験をしたヘレナにとって、その想いは一層強かったのだと思います。ヘレナの決死の覚悟が、王に命の大切さを理解させたのです。ついに王は、次のように言うのです。
「その大切な命に危険を冒してまで治療したいということは、あなたの医術に無限の可能性があり、ここまで必死になれるのだろう。美しい医者よ、私はあなたの治療を受けることにしよう。治療を始める時期はあなたが決めなさい。私はあなたによって治療の決意をした患者だ。あなたを信頼しよう。」
■これほどの信仰
医療従事者は「患者のために」医療行為を行います。しかし多くの場合,医療行為は患者の体に対し、何らかの負担あるいは侵襲を与えます。そして、そのような負担を強いられても治療が効果を現さなかった場合、患者はいとも簡単に医療不信に陥ってしまいます。
しかし、今日の聖書の箇所の8節の、「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」という、百人隊長の言葉は、百人隊長は主イエスが神であるが故に、彼の僕を癒やすことができると確信しており、百人隊長が確信しているが故に、僕も死にかけているのにもかかわらず、癒やすことができると確信しているのです。
即ち、百人隊長の信仰は、主イエスと繋がっており、さらには、主イエスと僕をも繋げているのです。この百人隊長の言葉を聞いて、主イエスの反応はどうであったのでしょうか?9節です。
『イエスはこれを聞いて感心し、群衆に向かってこうおっしゃいました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」』。新共同訳聖書では、「感心し」と訳されている言葉は、英語版聖書では「Amaze」、「驚く」という言葉が使われています。主イエスは百人隊長の信仰に驚いたのです。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」という主イエスの言葉は最大級の賛辞です。主イエスがこれほど手放しに人の信仰を褒めておられる言葉は他にはなかなか見当りません。主イエスは彼の信仰の何を褒めたのでしょうか。「これほどの信仰を見たことがない」とおっしゃった、「これほどの信仰」とはどのような信仰なのでしょうか。主イエスのみ言葉がひと言語られれば、ユダヤにあっては汚れた者とされる異邦人であってもその救いにあずかることができる、という信頼です。ユダヤ人の信仰は、しるしを求める信仰です。それ故、福音書の中で、ユダヤ人たちは繰り返し主イエスにしるしを求め、しかし、なお主イエスを救い主とは認めないのです。一方、当時、世界で最高の哲学者がいると考えられていたギリシア人は、自分の頭で考えて理解できないものは信じようとはしませんでした。人間の理解を超えた存在である神様と向き合ったときに、ギリシア人は思考停止に陥ってしまうのです。現代人は、科学的な証拠を求め、自分の頭で考察できることを求めます。現代人は、ユダヤ人にも、ギリシア人にも似ていると言うことができるのではないでしょうか。百人隊長には、主イエスのみ言葉の権威と力への信頼があります。それこそが、主イエスがここで、イスラエルの中でさえ見たことがない、と褒めた彼の信仰なのです。
■異邦人の信仰
このように主イエスに「これほどの信仰を見たことがない」と褒められる信仰が、異邦人の百人隊長の信仰だったことは何を意味しているのでしょうか。異邦人の百人隊長は、主イエスとは一度も顔と顔を合わせることがありませんでした。彼は言葉だけで信じたのです。しかし、言葉だけで信じた百人隊長と彼の僕に、主イエスの恵みは及んだのです。異邦人に対する伝道は、主イエスの十字架での死と復活の後で、広がって行ったのです。私たちには、今日の聖書の箇所の百人隊長のような信仰を持つことが勧められています。私たちは、聖書の言葉によって、救いにあずかるのにふさわしくない私たちの罪を全て背負って、主イエスが十字架にかかって死んで下さり、この主イエスの十字架の死によって、私たちの救いが、神様の恵みによって実現し、与えられていることを知るのです。主イエスのみ言葉は、この救いのみ業を告げるものであり、そのみ言葉に罪人を救う権威と力があるのは、それが主イエスの十字架の死と、そして父なる神様が与えて下さった復活とによって裏付けられた言葉だからなのです。私たちは、主イエスの十字架の死と復活による救いを告げるみ言葉の持つ権威と力とを、この百人隊長のように信じて行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。