小倉日明教会

「豊かな実」

ヨハネによる福音書 15章 1〜12節

2023年5月14日(日) 復活節第6主日礼拝

ヨハネによる福音書 15章 1〜12節

「豊かな実」

【説教】 沖村裕史牧師

■カーネーション

 五月第二主日の今日、わたしたちは「母の日」の礼拝を守っています。教会では、カーネーションが飾られたり、贈られたりするので、カーネーションは、古くからキリスト教の花のひとつだったのではないかと思われるかもしれませんが、「母の日」が始まったのは二十世紀になってからのことでした。

 実際、わたしたちが知っているカーネーションはアメリカで改良されたもので、一九世紀の後半から二〇世紀初期にかけて品種改良が進み、第二次世界大戦前から戦後にかけて世界を風靡するようになったものです。ただ、このアメリカのカーネーションも、その後はコロンビアからの輸入カーネーションに押されて激滅し、新しい品種の育種は欧州のオランダ、フランス.イタリアに移っていきました。日本でも近年は、コロンビアや中国からの輸入ものが中心になっています。切花の世界もまた、ボーダーレス・ワールドになっています。

 今日はまず、このカーネーションの歴史から始めさせていただきたいと思います。カーネーションの学名はディアンツス・カリオフィルス。ディアンツスは「神聖な花」という意味で、古くから栽培されてきました。ただその原種は、自生の状態では見つかっていません。バラやヒアシンスなどと共にイスラム文化圏で栽培され、ルネッサンスの頃にイタリアに移ってきたと言われます。

 ラファエロの絵「カーネーションの聖母」では、幼児のキリストが小さい花をつけたカーネーションを持っています。この絵は一五〇六年頃のものですが、それより少し後一五三二年に描かれたハンス・ホルバイン「商人ギーシェ」の絵では、ガラス瓶にさしたカーネーションが机の上に置いてあります。花の形は現在のカーネーションに近くなっていますが、まだ小形で、花弁の数も少なく、茎は細くなっています。同じ時代に描かれた、ヤン・ファン・エイクの「ダイアンサスを持った男」では、右手に小さい花一輪を持っています。この絵もベルリン美術館にありますが、右手に持たれた花は「商人ギーシェ」の中の花よりももっと原始的です。

 このようにカーネーションの花だけを手にした絵は、その後、いろいろな人によって描かれ、オランダの有名な画家レンブラントも、「ダイアンサスを持った婦人」を描いています。その花はやや大きくなり、一輪です。その後、一八世紀から一九世紀のスペインの画家、フランシスコ・デ・ゴヤの絵を見ると、一本のカーネーションを持った婦人が描かれ、花はかなり大きくなって、その重さで下に垂れ、茎が弓状に曲がっています。

 その後カーネーションはアメリカに渡り、改良が加えられて、茎が強く、長く伸びるものになって、ツリー・カーネーションと呼ばれるようになりました。二〇世紀になり、一九二〇年頃から温室で栽培され、花色も多い、現代のタイプのものになってきました。

  「母の日」、母に感謝する日が始まったのは、そのほんの少し前のことでした。一九一四年、五月第二日曜日に教会で「母の日」を祝うこと、その前の金曜日を国の祝日とすることが、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって制定されました。かつては、母が生存していればピンクの、死去していれば白色のカーネーションを胸につけていましたが、今ではそうした区別は相応しくないと、一様に赤またはピンクのカーネーションが使われるようになりました。

■いのちの木

 そんな母の日の趣旨は、単に「お母さん、ありがとう」ではなく、「神様、お母さんをありがとう」です。すべてのものにいのちを与え、育んでくださる方へ感謝を捧げる日です。そんな母の日、昨日の雨がうそのように、爽やかな朝になりました。庭の花も木も草も、みずみずしく、青々としています。いのちがあふれています。色鮮やかに咲く花も神秘的ですが、緑の美しさは格別です。山々を彩る木々の、棚田の水面を覆う苗の緑が、いのちの神秘をわたしたちに教えてくれているかのようです。

 そして今ここにも、主の息吹が与えられ、いのちが躍動しています。今日のみ言葉は、そんな美しい緑に装われた「ぶどうの木」にたとえられる、まさに「いのち」についての言葉です。

 もともとヨハネによる福音書は、平易で分かりやすいギリシア語で書かれた福音書ですが、しかしそれはとても格調高く、リズムの整った言葉で、イエスさまの言葉を伝えています。今日のみ言葉は格別です。何度も繰り返して読んでいますと、イエスさまがまるで讃美の歌を歌っておられるようにさえ思えてきます。 そして冒頭、ヨハネによる福音書のイエスさまはこう賛美されます。

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」

 わたしはまことのぶどうの木。この「まことの」(アレーテース)という言葉は、「真理の」「真実の」「本当の」という意味です。偽物のぶどうの木がいくつもあるかもしれない、しかしわたしこそ「まことのいのちを養う木」。わたしの父なる神はそのぶどうの木を養う「農夫」、あなたがたはその木に連なる「枝」、そして、その枝は豊かに実を結ぶ、いのちを生み出す、「いのちの木」だ、そう繰り返すように歌われます。

■豊かな実

 小さい時からぶどうはよく食べていても、「本当の」ぶどうの木を見たことがあるという人は案外少ないかもしれません。こどもたちを連れて日帰りのキャンプに瀬戸内の小島に出かけたときのこと、スイカが畑の土の上になっているのを見て、「スイカって、ぶどうみたいに木になっているんじゃないんだね」と驚かれたことがあります。こどもたちのイメージはぶどう棚になっているスイカだったようです。もちろん、わたしたちがそんな間違いをすることはまずありませんが、それでも、ぶどう棚になっている手のひらよりも少し大きなぶどうの房ではなく、まるで大木のような、幹が直径四五センチ、枝の張りが九メートルを超えるぶどうの木になっている、五キロ以上もあるぶどうの房を見ることはなかなかないでしょう。しかし、それがパレスチナのぶどうの木でした。

 今の季節、地中海の石灰質の白い大地を覆うぶどうの鮮やかな新緑がとりわけ美しいときですが、秋になり収穫のときを迎えると、一度に食べ切れないほどの、実り豊かなぶどうの房を、ずしりと手に感じながら持って食べることができるほどになります。ぶどうは、ぶどうの木は、まさに豊かな実りの象徴、シンボルでした。

 イエスさまはここで、わたしたちに、あなたたちの人生も、そのように実り豊かないのちを生きることができる、そう約束していてくださっているのです。たとえどんなに強い人であっても、弱い人であっても、あるいは人生の長い人であっても、短い人であっても、あるいは幸せな人であっても、不幸せな人であっても、その人の人生は、豊かに実を結ぶことができるのです。農夫である父なる神が、そのぶどうの木、枝、実を豊かに育み、養ってくださるからです。言葉を変えると、永遠の神が一人ひとりをそのままに包み込んで育まれるからです。

 信じて生きるということは、このたとえのままに言えば、わたしたちの人生が実り多く、わたしたちのいのちがあふれるほど豊かなものとされていることを確信することでした。ほんの僅かな実りがあって、それを慰めとするというのではありません。実りが豊かなことを喜ぶ。たっぷりの実りに生きることができることを喜ぶ。一一節の「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」というイエスさまの言葉は、その喜びを歌い祝福しておられる、そこに現れる神のみわざを賛美し喜んでおられるのではないでしょうか。

■生かされ生きている

 そんな豊かで美しい約束の言葉に続いて、イエスさまはエッと息を飲むような言葉を告げられます。

 「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」

 イエスさまは、わたしこそがまことのぶどうの木と言われ、イエスさまの父なる神は天の彼方に美しく、しかし冷たく静かに輝いている星のような存在ではなく、経験豊かな農夫である、と言われました。しかしその農夫が、「実を結ばない枝はみな…取り除かれる」と言います。

 イエス・キリストにつながっていて、しかも、実をつけない、とはどういうことなのでしょうか。

 ヨハネによる福音書一三章に、ペトロたちがイエスさまから足を洗っていただいたことが記されています。十字架の死という別れを前にして、イエスさまは弟子たちをもう一度、ご自身に結びつけておこうとされたのです。ご自分から弟子たちのしもべ、奴隷になって、その汚れた足を洗うことによって、です。そこにイエスさまの燃えるような、激しい「最後までの」愛があります。

 それほどのイエスさまの愛、愛の奉仕に、何も感じない、何とも思わない、無関心であるなら、それは、愛そのものであるイエスさまを理解せず、拒むということです。そういう人は当然、互に愛するということをしません。互に仕え合うということもありません。そう、「実」を結ばないのです。

 そこで農夫である父は、その枝を取り除いて、風通しを良くされます。わたしたちが、そしてイエスさままでもが、どんなにつないでおこうかと努めても、父なる神はこれを切り捨てるのです。

 しかし、そうされるのは、ただ切って捨てるためではありません。

 この「取り除く」と訳されているギリシア語のアイローは、「取り除く」という意味よりも「持ち上げる」という意味でよく使われる言葉です。イエスさまは、実を結ばないイチジクの木を切り倒せと命じた農園の主人に、園丁が「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」(ルカ一三・八~九a)と願ったというたとえを話しておられます。また、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ一四・一八)と繰り返し語り、約束してくださっています。

 農夫である父なる神は、イエス・キリストというぶどうの木につながった枝を、そう簡単には切り捨てたりはなさいません。かえって、地面に垂れ下がってしまった枝を一本一本「持ち上げる」ようにして養生し、地面に肥料をまき、日が当たるように刈り込み、風通しを良くしてくださるのです。神様は、そのように「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」、そんな農夫なのです。

 たとえ、どんなに小さく、貧しくとも、イエスさまの愛に対して無関心でなく、不信でなく、ほんのわずかでもイエスさまの愛に触れて、互いに愛し合っているなら、さらに実をつけるように、父なる神は「きれいに」してくださるのです。手入れをし、刈りこむのです。

 そういう見えない父のみ手が、わたしたちの内に、わたしたちの交わりの中に働いているのです。そして、それこそが「生かされ生きている」ということです。父なる神は、わたしたちを、そっと静かにしておくのではありません。わたしたちを生き生きと動かしておられるのです。神様は手入れをし、刈り込むのです。日々、裁いておられると言ってもよいでしょう。これが、ヨハネの言う、キリストにつながるわたしたちの、父なる神との生きた関係です。

■愛にとどまる

 だから、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(四節)と言われます。そして、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(九~一〇節)と教えられます。

 ここに「掟」という字が出てくるので、何となくわたしたちは、非常に高い宗教的倫理が求められていると考えてしまいがちです。しかしそうではなくて、一人ひとりがどんな状況の中にあっても、このまことのぶどうの木につながっている限り、御子イエスの愛にとどまっている限り、父なる神はいつもその人を受け入れ、豊かに育んでくださる、と言っているのです。

 別の言葉で言えば、主と共に清められる、主と共に愛の内にある、ということです。ここにある「愛にとどまる」という表現は、英語では ‟dwell in love” となります。‟dwell”とは「共にある、そこに共に住む」という意味です。わたしたちが、例えば、共に食事をする時に、皆がそこに共にいる、そんな感じです。

 それは、互いにキリストの愛の内にとどまり合う、互いに愛をもって交わり合う、ということです。イエス・キリストとの交わり。それは、歴史上のイエスさまを、遥かに思い起すことではありません。今ここに生きて、わたしたちを最後まで愛してくださっている、ということです。パウロによると、キリストの愛が、わたしたちに身動きもできないように、わたしたちの胸をしめつけるように迫ってくるのです。その愛の内に、わたしたちも互いに愛し合い、仕え合うように、と励ましてくださるのです。それが、イエスさまの弟子、またクリスチャンであるということであり、そこでこそ、父なる神の栄光が現わされるのです。 永遠の神の愛の内に、そこに共にあることを豊かに伝える福音のみ言葉に感謝いたしましょう。