■蕎麦打ち職人の募集
おはようございます。ある老舗の蕎麦屋さんが蕎麦打ち職人を募集したそうです。「創業120年愛され続けた伝統のお店です」と広告を打ったのです。しかし、応募者はゼロでした。次に、「県外からのお客さんも多い人気のお店です」と広告を打ちました。またしても、応募者はゼロだったのです。3番目に、「1日中誰とも話さなくていい仕事です」と広告を打ったところ、50人近い応募があったそうです。転職を検討する方々の多くは、人間関係に疲れているということのように思われます。ですから、不必要に誰かと関わる必要もなく、人間関係にも苦しまなくてもよいという点が、このお店の応募者たちの心を掴んだのです。
このことを思います時に、人の必要を的確に満たす言葉には、力があると考えさせられます。
さて、本日の聖書の箇所はヨハネによる福音書19章31~42節の『主イエスの埋葬』を取り上げています。この聖書の箇所は、十字架に架けられて死なれた主イエスの埋葬を描いた箇所です。埋葬とは、メシアに対する辱めの最後の段階です。それと同時に、復活が起こる舞台設定となっているのです。十字架刑の後の埋葬といえば、普通に考えれば、人生の敗北としか考えられないような、主イエスの埋葬の箇所が、なぜ人々の心を掴んできたのかということを考えながら、この箇所を読んでいきたいと思います。
■安息日が始まる前に
さて、主イエスの埋葬に至る時間的な過程を振り返ってみたいと思います。まず、木曜日の日没後、主イエスは弟子たちと過越しの食事をしました。日没後ですので、時間としては、もう金曜日に入っているのですが、今の私たちから見れば、木曜日の夜に食事をしたというような認識になるかと思います。それから翌日の金曜日の午前9時に、主イエスは十字架に架けられたのです。それと同じ時間に祭司長たちが過越しの子羊を屠って(ほふって)います。過越しの子羊が屠られたのと同じ時刻に、主イエスが十字架に架かったということです。そして、金曜日の午後3時に、主イエスは息を引き取りました。金曜日は、7日間続く、種なしパンの祭りの第1日なのです。過越しの祭りが1日、種なしパンの祭りが7日で、合計8日間、これら全部を過越しの祭りと言っても良いわけですが、あるいは、種なしパンの祭りと言っても良いのです。それが、主イエスの時代のユダヤ人たちの呼び方であったのです。このような時間の流れを意識しながら、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
本日の聖書の箇所の31節を見ますと、『その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。』とあります。『その日は準備の日で、』とありますが、この準備の日というのは、ユダヤ人の専門用語です。何の準備をする日かと言いますと、安息日の準備をする日なのです。安息日は土曜日ですので、準備の日は金曜日となります。このことから、主イエス・キリストが金曜日に十字架についたというのは、聖書の記述の通りなのです。もう一つは、その安息日は『特別の安息日であった』とあります。その安息日が『特別の安息日であった』というのは、祭りと安息日が重なったときには、その安息日は特別に大事な安息日であることから、『特別の安息日』と言ったのです。本日の聖書の箇所では、過越しの祭りの期間に安息日が来ているのです。
ここで、当時の十字架刑の方法について見てみますと、ローマ兵たちは死体をそのまま放置して、死体を野獣や鳥に食べさせていたのです。ですから、まともな埋葬はしなかったというのは、十字架刑の一部であったのです。従って、今日の聖書の箇所で、ユダヤ人たちが介入して来なければ、死体はそのまま放置されていたのです。ところが、ここでユダヤ人たちが介入して来たのです。ユダヤ人たちはどのように考えていたかと言いますと、十字架につけられた者の遺体は汚れていると考えていたのです。死体そのものが汚れているというのは、一般的なユダヤ人の考えでもありますが、特に十字架についたというのは、呪いの死を遂げていると考えているわけですので、十字架で死んだ遺体というのは特に汚れている、従って、そのまま放置すれば、場所がエルサレムであるので、聖なる都エルサレムが汚れてしまう。特に、翌日は、安息日です。ユダヤ人は、安息日に、町が汚れることは容認できないのです。申命記21章22〜23節には、『ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。』と書いてあるからです。しかも、この安息日は、ふつうの安息日ではないのです。31節にありますように、過越しの祭りの期間に来る、特別の安息日なのです。それ故、放置できないのです。それで、31節後半にありますように、「ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た」のです。
主イエスが息を引き取ったのが、午後3時です。この季節の日没は、6時頃となります。ということは、3時から6時まで、時間的な余裕は3時間しかないのです。もしも、日没までに死ななかったら、安息日に入ってしまうので、死体を十字架から下ろすという作業ができなくなって、エルサレム中が汚れて、大変なことになると考えて、ユダヤ人たちは取り降ろしたいと願ったのです。しかし、主イエスは死んでいるのですが、ユダヤ人たちにはまだその認識はないので、早く殺したいのです。そこで、死期を早める方法として、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出たのです。十字架刑は、見せしめとして、死の苦しみを長く味わわせる刑なので、2、3日かかって、死ぬこともあったのです。けれども、早く死なせなければならない場合の処置として、足を折るということがありました。それをされてしまうと、足で踏ん張って、自分の体重を支えることができなくなって、すぐに窒息死してしまうのです。兵士が大きな木槌や槍の鉄の矢柄の部分を使って、足のスネの部分をボキッと折るのです。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、主イエスを十字架につけておきながら、安息日まで死体があると、儀式的な汚れを招いてしまうということにこだわっているのです。
このユダヤ人たちの要請を、ピラトは受け入れたのです。次の節を見ると、兵士たちは作業を始めているのです。この日、十字架に架けられたのは3人でした。十字架を取り囲んでいる人たちは皆、3人は生きていると考えているのです。しかし、主イエスは3時に息を引き取っているのです。作業する兵士たちは知らないのです。32〜34節を見ますと、『そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。』とあります。兵士たちは、主イエス以外の2人の罪人の足をまず折りました。2人の罪人の足を折ったというのは、彼らはまだ生きていたのです。午前9時に十字架につけられて、午後3時ですので、彼らは6時間以上も苦しんで、まだ生きていたのです。足を折られて、どれほど痛かったことでしょうか。彼らは、足を折られて、直ぐに死んだことと思います。ところが、次に、主イエスのところに来てみると、主イエスは既に死んでおられたのです。兵士は驚いたことと思います。なぜ、二人の罪人は生きていて、主イエスは死んでおられたのでしょうか?主イエスがこれだけ早く亡くなられたのは、主イエス・キリストが私たちの罪を負い、身代わりに裁きを受けるということが、どれほど過酷なものであったかを示していると思います。主イエスは私たちが受けるべき神の御怒りの杯を一滴残らず飲み干してくださった。それは、主イエスに計り知れない打撃を与えたのだと思います。
ところが、兵士の中の一人が、本当に死んでいるのかなと、不思議に思ったのです。兵士たちの経験では、このように早く死ぬというのは、とてもめずらしいケースであったからです。それで、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺したのです。そうしたら、『すぐ血と水とが流れ出た。』のです。福音記者ヨハネが『血と水とが流れ出た。』ことをわざわざ書いていることについて、様々な解釈がありますが、ゼカリア書12章10節には、『わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。』と書いてあります。これはかなりややこしい話なのですが、これから起こることの預言です。いつ起こるかと言いますと、終末時代に7年間の大艱難時代が来るのです。ユダヤ人たちが大変な迫害に遭うのです。最後に、ハルマゲドンの戦いが戦われます。そして、その最後にユダヤ人たちが、主イエスがメシアであることに気がつくのです。その主イエスのことを、どのように言っているのかと言いますと、『彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。』とあり、これはユダヤ人としては最大の嘆きなのです。『わたしを見つめ、』とあるわたしは、主イエスのことです。そして、『自らが刺し貫いた者』とあります。ここで、槍で突き刺したのはローマ兵ではないかと考える人もいるかと思いますが、聖書の論理は、ローマ兵もユダヤ人も一緒になって主イエスを突き刺したというのです。ですから、主イエスが突き刺された責任は、ユダヤ人にもあるのです。メシアは突き刺されたのです。だから、終わりの日に起こる、このゼカリヤ書の預言が意味あるものになったのです。
ヨハネの黙示録1章7節を見ますと、『見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。』とあります。この箇所でも、将来、ユダヤ人たちが主イエスを信じるようになる。それは、主イエスが槍で突き刺されたということがあったから、再臨の主イエスが現れたときに、ユダヤ人たちが彼を信じるようになるのだという預言が成就するということを言っているのです。
■主イエスの足は折られなかった
本日の聖書の箇所の35節〜37節を見ますと、『それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。』と記されています。『それを目撃した者が証ししており、』とありますが、これはこの福音書を書いているヨハネのことです。ヨハネは目撃したのです。ヨハネは、主イエスの肉体的な死は、実際に起ったことだと証言しているのです。さらに、ヨハネはユダヤ人ですので、この出来事は実はメシア預言の成就なのだということを証明するために、2つの聖句を引用しているのです。一つは、『その骨は一つも砕かれない』というもので、もう一つは、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』というものです。この聖句は何からの引用ということは書かれていませんが、ユダヤ人であれば直ぐに分かることなのです。主イエスは肉体的に死んだ、その死は旧約聖書のメシア予言の成就であるというのが、ここでのヨハネのポイントなのです。
そして36節には、このことは「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉の実現だった、と語られています。主イエスの足の骨が折られ、砕かれることはなかったということに、ヨハネは旧約聖書の預言の成就を見ているのです。出エジプト記の12章の46節に、『一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。』と書いてあります。これは、最初の過越しの祭りのとき、過越の小羊を屠って、その肉を食べるのですが、1つの家族で1頭、それから、家の中で食べる、1つの家族で食べきれない場合は、別の家族を招いて、家の中で食べる、そして、その骨は折ってはならないのです。主イエスの足が折られることはなかったことは、主イエスが過越しの子羊としての死を遂げたということを、福音記者ヨハネは伝えているのだと思います。ですから、ヨハネは骨が折られなかったという予言が成就したのだと言っているのです。
もう一つは、詩篇34編の20〜21節です。『主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる。』と記されています。これは、メシア預言です。ですから、メシアの死は、骨を砕かれることのない死であったという、2つのメシア預言の成就であったのです。これらは、主イエスは過越しの子羊として、十字架の上で亡くなったということを示しているのです。
■アリマタヤ出身のヨセフ
主イエスの遺体が墓に葬られるという、本日の聖書の箇所の後半を見てみますと、38節には、『その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。』とあります。ここで、アリマタヤ出身のヨセフがこの件に介入して来たのです。「アリマタヤのヨセフ」が主イエスを埋葬したことは、他の3つの福音書にも共通して語られています。マタイによる福音書27章57節を見ると、『夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。』とあります。夕方とありますので、午後3時から午後6時の間ですけれども、時間はだいぶ進んで、6時までは残り少なくなっていたと考えられます。この人物は、アリマタヤのヨセフとよく呼ばれています。当時は、名字がなく、名前しかないのです。それで、お父さんの名前を頭につける場合と、土地の名前を付ける場合があったのです。それで、この人は、アリマタヤというところの出身なのです。アリマタヤというのは、エルサレムの北西約35kmの町です。そこから来ていた人なのです。彼はサンヘドリン、ユダヤ議会の議員なのです。そして、彼は大変なお金持ちであったのです。と同時に、彼は主イエスの弟子であったのです。この人は、命を賭けて、主イエスに従っている弟子です。彼は、主イエスを信じているのですが、そのことを隠していたと言うのです。アリマタヤのヨセフがなぜ、そのことを隠していたのかと言いますと、ユダヤ人からの迫害を恐れていたからなのです。今も同じような状況があるのです。主イエスを救い主として信じると、ユダヤ人の共同体である会堂から追放されてしまうのです。そのことは、もはやユダヤ人としては、生活が成り立たなくなるということなのです。ですから、アリマタヤのヨセフは恐れて、主イエスの弟子であることを隠しているのです。
マルコによる福音書15章43節を見ますと、『アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。』と書かれています。彼は、神の国を待ち望んでいたとあるのは、メシア的王国、千年王国を待ち望んでいたということです。ですから、主イエスが王として来られ、そして、メシア的王国が成就することを待ち望んでいた、主イエスの弟子であったのです。ただ、これまでは隠していたのです。そのヨセフがピラトのところに来て、遺体の取り片付けを願ったのです。もしも、アリマタヤのヨセフが介入していなかったとしたら、主イエスの遺体は、ユダヤ人が取り外して、エルサレム市の城門の外にある、深くて狭い谷底のゴミ捨て場であるヒンノムの谷、ゲヘナと言われていたところに投げ捨てられて、エルサレムの町を儀式的にきれいな状態に保つようにされていたことと思います。
ですから、アリマタヤのヨセフの役割というのは、すごい働きであったと思います。アリマタヤのヨセフが、このことを申し出ることは、彼にとっては何の利益ももたらさない危険な行為なのです。ピラトは許可を与えたのです。ローマの行政官から見れば、手厚い葬りを許したというのは、特例であり、恩赦なのです。なぜ、ピラトはそのことを許可したのかと言いますと、主イエスを十字架に架けることを強要したユダヤ人に対する、おそらく彼なりの抵抗の表れかと思います。それで、埋葬は時間がないので、大急ぎで行う必要があったのです。おそらく日没まで、2時間もなかったかと思います。アリマタヤのヨセフは、今までは隠れていたのです。しかし、このことをきっかけに公に自分が主イエスを信じているということを、行動によって表明したのです。この世的には、何の利益もないのです。彼はこの世的な成功や祝福や富を投げ捨てて、天に宝を積むことを選んだのです。アリマタヤのヨセフは、この世で大変な試練に遭うことを覚悟の上で、永遠の祝福の方を選んだ人なのです。アリマタヤのヨセフが動いてくれたおかげで、主イエスに関する旧約予言が成就したのです。
それは、どういうことかと言いますと、イザヤ書53章9節を見ますと、『彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。』とあります。主イエスは犯罪人と一緒に十字架につけられ、そして、葬られた墓は、富める者の墓であったのです。主イエスがアリマタヤのヨセフの墓に葬られました。つまり、受難の僕であるメシアが最後は、金持ちの墓に葬られるということが、このことで成就したのです。福音の3要素の中に、墓に葬られ、というのがあるのはメシア預言の成就であり、主イエスは確かに肉体的に死んだということを表しているのです。
アリマタヤのヨセフのこの大きな働きは、彼自身が神様のご計画の器として、自分を捧げたということなのです。神様が全てをご計画されておられて、そのご計画のために自分を捧げて、ぴったりとご計画の歯車が噛み合ってゆく、それがキリスト者の献身なのだと思います。そのように、アリマタヤのヨセフが働こうとしたときに、もう一人の人物が登場するのです。
■ニコデモ
本日の聖書の箇所の39〜40節を見ますと、『そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。』と記されています。ここで、ニコデモという人物が登場していますが、『かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ』と紹介されていることから、始めてではないことがわかります。ニコデモはヨハネによる福音書の3章で登場しているのです。このニコデモが『没薬と沈香を混ぜた物』を持ってきたのです。おそらくこれは粉状になっているものだと思います。遺体をこれから埋葬しようとしているので、30kgとかなり多い量の高価な『没薬と沈香を混ぜた物』を持ってきたのです。ニコデモも隠れた信者であったのですが、ここで自らの信仰を明らかにしているのです。彼らは、『ユダヤ人の埋葬の習慣に従い』と記されています。通常のユダヤ人の埋葬方法は、まず身体を水で洗うのです。次に、没薬をそこに用いながら、亜麻布で巻いてゆくのです。ここでは、没薬と沈香を混ぜた物が使用されていますが、これは臭いを消すための防臭剤なのです。そして、亜麻布で巻いていますが、ギリシア語で亜麻布というのは複数形なのです。つまり、帯状になっているものが何本かあって、それを身体に巻き付けて行くのです。アリマタヤのヨセフとニコデモが協力して、そこで主イエスの遺体をユダヤ人の埋葬の習慣に従って、亜麻布で巻いたのです。どの墓に葬ったのでしょうか。41〜42節を見ると、『イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。』とあります。主イエスが埋葬された墓は、ゴルゴダに近い所に、園があって、その中に墓があったのです。ということは、墓地ではなかったのです。墓地まで運んでいたら、時間がないのです。それで、近くの園にあった墓に葬られたのです。この墓は、誰も葬られたことのない、新しい墓であったのです。
マタイによる福音書27章59〜60節を見ますと、『ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。』とあります。この墓が、お金持ちであったアリマタヤのヨセフの新しい墓であったことが分かります。
イースター礼拝の話を少しだけしますと、この場面を見ていた女性がいるのです。マグダラのマリアと他のマリアです。マグダラのマリアと他のマリアが、主イエスの埋葬を手伝わなかった理由は、想像するしかありませんが、彼らがユダヤ議会の議員であり、主イエスを十字架につけた側の人間だと考えていたと想像できますので、向こう側の人間だと考えながら、何をしているのだろうと思いながら見ていたというのが、このときの女性たちの感覚であったと思います。もう一つの理由は、このような自分の家ではない公の場で、見知らぬ男性に女性の方から声をかけて、手伝うというようなことは、女性として非常に慎みのない態度ですので、当時のユダヤの社会ではありえないことであったのです。従って、アリマタヤのヨセフたちは時間がないので、急いでやっていますから、彼女たちは見ながら、彼らの作業の様子が、女性の目には雑で、不満を覚えたと思います。それだけではなく、自分たちも主イエスに最後に何かしないと、とても満たされないという思いがあったと思います。そこから、復活の物語が始まってゆくのです。
■勇気を出して
私たちは、本日の聖書の箇所で、アリマタヤのヨセフとニコデモが主イエスを埋葬する記事を学びました。アリマタヤのヨセフは、勇気を出してピラトのところへ行って、主イエスの遺体を引き取りたいと申し出たのです。ニコデモも、主イエスの埋葬の場に大量の香料を携えて来ることには勇気が必要だったでしょう。彼らは、勇気を出して、信仰を明らかにしたのです。では、現代に生きる私たちにとって、今、勇気を出して、主イエスを信じ、その信仰を明らかにし、自分自身を主イエスにお献げするということは、どういうことかをここで考えたいと思います。「ハクソー・リッジ」という第二次大戦の沖縄戦の中で起きた歴史的な事実を基にした、メル・ギブソンが監督した映画があります。
主人公のデズモンド・ドスは、戦地でのトラウマゆえに酒に溺れた父の暴力におびえながら暮らしてきた青年です。ドスは幼い頃にケンカの勢い余って弟をレンガで殴ってしまった経験も持ち、『汝、殺すなかれ』という神様の教えを胸の真ん中に置いて、大人になったのです。デズモンド・ドスという二等兵は決して武器を取って人を殺すことはしないという信仰上の確信を持っていました。彼は良心的兵役拒否を認められることができましたが、同時に、当時アメリカは自由のために戦っており、自分もその戦いの中に身を置いてアメリカ市民としての責任を果たしたいと強く願っていました。
それで、彼は前線において傷ついた兵士の手当てをする衛生兵になることを志願します。しかし、当時の軍隊では、自分で配属先を指定することも、武器を取れないと主張することも許されませんでした。彼は軍隊の中で散々な虐めに遭い、ついには軍法会議にまでかけられます。すべて、彼が武器を取らずに、前線で働きたいという、当時としては矛盾したことを願ったためです。最終的に、彼の信仰的良心が認められ、沖縄戦の最激戦地ハクソー・リッジ(ハクソー:のこぎり、リッジ:崖、日本名:前田高地)という断崖絶壁の戦場に武器を持たない衛生兵として派遣されます。彼の部隊は150mの崖を上って、日本軍と戦いますが、驚くほど多くの犠牲を出し、高地からの撤退を余儀なくされます。
ところが彼は、その高地に単身で残って、日本軍の目を潜りながら、丸腰で負傷兵の手当てをし、崖から吊り下ろします。彼は、「主よ、どうか、あと一人……」と祈りながら、負傷兵を捜し出し、銃弾を潜りながら、引きずり、丁寧に崖から吊り下ろし、ついにその数は75人にもなりました。しかも、そこには二人の日本兵も含まれていたのです。
戦友たちの眼差しが称賛に変わり、彼は最後の攻撃の前に個人礼拝の時間が与えられ、部隊は彼の祈りが終わるまで、出撃を待つということまでしました。この攻撃は成功しますが、彼自身も最後に手榴弾によって、怪我を負います。しかし、彼はタンカで運ばれながら、他の怪我人を自分の代わりに載せるように強く願ったと伝えられています。彼は最終的に、敵を殺した功績によってではなく、戦友の命を救った功績によって大統領から直々に勲章を受けます。しかし、彼は約十年前に亡くなる直前まで、自分が英雄視されることを拒否していたため、彼の物語は多くの人に知られないまま、ようやく最近になって、映画化されたのが、「ハクソー・リッジ」という映画なのです。
私たちは、異教社会の日本の中で、キリスト者であるが故に、ハクソー・リッジのデズモンド・ドスのように、謂れのない非難を受けたり、孤立したり、いじめに遭うということがあるかもしれません。しかし、だからこそアリマタヤのヨセフやニコデモのように、今、勇気を出して、主イエスを信じ、その信仰を明らかにし、自分自身を主イエスにお献げしたいと思います。本日は、福音の3つの要素、十字架での死、墓に葬られる、復活する、この3つの要素の2番目の主イエスが墓に葬られるという記事について学びました。この主イエスが墓に葬られるという出来事は、メシア預言の成就であり、主イエスは確かに肉体的に死んだということを表しています。そして、埋葬は、主イエスの辱めの最後の段階であり、復活のための舞台でもあるのです。そして、主イエスの死とそれに続く埋葬は、メシア預言の成就でもあるのです。私たちは、主イエスを信じることを明らかにすることによって、主イエスが十字架の苦しみと死によって実現して下さった救いにあずかって、新しく生き始めて行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。