小倉日明教会

『婦人よ、なぜ泣いているのか』

ヨハネによる福音書 20章 1〜18節

2022年4月17日 復活日・復活節第1主日礼拝

ヨハネによる福音書 20章 1〜18節

『婦人よ、なぜ泣いているのか』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                      役員 川辺 正直

力丸姉のこと

 イースターおめでとうございます。私たちは今日、特別の日を迎えました。主イエス・キリストが復活された日です。主イエスは、聖書に書いてある通りに、私たちの罪のために十字架で亡くなられ、墓に葬られました。墓に葬られたというのは、完全に死んだということです。しかし、主イエスは聖書に書いてあるとおりに三日目に墓からよみがえられました。そして、主イエスが死に打ち勝たれたことを示すために、12人の弟子たちをはじめ、多くの人たちに現われて下さったのです。これが、最も大切なこととして聖書が私たちに教えていること、良い知らせ、福音です。今日は、この復活のキリストについて、ヨハネの福音書から一緒に学びたいと思います。

 さて、主イエスが復活された出来事を読む時に、思い出されることがあります。それは、今から35年ほど前に、この教会におられた力丸さんというご婦人のことです。力丸さんは、牧師をしておられたのですが、引退し、この小倉日明教会に信徒として、通っておられました。あるとき、体調を崩されて、病院に入院されました。かなり具合がお悪いということが、礼拝でアナウンスされ、私たちは随分と祈りを捧げたことを覚えています。一時期は、危篤という重篤な状態が続いたのですが、暫くして元気になられて、また日曜日の礼拝に出席されたときのことです。報告の時間に、力丸さんが前に出てこられ、入院中に教会の方々にお祈り頂いたことについて、お礼を述べられた後、力丸さんが危篤の状態になられた時に、見た夢の話をされました。

 その力丸さんが見た夢というのが次のようなものであったのです。力丸さんは、長崎市のご出身の方です。長崎市は、坂の多い市で、夢の中で、力丸さんは坂道を登っていたそうです。ふと、前を見ると、もうだいぶ前に亡くなられた力丸さんのおじいさんが前を歩いていたそうです。おじいさんに追いつこうと、力丸さんは歩いて行くのですが、なかなか追いつかない。「おじいちゃん」と声をかけるのですが、すたすたと歩いていってしまうのです。「おじいちゃん、ちょっと待って!」と声をかけて、力丸さんが小走りに追いつこうとしたその時に、後ろの坂の下の方から、「力丸さん、教会はこっちよ!」と、教会の人たちの声が聞こえてきたそうです。それで、力丸さんは、立ち止まり、振り返って、「力丸さん、教会はこっちよ!」と、教会の人たちの声が聞こえ方向に歩き始めると、意識が回復して、自分が危篤状態であったことを知らされたそうです。

 私たちも、将来、どんな健康状態になるかは分かりませんが、「教会はこっちよ!」と声のする方向に歩んで行きたいと思います。さて、本日の聖書の箇所の主イエスの復活の出来事の次第は、どうだったのでしょうか。

イースターの朝の出来事

 さて、本日の聖書の箇所は主イエス・キリストの復活を語っている箇所となります。主イエスの復活を伝える記事は、次のように始まっています。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」。主イエスは金曜日の午後に十字架の上で死なれました。ユダヤの暦では日没から一日が始まりますから、日が暮れたら土曜日つまり安息日となります。それで、主イエスの遺体は慌ただしく日没前に墓に葬られました。そして、土曜日である安息日を経て、土曜日の日没からが死後3日目になりますが、週の初めの日つまり日曜日になるのです。その日曜日の夜明け前のまだ暗いうちに、マグダラのマリアは主イエスの墓に行ったのです。彼女は、主イエスの十字架の死の時、その真下にいた人たちの一人でした。福音記者ヨハネは、マグダラのマリア一人にスポットライト当てています。しかし、何人かの女性で主イエスの墓に出向いて行ったことは、彼女がペトロとヨハネのところに出向いて行って、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(2節)と、「わたしたち」と語っていることから分かります。しかし、なぜ福音記者ヨハネが彼女一人に注目しているかということについて、ヨハネは何も語っていませんが、聖書の他の記事を見てゆくと、彼女は主イエスと出会い、その人生が大きく変えられたからだと考えることができると思います。

 彼女は、かつて悲惨な人生を歩んでいました。ルカによる福音書8章2節を見ると、彼女は七つの悪霊につかれていました。一つや二つではありません。七つです。尋常ではありません。そのため彼女は、非常に苦しい日々を過ごしていました。彼女は主イエスによって、悪霊を追い出してもらったのです。どれほどうれしかったことでしょうか。ですから、主イエスとの出会いはマリアにとって大きな救いの出来事だったのです。そのため、マリアは、その後も主イエスの後に従い、主イエスと一行の身の回りの世話をする者となりました。マグダラのマリアは、主イエスによって救われ、主イエスに従って行った女性の代表であると言えます。この世において主イエスの道を歩んでいくことがマリアのすべてでした。主イエスの裁判から十字架へと続く受難の一部始終を見届け、弟子たちが主イエスのもとを離れてもその場に残ったのです。主イエスが墓に納められる時にも、その場所にいました。地上の主イエスの歩みを最も側にいて歩んだ人であると言うことが出来るでしょう。他の婦人たちもマリアと同じような経験をした人であるに違いありません。そんな婦人たちであったからこそ、日曜日の夜明けとともに、すぐに墓に赴いたのです。

主が墓から取り去られました。

 彼女たちは、主イエスが生前に行った、十字架での死とその後の復活について、弟子たちと一緒に聞いていたかもしれません。それ故、熱心に主イエスを慕い求め、主イエスが死んで、墓に納められてもなお、主イエスに従って行こうとする婦人たちの姿に、本当の信仰者の姿を見ることができます。弟子たちでさえ、一人も主イエスの墓の下には来ていないのです。

 さて、マグダラのマリアを含む婦人たちは、死んでいる、あるいは、生きているかはともかくとして、兎にも角にも主イエスに再び出会うために、主イエスの遺体が納められている墓に出向いて行ったのです。彼女たちは、そこで、何を見たのでしょうか。墓に行ってみると、その入り口に置かれていた大きな石が取りのけてありました。石が取りのけてあるのを見た、とだけ語られていますが、マグダラのマリアは、墓の中を覗いて、主イエスの遺体がないことを見たのです。そのことを見た彼女の心は俄かに騒ぎ出しました。彼女は主イエスが復活したことが分かったわけではありません。彼女は気が動転し、誰かが主イエスの遺体を奪い去り、どこかへ持って行ってしまった、と彼女は思い込んだのです。それで、彼女は、シモン・ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子この福音書の記者であるヨハネのところへ走って行って、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と告げたのです。このときの、彼女の心の中には、「主イエスの復活」の「ふ」の字もなかったことが分かります。

 それを聞いたこの二人の弟子も、主イエスの墓へ走って行きました。彼らが墓に入って見ると、そこには、埋葬の時に遺体を包んだ亜麻布が残されていただけでした。これが、本日の箇所に語られている、主イエスの復活の日、イースターの日の出来事の始まりです。葬られたはずの墓から主イエスの遺体が無くなった。そのことを、この3人の人たちが見たのです。

 しかし、ペトロとヨハネの二人の弟子は、その後「家に帰って行った」と10節に書かれています。これは、彼らがまだ神様のご計画を理解できていないことを示しています。復活した主イエスとの出会いが与えられ、神様の救いのご計画を理解できたなら、彼らは家に帰るのではなくて、出かけて行くのです。主イエスの復活を証しする者として、世界へと遣わされて行くのです。しかし、彼らは「家に帰って行った」のです。

泣いているマグダラのマリア

 一方、彼らと共に墓に戻って来たマリアは、そのまま墓に留まりました。11節に「マリアは墓の外に立って泣いていた」とあります。マリアがこの朝墓に来たのは、主イエスと出会うためでした。しかし、来て見ると主イエスの遺体は無くなっている、死んだままの遺体であれ、復活した姿であれ、どのような姿であっても、主イエスの姿を見たいと考えていた彼女は、いずれの可能性も奪われてしまったと考え、深い絶望の内に彼女は泣いていたのです。同じ泣くといっても、これは彼女が願っていたことではありません。泣くことによって次第に平安が得られていくような涙ではなくて、泣いても、泣いても慰めが得られない、絶望の涙を彼女は流していたのです。

 彼女は泣きながら身をかがめて墓の中を見ました。もう何度も、そこに主イエスの遺体がないことを見たけれども、なおもう一度覗き込まずにはおれなかったのでしょう。すると、遺体が置かれていた所に、白い衣を来た二人の天使がいました。天使たちは彼女に「婦人よ、なぜ泣いているのか」と語りかけました。天使は、「あなたの悲しみの原因は何か」と尋ねたのではありません。「なぜ泣いているのか」には、あなたが泣く理由はもうない、泣かなければならない事態は終わり、喜びの出来事が起ったのだ、それなのになぜまだ泣いているのか、泣き止みなさい、そして新しく歩み始めなさい、という意味が込められています。天使はマリアに、悲しみからの解放を告げようとしているのです。

 けれども、マリアは悲しみから抜け出すことができません。そのことが彼女の言葉に表れています。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。「わたしの主」という言葉に、彼女が主イエスを深く愛し、慕っていたことが表れています。ところが誰かが主イエスを取り去ってしまった。もう再び主イエスに会うことができない。だから彼女は悲しみから抜け出すことができないのです。天使が「なぜ泣いているのか」と語りかけても、泣き止むことができないのです。

彼女は振り向いて

 14節には「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」とあります。ここに「後ろを振り向くと」と記載されていることが、今日の聖書の箇所に於いて、事態の変化を伝えるとても大事な言葉になります。マリアは、墓の中を覗き込んでいました。そのマリアが後ろを振り向くと、そこに復活した主イエスが立っておられたのです。墓を見つめ、墓の中に主イエスの遺体を捜していたマリアが、振り向くことによって、復活した主イエスと出会った、それが本日の聖書の箇所で語られていることです。マリアがどちらを向いているか、何を見つめているかということが、ここでは重要なポイントとなっているのです。暗い墓の中を見つめていた彼女が向きを変え、振り返ることによって、はじめて光の中にいる復活した主イエスと出会うことができたのです。

名前を呼んで下さる主イエス

 その彼女に主イエスは「マリア」と語りかけられました。「婦人よ」ではなく、「マリア」と、彼女の名前を呼ばれたのです。主イエスが名前を呼んで下さったことによって彼女は初めて、それが主イエスであること、生きておられる主イエスが自分に出会い、語りかけて下さっていることに気づきました。復活して生きておられる主イエスとの出会いがそこで起きたのです。主イエスの復活を信じるということは、生きておられる主イエスと出会わされるということです。二千年前にイエスという人が十字架につけられて死んだが、三日目に復活した、そういう出来事が多分本当にあったのだと思う、ということが復活を信じるということではありません。

 復活を信じるとは、生きておられる主イエスが、今、実際に自分に出会って下さっているということを信じることです。そして、その信仰は、私たちが努力して獲得できるものではないのです。天使が語りかけて来ても、それは起こらないし、主イエスご自身が「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と語りかけて下さっても、私たちが主イエスのことを、私たちが自分たちの認知の範囲内で理解しようとしているのなら、主イエスに気づくことができないのです。主イエスはそのような私たち一人ひとりに、名前を呼んで語りかけ、出会って下さいます。主イエスが私たち一人一人の名前を呼んで下さることによって、復活した主イエスと出会い、復活を信じることができるのです。主イエスとの出会いは、どこまでも一対一の出会いなのです。では、現代に生きる私たちが、主イエスと出会わされるというのは、どのようなことでしょうか。

シベリアのドストエフスキー

 世界的に有名なロシアの作家にドストエフスキーという人がいます。彼の作品では、『罪と罰』や、『カラマーゾフの兄弟』が特に有名な小説として知られています。彼は、虐げられた無力な民衆に共感を込めてペンを握り、貧乏な下級役人の悲恋を描いた最初の小説『貧しき人々』によって絶賛され、華々しく作家デビューを果たします。しかし、ドストエフスキーは、ロマノフ王朝による帝政に反発し、農奴制廃止を訴え、社会主義理論を探究する青年知識人の地下サークル(秘密結社)に加わって行くのです。

 そして、ドストエフスキーは、当局側の潜入スパイの密告によって“危険分子”として仲間と共に逮捕・投獄されてしまいます。ペトロパヴロフスク要塞に収監された彼に下された判決は死刑というものであったのです。彼の死刑が執行されるその日、ドストエフスキーを含む同志21名は、処刑場のセミョーノフスキー練兵場に移されます。死刑は銃殺刑で行われることになり、3本の柱が立てられています。死刑囚はヨコ3列、タテ7列に並ばされました。ドストエフスキーは前から2列目であり、死は目前に迫っています。死刑囚の中には、恐怖のあまり、気が変になってしまった者も出たのです。

 彼の小説『白痴』には、処刑直前の人間の心理が次のように書かれています。

 「処刑前の5分間について彼は時間の割り振りをした。まず友達との別れに2分間ばかりあて、さらに2分間をもう一度自分自身の人生を振り返る為にあて、最後の1分間はこの世の名残りに、周囲の自然風景を静かに眺める為にあてたのです」。

 今まさに、銃殺刑にされるというその直前に、急ぎの使者が現れ、「皇帝陛下の寛大な慈悲によって」、恩赦が下され、死刑執行は中止となったのです。そして、彼の刑は4年間のシベリア流刑に減刑されるのです。「数分後に殺害される」という境遇に置かれたことは、ドストエフスキーにとって決定的な体験となります。こうして彼は、シベリアへと送られるのですが、シベリア流刑で、ドストエフスキーが手にできた書物は、ある女性から渡された聖書だけであったのです。シベリアで彼は聖書を貪るように読み、主イエス・キリストを信じるようになるのです。彼の小説『カラーマゾの兄弟』の冒頭の聖書の言葉、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネの福音書、12章24節)が載せられています。この言葉は、イエス、キリストが十字架にかかり、人間の罪の贖いをする事を自ら預言した言葉です。この言葉から、彼がいかに主イエスと出会い、主イエスに捉えられたかが分かると思います。

 今、私たちは、いろいろな悲しみや心配事を抱えています。苦しみや悲しみ、心配事の中で、私たちはそのことから目を離すことができなくなりがちです。しかし、その私たちの背後から、復活し、生きておられる主イエスが、一人ひとりの名を呼んで下さり、「なぜ泣いているのか、あなたは新しく歩み出すことができる」と語りかけて下さっているのです。その言葉を聞いて、主イエスの方に向きを変えるなら、生きておられる主イエスが私たちと出会って下さいます。そして、聖霊を与えて下さるのです。聖霊の働きによって私たちは、主イエスの父である神様が私たちの父ともなって下さり、私たちを子として愛して下さっていることに信頼して、祈りつつ歩んでゆくことができるのだと思います。

 それでは、お祈り致します。