小倉日明教会

『主イエスはまことのぶどうの木』

ヨハネによる福音書 15章 1〜17節

2022年 3月 6日 受難節第1主日礼拝

ヨハネによる福音書 15章 1〜17節

『主イエスはまことのぶどうの木』

【奨励】 川辺 正直 役員

【奨 励】                      役員 川辺 正直

カズオ・イシグロ作、『わたしを離さないで』

 おはようございます。さて、世界的に権威ある文学賞・ブッカー賞受賞の英国のベストセラー作家であり、ノーベル文学賞も受賞した作家であるカズオ・イシグロという人の作品に、『わたしを離さないで』という作品があります。この作品もとても高く評価され、2010年に映画化され、日本でも、2016年にテレビドラマ化もされています。

 『わたしを離さないで』は、介護人をしている31歳のキャシー・Hという女性による回想という形をとっています。キャシーの記憶の中には、子ども時代を過ごしたヘールシャムと呼ばれる全寮制の不思議な学校での日々が大きな位置を占めています。この学校は私たちが知っている学校と似ているようで、どこか奇妙な場所なのです。外の世界と接触する機会が非常に乏しく、絵画や詩などの制作物が中心の授業が行われ、毎週のように健康診断が行われ、そして、生徒たちが口にする「提供」という言葉…。そこでは普通の全寮制の学校のような日常生活がありますが、一方で、指導教官からの不可解な教育がなされます。ヘールシャムを卒業した後、キャシーたちは提供者と呼ばれる臓器提供のドナーになる人間と、それを世話する介護人になる人間に分かれて行くのです。キャシーはヘールシャムの仲間だった人間の介護人になり、彼らの死を見守ります。しかし、介護人として提供者の世話をする期間を終えると、やがては自らが提供者となります。臓器の提供は、次の提供に耐えるための回復期をはさみつつ繰り返し行われ、多くて4度目の手術の後に提供者は「使命」を終えます。

 キャシーの通っていた学校の運営者は、クローン人間がせめて人間らしい心を得られるようにと、生徒たちに質の高い教育を与えていたのです。外部の世界から遮断された生徒たちは、学校を出るまでは過酷な現実と向き合うことを猶予されます。果たしてそれは彼らのためになるのでしょうか。どのみち提供から逃れられないのなら、クローン人間に早くから提供について確かな情報を与え、自身の使命に対する覚悟をもつよう促すことが彼らのためだ、という意見もあるでしょう。若くして一生を終えることが定められているクローン人間に教育は無駄だ、という人もいるかもしれません。しかし、やがてキャシーたちはヘールシャムが何故作られたのかを知ります。クローン人間にも感受性や感性、知的好奇心が備わっていて、臓器提供の末に死ぬ運命にあっても、人間と同様に尊厳を持って生きなければならないのです。その教育を行い、クローン人間を守るための施設がヘールシャムであったということを知るのです。しかし、キャシーたちの運命は変わらないのです。仲間は臓器提供の末に亡くなり、キャシーも介護人を辞めて提供者になることを選ぶのです。

 それでも、学校は確かに生徒たちに大切なものを与えていたのです。臓器だけでなく、将来の可能性や、学校生活を共にした仲間など、多くのものを失っていく中で、彼らの慰めになっているのは、過去の穏やかな日常の記憶です。キャシーは学校でのささやかな出来事について、その経験を共有する仲間と語り合う喜びを得るだけでなく、語り合う相手がいなくなった後には、過去を改めて見つめ直し、自分の記憶を誰にも奪われることのない宝物として大事に守り続けるのです。臓器提供という目的のために生み出されたクローン人間であるが故に、社会から繋がることを拒否された存在であるため、キャシーたちは自らを待ち受ける将来について深く悩み苦しみます。しかし、その一方で彼女たちは何ものによっても奪われることのない過去の日常の記憶によって、亡くなった友人たちと繋がり、心のよりどころを見出すことができたのだと思います。『わたしを離さないで』という作品を読むときに、死という過酷な運命を前にしたときに、人間は変わらぬ確かなものに繋がることが本当に大切なのだということを思わずにはいられません。

主イエスの最後のメッセージ

 さて、3月2日の灰の水曜日から、主イエス・キリストの受難を覚える受難週に入りました。それで、本日はいつもの連続して取り上げているルカによる福音書ではなくて、ヨハネによる福音書を取り上げました。今年の受難週は皆様方と共に、主イエスが弟子たちに語られた最後のメッセージを学んでゆきたいと考えています。

 本日の聖書の箇所の15章の5節には、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という、とてもよく知られた主イエスの言葉が語られています。この言葉はミッション系の大学の面接試験でもよく質問される箇所でもあります。この「わたしはまことのぶどうの木」の聖句は、13章から17章の主イエスが十字架の苦難に向かう直前に語られた決別説教の中にあります。最後の晩餐の場面は、第13章のはじめの、主イエスが弟子たちの足を洗ったことから始まっています。そして14章の最後の31節で主イエスは「さあ、立て。ここから出かけよう」とおっしゃいました。それは、この晩餐の席から立ち上がって出掛けて行こう、という意味です。つまり最後の晩餐の場面は14章で終っているのです。この14章の終わりと、話としてつながるのは18章の1節です。18章1節は「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」とあります。従って、本日の聖書の箇所は、主イエスが晩餐の席から立ち上がり、弟子たちと共にキドロンの谷の向こう、ゲッセマネの園へと行かれる中で、語られた言葉がヨハネによる福音書の15章と16章のメッセージなのです。ですから、本日の聖書の箇所のメッセージは移動中に語られたメッセージなのです。そして、このメッセージの底に流れていることとして、人類の救済の歴史区分が、移行しつつあるということがとても大切なポイントなのです。時代が、モーセの律法の時代から、恵みの時代に移行しつつあるということです。そのことを踏まえて、主イエスはメッセージを語られるのです。最後の晩餐の会場から、ゲッセマネの園までは、ゆっくり歩いて20分くらいの距離です。途中には、ぶどう畑があったことと思います。主イエスは立ち止まって、ぶどう畑を見ながら、語られたことと思います。そして、このメッセージの数時間後に、主イエスは逮捕されることとなっているのです。ですから、最後の最後のメッセージを主イエスは弟子たちに語られているのです。

 さて、本日の聖書の箇所はとても有名な箇所ですので、皆様方も読んだり、聞いたりしたことのある箇所かと思います。しかし、本日の聖書の箇所はとても有名な箇所である一方で、とても難解な箇所であると言うこともできると思います。それは、今日の聖書の箇所で問題となるのは、信じたら、救いはいつまでもあるのか、あるいは、途中でなくなるのかということです。私たちは、クリスチャンになるときに、信じたら、恵みによって救われます、という説教を聞いてきたかと思います。主イエス・キリストの十字架は、私たちのためのものです。ですから、信じれば、恵みによって救われます、ということを聞いて、ありがとうございます、信じます、と言って、クリスチャンになったことと思います。そして、信じて、洗礼を受けて、クリスチャン生活を始めると、ときに厳しい言葉を浴びせかけられて、「えっ!」となってしまったことはないでしょうか。「今のままで、いいのですか?そのような不信仰な生き方をしていたら、この中には地獄に行く人もいるのです。救いを失う可能性だってあるのです」。「ええっ!」。こんな経験はないでしょうか。そのようなときに、本日の聖書の箇所の2節の「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」という言葉はという言葉は、グサッと刺さってくる言葉です。「えっ!救われるんじゃなかったの?」と、このように不安になりそうですね。そういう意味で、今日の聖書の箇所は、有名な箇所ですが、難解な箇所と言うこともできます。本日は、そのようなことも考えながら読んでゆきたいと思います。

わたしはまことのぶどうの木

 さて、ゲッセマネの園へと行かれる途中で、ぶどうの木のあるところで立ち止まり、主イエスはお語りになられます。1節には、次のように書かれています。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」英語訳聖書では、次のように書かれています。「I am the true vine」ヨハネによる福音書では、「I am」という言い方が7回出てきます。そして、それは主イエスの神様としての性質、神性宣言なのです。主イエスが「まことのぶどうの木」と言うとき、どういうぶどうの木だと言っているのでしょうか?この聖句は、あまりに有名な聖句であるが故に、私たちはまことのぶどうの木というのが、どういうぶどうの木だと考えることはないのではないでしょうか。しかし、主イエスが「わたしはまことのぶどうの木」と言っているのは、大変なエネルギーを込めて語っておられるのです。

 旧約聖書では、ぶどうの木というのは、イスラエルの民のことです。代表的な聖書の箇所としては、詩編の80篇の9節があります。「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。」この詩編の私的な表現というのは、単に事実を伝えているのではなくて、エジプトからイスラエルの民を救い出した事実の上に、神様の思いを乗せ加えた表現なのです。従って、このような詩的で、文学的な表現というのは、大変な思いが込められた表現だと言うことができます。

 また、エレミヤ書2章21節には、次のように書かれています。「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる/確かな種として植えたのに/どうして、わたしに背いて/悪い野ぶどうに変わり果てたのか。」イスラエルの民をぶどうの木に例えている聖書の箇所はたくさんあるのです。ときどきイスラエルの民が、ぶどう畑に例えられるときもあります。それでは、なぜ、主イエスは「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と語られたのでしょうか?1節で、なぜ主イエスはまことのぶどうの木で、天の父なる神様はぶどうを植えた農夫だと言っているのでしょうか?それは、神様はイスラエルを「甘いぶどうを実らせる、確かな種として植えた」のです。手を入れて、育て、豊かな収穫を期待したのです。しかし、イスラエルは農夫が期待したような、豊かな甘い実をつけることはなかったのです。「わたしに背いて、悪い野ぶどうに変わり果てた」のです。つまり、酸いぶどうの実か、腐ったぶどうの実しかならなかったのです。イスラエルは神様が希望したことを満たすことができなかったのです。

 主イエスはなぜ来られたのでしょうか?それは、父なる神様がイスラエルの民に期待したことを成就するために来られたのです。イスラエルの民は失敗したのです。それ故、主イエスがそれを償う方として来られ、神様の意図を成就されようとしている、それが、ここでの言葉なのです。それ故、主イエスはまことのぶどうの木なのです。主イエスは失敗したイスラエルの罪を贖い、自らが神様の意図を成就するまことのぶどうの木として登場しておられるのです。主イエスが、「わたしはまことのぶどうの木」とおっしゃられるときに、弟子たちは主イエスを信じ、主イエスに繋がることによって、彼らもまた、まことのぶどうの木になってゆく道が用意されているという理解がここで始まって来るのです。

実を結ばない枝

 では、2節〜3節には、どのように書かれているのでしょうか?「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」このように書かれています。この箇所で、とても恐ろしい言葉が出てきます。それは、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」という言葉です。後ろの「実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」という部分は、まだ理解できます。キリスト者がより豊かな実を結ぶために、神様は試練に会わせ、私たちを訓練することがある。そのように理解することができるのです。

 しかし、問題は「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」という部分です。私たちは、信じるだけで、恵みによって救われるのですと聞いてきました。でも、ここに書かれているのは、「実を結ばないと、失われますよ、取り除かれるからね。」ということです。これをどう理解したら良いのでしょうか。実際のところ、救いは失われるということを主張する人々が引用する聖書の箇所の一つがここなのです。この聖書の箇所を引用して、救いは失われる可能性もあるということを論じる人々がいるということです。どういうことでしょうか。

 ある人々は、次のように解釈します。「父が取り除かれる。」という意味は、ニセの信者は取り除かれるという意味だというのです。いくら教会に来ていても、ニセの信者であれば、取り除かれますよ、イスカリオテのユダがいい例だとこのように言うのです。しかし、主イエスは「わたしの枝」と言っているのです。「わたしの枝」というのは信者のことです。「わたしの枝」がニセの信者のことを指すとは考えにくいと思います。

 また、別の人々は次のように解釈します。「わたしの枝」というのはまことの信者のことはあるけれども、罪を犯したために、救いが取り去られるというのです。しかし、そのような理解は、永遠の救いを約束された他の聖書の箇所の記載から、あり得ない結論なのです。

 また、ある人々は次のように解釈します。真の信者ではあるが、信仰が後退しているので、取り除かれる、このように解釈するのです。しかし、もしそのことを受け入れれば、失われるということは、肉体的な死を意味することとなります。以上、述べました3つの解釈に、私たちは違和感を覚えるのではないでしょうか。

主は持ち上げられる

 本日の聖書のこのような難解な箇所を読むときには、解釈学の原則をよく理解しておく必要があります。それは、神学的な立場の違いは、多くの場合、解釈するときの原則の違いによることが多いからです。聖書を解釈するときの原則の一つは、聖書の原文の意味がどうであるか、その字義通りに解釈することです。そして、もう一つの大切な原則は、聖書が聖書を解釈するという原則です。それは、どういうことかと言いますと、聖書の圧倒的に多くの箇所が、救いは永遠の恵みであるということを教えているのであれば、このような難解な1つ、2つの聖書の箇所を取り上げて、救いが取り除かれると教えることは正しくないということです。それ故、解釈学の基礎の上に立って、聖書を読んでゆくことがとても大切だということなのです。

 それでは、聖書の他の箇所の記載から見て、ふさわしくない先に述べた3つの解釈とは異なる、別の解釈とはどのようなものになるのでしょうか?まず、「取り除かれる。」と訳されているギリシア語です。ここで使われているギリシア語の動詞には、「持ち上げる」、「取り上げる」という意味があります。そのように読みますと、この聖書の箇所は、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が持ち上げられる。」と読むことができるのです。そのように読むとき、この聖書の箇所は、実に前向きで、積極的な意味で読むことができるのです。

 つまり、弱っている枝を持ち上げ、より多くの光と空気に触れさせ、多くの実を結ぶようにされると、解釈することができるのです。では、この解釈が正しいのかと言えば、主イエスの時代のパレスチナでのぶどう栽培について知る必要があります。現代は、ぶどう棚を築いて、ぶどうを栽培するという方法が行われますが、聖書の時代、ユダヤの山地では、ぶどうの枝は地面を這わせていたのです。地面から直ぐに太い幹が出て、直ぐに枝分かれして行きます。その這っている枝に風を通すために、枝の下に石を敷いて、枝を持ち上げ、石の上で枝が張って行っているのです。

 なぜ、そうしているのかと言いますと、パレスチナは水が少ないので、夜露、朝露が重要な水分の供給源となるからなのです。それ故、古代では、ぶどう棚ではなくて、地を這わせて、ぶどうを栽培していたのです。枝が地面に潜っていると、光が当たらず、空気にも触れられません。場合によっては、土に十分な水分があると、土に潜っている部分が腐って、幹から切り離されてしまうこともあったかと思います。ですから、枝を持ち上げ、石を下からあてがい、空気に触れるようにしたのです。「持ち上げる」とは、英語では「raise」と言います。

アイルランドとノルウェーの二人組のミュージシャン、シークレット・ガーデンの曲に、「ユー・レイズ・ミー・アップ」 (You Raise Me Up)という曲があります。次のような歌詞です。

 

わたしが上手くいかず落ち込んでいて、

わたしの魂がとても弱っている時、

苦境の時がやってきて

わたしの心が押しつぶされそうな時

わたしは心を乱さず静かに、

ここで待ち続けるよ

あなたがやって来て、私の側に

しばらくの間いてくれるまで

 

あなたはわたしを勇気づけてくれる

わたしが困難な山に立てるように

あなたはわたしを励ましてくれる

荒れ狂った海を渡っていけるように

わたしは強いの

あなたがそばにいてくれるから

あなたのおかげで

今以上のわたしになれる

 

女優 真矢ミキ

 ぶどうの枝は、ぶどうの幹と繋がることによって、実を結んで行きます。私たちは、人生の中で、上手くいかず落ち込んでいるとき、また、心が押しつぶされそうな時、神様から見捨てられていると感じることがあるのではないでしょうか。人生が思うように行かず、誰からも見放されたと思うとき、神様も私たちのことを見ていてくれないのでしょうか。

 女優に、真矢ミキさんという方がおられます。真矢さんのお父さんは、航空会社のモーレツ社員で、役員も務められた方です。真矢さんのお父さんは、仕事もできて、英語が堪能で、社交的で友人も多かったそうです。海外出張も多く、普段はほとんど家にいませんでしたが、たまの休日、子供時代の真矢さんは、あぐらを組んで新聞を読むお父さんの脚の中にスッポリはまって、お父さんを独占していたそうです。

 お母さんが宝塚ファンであった影響から、真矢さんは宝塚音楽学校を受験します。小さい頃からバレエや歌を習っていなかったため、音楽学校での成績は必ずしも良くはなかったそうですが、初舞台当初から注目を集めようになります。真矢さんのお父さんは、父権を振りかざすことは全くなく、宝塚で日に日に〝息子化〟する真矢さんに、「君の人生なんだから、謳歌(おうか)しなさい」と温かく見守ってくれていたそうです。

 宝塚のトップスターになった真矢さんは、お父さんに自分の公演を見てもらいたくて、何度も「お父さん、一番いい席のチケットを取ったので、見に来てね!」と連絡しましたが、お父さんは真矢さんの招待を全て丁寧に辞退したそうです。真矢さんは、「どうして、お父さんは私の晴れ舞台を見に来てくれないのだろう」と思っていたそうです。お父さんは、会社勤め時代の無理がたたって、定年退職後、体調を崩すことが多くなりました。そして、ついにガンでお父さんは亡くなられてしまいます。真矢さんの40歳の誕生日のことであったそうです。

 お父さんは一度も私の晴れ舞台を見に来てくれなかったなあと、残念に思いながら、お父さんの死後、真矢さんは、お父さんの荷物を片付けるために、久しぶりに実家に行ったそうです。そして、お父さんの机の引き出しを開けると、宝塚の公演のチケットの半券がたくさん出てきたそうです。何だ、お父さんは宝塚の公演を見に行っていたの、と思い調べると、それらの半券は、真矢さんが出演していた公演で、しかも、全てホールの一番後ろの席のチケットであったそうです。

 真矢さんのお父さんは、娘の晴れ舞台の一番良い席は、お客様のものと考え、また、娘から見えるところに、自分が座っていることで、娘の集中力が低下して、ミスをしてはいけないと考え、自分のお金で、ホールの一番後ろの席から、真矢さんを見守り続けていたのです。

 私たちの目に神様が見えないということは、神様がいないということの証明にはならないと思います。

 私たちが、上手くいかず落ち込んでいるとき、また、心が押しつぶされそうな時、神様の眼差しは私たちの上に集中しているのです。それは、なぜか?それは、恵みとは、私たちの最も弱いところに働かれる神様の愛だからです。そのように、神様の愛が、どんなときにも主イエスにつながる私たちの上に働かれ、私たちを高いところに引き上げて下さるということを思いますときに、本日の聖書の箇所は、また、新たな問いかけを私たちに示しているのではないでしょうか。それは、どうすれば自分が神様に祝福されているかという視点から、どうすれば神様の御心が成就するのかという神様からの視点に変えられるということです。主イエスにつながることによって、まことのぶどうの木に変えられてゆく、イスラエルの残れる者、まことの信仰者に変えられて行くのだという、主イエスからの招きの言葉なのです。実を結ぶというのは、主イエスの命が私たちの内に働いていることを指しています。本日の聖書の箇所で、つながるということと、とどまることが繰り返し語られているのは、主イエスとの関係性を続けることこそが、実を結ぶことの条件だからです。私たちは、主イエス・キリストにつながり続け、神様の御心が成就するよう、祈り続けて行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。