■漫画原作者小池一夫の思い出
おはようございます。『子連れ狼』、『御用牙』などの漫画の原作で知られる漫画原作者、小説家、脚本家でもある小池一夫さんには、年老いてからも思い出す度に怒りが込み上げてくる少年時代の思い出があるそうです。
小池さんがまだ小学生だった頃、隣の席の女の子が苦手な算数の問題を一生懸命に取り組んで、なんと自分よりも先に解けたのだそうです。この女の子は先生に喜んで見せに行きました。すると先生は彼女を一喝します。「誰に答えを教えてもらったのだ。」
彼女は誰の力も借りずに、自分の力で解いたということを小池さんは知っていました。だからこそ彼女は喜び勇んで先生に見せに行ったのです。ところが、かけられた言葉は労いではなく、叱責だったのでした。その時の彼女の悲しそうな表情を、小池さんは晩年になっても忘れられないと言うのです。
さて、本日は主イエスの復活を祝うイースター礼拝です。聖書の箇所はヨハネによる福音書20章11~18節の主イエスがマグダラのマリアに現れた箇所を取り上げています。当時、女性の証言は信用できないとして、裁判などでも採用されることはなかった時代に、聖書はなぜ最初の復活の証人として、女性を描いているのかということを考えながら、この箇所を読んでいきたいと思います。
■泣いていたマリア
さて、聖書に復活の主イエスが出現する、顕現と言いますが、復活の主イエスが出てくる記録は、合計10回出てくるのです。そのうち、復活した日曜日に5回現れているのです。それから、次に天に昇るまでの40日間にさらに5回現れているのです。今日は、その10回の出現の中の最初の1回目を見てみたいと思います。本日の聖書の箇所の11〜12節には、『マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。』とあります。
週の初め、日曜日の夜明け前です。女性たちが行動を開始しました。そして、墓が空になっているのを発見したのです。最初に墓に行ったのが、マグダラのマリアでした。その次に、複数の女たちが墓に行ったのです。マグダラのマリアは墓に行き、そして、墓から石が取りのけてあるのを見つけて、シモン・ペトロとヨハネに伝えるために走りました。そして、ペトロとヨハネが一緒に墓に行きましたが、先に墓に入ったペトロは当惑し、ヨハネは主イエスの復活を信じて、家に帰って行ったのです。彼らは、墓から去ってゆきましたが、その後、マグダラのマリアが1人、墓に残ったのです。そして、マリアは墓の外に立って泣いていたのです。ペトロとヨハネは、涙を流したでしょうか?マグダラのマリアの方が、ペトロやヨハネよりも情が深いことが分かります。マリアは、愛する人を失った、信頼して従っていた主イエスというお方を失くした喪失感がとても深かったのです。亡くなられただけでも悲しいのに、遺体までどこかに行ってしまったのです。これは、彼女にとっては、いわゆるお通夜であったのです。マリアは寝ずの番をしたいのです。夜になっても、一緒に居続けるくらいの気持ちであったと思います。やがて彼女は、泣きながら身をかがめて墓の中を覗き込んだのです。すると、白い衣を着た二人の天使が見えたのです。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていたのです。
ペトロとヨハネは天使を見ていないのです。天使を見ないで、帰っているのです。天使が現れるときは、通常、姿は男性で、羽根はついていないのです。通常と言いましたのは、例外的に、6つの羽根を持って飛び交うセラフィムという天使の幻を、イザヤという人が見ているのです(イザヤ書6章1〜13節)で、彼が神様の栄光を見たときに、セラフィムという名前の天使たちが、翼を持っていて、それで飛び交って、聖なる、聖なる、聖なる万軍の主と呼び交わしていたと記録しているのです。しかし、通常は青年の姿を取って、天使は現れるのですが、この段階で、マグダラのマリアは、超自然的なことが起きているという認識が全くないのです。
■婦人よ、なぜ泣いているのか
本日の聖書の箇所の13節〜14節を見ますと、『天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。』と記されています。天使と対話しながら、マグダラのマリアはまだ気がついていないのです。天使が、彼女に尋ねます。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。そうすると、マリアは答えました。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」この認識で、マグダラのマリアはずっと物事を見て、考えているのです。誰かが盗って行ったのだというのです。その時に、彼女は後ろに人の気配を感じて、後ろを振り向いたのです。彼女は、振り向いて、イエスが立っておられるのを見たのです。ところが、まだ彼女はそれが主イエスであることが分からないのです。主イエスが現れたのに、主イエスだと認識できないという状況は、他の弟子たちにも起こる状況なのです。後ろを振り向いたけれども、誰かいるなあと思っただけで、また、すぐに前を向いたのです。というのは、16節で、もう1回彼女は後ろを向くのです。ですから、ここでは、直ぐに前を向いているはずなのです。
次に、今度は後ろにいる主イエスがマリアに声をかけるのです。15節には、『イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」』とあります。主イエスの質問の「婦人よ、なぜ泣いているのか。」というのは、天使の質問と同じです。そして、次の「だれを捜しているのか。」というのは、主イエスが言葉を加えているのです。マリアは答えているのですが、その人を園丁だと思っていて、主イエスだとは思っていないのです。そして、後ろを振り向かないで、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と、このように言っているのです。なぜ、主イエスだと認識できないのでしょうか?
バークレーという神学者は、何故マリアはイエスに気づかなかったかという事について、次のように考えています。1つ目は「私たちの悲しみは本質的にわがまま」だからと言うのです。即ち、マリアはイエスのため、それも神様の栄光を表す故に十字架に死んだイエスの為に悲しんでいるのではなく、愛する人を失った自分の為に悲しんでいるので、イエスが分からないのだと捉えているのです。2つ目は、「マリヤは間違った方向に固執していたから、イエスを認める事ができなかった。彼女は墓から目をはなすことができず、イエスに背を向けていた。」と言うのです。それは、マリアが自分を憐れみ、悲しみや絶望や死の闇の中に身を沈め、復活という、絶望や死の彼方の命、光、希望に目を向けようとしないので、イエスと向き合いながらイエスが見えていないというのです。
■名前を呼んで下さる主イエス
他の神学者達によっても、様々な説明がなされていますが、いずれにしましても、マリアは主イエスを認識できなかったのです。ところが、16〜17節では、『イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」』と記されています。ここで、マリアは初めて、後ろに立っている人物が主イエスだという認識が生まれたのです。マグダラのマリアが、ここで主イエスを認識したのは、人類史上、最大の認識の事件であったと思います。このマリアの認識事件と似たような、旧約聖書で最大の認識事件は、創世記45章1〜3節にありますように、ヨセフがお兄さんたちの前に現れた出来事です。その時に、ヨセフが何と言っているかと言いますと、『わたしはヨセフです。』と言っているのです。それが、きっかけになって、お兄さんたちは驚きのあまり、ものが言えない状態になったのです。
16節で、マリアが主イエスを認識しましたが、これが先程申し上げましたように、人類史上、最大の認識事件なのです。そのきっかけは何だったのでしょうか?それは、「マリア」という、主イエスがマリアに呼びかけた呼びかけであったのです。ヨハネによる福音書10章3〜4節には、『門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。』とあります。良い羊飼いである主イエスは、マリアの名を知っていて、羊の名を呼び、呼びかけられた羊は羊飼いの声を知っているので、その呼びかけについて行くという素晴らしい出来事が、この認識事件の出来事なのです。これは私たちが経験する出来事でもあると思います。絶望的な苦難の真ん中で、私たちの名を呼ぶお方の存在に気がつくときに、主を認識するという信仰に導かれるのです。絶望の中から、立ち上がる力は、生ける神様が私たちと共におられるという認識によって与えられるものだと思います。
旧約聖書における最大の認識事件は、ヨセフがお兄さんたちの前に現れた出来事だというお話をしました。そして、人類史上、最大の認識の事件は、マグダラのマリアが、主イエスを認識した出来事であったというお話をしました。そして、もう一つ、終末時代に、素晴らしい認識事件が起こると預言されているのです。それは、ユダヤ人たちが、主イエスは自分たちが十字架につけたお方で、実は救い主なのだということを認識する時が来るのだという預言なのです。この認識事件によって、メシヤ再臨の条件が整うのです。従って、まだ起きていない認識事件についても、私たちは心を留めて、祈って行く必要があると思います。
それでは、人類史上、最大の認識の事件の目撃者に、マグダラのマリアがなぜなったのでしょうか?聖書は、これこれの理由でマリアが最初の復活の目撃者となったという説明はしていません。それでは、聖書の他の箇所から、類推することのできる理由とはどのようなものなのでしょうか?確かなことは、マグダラのアリアは、主イエスを心から慕っていた人です。ルカによる福音書の8章1〜3を見ますと、『すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。』と記されていることが分かります。紀元1世紀の頃は、女性の役割というものを、あまり重視していなかったのですが、福音記者ルカという人は、主イエスのお働きに女性が沢山参加していたということを記録しています。特に、本日、私たちが注目しているのはマグダラのマリアという女性です。名前はマリアですが、当時は名字がないので、出身地をつけて、どのマリアかを特定していたのです。彼女は、マグダラという所の出身であったのです。マグダラというのは、ガリラヤ湖北西岸に位置する、古代におけるガリラヤの都市の一つで、魚を獲って、塩漬けにして、ローマ世界に輸出するという塩蔵魚の工場があった町なのです。また、布を染める染色産業もあった産業都市であったのです。そこから、マリアが出たのです。彼女は、主イエスから何をして頂いたのかと言いますと、七つの悪霊を追い出していただいたのです。ですから、主イエスに対しては、本当に感謝していたのです。
さらに、ヨハネによる福音書19章25節を見ますと、『イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。』とあります。マグダラのマリアは、主イエスの十字架のそばに立っていたのです。なぜかと言いますと、主イエスを愛していたからです。この時、弟子たちはどうしていたのでしょうか?逃げていたのです。また、ヨハネによる福音書20章1節を見ますと、『週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。』とあります。なぜ、マリアは他の女性とは一緒ではなく、1人で来たのでしょうか?聖書は、そのことを説明していません。考えられる可能性としては、マリアは明るくなるのを待ちきれなかったのだと思います。1人だけでも、まだ暗いうちに、墓に来たかったのだと思います。
これらの記事から、何が分かるのかと言いますと、多く赦された者は、多く愛するということです。マグダラのマリアはそのような女性であったと思います。主イエスは、墓の傍に佇んで泣いている彼女の涙を見て、その献身的な愛に応答されたのです。
■父のもとに昇る主イエス
主イエスが「マリア」と名前を呼んで下さったときに、マリアはどのようにしているでしょうか?マリアはヘブライ語で、「ラボニ」と言っているその前に、振り向いているのです。マリアは、振り向いて「ラボニ」、即ち「先生」と言っているのです。これは「わたしの先生」という意味でもあるのです。あれだけ泣いていたマリアですが、主イエスが立っているということが分かりましたので、マリアは主イエスにすがりつこうとするのです。そのときに、主イエスはマリアがすがりつくのを許されなかったのです。『わたしにすがりつくのはよしなさい。』とおっしゃったのです。その理由を、主イエスは何とおっしゃられたのかと言いますと、『まだ父のもとへ上っていないのだから。』とおっしゃったのです。これは、復活されてから40日後の昇天のことではないのです。今日の聖書の箇所の直後に起こることを、主イエスは語っておられるのです。
なぜ、主イエスはマリアがすがりつくのを許されなかったのでしょうか?これは、旧約聖書の大祭司の役割と主イエス・キリストがこれから行おうとしている大祭司としての役割を対比させることによって、旧新約聖書を通して、説明しようとしているのだと思います。本日の聖書の箇所の17節とヘブライ人への手紙9章23節と比較しますと、9章23節には、『このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。』とあります。『天にあるものの写し』というのは、地上の幕屋のことです。地上の聖所のことなのです。従って、天の聖所、天の至聖所というのはあるということで、地上のものはそれを写したものであるということです。そして、『これらのものによって清められねばならない』というのは、地上の幕屋は生贄の動物の血で清めたのです。天の幕屋は、『これらよりもまさったいけにえ』、すなわち主イエス・キリストの血によって、清められなければならないというのです。これは、地上のものと天上のものとを比較しているのです。さらに、ヘブライ人への手紙10章12〜13節を見ますと、『しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。』とあります。『罪のために唯一のいけにえを献げて、』というのは、主イエス・キリストご自身の命のことです。ですから、旧約時代は、繰り返し、繰り返し動物の犠牲を捧げていたのです。しかし、今や主イエスが罪のための1つの永遠の生贄を、1回きりの生贄を捧げたのだと言うのです。『永遠に神の右の座に着き、』というのは、40日後の昇天のことです。40日後に、神様の右の座に着き、『その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。』つまり、千年王国が成就するのを今待っておられるというのです。何が起きているのでしょうか?主イエスは、旧約聖書の時代の大祭司ではないのです。真の大祭司として、幕屋を清める役割を与えられているのです。それは、地上の幕屋ではなくて、天の幕屋を清める役割を与えられているのです。しかし、まだ、マグダラのマリアに会ったときには、それを実行していなかったのです。
従って、もしも効率的に役割果たそうと思えば、復活して直ぐにマリアの前に現れないで、まず天に昇って、天を清めてから、下って来て、女性たちに会っても良かったのです。つまり、主イエスにはやらなくてはいけないことがあったのですが、マグダラのマリアの涙を見たら、「マリア」と名前を呼ばざるを得なかったのだと思います。主イエスは、本当に情に厚いお方だと思います。私たちは、天にあるものは、全部清いのではないかと疑問に思うかと思いますが、実はサタンが堕落した時に、天の幕屋が汚されたのです。
エゼキエル書28章18節を見ますと、『お前は悪行を重ね、不正な取り引きを行って/自分の聖所を汚した。それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ/お前を焼き尽くさせた。わたしは見ている者すべての前で/お前を地上の灰にした。』とあります。『不正な取り引き』というのは、不正な活動のことです。『自分の聖所を汚した。』とありますが、サタンは天使長として、神様の栄光の御座の傍で仕えていたのです。ところが、サタンに堕落した時に、天の聖所が汚されたのです。旧約聖所時代の大祭司が、贖罪の日に行う儀式がありました。それは何かと言いますと、普段、大祭司はとても色彩豊かな大祭司の衣装を着ているのです。しかし、年に1回、贖罪の日になると、大祭司は衣装を脱ぎます。そして、水に入って、儀式的清めを行います。その後、清くなってから、贖罪の日の衣装を身につけるのですが、これは亜麻布の装束ですので、真っ白なのです。そして、その装束を着けて、至聖所に入って、種々の儀式を行うのですが、1番のクライマックスは、ヤギの血を持って入って、それを贖いの蓋の前で、振りかけるのです。贖いの蓋というのは、契約の箱の上に乗っている蓋のことです。その儀式を行った後、再度、外に出てきて儀式的清めを行い、それから贖罪の日の衣装を脱いで、大祭司の衣装に着替えるのです。
この一連の過程で、大祭司に誰かが触れた場合、大祭司は汚れを受けることになるのです。そうなると、最初から全部やり直しになるのです。本日の聖書の箇所で、マリアに声をかけた主イエスは、今、天の至聖所に昇ろうとしているのだと思います。だから、衣装を脱ぐとか、儀式的清めをするとか、ヤギの血を持って入るとか、というのが具体的に主イエスのどれを表しているかは難しいのですが、一つだけ言えるのは、ご自身の血を持って、清い大祭司であるお方が、天の氏聖所に行って、清めようとしている。その時に、もしマグダラのマリアが主イエスに触れた時に、大祭司としては汚れを受けることになるのです。ですから、主イエスはマリアに『わたしにすがりつくのはよしなさい。』とおっしゃられたのです。しかし、次に出会った女性たちには、そのことをお許しになったのです。そして、トマスにもお許しになったのです。なぜかと言いますと、幕屋の清めが終わったからなのです。
■弟子たちに遣わされるマリア
主イエスは、ここでマリアに、『わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」』伝えなさいとおっしゃられたのです。主イエスは、『わたしの兄弟たち』とおっしゃられていますが、これは弟子たちのことです。弟子たちのことを、なぜ『わたしの兄弟たち』とおっしゃられているのでしょうか?ヨハネによる福音書15章15節には、『もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。』とあります。これは、最後の晩餐の際に、主イエスが語られた約束の言葉です。主イエスはこのことを約束されたのです。
本日の聖書の箇所では、『わたしの兄弟たち』とおっしゃられました。友という言葉から、兄弟たちという言葉になっています。主イエスを信じる者たちは、神様を天の父とする家族なのです。ローマの信徒への手紙8章29節には、『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。』と書かれています。この言葉が約束しているのは、主イエス・キリストを信じる者は、神様の家族の一員とされるのだけれども、主イエス・キリストが神様の家族の長子なのです。私たち救いにあずかる者は、御子イエスと同じように変えられて行くというように、神様によって計画されているのです。それ故、主イエスが兄弟たちの中で、長子なのです。主イエスを信じる私たちは、主イエス・キリストを長子とする神様の家族であるという認識を保つ必要があるのです。
ここで、『わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。』とおっしゃられました。その内容は、『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と言われたのです。ここで、主イエスは、神様の中の長子であるとおっしゃられましたが、主イエスと父なる神様の関係と、私たちと父なる神様との関係は違うのです。同じ関係であれば、主イエスは、私たちの神のところへ上るとおっしゃるはずなのです。しかし、明確に区別しているのです。主イエスは、『わたしの父であり、あなたがたの父である方』と、明確に区別しているのです。主イエスの場合には、『わたしの父』なのです。それは、父と御子の関係に基づく言葉なのです。私たちの場合には、主イエス・キリストを通して救われた被造物としての関係なのです。ですから、『わたしたちの父』なのです。このことを伝えなさいと、マグダラのマリアに主イエスは明確におっしゃられたのです。主イエス・キリストは、神様の御子である。私たちも主イエス・キリストを信じる信仰によって、神様の子とされたけれども、主イエスと父の関係と、私たちと父との関係とは、本質的に異なっているのです。そのことを明確に区別して、覚えておきたいと思います。
ここで、マリアに新しい使命が与えられました。それは、復活の証人としての使命です。マリアは大変な祝福を与えられました。ですから、使命があるのです。その大変な祝福というのは、まず彼女は天使たちを見たのです。さらに、復活の主イエスを見たのです。さらに、最初の復活の目撃者となったのです。そして、ここでは良き知らせを伝える者となったのです。今まで、悲しみの涙を流していた女性が、今度は希望を持って、良き知らせを伝える使者になったのです。
■「わたしは主を見ました」
本日の聖書の箇所の18節には、『マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。』とあります。今、福音記者ヨハネが書いている出来事、マグダラのマリアと主イエスがどのように出会ったかと言う出来事は、ヨハネは全て直接マリアから聞いたのです。マリアは弟子たちに良き知らせを伝えたのです。彼女は使徒たちへの使徒となったのです。
それでは、マリアの証言を聞いて、弟子たちは信じたのでしょうか?他の福音書の箇所を見ると、弟子たちは信じていないのです。そして、別の女性たちの証言も信じていないのです。例えば、ルカによる福音書24章11節を見ますと、『使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。』とあります。使徒たちは、たわ言のように思ったのです。しかし、当時のユダヤ人たちの女性の証言に対する認識はこのようなものであったのです。2000年前のユダヤの法廷では、女性の証言能力は認められていなかったのです。ですから、使徒たちもこんなたわ言というようにしか思わなかったのです。エマオ途上の弟子たちの話がありますが、主イエスは呆れて、彼らを叱っています。ルカによる福音書24章25〜26節には、『そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」』とあります。主イエスの復活後の一連の出来事を通して、使徒たちの信仰が試されているのです。
女性たちの証言を信じることのできない使徒たちの姿は、現代を生きる私たちの姿であると思います。しかし、主イエスはマリアに、弟子たちのところに言ってこう告げるようにおっしゃいました。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」。わたしの父である神は、あなたがたの父でもあり、あなたがたの神でもあるのだ、と主イエスはおっしゃっています。主イエスの十字架の死と復活によってこの救いが実現しました。神に背き逆らっており、神に見捨てられ、滅ぼされてしまっても仕方がない罪人である私たちが、主イエスの十字架の死と復活によって罪を赦され、主イエスと共に永遠の命にあずかる神の子とされたのです。主イエスが父なる神のもとに上って下さることによって、そしてその主イエスから聖霊が遣わされることによって、その救いが確かなものとなります。主イエスがここで弟子たちを「わたしの兄弟」と呼んで下さったように、私たちも主イエスの兄弟とされ、神の子とされて生きることができるようになるのです。
私たちは、それぞれにいろいろな悲しみや心配事をかかえています。苦しみや悲しみ、心配事の中で私たちは、そのことから目を離すことができなくなりがちです。しかし、その私たちの背後から、復活して、生きておられる主イエスが、私たち一人ひとりの名を呼んで下さり、「なぜ泣いているのか、だれを探しているのか」と語りかけて下さるのです。その主イエスのみ声を聞いて、主イエスの方に向き直り、生きておられる主イエスと、私たちは出会い、主イエスのみ言葉に従って生きてゆきたいと思います。
それでは、お祈り致します。