小倉日明教会

『気を落とさずに、絶えず祈れ』

ルカによる福音書 18章 1〜8節

2024年6月16日 聖霊降臨節第5主日礼拝

ルカによる福音書 18章 1〜8節

『気を落とさずに、絶えず祈れ』

【奨励】 川辺 正直 役員

ジュリア・ロレイン・ヒル

 おはようございます。さて、1997年の12月、ジュリア・ロレイン・ヒルという女性が突拍子もないことをしたのです。高さ100mにも達する樹齢1500年のセコイアの木のてっぺんに登り、そこで738日間生活したのです。彼女はどうしてもセコイヤの樹木を守りたいという情熱に燃えていました。しかし、環境破壊が進むと1500年生き延びた木も枯れることがあるのです。そこで、その辺り一帯を所有するパシフィック・ランバー・カンパニーという材木会社に、この木の周辺60mに人が近づかず、開発しないエリアを設けるように申し入れたのです。そして、この要求を会社側が受け入れるまで、木のてっぺんに2年と8日間とどまり続けたのです。嵐が来ようが、雪が降ろうが、雨が降ろうが、炎天下であろうが、木のてっぺんにマットレス置いて、しがみつきながら生活したのです。地上スタッフによる食糧や必需品の支援を受けながら、踏ん張ったのです。とうとう根負けした企業が彼女の要求を全面的に受け入れた時、彼女はそこから降りてきたのですが、体重は激減し、すっかり別人のようにやつれ果てていたのですが、彼女は諦めなかったのです。

 さて、本日の聖書の箇所には、諦めない1人のやもめが登場します。本日の聖書の箇所は、前回の17章20節から続いています。つまり、『神の国はいつ来るのか』という質問に対して、主イエスの答えは『神の国は、見える形では来ない。』でした。そして、最後の37節には、『主よ、それはどこで起こるのですか』という弟子たちの問いに対して主イエスが、『死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ』とお答えになったことが語られていました。『神の国の到来、完成のしるしをどこに見ればよいのですか』という弟子たちの問いに対して、主イエスは、『こういうことが起っているところにそのしるしがある』、『こういうことにこそ、神の国の完成が現れている』とおっしゃったのです。その『こういうこと』を示しているのが、今日、お話しますルカによる福音書18章の1〜8節の『やもめと裁判官のたとえ』なのです。本日は、この聖書の箇所を、みなさんと共に読んでゆきたいと思います。

気を落とさずに絶えず祈らなければならない

 さて、本日の聖書の箇所の1節には、『イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。』と記されています。章の区分は変わっていますが、前回の話から、本日の箇所は続いていて、主イエスは弟子たちに向かって、たとえ話を語っていることがわかります。そして、本日の聖書の箇所は、文脈上は、神の国と再臨の教えの結論となっているのです。それは、どういう内容となっているのかと言いますと、初臨と再臨の間の期間、つまり私たちも生きている初臨と再臨の間の期間、その間に艱難が来ても諦めないで、忠実に生きるようにという励ましが、ここでのたとえ話の目的になっています。さて、このたとえ話の主役は、1人のやもめです。福音記者ルカは、やもめを頻繁に取り上げています。他の3つの福音書の合計よりも、ルカがやもめを取り上げている回数が多いのです。ルカは社会の底辺にいる人、社会的に弱い立場に追い込まれている者に対して、神様は憐れみの目を注いで、彼らに集中しているということを強調しているのです。

 そして、たとえ話の目的が、1節に啓示されています。目的は、2つです。気を落としてはいけないよということと、絶えず祈るべきですよということです。この2つのことを学ぶことが、このたとえ話の目的、ゴールなのです。このたとえ話の背景には、初臨と再臨の間に、長くて困難な時期があるのです。そのことを前提に、主イエスはこのたとえ話を語っておられるのです。そして、再臨までは、長くて困難な時期が続くのだけれども、再臨の時にメシアは王として来られ、今、世の中に存在しているすべての不公平、不義、罪は、メシアによって正される時がくるのだ。それ故、その希望を持つならば、いかなる状況にあっても、神様の恵みを求めて祈るべきであると、主イエスは弟子たちに話をされるのです。

 因みに、正統的なユダヤ人は、祈りは1日に3度に限定していました。しかし、主イエスのこのたとえ話では、絶えず祈ることが求められるのです。祈りの回数は、1日に3回に限定されないのです。ここが、主イエスの教えの新しいところです。

神を畏れず人を人とも思わない裁判官

 本日の聖書の箇所の2〜3節を見ますと、『ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。』とあります。2節に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官が登場しています。非常に傲慢な裁判官であったと思いますが、この裁判官がユダヤ人なのか、ローマ人なのかは記載されておりませんので、何人なのかは分かりません。しかし、何も書かれていないことから、そのことはここでは重要なポイントではありません。そして、やもめが訴えていることから、おそらくこの裁判官はいわゆる下級裁判所の裁判官だと思います。

 そして、このような金銭をめぐる争いですから、やもめが経済的に損を被っている状況だと思います。こういう金銭上の争いというのは、紀元1世紀のパレスチナでは、通常1人の裁判官が扱ったと言われています。ですから、出てくる裁判官は彼1人で、彼の判断で全てが行われるのです。これが、裁判官についての描写です。旧約聖書のモーセの律法では、裁判官は裁き司とか、長老とか、長(おさ)とかいう名前で出てきます。そこに書かれているのは、裁判官はまず神様を畏れなければならないということです。神様を畏れ、公正な判断を下さなければいけないのです。モーセの律法に記されているのは、裁判官は、弱者の権利を擁護する神様の代理人なのだということです。神様の代理人として使命を与えられ、神様から立てられているのが裁判官なのです。

 ところが、このたとえ話に出てくる裁判官はそれとは正反対の人物でした。彼にとって、すべての行動の動機は、自分の利益になるかどうかであったのです。主イエスは弟子たちに、このたとえ話を語っているのですが、周りで群衆が聞いているのです。本日の聖書の箇所に登場する裁判官に散々苦しめられている人がたくさんいたはずですから、周りにいた聴衆は、『神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。』と聴いて、ああ、おれも知ってる、知ってると、笑って、顔を見合わせていたと思います。いつの時代でも、どの国でも、社会の頂点にいながら、民衆のことではなくて、自分のことしか考えない指導者がいると思います。まさに、この世に悪が存在していることの象徴であるような人物が、この裁判官なのです。

 3節に、1人のやもめが登場します。これで、たとえ話が展開して行くわけです。このやもめは、裁判官とは対象的な人物だと思います。旧約聖書の律法を見ますと、裁判官は社会の頂点にあって、神様を畏れ、神様の義を行うように、神様の代理人として召されています。一方、やもめは抑圧された階層の代表です。当時は、夫に死なれると、やもめは収入の道が閉ざされます。ですから、他の人の憐れみにすがって生きるしかない、本当に社会的には気の毒な、弱者としての生活を強いられる存在だったのです。旧約聖書の律法では、出エジプト記22章21節には、『寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない』とあるように、寡婦、すなわち、やもめを守るよう命じられているのです。また、申命記10章17~18節には、『あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる』とあり、主なる神が寡婦の権利を守ると語られています。本日の聖書の箇所で、やもめが裁いてほしいと訴えている相手は、この『寡婦を苦しめてはならない』という戒めを守ろうとせず、弱い立場にあるやもめに対して不当なことを行ったのだと思います。社会的に強い立場にいる人に対抗しようにも、このやもめは、裁判官に、他の人がやるような賄賂を贈る余裕もないのです。

 ここで、神の国、再臨、そして、たとえ話という一連の文脈を考えますと、このたとえ話では、このやもめは寄る辺のないイスラエルの民の象徴なのです。初臨と再臨の間の困難な時期、特に艱難気に入りますと、極めて困難な時期に入る、寄る辺のないイスラエルの民の象徴、それがこのやもめなのだというのが、このたとえ話の意味なのです。

 それでは、このやもめはどのように動いているのでしょうか?なかなか動いてくれない裁判官のところにやって来ては、『「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていた』というのです。裁判官のところにやって来るという動詞ですが、時制が未完了形なのです。ということは、動作が繰り返し行われたということを意味しているのです。繰り返しやって来た、つまり裁判官から見ると、諦めない、しつこくて、やっかいな女性だったのです。「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っています。裁いてという動詞ですが、ここでは正義を行う、あるいは、ある人の権利を守るという意味の動詞が使われています。ですから、正義を行い、私の権利を守って下さいと、このやもめは訴えかけたわけです。

 このやもめは、どのように困難な状態に陥っていたのでしょうか。おそらく不当な理由で、経済的な損失を被っていた、あるいは、夫の持っていた土地や家を奪われそうになっていたのかもしれません。それ故、このやもめはこの裁判官に、正当な裁きを求めたのです。先程、弟子たちの周囲にいる聴衆の話をしました。周囲の聴衆は、あちこちに『神を畏れず人を人とも思わない裁判官』がいるよね、と思っているのです。繰り返し裁判官に正当な裁きを求めた、そういう話を聞きながら、周囲の聴衆は顔を見合わせて、俺達も経験しているけれど、無理無理、動かないよ、裁判官は動くようなものじゃないよ、そういうやからがやたらと多いからね、というようにささやきあっていたことと思います。高い地位につきながら、貧しい人たちの権利を守ってあげることができないような裁判官というのは、神様の目から見たら、忌むべき存在であると思います。そのように、裁判官は動かなかったのです。ところが、事態は進んでゆくのです。

ひっきりなしにやって来て

 本日の聖書の箇所の4〜5節を見ますと、『裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」』とあります。事態が少し進みました。すなわち、予想外の展開が、ここで起きているのです。この主イエスのたとえ話の展開は、弟子たちにとっても、その周りの聴衆にとっても、予想外で、聞いている人は誰も予想していなかったと思います。というのは、このような悪徳裁判官にとっては、このようなケースは放置しておくというのが常であったからです。なぜかと言うと、苦労して対応しても、自分の利益にならないからです。やもめが不当な仕打ちを受けている事実があっても、その事実は裁判官を動かさなかったのです。この裁判官の心は、そのことで動くことはなかったのです。ところが、裁判官がひとりごとを言うのです。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない』。この裁判官は自分でも思っていたのです。自分はやりたい放題生きている、自分を神のように思っている、自分が正義の物差しになっているのです。しかし、この裁判官は、彼女のために裁判をしてやろうと思ったのです。その理由は、うるさくてかなわないから、そして、ひっきりなしにやって来るから、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない、というのです。

 この『さんざんな目に遭わす』と訳されているギリシャ語は『ヒュポピアゾー』という動詞が使われているのですが、もともとの意味は『目の下を殴る』、『目にクマを作る』というものです。ですから、このまま放置しておくと、あのやもめはヒステリー症状を起こして、自分に飛びかかって来て、自分の顔を殴って、自分の目にクマができてしまう、というようなことがこの動詞から連想することができるのです。そのように解釈する神学者もいますが、でも、ここはそういうこともあり得るかもしれませんが、実際には、ここは肉体的に傷を負わされるというよりは、むしろ顔に泥を塗られる、つまり、ひっきりなしに来ていて、そのことが評判になって、それでもあの裁判官は動かないという悪評が立つと、自分の顔に泥が塗られる、つまり、社会的評価が落ちてしまう、そのことを裁判官は心配したと思うのです。このような神を畏れず人を人とも思わない悪徳裁判官であっても、自分の社会的評価がどうなっているのかは気にしているというのです。それで、裁判をしてやろうという気になったのです。

 ここで、このたとえ話を誤解して、神様がこの裁判官のようだと考えるのは、間違った理解だと思います。不正な裁判官でも、やもめの懇願によって、行動を起こしたのです。そうであるならば、ましてや恵み深い、愛に富んだ神様が、やもめや幼子のように、この世の弱い立場にいる人々を愛しておられる神様が行動を起こさないはずがないでしょというのが、ここでのポイントなのです。これが、主イエスが語られるたとえ話の内容なのです。

まして神は、

 次に、本日の聖書の箇所の6〜7節には、『それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。』とあります。ここで、主イエスは不正な裁判官のたとえを用いて、霊的な真理を教えようとされています。聖書では、価値のある真理を教えるために、悪人をたとえ話に用いることが時々あります。以前にお話しましたところでは、ルカによる福音書16章1〜13節の不正な管理人のたとえ話がありました。不正な管理人のたとえ話の場合も、管理人が不正ですが、その不正な管理人を用いて、主イエスは霊的な真理を教えたのです。地上の富を用いて、永遠に価値のあることのために準備しなさい、という教えを語って下さったのです。

 そして、本日の聖書の箇所でも、悪徳裁判官を用いて、価値ある真理を教えようとされているのです。ここでの、主イエスが語る結論は、カルバホメルと呼ばれる典型的なラビ的な教授法です。大についてこう言えるのならば、小については当然こう言えるでしょうという議論の仕方なのです。従って、主イエスがここで教えられているのは、不正な裁判官でも、やもめの必要な願いに応えるこれが大ですね。不正な裁判官はやもめが、熱心に、執拗に願ったので、それに応えたのだ、これが大の議論ですね。そして、小の議論は、不正な裁判官でさえもそういうことが言えるのならば、ましてや恵み深い神様はなおさら信じる者たちの祈りを聞いて下さるのは当然でしょ、というものです。ここで注目したい言葉は、『選ばれた人たちのために』という言葉です。選ばれた人たちというのは、誰のことなのでしょうか。この文脈の中で、厳密に解釈すると、艱難期のユダヤ人信者たちのことなのです。初臨と再臨の間の期間、長く厳しい期間が続くのですが、その最後が艱難期なのです。その時期に、主イエスを信じる少数のユダヤ人信者のことを語っているのです。しかし、もっと広げて見ますと、懇願する者には、神様の助けがあるという真理は、どの時代の信者にも適用されるのだと思います。ですから、この箇所の意味を汲み取る厳密な釈義としては、選ばれた人たちというのは、艱難期のユダヤ人信者であり、そして、その適用としては、いつも時代にあっても、キリストを信じて、父なる神様に懇願する信者たちには、神様は御手を伸ばして下さる、それ故、私たちも神様の助けを求めて祈るべきであるということになると思います。

人の子が来るとき、

 そして、本日の聖書の箇所の8節には、『言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』とあります。この箇所が語っていることですが、『人の子が来るとき、』というのは、主イエスの再臨の時です。従って、これは再臨を前提としていることが分かります。つまり、神の国、そして、再臨、そして、このたとえ話、これらは一連のものとして繋がっているということが分かります。そして、再臨の時に、神様に敵対する者は裁かれると言うのです。

 ここで、主イエスは、『果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』と質問しておられます。このような質問は、修辞的質問ですね。果たして地上に信仰が見られるだろうか、いやいや信仰者というのは、驚くほど少ないという意味が込められているのです。それは何を意味しているのかと言いますと、だからやもめが発揮したような、諦めることのない、心が折れることのないような信仰を持ちなさいという警告なのです。メシア再臨のときにキリストを信じている人は少ないのだから、あなた方に関しては、しっかりとキリストを信じる信仰を持ち続けなさいという警告なのです。神の国は、いつ成就するのか。それは、人の子が来る時、再臨の時なのです。メシア再臨の時に、地上にキリストを信じて救われる人たちがいて、その人たちが神の国に入って行くのです。それで、まだ神の国は成就していない。ですから、いかなる試練を通過していても、私たちは必ず、この不正、この不公平、この不義、この罪は、再臨のメシアがすべて解決されるという信仰を持つことができます。そして、同時に試練の中でも、主の祈りにある『御国を来たらせ給え』という祈りを継続して祈り続けることができる、つまり、それこそが信仰だと言うのです。

 初臨と再臨の間の厳しく長い期間を、私たちは生きているのです。艱難期になると、それはもっと厳しくなります。現実に、日々の生活の中で、それぞれ一人ひとりが課題を与えられています。いろいろな心配事があり、試練があります。一人ひとり違っているのです。しかし、課題のない人はいません。クリスチャンであっても、課題が与えられているのです。それ故、祈り続けるのです。直ぐには答えが来ないことが多いのです。しかし、それは祈ることを諦めて良いという理由にはならないのです。なぜなら、神様が決めた時に、解決が来るからです。そして、最終的な解決は、主イエスが再臨される時に、すべての不義と不正が正され、キリストを信じる者が神の国に招かれる時に、最後の解決が与えられるのです。ですから、励ましの言葉、やもめのような信仰を持ちなさい、いかなる試練のときでも、御国を来たらせ給えと祈り続けることができる、それが、神様が私たちに期待しておられる信仰なのです。

 主イエスの言葉の最後の『果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』という修辞的質問ですが、この質問に対する応答、質問はどのようなものになるのでしょうか。それは、『では、イエス様、どういう人が救われる人なのでしょうか、どういう人が信仰を持つ人なのでしょうか』という問いになるのではないでしょうか。実は、本日の聖書の箇所の後、次回からルカによる福音書はエルサレムへの旅の最終ブロックに入るのです。そのエルサレムへの旅の最終ブロックで取り上げられている内容は、どういう人が救われて行ったかという内容なのです。そのブロックでは、エリコの近くでの盲人の癒し、あるいは、ザアカイという取税人の救い、そういった内容が含まれているのです。つまり、心砕かれ、そして、神様の前に謙遜になる人が救われていくのだということが、連続して出てくるのです。

祈りの背後にある信仰

 今日の聖書の箇所のたとえ話で、諦めないで祈り続けるということを教えられた訳ですが、本来、祈りというのは、どのような信仰から出てくるのでしょうか。ここで、祈りの背後にある信仰について、考えてみたいと思います。1つ目は、天の父は良い方であるという信仰であると思います。努力して、祈りの言葉をどれほど飾り立てたとしても、天の父は良い方であるという信頼のない祈りというのは、虚しい祈りであると思います。たとえ、祈りが言葉にならない時でも、天の父は良い方であるという信頼がしっかりしている人は祈りを継続することができると思います。いかなることが起ころうとも、天の父は良い方であるという信仰が揺らぐことはない、このことはとても大切なことだと思います。

 聖書から私たちが学ぶ神様の姿というのは、天の父は、私たちの祈りを聞きたい、聞き届けたいと願っておられる方だということです。このような憐れみ深い、愛に満ちた神様の姿が、聖書は私たちに啓示しているのです。そのことを思います時に、祈りの言葉というのは、たとえたどたどしい言葉であったとしても、心から出ている祈りは神様に届いているのだと思います。祈りというのは、父なる神様は良き方であり、私のために最善を用意していて下さるのだという、父なる神様への全面的な信頼の上にあるのだと思います。

 祈りの背後にある信仰の2つ目は、自分のためだけではなくて、苦難の中にいる人たちを思いやる信仰であると思います。これが、父なる神様を見上げる人の信仰であると思います。今日の聖書の箇所のやもめのように、弱い立場に追いやられた人たちのために祈るのです。これは、自分という枠から抜け出た祈りなのです。現在、世界で起きていることについての報道を見るにつけ、今の私たちの生活からは考えられないような悲惨な出来事に遭遇して、こんなにも苦しい思いをしている人たちがいるということを思わされておられる方は多いのではないでしょうか。このように不当な犠牲を強いられている人たちがいる、このように悪徳に満ちた指導者の下で、苦しんでいる人たちがいる、このことに心を痛める日々を送られている方は多いのではないでしょうか。神様、この人たちのために速やかに事をなして下さいと、良いことをなして下さる天の父なる神様に、私たちは祈りたくなるのではないでしょうか。しかし、それら一切の問題は、キリストの再臨の時に解決するのです、しかし、私たちは何もしないで待つのではなくて、この世界の中で行われている悲惨な出来事を止めるために、祈るのです。そして、真実の祈りには、行動が伴うのです。神様は応えて下さる方であると信頼して、真実に祈る中で、自分には何ができるのだろうかと行動に繋げて行くことが大切だと思います。

 そして、祈りの背後にある信仰の3つ目は、再臨を待ち望む信仰であると思います。この再臨を待ち望む信仰がなければ、継続した祈りを捧げるのは難しくなると思います。すぐに聞かれる場合もありますが、すぐに祈りが聞かれないということを経験された方も多いかと思います。どうしてそうなのか、理由は分かりません。しかし、その背後には、神様だけがご存知の理由があるのだと思います。神様は、その理由を知っていて、ご自分の時を定めておられるのです。再臨を待ち望む信仰は、苦難に満ちた、今という時代を生きる力となるのだと思います。それは、なぜかと言いますと、再臨の時に、あらゆる不義と不公平は正されるからだと思います。あらゆる不義と不公平が正されると知ったならば、すぐに祈りが聞かれなくても、継続した祈りをささげることができるのだと思います。それは、ある時は、言葉にならない祈りかもしれません。ローマの信徒への手紙8章26節を見ますと、『同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。』とあります。私たちの祈りも、本当にどうやって祈っていいか分からないことがあると思います。自分ではどうすることもできない艱難に対して、苦難に対して、悲しみに対して、痛みに対して、どうやって祈ったら良いか分からない、言葉にならない、うめきのような祈りになることがあると思います。しかし、この聖書の箇所が約束しているのは、信仰があれば、父なる神様が良いお方であるという信頼があれば、世界中におられる、苦しんでいる人たちのために祈ろうという信仰があれば、再臨を待ち望む信仰があれば、言葉にならない祈りであっても、その祈りは父なる神様に届いているのです。それ故、諦めないで、継続して祈ることができるのです。私たちは、主イエスが来られた時、そのような信仰に、そのような祈りに生きている者として見いだして頂くことができるでしょうか。主イエスは、本日の聖書の箇所で、そのことを私たちに問うておられるのだと思います。

 それでは、お祈り致します