小倉日明教会

「いとおしくて、いとおしくて」

マルコによる福音書 6章 30~34節

2023年3月12日 受難節第3主日礼拝

マルコによる福音書 6章 30~34節

「いとおしくて、いとおしくて」

【説教】 沖村裕史牧師

■憐れみが引き出される

 イエスさまは、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のようなありさまを深く憐れみました。この「深く憐れみ」ということばは、わたしの、またきっと皆さんにとっても、好きな言葉のひとつではないでしょうか。イエスさまの、神様の深い憐れみがあれば、どんな心配な時でも大丈夫だ、と思えるからです。わたしたちも、飼い主のいない羊のようなありさまになる、そんな時があります。

 「飼い主のいない羊」とは「死」を意味します。

 羊は目が悪く、遠くを見ることができません。足も決して速くはありません。獣に襲われれば、たやすく殺されてしまう、弱い生き物です。その身を守り、導いてくれる飼い主がいなければ、羊はすぐに死んでしまうでしょう。ユダヤ的な感覚からすれば、肉と心はひとつです。その意味で申し上げれば、「死」は身体的な死だけでなく、心の死、魂の死でもあります。ですから、飼い主のいない羊は、いのちがけで飼い主を求めなければなりません。「求めよ、さらば開かれん」。そうすれば、必ず飼い主からの深い憐れみが注がれるはずです。

 今日のみ言葉に描かれる、飼い主を求める人々の姿を見てください。イエスさまを追いかけて、追いかけて、ひたすらに走っています。「湖」といってもガリラヤ湖は大きな湖です。ギリシア語では「海」を意味します。船の着く向こう岸まで先回りをするには、ずいぶんと走らなければなりません。汗まみれで、埃まみれで、必死に走る姿。ともかくイエスさまを絶対に見失うまいと、「船はあっちだ」などと叫び合いながら、岸伝いに走って行く。そんな人々の姿が目に浮かんできます。そうして、イエスさまが着いた時にはもう先回りして、そこにいる。たぶん息もあがって、ハアハアと言いながら、汗だくになっていたことでしょう。

 その必死な姿を見て、イエスさまは深く憐れんでくださったのです。人々の必死のその姿によって、神様の深い憐れみが引き出された、そう申し上げてよいでしょう。

 この時、「食事をする暇もない」というようなありさまでしたから、実際のところ、イエスさまもお休みになりたかったはずです。しかし、汗まみれ、埃まみれで、必死になってイエスさまを追いかけて来た人たちを見れば、イエスさまから深い憐れみが溢(あふ)れ出ます。ほっとけない。ほっといたら、この人たちは傷つき、死んでしまう。

 魂の叫び声に触れて、イエスさまの中から深い憐れみが引き出されました。

■いとおしくて、ほっとけない

 憐れみとは、単なる同情ではありません。相手のほんとの幸せを願わずにはいられず、いとおしく、いとおしくて、とてもほっとけないというそんな気持ちです。

 そもそも「憐れむ」という字には、「愛する」という字―以前、NHKで放映されていた大河ドラマ、織豊時代の武将・直江兼継の兜に掲げられる、あの「愛」の字―があてられます。憐れむとは、愛することです。そして、「憐れむ」と書いて、「いとほし」と読むことがあります。「いとほし」とは、相手がつらく苦しいであろうと思って、見かねる気持ちを言います。わたしたちは、愛する人が苦しんでいるのを見ると、いてもたってもいられない、とてもほっとけない、そんな気持ちになります。それが、「憐れむ」であり、「いとおしい」です。

 YMCAで働いていた頃、こどもたち、特に思春期の真っただ中にいる青少年に接すれば接するほど感じたことですが、こどもたちは傷つきやすく、弱い存在です。なぜなら、彼らには、家庭と学校以外に、どこにも逃げ場がない、居場所がないからです。家庭と学校がこどもたちの居場所でなくなったとき、彼らは、彼らの心は簡単に死んでしまいます。一昔前までは、地域社会がこどもたちを守ってくれていましたが、今はそれを望むことはできません。わたしたち大人たちでさえ、どこにも逃げ場、居場所がない、そう感じてしまうことがあります。そんなとき、たとえどんなに突っ張っていても、いえ、むしろそうであればあるほど、弱く、そして救いを求めています。弱ければ弱いほど、飼い主を必要としているのです。

 「ああ、このこどもたちは、これから大変な人生を生きていくんだ。でも試練を乗り越え、ほんとに幸せになってもらいたい。そのために何でもしてあげたい」。そういう親心が、こどもたちのはしゃいでいる姿、とんがっている姿、ひとりうつむいている姿を見てると、自分の中から引き出されてくるのを感じます。そして、わたしなんかでもそうなんだから、まして神様の親心は、と思っていました。

 相手の弱さ、足りなさに触れると、いとおしくて、いとおしくて、ほっとけない気持ちになります。それは上から目線の同情ではなく、何とも言えない温かい気持ち。立派な強い人に会っても決して出てこない気持ち。それが憐れみです。そうです。弱さとか足りなさこそが、あったかいものをいっぱい引き出すのです。その意味では、こどもは自分が弱いことを知っていますから、「助けて」と言って飼い主を追いかけますが、大人になればなるほど、自分で何とかしようとします。また、そうするように求められます。でも自分でがんばっていると、どこからも「深い憐れみ」が出てきません。深い憐れみは引き出さなければなりません。素直に助けを求め、神様の憐れみを引き出さなければなりません。神様の隣れみこそ、この世で最も価値のあるものなのですから。

 ある姉妹が天に召された朝、ご長女からお電話をいただきました。母の容態が芳しくない、医師からは今日一日だと言われた、無菌室にいるが入室の許可をもらったので、とのこと。聖書と讃美歌だけを持ってお伺いをいたしました。キャップとマスク、エプロンをしてお会いすることになりました。意識も混濁しておられて、ほとんどしゃべれない、何か呼びかけても表情もまったく動かないご様子とのことでした。それでも、おたずねしたことを伝えると頷いてくださり、何かしきりに話しかけてくださいます。酸素マスクをつけておられたこともあり聞き取りにくいですが、そのご様子に一瞬、危篤であることを忘れていました。聖書を読んで、一緒お祈りをいたしましょうと申し上げると、はっきりと頷(うなづ)かれ、ベッドの上に横になったままの姿で、まるで正座でもなさるかのように足をすっと整えられます。「お祈りしましょう」と言ってお祈りをすると、最後に小さな声で「アーメン」っておっしゃったように見えました。苦しみと痛みをこらえ、意識が朦朧(もうろう)とする中にあってなお、神様の御前にその姿勢を整えようとされている。胸が熱くなりました。ふと顔を上げると、その様子をごらんになっていたご長女が目頭を押さえて泣いておられました。

 それを見たら、もう胸がつまって、祈る声もつまります。その時の気持ちは、もうかわいそうとかそういう感じではありません。「深い憐れみ」ってこんな感じかという、溢れる思いです。目の前のこの方が今まで、どんな人生を生き、今どんな思いでここにおられるのか。何を願い、どんな魂の叫びを持っておられるのか。そして今、どんな気持ちでこの祈りを聞いておられるのか。それらにもっと深く触れたいと思い、この方の本当の幸せを心から願い、ともかく、いとおしくて、ほっとけない。心の底からそう思わされました。

 イエスさまの「深い憐れみ」がどれほどのものなのか、イエスさま以外には誰にも正確にはわかりません。けれども、こんなわたしからでも、そんな憐れみの心が出てきます。人間ですらそうなのですから、ましてや天の父は、人間なんかとはくらべものにならない、想像もつかないほどの深い憐れみを持ってくださるはずです。それも、弱ければ弱いほど、憐れみも増すはずです。

 わたしもいつか、弱さも足りなさも極まって身動きとれないような時になったら、何はなくとも、ともかくイエスさまの姿だけは見失うまいとすがるようにして追いかけたい。実際に体が動かなくても、信仰の世界、魂の世界では追いかけて、追いかけて、先回りして待ちかまえたい。そうして、イエスさまのそばまで行き、イエスさまのお顔を仰ぎ見て、イエスさまと目が合った時、こんなわたしのような者にも、神様からの深い憐れみが溢れることでしょう。

■愛があふれる天の国

 今日は、この後のみ言葉を読みませんでしたが、そこで、イエスさまが憐れみ、いとおしんでくだった人々に示し、与えてくださったものは、神の国、天国でした。

 イエスさまのもとに、五千人もの人が集まっていました。弟子たちは「日が暮れたから解散させよう」と言います。弟子たちの考えはよくわかります。人間らしい発想です。弟子たちも一生懸命です、この大群衆を放っておいたら本当に飢え死にしてしまうだろう。「五千人が人里離れたところで、何も食べずに過ごしている。中には病人もいる、小さな子どもを抱いた母親もいる、お年寄りもいる。放っておいたらみんな倒れてしまうだろう」。だから、いいかげんお話をやめてそろそろ解散させましょう。これは弟子たちだけの考えではなく、わたしたち人間の考えです。ある意味、当然の発想です。しかしイエスさまは言われました、「解散させるな、あなたたちが食べ物をあげなさい」。突拍子もない話です。五千人にあなたたちが食べさせろと言っているのです。「でも、ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と言うと、イエスさまは「それでいい。それを持っていきなさい。それをあなたたちが配りなさい」。これは、人の耳には不思議に聞こえるかもしれないけれども、神様の世界、神の国では当たり前のことなのです。

 事実、地球は何億年も、そうしていのちを育んできました。神様が分け与えられてくださっている愛は、決して尽きることがありません。ところが、もうダメだ、限界だ、とわたしたちが人間の考えで恐れたとき、神様の尽きることのない愛が閉ざされてしまいます。イエスさまのみもとで愛のことばを聞いて、みんながひとつになっている、その喜びの集いを解散させるなんてとんでもない。天の父が集められた、この友を天の父が養ってくださるのは当然のことだ。さあ、ここで、みんなで食べようと、イエスさまがパンを手にするときこそ、あふれるほどの愛の扉が開くときなのです。

 弟子たちがイエスさまの言う通りにすると、全員食べて満腹しました。これこそ、神の国、天国です。それが、もう実現しているのです、イエスさまの周りに。

 「教会」とは、そんなところです。この世的に言えば、「もう無理」「ここまで」でも、天国はその先にあるのです。そんな天国に憧れて、教会は建てられ、守られてきました。わたしたちも決してあきらめず、限りない力を信じ、尽きることない愛に触れ、そこから惜しみなくいただきましょう、憐れみを、いとおしいと思ってくださるその愛を。

■ちいさな天国をつくろう!

 例えば、教会が宣教の業として大切にしている幼稚園や保育園もまた、そのような場所です。なぜって、保育や教育と呼ばれる仕事もまた天国をつくる仕事だからです。保育や教育に携わる者みんなが、小さな天国をつくり、そこでこどもたちがひとときでも、『ああ、この世界はいい世界だ。自分は愛されているんだ。辛いこともあるけれども、それは楽しいことにつながっていくんだ』と感じ、自分の人生を信じて生きていけるなら、これにまさる奉仕はありません。どんなに大変であっても、天国をつくることに奉仕する以上に、素晴らしい仕事はありません。どんなに困難でも大丈夫。

 そもそも天国をつくってくださるのは神様なのですから、わたしたちが小さな天国をつくるために努力をすればいい。すべては、神様の働きです。わたしたちにパンを増やすのは無理だと思わず、安心して、くじけることなく、誇りをもって、与えられた働きを担い続けていくことができるならば、これに勝る幸いはありません。もちろん、天国をつくる仕事は他にもたくさんあるでしょう。わたしたちは、自分の生活の糧を得るために働きますが、ただ自分の利益のためだけではなく、人を愛し、憐れみ、いとおしんで、神様から与えられた賜物を分かち合うためになされる業はすべて、天国をつくる働きとなるのです。

 事実、以前園長をしていた教会の幼稚園はとてもすてきな幼稚園でした。おもしろそうなおもちゃや楽しそうな絵がいっぱい飾ってあって、まさに天国です。でも一番の天国は、お昼寝の時間です。寝つかれないこどもを、先生が、いとおしくて、いとおしてくしょうがない、そんな感じでぎゅうーっと抱きしめる。抱かれたこどもは心から安心して、ニコニコしていました。まさに、天国です。

 わたしたちにも、天国をつくることができます。神のみわざに協力できます。誰でもどこでも。素晴らしいことです。そこでほんとに神様の素晴らしさに触れて、希望を取り戻せる人が一人でもいるなら、それこそ本当の喜び、幸せ、救いではないでしょうか。 イエスさまを追い求めるわたしたちを、神様はいとおしんでくださっています。そして、わたしたちにも天国を示してくださり、わたしたちにも小さな天国をつくるようにと招いてくださっています。感謝して、家庭で、職場で、学校で、地域で、そして教会で、ご一緒にちいさな天国をつくってまいりましょう