小倉日明教会

『 友 』

ヨハネによる福音書 15章 12〜17節

2022年5月22日(日) 復活節第6主日礼拝

ヨハネによる福音書 15章 12〜17節

『 友 』

【説教】 沖村 裕史 牧師

■いのちを削って

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」

 皆さんは「愛し合う」ということにどんなイメージをお持ちでしょうか。多くの方は「相手に与える」ことというイメージをお持ちかもしれません。もちろんそれで間違いというのではありません。ただ問題はその与え方です。自分の取り分はしっかり守っておいて、余りものを相手に与えて、それを愛と呼べるでしょうか。たとえわずかであっても、自分の何かを削って相手にさし出すことを愛と言うのではないでしょうか。こんな話を聞いたことがあります。

 生前、父の髪はいつもガタガタでした。自分で切っていたからです。父の葬儀のとき、葬儀社の人から「整えましょうか?」と尋ねられ、「そのままにしてください」と答えました。

 小学生の頃は、父を「ガタガタ、ガタガター」と笑ってからかったものです。父も一緒に笑って、お腹や背中をくすぐって遊んでくれました。

 でも、中学生になったある日、部活のバスケの試合を応援しに来た父に僕は激しく怒ってしまいました。

 「なんで応援に来たんだよ!俺が恥ずかしいんだよっ!そんな恥ずかしい格好して来んなよっ!」

 父は怒り返すこともなく、寂しげな目をしていたのを今でも覚えています。

 悲しみにひたる時間もなく、葬儀は慌ただしく終わりました。一息ついていると、母がやって来て聞きました。

 「ねえ、なんでお父さんの髪がガタガタだったか、知ってる?」

 僕は首を横に振りました。

 「お父さんね、ああ見えて昔はオシヤレでね…。想像できないかもしれないけど、髪型にもすごく気をつかってたんだから」

 母が出した1枚の写真。そこに、髪の整った父を初めて見ました。

 「でもね、あんたが6歳の頃から自分で切り始めたの…。中学生の頃まで家族三人で毎月行ってたレストラン、覚えてる?あのレストランに最初にあなたを連れて行った次の日ね、あんた、泣き叫んでお父さんに言ったのよ。『昨日のハンバーグが食べたい!すごくおいしかったから、また食べたい!』って。それから毎月一度、あのレストランに行くようになったの。お父さんの散髪代でね」

 ちっとも知らなかった。涙がぼろぼろとこぼれ落ち、母の顔も見られなくなりました。我が家には今も、生前、父が使っていたハサミとガタガタな髪で笑っている父の遺影があります。今、僕は父を誇りに思います。

 愛とは何かと迷ったときは、どうしたら本当に相手のためになるだろうかと悩んだときは、自分の何を削るべきかを考えれば、きっとうまくいくのではないでしょうか。自分の時間、自分の場所、たった一杯のお茶でもいい、何か持てるものを削って差しあげとき、そこに素晴らしいことが起こるはずです。

 そして、それこそが神様の愛し方でした。

 イエスさまは今、「友のために命を捨てるよりも大きな愛はない」と言われます。その通りです。持っている時間も力も削り、削りに削って、もう何も削るものがない。最後にいのちを削って相手を生かすという愛。これ以上の愛はないでしょう。

■罪深い「友」として

 とはいえ、イエスさまのように自らのいのちを削り捨ててまで、人を愛することなど果たしてわたしたちにできるのでしょうか。イエスさまに従った弟子たちでさえ、その愛に報いるのにふさわしい愛を何も示すことはできなかったではないか、神の子だからできたのだ、と呟いてみたくなります。

 広域暴力団住吉会の相談役というやくざ社会のトップにいた人が、クリススチャンになり、牧師になったという話を聞いたことがあります。

 やくざになり、何でも手に入れることができるようになった彼はしかし、そのために怯え、恐れ、一日として静かに眠ることができませんでした。麻薬におぼれ、女におぼれ、ぼろぼろになった彼を救ったのは、彼の妻でした。一目ぼれした彼からの結婚の申し出を彼女は、教会に行くことを邪魔しないこと、そして一日も欠かすことなく一緒に礼拝に出席することを条件に受け入れました。これが彼の人生の転機となりました。

 ここでわたしがお話したいのはそのやくざの親分のことではなく、プロポーズを受け入れた彼女のことです。やくざと結婚するという、彼女の決断を皆さんはどのように思われるでしょうか。クリスチャンが、暴力を振るい、覚せい剤をばら撒き、女性を食い物にするやくざと付き合うなどもってのほかだ。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエスさまの戒めは理解できるが、それとこれとは別で、とんでもない。仮に、家族のひとりがそのような人間と結婚して、身内に迎えるなど考えられない。そう考える人は決して少なくはないでしょう。

 しかし、彼女は、そのプロポーズを受け入れました。彼女にとっては、彼がやくざであるかどうかよりも、愛する人と一緒に礼拝を守れるかどうかということが大切でした。そこには、あれこれたくさんの条件を出して、信仰に導いてやろうという高みからの気負いもありませんし、愛する相手から何かを得ようとしたり、たくさんのものを求めようとしたりする愛でもありません。

 もちろん、そんな女性だからこそ彼もまた惹かれたのでしょうが、彼女はそのやくざの親分を、共にイエスさまから愛される罪深い「友」として、「互いに愛し合う」者として受け入れました。

 イエスさまの愛に相応しい者とは言えないこのわたしたちが、イエスさまによって、そのいのちを削り捨てて愛されました。その愛は、高みから施しとして与えるような愛でもなければ、愛する者から何かを要求するような愛でもありませんでした。イエスさまは、愛することに人間的な一切の条件をつけるようなことをされず、ただ「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われます。わたしが「自分の命を捨て」たのは「友のため」だった、と言われるのです。

 とすれば、続く「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とは、「わたしの命じることを行わないというのであれば、あなたたちはもはや、わたしの友でも何でもない」と、脅すようにして「友」としての条件を持ち出されているのではないはずです。そうではなくて、「あなたたちは、わたしがいのちを捨ててまで愛してやまない、わたしのかけがえのない友なのだ。だから、あなたたちもわたしの友として互いに愛し合いなさい。いや、愛し合うことができる」とわたしたちを励ます言葉なのでしょう。

■友と呼んでくださる

 そもそも、「友」フィロスという言葉は本来、「愛する者」と「愛される者」という二つの意味を合わせ持つ言葉でした。友という関係は、そんな相互的なかかわりのことです。 そのことからも分かるように、この言葉は人間同士の関係を表す言葉です。聖書でも、神様やイエスさまとの関係を表わすことはほとんどありません。

 しかし今、イエスさまは、わたしたちを僕とは呼ばず「友」と呼ぶ、と宣言されます。神は全く別格の存在ですから、わたしたち人間は主人である神に対して僕、奴隷にすぎないはずです。にもかかわらず、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。…わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と、神の御子であるイエスさまはわたしたちを「友」と呼ばれます。父なる神から聞いたことをすべて知らせるほどに、わたしたちを愛しているからだ、と言われます。

 一人の青年が救いを求めて教会を訪れました。表面的には明るさを装いながらも、心の奥に深い闇を秘め、魂のふるさとを求めてさまよう旅人のようなでした。疲れた旅人に必要なのは温かい宿であり、もてなす友です。青年が訪ねた教会には、礼拝後に食事会がありました。

 その食事会は、寄る辺ない青年たちの拠り所として始められたもので、教会の女性たちの無償の奉仕で成り立っていました。彼女たちはせっせとおいしい食事を作っては青年たちに食べさせ、彼らが食べ散らかした食器を洗い、ときに遅くまで彼らの話に耳を傾けてくれました。

 真心でもてなされれば、心はほどけるものです。彼もいつしか常連となり、友人も増え、福音を信じ、ほどなく洗礼を受けることになりました。彼は魂のふるさとを見つけたのでした。恵みにあふれる教会での体験が、彼を教会への奉仕へと導いていくのは、ある意味で必然だったのかもしれません。彼は、次第に教会を通して神様と隣人に仕えることに憧れるようになり、ついには神学校へ飛び込んで行きました。

 牧師としての召命の旅はしかし、やっと得たはずの、いわばこの世の魂のふるさとをいったん手放して、真の目的地である天のふるさとへと向かう試練の旅です。見たくない自分の弱さや汚れとも向き合い、この世での憧れや満足ではなく、神様のみ心へと自らを明け渡していく過酷な旅です。やがて彼はその旅に疲れ果て、自らの弱さを恐れ、出口のない闇に落ち、神学校を休学せざるを得なくなりました。

 そんなときの彼に出会いました。今も、その頃の彼のこわばった顔を思い出します。何も信じられないという不信に支配されて憔悴しきった顔。そんな彼に繰り返し福音の喜びを語りましたが、どうせ自分なんかは救われないと思い込んでいる彼の返事は、いつも痛々しいものでした。一度こう言われたこともあります。

 「ぼくの闇の深さは、だれにも分からない」

 だれにも?そんなはずはない。一人いるはずだ。あなたの闇の深さをだれよりも、あなた自身よりも分かっている方がいるはずだ。あなたのその闇のためにこそ、自らのいのちをも捨てた、あなたの真の友。あなたのすべてを愛して、あなたに必要な恵みを注いで、究極の友となってくださったイエスさまがいる。

 イエスさまは教会の奉仕を通して具体的に働いてくださいます。事実、イエスさまを信じる大勢の兄弟姉妹が、友が、どれほど彼のために祈ったことでしょう。今は亡き、彼の母親もその一人でした。当時重病を患っていた母親は、休学した息子のために祈り、手紙を書き続けました。彼女は亡くなる直前まで、ひとり息子のことを心にかけ、励まし続けました。

 旅人に必要なのは、温かい宿、そしてもてなす友です。今や天にあってイエスさまと共に働いている彼の母親を初め、教会の大勢の友がイエスさまの手となり足となって、彼をもてなしました。光は闇に打ち勝ちます。彼は教会の友によって再び心ほどけ、摂理としか言いようのない様々な幸いにも恵まれて神学校に戻り、ついに准允式を受けました。

 招聘された教会での就任式には、彼が洗礼を受けるきっかけともなった、あの食事会で奉仕していた女性たちの中の一人が遠方から参列しました。今は足の不自由な彼女が歩行器に支えられながら彼に歩み寄る姿を見て、思わず涙がこぼれました。これこそ神のみ業、いのちを捨てて友をもてなすイエスさまのみ業です。彼は挨拶でこう言いました。

 「こんなにふさわしくない自分がこうして神に選ばれ、神に救われました。皆さんも安心してください。どんなに弱く、罪深くても、神はあなたに目を留め、必ず救われます。わたしがその証人です」

 そして彼は挨拶の最後を、こんな聖書の言葉で締めくくりました。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。…わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」

■担い合う愛

 わたしたちが相応しいから友とされ、愛されるのではなく、イエスさまに選ばれ、イエスさまに捉えられて、友とされ、愛されるのです。

 とすれば、わたしたちは、イエスさまの示される愛の戒めをもはや、一方的な恵みに留めておくことはできません。友とは本来、相互的なかかわりを表わすものです。イエスさまの友として選ばれ、捉えられたわたしたちは、ただ愛されるだけではなく、その愛に押し出されるようにして、イエスさまを愛し、イエスさまのみ言葉に応え、イエスさまに倣う者となりたい、と願わずにはおれなくなります。イエスさまは、「互いに愛し合いなさい」という命令について、こう教えておられるに違いありません。

 「あなたとわたしは友になる。わたしが上座にいてあなたは下座にいる、あるいは、あなたはわたしの愛の対象で、わたしはあなたの崇敬の対象であるということでもない。わたしたちは、共に愛の苦難と痛みを受け、担い合うものなのだ」

 ある若い女性からこんな話を聞きました。

 生まれつき、髪の色が茶色いわたし。ハーフじゃないけど、茶色くて…。

 高校生の時に、先生に呼ばれて怒られ、先輩にも目をつけられ、何も悪い事はしていないのに何で?って思いました。しだいに学校を休むようになり、もう辞める覚悟もできていました。

 しかし、そんなわたしを親友が迎えに来ました。わざわざ、わたしと同じ髪の色に染めた親友が……。

 一緒に学校に行きました。わたしは、学校を休んでいたこともあって、怒られなかったけど、親友はクラス全員の前で怒られてしまいました。その子は、下を向いたまま、目に涙を浮かべて、じっと耐えていました。わたしは声を殺して泣きました。人の温かみ、親友の大切さを知った日でした。

 イエスさまが求められる愛は、上から施す愛でも、下から奪う愛でもなく、共に苦難と痛みを分かち合う、素朴で親密な情愛に満ちた愛です。そんな「愛する」という言葉をもっと分かりやすく言えば、「大切にする」ということです。互いに愛し合うと言うことは、互いに大切にし合うということです。

 宮城県の気仙沼地方、その地方で使われる方言で聖書を翻訳したお医者さんがいます。彼は、アガペーというこの言葉がどうもわかりづらい。何よりも気仙語にそれに当てはまる言葉がないし、そもそも「汝の敵を愛せよ」なんて言われても、とてもできそうもない。悩んだあげく彼は、「愛する」を「でぇーずにする」「大切にする」と訳しました。「汝の敵を愛せよ」は「おめぇのかたきもでぇーずにすろ」となります。実は、日本語に翻訳された最初の日本語聖書でも、「神の愛」は「神のお大切」と訳されていました。アガペー「愛する」という言葉は確かに、「大切な」身内の間に見られる、素朴で深い情愛を表す言葉でした。

 新約聖書でもこの言葉は、キリストを信じる仲間を表す言葉と共に多く使われます。パウロはテモテを「愛する」子と呼びます。またコリントの信徒には、「愛する」自分の子どもであるがゆえに手厳しく注意し、フィレモンに対しては、逃亡奴隷オネシモを「愛する」兄弟として受け入れるようにと諭します。キリストを信じる者が互いに「愛する者」と呼び合えるのは、神様が御子イエスをわたしたちの罪を償ういけにえとして与えられるほどにわたしたちを愛してくださったからでした。その神の愛が、人と人とを結び合わせ、互いに愛し合う共同体をこの世界に誕生させました。 わたしたちもまた、神に捉えられ、イエス・キリストが今もここにいてくださるという信仰をもって、互いに愛し合う兄弟たちの共同体として、大切な何かを削って、共に苦難と痛みとを分かち合い、この世の様々な試練に立ち向かっていきたい、と祈り願う次第です。