■別れは…
父が亡くなり、遺品の整理をしていた時のこと。手帳をめくると、細い文字でこう記されていました。
「別れは、あわただしい方が良い」
それは、長年勤めた役所を退職した後に書き込まれた言葉のようでした。前後関係は何も分かりません。分かりませんが、父の体温を感じる言葉でした。
別れは、あわただしい方がいい。確かにそう思えます。言いたいことも言えず、感謝も思い出も、一言も語る暇(いとま)なく、挨拶もそこそこに別れるほうがいい。名残(なごり)を惜しむ別れは、後ろ髪を引かれるようで辛いものです。そんなことをすれば、思わず泣いてしまうかもしれません。いえ、余計なひと言を口にしてしまうかもしれません。それは、とても見苦しく、また恥ずかしいことですから、少々冷たいぐらいの別れがよい。心のこもった送別会を開いてもらうより、「花に嵐のたとえもあるように、サヨナラだけが人生さ」、そう嘯(うそぶ)いている方が耐えやすい。しみじみとそう思うことがあります。そして、別れた後はできる限り遠ざかり、一切の交わりを避けようとする。
とはいえ、そう思う父やわたしのような者こそ、実は抱きしめてもらうほどの暖かい送別を、誰よりも求めているのかもしれません。誰よりも過去を振り返り、人との交わりにしがみついている気がします。別れるその一人ひとりがとても心配で、人一倍後ろ髪を引かれる性格だからこそ、逆に厳しいほどに別れをあっさりと済ませたいと願うのかもしれません。
■気遣い
二〇節から二一節、
「ペトロが振り向くと、イエスさまの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスさまの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である。ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った」
復活されたイエスさまに今度こそ生涯従っていく、そう決意したペトロです。その彼がすべてを振り払って新たに出発しようとするその時、振り向きました。後ろ髪を引かれつつ、ひとりの弟子を見つめました。弟子たちのリーダー格であるペトロは、その弟子が心配だったのかもしれません。 今までは、イエスさまを中心に皆で一緒に行動してきました。しかし復活のイエスさまと出会った後、ペトロは、このグループがそろそろ発展的に解消し、新しい展開が起こることを予感していたのかもしれません。それぞれが別れの時、送別の時を迎えようとしている…。ペトロは名残惜しそうに振り向いて尋ねます。
「主よ、この人はどうなりますか。みんなはどうなりますか。元気でいてくれるでしょうか。幸せにやってくでしょうか。わたしのことはともかくも、彼らのことが心配なのです…」
ペトロは、弟子たちがそれぞれにどんな問題を抱えていたのか、よく知っていたのでしょう。そんな彼らの将来を心配する優しい気遣いを、ペトロの言葉に見て取ることもできます。
■一番大切なこと
しかし、このペトロの配慮に対するイエスさまの言葉は、驚くほどに厳しいものでした。二二節、
「イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい』」
仮に、わたしが将来再び地上に現れる、その再臨の時まで、あなたが心配するその弟子だけは生き残っていることを願ったとしよう。その弟子には、確かな幸せを約束したとしよう。どうですか?それで満足ですか?でも、それがあなたに何の関係があるのです。あなたはわたしに従えば、それでよいのです!
イエスさまは、ペトロの心配をばっさりと切り捨てられます。他人(ひと)に向いていた視点を、自分自身に向き直させます。ペトロ、他人の心配より自分自身のことを考えなさい。あなたの後ろ髪を引く誰かよりも、髪を引かれて動けなくなっている自分を心配なさい、と。
イエスさまのペトロに対するこの指摘は正しいものです。聖書を読めば、わたしたちの誰もがペトロに言いたくなることでしょう。おいおい、あなたこそ心配だよ、と。イエスさまを誤解し、裏切り、失敗を繰り返したあなたが、他人の心配までできるのか、と忠告したくなるでしょう。
もちろん、他人を心配するペトロの気持ちは、素朴で微笑(ほほえ)ましいものです。しかしそれは、他人を心配することで、自分自身の課題を、イエスさまに従うという一番大切なことを見ないですまそうとする、弱さの表れなのかもしれません。そのことを、イエスさまはペトロに気づいて欲しいと言われたのではないでしょうか。
■神の国にふさわしくない
わたしたちは、どんな別れの時にも、後ろ髪を引かれます。新しい出発の時、振り向くことでしょう。別れる人がとても心配になります。他人が幸せになるかどうかまで、余計な気を回すことでしょう。
しかし、自分が救われるかどうかもあやふやなのに、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(ルカ一三・二三)と、イエスさまに他人の相談を持ちかけた弟子たちの姿が思い出されます。また、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と死んだ人の心配をし、「主よ、あなたに従います」と言った舌の根も乾かぬうちに、「しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言い始める弟子たちでした(ルカ九・五九以下)。これらすべてのことは、他人への心配を名目に、自分の課題や不安を誤魔化しているだけなのかもしれません。
この手のわたしたちの訴えに対し、イエスさまの態度は一貫しています。「わたしに従いなさい。…死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。…鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」
後ろを振り向く者は、神の国にふさわしくないようです。後ろ髪を引かれるという美しい言葉で、自らの課題を、一番大切なことを誤魔化す者は、神の国に入ることはできません。
やはり、別れはあわただしい方がよいようです。振り向く暇もない方がよい。あわただしくないと、いろんなことを思い出し、悲しくなってしまうからです。そそくさと別れないと、後ろ髪を引かれてしまうからです。しかし何よりも、自分自身を見つめるために、あわただしい方がよいのです。弱いわたしたちは、時間があれば振り向き始め、他人を心配し、自分の課題を曖味にしてしまうかもしれません。あるいは、心配のあまり、自分こそ誰かを救えると錯覚し、イエスさまの仕事の領域を侵すかもしれません。わたしたちは神ではありません。わたしたちには人間を救うことはできないのです。他人の心配をするのはイエスさまの仕事だと心するため、あっさりと少々冷たく別れたほうがいいのでしょう。もちろん、他者への振り向きや心配がすべて自分の課題を誤魔化すためになされているというのではありません。中には、誠実な他人への心配や配慮もあるでしょう。しかしこの厳しい聖書の言葉は、どんな誠実な事情があろうとも、主に従うと決めた以上、わたしたちが振り向き、思い煩(わずら)うことを、イエスさまは全く望んでおられないのだということです。
■振り向くのは誰?
イエスさまは、どうしてここまで振り向くことを戒められるのでしょうか。それは他でもない、他人を心配し、振り向くのは、基本的にわたしたち人間の仕事ではないからです。
十字架に架けられる前の夜、イエスさまが弟子たちに励ましの言葉を告げられた時のことが、ルカによる福音書二二章三一節以下に記されています。
「『…しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』するとシモン[ペトロ]は、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った。イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう』」
そしてイエスさまの言われる通りになった時のこと、福音書にこう記されています。
「主は振り向いてペトロを見つめられた」(二二・六一)
振り向くこと、それはイエスさまの仕事です。自分を裏切ったペトロを、イエスさまは見捨てられても当然なのに、振り向いて見つめられました。心配されました。復活の後も、ペトロの所に帰ってこられて、その世話を焼かれました。いつも、いつも振り向いているのは、イエスさまです。すべての弟子を心配しているのは、ペトロではなく、イエスさまなのです。だからイエスさまは言われます。
ぺトロ、あなたは振り向いてはならない。あなたが後ろ髪を引かれる必要はない。他人を心配することはない。それはすべてわたしの仕事だ。わたしがあなたを配慮したように、あなたの大切な人もわたしが配慮する。あなたはただ、わたしに従いなさい。
■主のなさること
別れに際し、他人のことを純粋に心配することは間違ってはいません。自分を顧(かえり)みず、他人の幸せのことで思い煩い、大切な人の救いを心配することも、自然な感情です。ただ、それには自ずと限界があり、究極的には人間の仕事でないことも忘れてはなりません。それは人間の職分、領域をはるかに超えた行為、イエスさまがなされること、イエスさまの務めなのです。
パウロは、配偶者の幸せ、救いを心配し振り向く人々に、個人的な見解だと断わりながらも、こう語っています。「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」(第一コリント七・一六)
心配し、思い煩いながら、いつのまにかわたしたちは、自分こそが他人を救うことができると思い始めているのかもしれません。ペトロと同じように、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と振り返りつつ、神様の仕事である救いを、聖なる領域を侵してはいないでしょうか。イエスさまの行為を横取りするとは、自ら神になろうとすることです。もしそうなら、その行為は間違っています。
新しい出発、別れの時は、イエスさまの振り向きを意識し、イエスさまの他者への配慮にすべてを委ねる、信仰的決断の時です。出発に際し、ペトロはイエスさまの厳しい指摘を受けました。振り向くことを注意されました。そんな彼も最終的に、このイエスさまの意昧していることを受けとめます。その証拠に彼は、自らの手紙の中でこう告白しています。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(第一ペトロ五・七)
ペトロは、思い煩いをすべて神に委ねよと言います。振り向くのをやめるよう勧めています。なぜなら、あなたではなく主が振り向いて、すべての人を見つめ、思い煩い、心を砕いていてくださるから、と。イエスさまに見つめられ、心かけられたペトロだから、主にあれほど振り向かれ、愛された男だから、言えた言葉かもしれません。 今日、教会の定期総会をもって新しい年度のスタートを切ろうとしているわたしたちも、ペトロのように狼狽(うろた)え、恐れ、戸惑い、つまずくことの多い者ですが、そのようなわたしたちをこそ主が慈しみの眼差しの中に置いていてくださることを覚え、その愛と恵みにすべてを委ねて、感謝と喜びの内に今年一年もご一緒に歩んで参りたいと願う次第です。