小倉日明教会

『失われたものを捜して救うために』

ルカによる福音書 19章 1〜19節

2024年 8月18日 聖霊降臨節第14主日礼拝

ルカによる福音書 19章 1〜19節

『失われたものを捜して救うために』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                      役員 川辺 正直

ドラマ『地面師たち』

 おはようございます。さて、今年の7月にNetflixで配信開始されたドラマ『地面師たち』の影響で『地面師』という言葉を知った方も多いのではないでしょうか。

 地面師とは、不動産所有者を装い売買代金をだまし取る詐欺師のことです。2017年に積水ハウスが50億円以上をだまし取られたことで、地面師が大きな話題となりました。この積水ハウス事件では、『古くからある建物』、『競争率の高い建物』であることなど複数の要因が絡み合い、大金をだまし取られているのがポイントです。

 このように、『地面師』は、立地の良い土地に目をつけて地主になりすまし、書類を偽造し、不動産業者や開発業者に土地を売り払い、莫大な金を受け取るのです。この詐欺にかかる業者は年間100件以上になります。3日に1回くらい数億円、数十億円の詐欺事件が起きているというのです。

 どうして不動産のプロがこのような詐欺集団に騙されるのでしょうか。『地面師』は、彼らを上回るプロだからです。騙しのプロ集団であるからです。全体のストーリーを描くリーダー、パスポートや免許証を偽造する印刷屋、振込口座を用意する銀行屋、そして、なりすまし屋。年恰好はもちろん、矛盾なく話ができるのかどうか、事前にリーダーが面接するそうです。そして、捜査が自分たちに及ばないような人物を選ぶというのです。どういうことでしょう。地主役には認知症気味の老人を当てるというのです。そうすることで、地主役が捕まったとしても、本人がその状態ではしゃべりようがないからです。

 こうして本当の地主が知らない間に勝手に土地を転売し、警察が動いても、全体像が複雑で立件できないようなところにまで持っていくというのです。本当の所有者をこけにして、所有物を好き勝手して売りさばいて富を得ている集団。そのような『地面師』が、この法治国家の日本でうようよしているということを考える時に、このような『地面師』のことが、大好きだと言う人はまずいないかと思います。

 本日の聖書の箇所に登場するザアカイという人物の物語は、何度もお聞きになられている方が多いかと思います。また、子どもの教会の礼拝などでも、よく好んで取り上げられる題材かと思います。しかし、今日の聖書の箇所のザアカイの物語のリアリティは、ザアカイが職業としていた徴税人という職業が、当時のユダヤの社会で、現代の「地面師」と同じくらい、人々から嫌われていたという所から見ないと、今日の箇所の主イエスの教えが驚くべき内容を含んでいるということが分からないかと思います。本日は、主イエスが再臨されるときに、地上にどのような信仰を見出されるのかということを、皆さんと共に学びたいと思います。

エルサレムへの旅

 さて、主イエスは今、弟子たちとエルサレムに向かって、旅を続けています。ルカによる福音書の18章9節〜19章27節は、主イエスのエルサレムへの旅の結論部分となっています。このエルサレムへの旅の結論部分では、どういう信仰を持っている人が救われるのかということが、テーマになっているのです。そして、これまでにエルサレムへの旅の結論部分で、取り上げてきた内容は、1)ファリサイ派の人と徴税人のたとえ、2)子どものように謙遜することの教え、3)金持ちの議員と富の弊害、4)3度目の受難の予告、そして、5)目の見えない人のいやしです。そして、本日の聖書の箇所となるのですが、本日の聖書の箇所の教えが語られるときの状況というのは、あと数日後に十字架に架かろうと決めて、主イエスはエルサレムに上っておられ、あと1日歩けばエルサレムに到着するところまで来ているというのが、今日の物語の背景です。弟子たちも、時が迫っているということは、実感していました。しかし、主イエスは十字架に向かうという文脈の中で動いておりましたが、弟子たちは戴冠式に向かう王の行列に連なっているという文脈の中で動いておりました。弟子たちは、やがて自分たちは大臣や行政の中の高官になるという期待に旨を膨らませて、主イエスにしたがっているのです。そして、エリコという町に来られたのです。そして、6)徴税人ザアカイの家を訪問し、7)「ムナ」のたとえを語り、エルサレムに向かう、というのが、エルサレムへの旅の完結する部分となるのです。従って、6)徴税人ザアカイの家を訪問し、7)「ムナ」のたとえを語るというのが、1つの物語なのですが、19章1節〜27節と、長い箇所なので、1回で全部を取り上げるというのは難しいことから、2回に分けて、今日は1節〜10節のザアカイの救いについてお話ししたいと思います。そして、「ムナ」のたとえは、次回、お話したいと思います。ここで、「ムナ」というのは、貨幣の単位です。ですから、「ムナ」のたとえを通して、主イエスはある重要な事柄について、お語りになるのです。ところが、ザアカイの話を学んでも、その後半のこの「ムナ」のたとえについて学ぶということはなかなかないかと思います。しかし、ザアカイの物語にくっついている、この「ムナ」のたとえの教えというのは、私たちが、終末論と呼んでいる内容なのです。つまり、千年王国がいつ、どのようにして来るのかという話なのです。それは、次回お話したいと思います。そこで、今日はザアカイの体験を通して、主イエスがどのように失われたものを捜して救うのかということを学んでゆきたいと思います。

徴税人の頭、ザアカイ

 さて、本日の聖書の箇所の1節を見ますと、『イエスはエリコに入り、町を通っておられた。』とあります。前回、目の見えない人の癒やしの話をしました時に、エリコという町について、少しだけお話しました。エリコは1つではないという話をしました。エリコは2つあるという話をしました。1つは、旧約聖書時代のエリコと、もう1つが新約聖書時代のエリコなのです。今日の聖書の箇所で、出てきているのは、間違いなく新約聖書時代のエリコです。なぜかと言いますと、徴税人がいるからです。新約聖書時代のエリコには、ヘロデ大王が冬の宮殿を建てていました。エルサレムは寒いので、冬になるとエリコに下ってきて、エリコに滞在したのです。ということは、エリコという町は、今で言えば、避寒地、リゾート地なのです。当時のエルサレムの富裕層にとって、冬の人気のあるリゾート地というのが、エリコであったということです。そして、冬の間には、多くの訪問者があったのです。人がたくさん集まってくるというのは、人と物と金が動くのです。そのようなエリコに主イエスが来られ、エリコの町をお通りになったのです。

 エリコには、前回お話しました目の見えない人の他に、本日お話しますザアカイという、主イエスによって救われた人がいたのです。主イエスはこの人たちを救うために、エリコに来られたと、見ることもできるのです。というのは、エリコというのは、地区的に言えば、ユダヤ地方に入っています。ですから、人々がたくさん行き来しているようなところに出て行くということは、主イエスのように、宗教的な指導者たちに目の敵にされている人にとっては、逮捕されて、殺される危険性が大いにあるのです。ところが、主イエスはこの段階で、人目につき難い脇道を通って、エルサレムに行くのではなくて、堂々とエリコを通過しておられるのです。このことは、結果的に見れば、目の見えない人と徴税人のザアカイと出会い、彼らを救うためであったということです。これが、本日の物語の背景なのです。

 次に、本日の聖書の箇所の2節には、『そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。』と記されています。エリコには、先程、お話しましたように、人と物とお金が集まってくるので、徴税人がいるのです。さらに、エリコはリゾート地だということを言いましたが、国境の町で、通行税を聴衆するのに、とても便利な場所でもあったのです。ですから、徴税所があったのです。エリコというのは、当時、パレスチナでも、最も裕福な町で、物品税を徴収するのも便利な町であったのです。

 ザアカイは徴税人です。この場合、通行税や物品税を集める徴税人であったのですが、いちばんたちの悪い徴税人だと、人々に言われていました。なぜかと言いますと、お金が取れると見れば、吹っ掛けることができる税金であったからです。ザアカイは、徴税人の頭であったとありますが、これはどういうことなのでしょうか。普通、徴税人というのは、どうやって税金を集める権利をもらうのかと言いますと、それはローマに対して、入札をするのです。私にこの場所を任せて下されば、私は年額いくら納めますと、納税額を提出するのです。ローマがそれを見て、一番高い納税額を提示した人に、徴税の権利を渡すのです。そのように、ローマから徴税の権利を譲り受けて、ザアカイは税金を集めることになる訳ですが、税金を徴収するというのは、1人ではできないのです。ですから、他の徴税人を雇っているのです。従って、別の言い方をすれば、ザアカイというのは、徴税人たちの元締めであったということなのです。ザアカイの下には、沢山の徴税人がいたのです。

 徴税人というのは、普通にやっていれば、必ず金持ちになることができました。しかし、さらに彼は、普通以上にやっていたと思います。どうしていたかと言いますと、ぼったくっていたのだと思います。農業生産にかける税金の場合には、大体、畑の面積当たりどれ位の税収になるかということは見積もることができますので、大体、徴税額はこれ位という相場感が決まっているので、ぼったくるということがし難いのです。しかし、エリコには沢山の富裕層がおり、エルサレムに巡礼する人々の他に、沢山の商人がやって来ることから、お金を持っていると見定め、相手の足元を見ると、過度にぼったくることができたのです。そして、お金持ちだけれども、そのときにお金の持ち合わせがなければ、家までついて行って、取り立てるケースもあったということが伝えられています。2節には、ザアカイは徴税人の頭で、金持ちであったと記されていることから、配下の徴税人たちを上手に使って、程よくぼったくることに長けていたと考えられます。ぼったくると言っていますが、ローマに収める税金に上乗せする金額分が、徴税人たちの生活費となるのです。ローマに収める税金に、金額を上乗せして税金を取り立てることは違法ではないのです。しかも、ザアカイは徴税人の頭ですので、何人もの徴税人を使っているのです。また、徴税する権利は、入札制なので、来年、その権利が得られるかどうかは分からないのです。入札に負けた時にも、備える必要があるのです。そのように考えると、このザアカイという人物は、目先がきき、才覚があり、抜け目のない人物であったということが分かります。そして、ザアカイの立場に立てば、徴税という彼の事業を継続的に営むために、将来に備えようとすれば、取り立てる徴税額は、多めに、多めに取り立てることになったことと思います。それが、2節の『この人は徴税人の頭で、金持ちであった。』ということの意味であったと思います。

 では、税を徴収される側のユダヤの人たちから見ると、ザアカイという人物の評価はどのようなものになるのでしょうか。ローマのために税を取り立てる売国奴であり、人々からぼったくるようにして取り立てたお金で金持ちとなった罪人の中の罪人と見られていたと思います。従って、神様の民の一員としては扱ってもらえず、ユダヤ人のコミュニティからは疎外されていたと思います。ですから、徴税人の頭であるザアカイにとって、友達というと、徴税人仲間か、遊女たちしかいなかったことと思います。

いちじく桑の木に登るザアカイ

 本日の聖書の箇所の3節を見ますと、『イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。』とあります。ザアカイは背が低かったとありますが、何センチぐらいの人だったのでしょうか。当時の地中海沿岸の男性の平均の身長を考える必要があります。考古学的な調査で、当時の建物の扉の高さとか、浴槽のサイズとかいった、様々な発見を総合すると、当時の成人男性の平均身長は160センチ位と言われています。従って、ザアカイは『背が低かったので、』とあることから、身長150センチ位の男性であったと思います。そして、ザアカイは主イエスを見ようとしましたが、人々から嫌われていることから、ザアカイを嫌う人々によって、遮られて見ることができなかったのです。遮られても、見ようとしたことから、ザアカイは主イエスに強い興味を持っているということが分かります。

 ザアカイという名前は、私たちにとって馴染みの深いものですが、ザアカイという名前はどのような意味の名前なのかということについて見てみたいと思います。ザアカイという名前は、原文では『ザカイオス』という名前で、その意味は、英語で言えば『pure』という意味です。日本語に翻訳すれば、清い、純粋という意味の言葉です。ザアカイというのは、純粋な人という意味の名前なのです。ですから、日本語の名前で言えば、『清』とか、『純』とかというような名前になるかと思います。この名前の意味を考える時、彼の両親が、どのような思いで、ザアカイという名前をつけたのか、分かるような気がします。しかし、ザアカイは人生のどこかの段階で、徴税人になろうと思い、ついには徴税人の頭となり、お金持ちになったのです。しかし、彼は金持ちにはなったのですが、ユダヤ人のコミュニティからは排除され、イスラエルの神様から切り離され、孤独となり、満たされなかったのだと思います。ザアカイはチャンスがあれば、イスラエルの神様に立ち返りたいと願っていたことと思います。これが、3節の『イエスがどんな人か見ようとしたが、』という言葉に込められているザアカイの心の情景だと思います。

 だからザアカイは、「イエスがどんな人か見ようとした」のではないでしょうか。このとき大勢の群衆が主イエスを見ようと、主イエスと弟子たちの周りに押し寄せていました。彼ら彼女たちはこれまで主イエスがなさった数々のみ業を見たり聞いたりして、この人こそ自分たちが待ち望んでいた救い主に違いないという期待を持って、主イエスを見たいと思っていたのです。しかしザアカイが主イエスを見たいと思った理由は、それとは少し違ったのではないでしょうか。彼は主イエスが徴税人とも交わりを持たれたという話を聞いていたのだと思います。15章1〜2節には、『徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした』と記されていました。ザアカイは、主イエスが罪人の最たるものと見なされていた徴税人とも一緒に食事をしてくださる方だと聞いていたのです。食事を一緒にするとは、人格的な交わりを持つことです。共同体から排除され、イスラエルの神様から切り離されていると考えていたザアカイは、自分のような徴税人とも、人格的な交わりを持ってくださる主イエスがどんな人か見てみたいと思ったのです。

 次に、今日の聖書の箇所の4節には、『それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。』とあります。エリコという町は、亜熱帯気候ですので、たくさんの木が茂っていました。特に有名なのがナツメヤシです。聖書に登場する当時の木としては、バルサム樹という木がありました。バルサムオイル、香料、傷の痛みを取り癒す薬になるバルサム樹が、当時は茂っていたのです。しかし、今はバルサム樹というのはなくなっていて、どのような木であったのかはよくわからないのです。聖書時代は、バルサム樹があって、ヘロデ大王の富はそのバルサム樹の中にあったとも言われるほどであったのです。それを欲しがったのが、クレオパトラだったので、クレオパトラとヘロデ大王は仲が悪かったのです。当時はそのバルサム樹が生えていたのです。さらに、今日の聖書の箇所に出てくるいちじく桑の木が茂っていたのです。いちじく桑の木というのは、幹がすごく大きくなる木なのですが、最初の枝は幹の低いところから出るのです。ですから、大きな木なのですが、背の低いザアカイでも、大変登りやすい木なのです。ザアカイは、このいちじく桑の木に登ったのです。木の上では、葉が茂っていますので、小柄なザアカイは、きっと葉の茂っているところを選んで座って、主イエスの一行を木の上から、気づかれないようにそっと眺めようとしたのです。

ザアカイ、急いで降りて来なさい

 次に、本日の聖書の箇所の5節を見ますと、『イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」』とあります。主イエスは、ザアカイを見上げたのです。私たちが、主イエスを信じる最初のステップが、この自分のことを見ているお方がおられるなあというものだと思います。どんなに孤独であっても、どこかで自分のことを、天から見ていて下さるお方がいるという認識が、救いに至る最初のステップだと思います。

 それから、主イエスは何とおっしゃられたのかと言いますと、ザアカイを見上げて、『ザアカイ、』と、彼の名前を呼ばれたのです。主イエスは、会ったことがないのです。それなのに、『ザアカイ、』と、彼の名前を呼ばれたのです。主イエスは、ザアカイの名前を呼んだ、これが神様を認識する第2のステップなのです。ユダヤ的には、ザアカイと、自分の名前を呼ばれるということは、神様は自分を見ておられるということだけではなくて、自分は神様に知られているということを意味しています。ユダヤ的には、会ったことのない人の名前を知っているのは預言者です。ですから、ザアカイはこの時点で、主イエスに対して、認識を新たにしたことと思います。

 それから、主イエスは『急いで降りて来なさい』とおっしゃられたのです。ユダヤ人社会の中で、ザアカイはそれまで、徴税人であるが故に、あっちに行けと言われていたのです。ユダヤ人社会では、罪人であり、排除されるべき人間なのです。そのザアカイに向かって、主イエスは『急いで降りて来なさい』とおっしゃられたのです。主イエスがザアカイを招いておられる、それが救いに至る3番目のステップです。『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。』(マタイによる福音書11章28節)。主イエスは私たち一人一人を招いておられるのです。ザアカイは、主イエスのこの言葉によって、自分は愛されている、受け入れられているということをここで実感したことと思います。

 そして、5節の最後で、主イエスは『今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』とおっしゃいました。『今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』、ここは口語訳聖書では『きょう、あなたの家に泊まることにしているから』となっていました。『泊まることにしてある』というのは不思議な言葉です。一度も会ったこともないのに、相談もなく、だれがそんな予定を入れたのか。それは主イエスの側です。聖書の時代にあっても、いかに高貴な人物であっても、自分から宿泊を申し出ることはほとんどありませんでした。福音書の中でも、主イエスが人々から招かれてその家に行って、食卓についたという話はたくさん出てきます。主イエスが自ら申し出て、その家に行ったという話は福音書の中でも、今日の聖書の箇所だけなのです。しかも、この口語訳の方が原文のニュアンスをよく伝えているのです。『泊まりたい』では、『泊まりたいので、泊めてくれないだろうか』という依頼の言葉のように感じられます。けれども、主イエスはザアカイに『泊めてくれないだろうか』と願ったのではありません。主イエスは、口語訳にあるように、『きょう、あなたの家に泊まることにしているから』とおっしゃったのです。ここで、主イエスは、『デイ』という動詞を使っています。この『デイ』という動詞は、英語で言えばmustに当たる、『~しなければならない』という意味の動詞です。つまりこれは依頼ではなくて宣言なのです。即ち、これは神様のご意志であるからそうしなければならない、という意味が込められているのです。今日ザアカイの家に泊まるのは、主イエスご自身の意志と言うよりも、神様のみ心なのです。そういう意味が表わされているのは、『きょう、あなたの家に泊まることにしているから』という口語訳の方です。さらに以前の文語訳聖書では『今日われ汝の家に宿るべし』となっていました。文語における『べし』という言葉が、ここでの意味を伝えるのに最も相応しい日本語であると思います。いずれにしても主イエスは、ザアカイの都合など少しも問うことなく、今日私はあなたの家に泊まる、と一方的に宣言なさったのです。神様との出会いは、決して偶然ではなく、神様の必然の中にあるということなのです。しかも、その神様の必然は、『きょう、あなたの家に泊まることにしているから』とありますように、今日という日なのです。なぜ、今日なのか。主イエスはエルサレムに向かっておられるのです。エルサレムに到着後に、十字架にお架かりになって、死なれるのです。ザアカイにとって、今日、主イエスの救いを逃したら、もう二度とチャンスはないのです。この主イエスの宣言の中に、主イエスの切実な思いが込められていると思います。

ザアカイの応答

 この主イエスの1度限りの招きの宣言に対して、ザアカイと廻りにいた人々はどのように応答したのでしょうか?本日の聖書の箇所の6節を見ますと、『ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。』とあります。主イエスがザアカイを招いたというのは、ザアカイが予想もしなかったことです。彼はいちじく桑の木に登るのにかなり時間がかかったことと思います。しかし、ザアカイは『急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた』のです。『急いで』という言葉と、『喜んで』という言葉が結び合わされていることが大事です。ここでの『急ぐこと』は、『喜び』の表れです。主イエスが『急げ』とおっしゃったのは、喜びへと急げということであり、ザアカイが急いだのも喜びによってです。そして、ザアカイは喜んで主イエスを迎えたのです。

 ところが、喜んでいるザアカイを見て、不満を漏らす人たちがいたのです。本日の聖書の箇所の7節を見ますと、『これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」』と記されています。不満を漏らしている人たちは正面から言っているのではないのです。ブツブツと陰で言っているのです。なぜ、人々が文句を言っているのかといいますと、エリコの町には、主イエスをお迎えするのに相応しい場所がいくらでもあったのです。エリコというのは、伝統的に大変宗教的な町でもあったのです。例えば、エリアとエリシャはエリコの近くで活動していました。エリコにはかつて預言者の町がありましたので、主イエスの時代に、エリコは祭司が住む町であったのです。ですから、主イエスの一行を、町の人たちがどのようにもてなすかということを打合せていてもおかしくないくらいの町であったのですが、主イエスが泊まると宣言した家は、誰もが最もふさわしくないと考える徴税人の頭の家であったのです。ユダヤ教のラビたちは、徴税人の家には絶対泊まらないのです。なぜかと言いますと、泊まると食事が出されますが、徴税人は什一献金を捧げていない可能性が非常に高いと考えられていましたので、什一献金を捧げていない人が出す食事など、とてもじゃないけれど食べられないというのが、ラビたちの意見であったのです。その徴税人の頭の家に、主イエスが行ったわけですから、主イエスはメシアどころか、徴税人の仲間だという、いつもの批判のつぶやきが出ていたのです。

 しかし、ザアカイは、ブツブツとザアカイを批判している人たちに屈することはなかったのです。人々が批判していても、ザアカイは主の御心を行おうとしたのです。本日の聖書の箇所の8節を見ますと、『しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」』と記されています。『だれかから何かだまし取っていたら、』とありますので、ザアカイは決して汚れたことをして来なかったということが分かります。しかし、ここで、ザアカイがこのように宣言しているということは、ザアカイが主イエスとの出会いを通して、変えられたということが分かります。ザアカイはこの宣言したから救われた訳ではないのです。救われたから、このことが言えるようになったのです。ザアカイは、『財産の半分を貧しい人々に施します。』と言っています。貧しい人々に施しをすることは、律法は命じていませんが、自発的に行うと言っているのです。また、次に、『だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』と言っています。これは、モーセの律法が要求していることなのですが、モーセの律法の規定は、だまし取った場合は120%の返済なのです。この規定は、レビ記5章24節、民数記5章7節にあります。これが5分の1を追加した120%の返済の規定です。また、家畜や物を盗んだ場合は、200%の返済です。これは、出エジプト記22章3節、出エジプト記22章7節に記載されています。ところが、ザアカイはここで400%にして返すと言っているのです。彼は、律法の命令は120%だと言っていることに対して、400%返すと言っているのです。ザアカイは、明らかに心が変えられているということが分かります。罪赦されて救われたことと、弁済すべきこととは別問題として、ザアカイは捉えて、正しく過ちを修正しようとしているのです。救われたから、救いの喜びに満たされていたから、彼は定められたものよりも多くを施し、返さずにはいられなかったのです。このことはザアカイが、主イエスが自分に出会ってくださったことに本当の喜びを持ってお応えし、新しく生き始めたことを示しています。これが、主イエスによって、救われた者の生き方なのです。

失われたものを捜して救うために

 それを見て、主イエスは、9節に、『イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。』とありますようにおっしゃられたのです。『今日、救いが』ザアカイの家に来たのは、主イエスが上を見上げて、ザアカイを見つけ出してくださり、その名を呼んでくださり、『あなたの家に泊まらねばならない』と言って下さったからです。主イエスと出会う準備など何もできていないザアカイに、一方的に主イエスが出会ってくださったことによって、救いが起こったのです。ザアカイの救いは、今日、起こったと、主イエスは宣言されたのです。そして、主イエスは、『この人もアブラハムの子なのだから。』と言われました。この聖句は、簡単そうで、とても解釈するのが難しい箇所なのです。ファリサイ派の人々は、アブラハムの子孫であれば、誰でも神の国に入れると教えていました。但し、例外があって、徴税人はアブラハムの子孫であっても入れないと言われていたのです。徴税人だけは、例外であったのです。しかし、今日の聖書の箇所で、主イエス・キリストを信じたザアカイは、神の国に入ったのです。ですから、ザアカイはアブラハムの子孫であり、同時にアブラハムの信仰に倣う者になった、それ故、彼は信仰によって救われたのだと、主イエスはおっしゃられたのだと思います。これは、ファリサイ派の人々の教えとは、根本的に異なっているのです。

 次に、本日の聖書の箇所の10節を見ますと、『人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』とあります。主イエスが、人となって世に来られた目的は、この聖句にあります。主イエスがエリコ入られた時に、前回の目の見えない人と本日のザアカイを探し出して救われたのです。それ故、エリコの町が、多くの人の記憶に残る町となったのです。主イエスの使命は、失われた人を捜して、救うことです。『捜して』と訳されている言葉は、『懸命に試みる、見出そうと探し求める』という意味の動詞である『ゼーテオー』という言葉が使われています。人の子とは主イエスご自身のことですが、主イエスは完全に失われてしまった人を見出そうと、懸命に、そして、熱心に捜し求めておられたのです。そして、この『ゼーテオー』という言葉は、3節のザアカイが、『イエスがどんな人か見ようとしたが、』という箇所で、『見る』という動詞『エイドン』の不定詞と、動詞『ゼーテオー』の未完了形が並べて用いられています。つまり、ザアカイは単なる興味本位に主イエスを見ようとしたのではなく、懸命に、熱心に見ようとし続けたのです。ですから、そのことによって、ザアカイはいちじく桑の木に登ったのです。

 主イエスが失われた人を懸命に捜していたことが、ザアカイが懸命に主イエスを見ようとしたことを引き寄せたのです。本日の聖書の箇所の、主イエスとザアカイの出会いは、2つの『ゼーテオー』という言葉が、引き寄せ合うように、失われた者を見出そうとする神様の熱意を背景とした、必然であったのだと思います。最初に、6)徴税人ザアカイの家を訪問し、7)「ムナ」のたとえを語り、エルサレムに向かう、というのが、エルサレムへの旅の完結する部分となるということをお話しました。エルサレムへの旅の完結する結論部分の2つのエピソードの架け橋となる中心部分に、10節の『人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』という聖句が置かれていることは、極めて重要な意味を持っていると思います。『失われたものを捜して救うために』というこの聖句は、主イエスがこの世に来られた目的を指し示しており、また、ルカによる福音書を貫く中心テーマでもあるのです。

 主イエスは、『失われたものを捜して救うために』、この世に来られました。私たちは誰もが、『失われたもの』であったのです。旧約聖書のエゼキエル書34章11節以下で、このように言われています。『まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す』。16節でも、『わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする』と記されています。私たちは皆、ちりぢりになって、失われていた羊なのです。神様に背き、神様のもとから離れ、行方不明になっていた罪人なのです。その失われ、行方不明になっていた私たちを、まことの羊飼いである主イエスが懸命に捜して下さり、一人ひとりの名を呼んで救って下さるのです。主イエスは、私たち失われたものを捜して救うために、この世に来られ、十字架に架かって死んでくださいました。その十字架の死によって、自分の人生を自分のものだと勘違いし、隣人を傷つけ自分自身をも傷つけている私たちが、主イエスの愛に包まれ、癒やされるのです。ザアカイが、今日、主イエスの招きに応えて、今日、主イエスをお迎えして救われたように、私たちも、今日、主イエスをお迎えして、今日、新しく生き始めたいと思います。

 それでは、お祈り致します