■恐れ
愛の反対は何でしょうか。憎しみだと言われることがあります。でもそうでしょうか。憎しみはむしろ屈折した愛の形だと言うべきではないでしょうか。あるいは、憎しみすら感じない無関心こそ、愛の反対だという考え方もあります。それでは関心があれば愛が働くかというと、そうとも限りません。愛の対極にあって、愛の働きを封じる力、それは恐れです。恐れこそ、自らを闇へ封じこめ、人と人を限りなく隔ててしまう、愛の真逆となるものです。
恐れは誤解を生み、猜疑心を育て、時に、人を悪魔的な存在にします。かつて東西の冷戦を支配していたのも、恐れでした。東の恐れがベルリンの壁を造り、西の恐れがベトナムで戦争を始めました。恐れはさらなる恐れを招き、国内では相互監視システムだの秘密警察だのといった抑圧と暴力を生み出し、国外に向けては過剰な核ミサイルを配備して緊張が高まっていきました。しかし、人々が自らの恐れに打ち勝ち、連帯して自由を叫んだとき、独裁は崩れ、壁が消え、冷戦は終わりました。それも、いともあっけなく。実に、戦うべき敵は東でも西でもなく、自分自身の恐れでした。
これは国と国だけの話ではありません。わたしたち自身が、知らぬ間に恐れに支配されていることに気づいておられるでしょうか。人を恐れて自分らしさをなくし、変わることを恐れて閉じ込もる日々。恐れによって生まれる過剰反応や、つまらない疑いと争いの数々。数え上げればきりがありません。
信じること、信頼することの反対も疑いではありません。それもまた恐れです。今日のみ言葉は、そんな恐れに翻弄される、わたしたちの姿を描き出しています。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」
「ユダヤ人を恐れて」とあります。
弟子たちは、ただ、家にじっと身を潜(ひそ)め、互いに傷口をなめあうようにして、時が過ぎて、すべてが忘却の彼方へと消え去ることだけを望んでいました。十字架の上で、苦しみの極みを味わいつつ、血を流して殺されたイエスさまの姿を見届けると、弟子たちはこっそりとその場から逃げ去りました。このとき、弟子たちの心の内にあったもの、それは、イエスさまに従い抜くことができなかったという後悔、また彼らが信じていた救い主とは程遠いその姿への失望、しかしまた信じるものを失くしてしまったことの虚しさ、そして何よりも恐れでした。
イエスを殺すことができた、これで漸く枕を高くして眠ることができると思っていたユダヤ人指導者たちは、そのイエスがよみがえったという知らせを聞いて、いきり立っていたことでしょう。その様子に弟子たちは、ユダヤ人たちが自分たちを捕まえて、何かしでかさないうちに片付けてしまおうと考えているのではないか、そんな恐れを抱きました。いえ、それだけではありません。イエスさまを恐れていたかもしれません。裏切り、見捨てたイエスさまがよみがえられて、わたしたちのところにやって来られるかもしれない。イエスさまのみ前に立つことなどできない。顔を上げることさえできないだろう。いや、もっと恐ろしい目に遭うかもしれない。弟子たちは、すべての扉を固く閉ざし、闇の中に身を竦めていました。
■平和があるように
そんな弟子たちのところに、イエスさまが来られます。そして真ん中に立って言われます。
「あなたがたに平和があるように」
二度までも、そう言われました。そして、疑いと頑なさに固まったトマスにも、三度目の平和の挨拶をしてくださったのでした。
「平和があるように」。この言葉はごく普通の挨拶でした。シャローム。パレスチナの人々は、道端で「平和を!」というこの言葉を交わし合います。しかしこの日常の挨拶が意味することは、決して軽いものではありません。イスラエルとパレスチナの際限のない争い、アフガニスタンやウクライナの現実、震災や豪雨災害によって今も仮住まいでの生活を余儀なくされている人々の困窮、日常生活にある諍いや誤解、不治の病や如何ともしがたい困難など、わたしたちの現実を思うとき、いったい誰が、この言葉を心から口にすることができるでしょうか。平和を絶えず失い、「平和を!」という言葉を口にすることをためらうほどの現実を生み出す、その只中にいる。そこにわたしたちの罪が現れます。
なぜ、わたしたちは争うのか。恐れているからです。恐れ、心を閉ざすとき、人と人は争い、そこに対立が生まれます。ただ心を閉ざして、関係が断ち切られ、関係がゆがみます。心を閉ざすとき、愛が消えています。そして、愛することができない不安の中に閉じ籠もってしまいます。弟子たちも平和を失っていました。死に怯えていました。言い知れぬ恐れの只中にありました。そして現実の世界から顔を背け、逃げ隠れるようにして息を凝らしていました。
その一人ひとりの傍らに寄り添うようにして、「あなたがたに平和があるように」とイエスさまは言われたのです。
■傷を見せて
それだけではありません。「あなたがたに平和があるように」、イエスさまは「そう言って手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。また「トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った」と記されています。
弟子たちは、そしてトマスは、手とわき腹から血が流れ出る、その傷を見、その傷に触れたとき初めて、イエスさまの復活を心から喜ぶことができたのでした。
ある牧師の体験です。小学生の頃、いじめられっ子だったわたしにとって、数少ない、とても大切な友人がいました。彼は難聴でした。そのため、話しかけられてもとっさに反応できません。特に路上で見知らぬ人から道をきかれたときなど、彼は何度も聞き返しました。相手はやがてあきれ果て、頭の横で人差し指をくるくる回しながら、立ち去ります。「頭、おかしいの?」と、その表情は語っていました。黙って相手を見送っていた友人の横顔が忘れられません。わたしが大学生の時、車のクラクションに気づかず、彼は交通事故で亡くなりました。
そんな話を人前でしたときのこと、一人の女子高生が質問してきました。
「実はわたしも難聴です。何かアドバイスをください」
困りました。聞こえないことの意味が、中途半端にわかっているだけに、どんなアドバイスも所詮心に届かないだろう、とのあきらめが先に立ってしまいます。その場限りのそつない答えが、女子高校生の悔しさや悲しみに寄り添うことは決してないでしょう。うーん、何も言えない…そう思ったときに、なぜか、こう答えていました。
「…もしも天国で、またその友だちに会えるのなら…難聴の彼と会いたい」
どうしてそんな答えをしたのか。彼が聞いたら怒るに決まっています。あれだけしょげかえってばかりいたのですから。天国では新しい敏感な耳、ピカピカの体がいいじゃないか、と。でもピカピカの彼と出会ったら、もう、それはわたしの知っている彼ではないのです。たとえ目の前の人がどんなに彼に似ていても、わたしは必ず確認するでしょう。彼が難聴であるかどうかを。そしてそれが確認できれば、わたしは安心するに違いありません。
友人の難聴は、わたしにとって彼を彼と判別するアイデンティティー(身分証明)なのだ、ということに気づきました。そして、傷こそが、その人をその人たらしめる、心と体に刻まれた奥深い個性にほかならない、ということに気づかされました。こんな体験です。
イエスさまが復活されたという話を耳にした弟子のトマスはとても信じられませんでした。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」
復活のイエスさまが、あの十字架にかかったほんとうのイエスさまかどうか、トマスは確認したいと思いました。十字架で受けた手やわき腹の傷、まさにその傷をイエスさまの重要なアイデンティティーと思っていたからこその言葉だと言えるかも知れません。そう考えると、トマスほどに、イエスさまの「イエスらしさ」を知っている弟子はいなかったのだとも思えてきます。
「その人らしさを示す傷」に触れるとき、わたしたちの中に不思議な出来事が起こります。
一番弟子のペトロにも「傷」がありました。イエスさまのことを三度も「知らない」と言って裏切った、という心の傷です。イエスさまの言葉通り、「知らない」と言った後、鶏が鳴きました。
復活の後、ペトロはきっとどこに行っても「おっ、三度もイエスさまのことを知らないと言い、そのたびに鶏の鳴くのを聞いた、あのペトロだ!」と言われたことでしょう。各地でイエスさまのことを話すたびに「皆さん、あのペトロです!」と紹介を受けたでしょうし、そのたびにペトロは「傷」から血を流し続けたことでしょう。しかし、それでもペトロは、自ら、何千回と自らの傷、あのイエスさまを裏切った話をしたはずです。なぜなら、その傷にこそ、他者を勇気づける力があると彼が知っていたからです。
ペトロの流した血によって、世界中のどれだけ多くの人々が、「どんな失敗があったとしても、どんな罪にあったとしても、何度でも神様のみ前に人生はやり直せる」と知ったことでしょうか。傷を見せて、血を流し続けたペトロから「恐れないで」との優しい励ましを感じた人々が、この後、どれほどいたことでしょうか。
■傷だらけ
実に、そのような「傷」を他者に積極的に触れさせた最初の人物こそ、イエスさまでした。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。イエスさまの傷に触れたトマスは、神様と出会いました。そして癒やされ、救われました。「恐れないで」とのイエスさまの言葉を感じ取ることが許されたのでした。
わたしたちは傷つきたくないと願います。傷を恥ずかしいものだと思います。そしてその傷を隠そうとします。しかし、イエスさまの傷を思うとき、傷は、その人のかけがえのない個性でありながら、同時に他者を癒す不思議な力を生じさせる場所、わたしたちの想像をはるかに超えるほどに神秘的な、宝のような場所にも思えてきます。
弟子たちが、そしてトマスが喜びに包まれたのは、十字架につけられたイエスさまが復活され、今ここにおられるということに気づかされたからです。しかしその姿は、決して輝くばかりの栄光に包まれた、超越的な力に満ち満ちた姿ではなく、最も深い悲しみと苦しみ、蔑みと侮蔑の中に死なれた、傷だらけの姿でした。
苦しみと恥辱にまみれた、傷だらけのイエスさまが、自分たちに平和を告げてくださっている。自分たちはイエスさまに対して心を閉ざし、イエスさまを見捨てていた。けれども、傷だらけのイエスさまが心を開き、赦し、平安を与えてくださっている。
弟子たちは、このイエスさまが十字架につけられ、傷を受け、血を流されたということが、どんなに深い意味を持つかということが分かったことでしょう。十字架の、傷だらけのイエスさまこそ、愛を生き抜かれた主であり、その方こそが、他の誰でもない、この「わたしの主、わたしの神」であったのです。
そのイエスさまが、今もわたしたちの只中に、十字架に架けられた傷だらけの姿を示してくださっています。ですから、自分の罪は今赦されているのだ、何度でも立ち直ることができるのだと確信することができます。まだ扉に鍵をかけようと思っておられる方は、その鍵を捨て去ることができるはずです。イエスさまに対して心を開き、互いに心を開きましょう。家に帰っては家族に心を開き、共に生きる人々に心を開きましょう。そのようにして、主の聖霊を悲しませることのない日々を、ご一緒に生きてゆきたい、そう願います。