小倉日明教会

『「ともし火」のたとえ』

ルカによる福音書 8章 16〜21節

2022年9月18日 聖霊降臨節第16主日礼拝

ルカによる福音書 8章 16〜21節

『「ともし火」のたとえ』

【奨励】 川辺 正直 役員

晩年のオードリー・ヘップバーン

 女優のオードリー・ヘップバーンの名前を知らない人は、おそらくいないかと思います。『ローマの休日』、『麗しのサブリナ』、『尼僧物語』、『ティファニーで朝食を』、『シャレード』、『マイ・フェア・レディ』など、多くの話題となった映画に出演しています。オードリー・ヘップバーンは、1993年に亡くなります。末期のがんだったオードリー・ヘップバーンは、化学療法を断ります。そして、生涯通して愛し続けた、スイスの家で、家族と共に最後のクリスマスを送ることを希望します。そして、クリスマス・イブの日、2人の息子ショーンとルカに、サム・レヴェンソンの詩集「時の試練をへた人生の知恵」から、「時を越えた美しさの秘密」の詩を読み聞かせたのです。この詩をお読みしたいと思います。

 「時を越えた美しさの秘密」           サム・レヴェンソン

 魅力的な唇のためには、優しい言葉を紡ぐこと。

 愛らしい瞳のためには、人の美質を見い出すこと。

 スリムな体ためには、飢えた人々と食べ物を分かち合うこと。

 豊かな髪のためには、一日に一度、子どもの指で髪をといてもらうこと。

 美しい身のこなしのためには、

 決してひとりで歩むことはないのだと知ること。

 物は壊れたら復元できないけれど、

 人は転んでも起き上がり、

 失敗してもやり直し、

 挫折しても再起し、

 誤ちをおかしたら正し、

 何度でも再出発することができます。

 決して誰のことも見捨ててはいけません。

 人生に迷い、助けが必要なとき、

 いつもあなたの手の少し先に

 救いの手がさしのべられていることを

 覚えていてください。

 年を重ねると、

 人は自分にふたつの手があることに気づきます。

 ひとつは自分自身を助けるため、

 そして、もうひとつは他者を助けるため。

 女性の美しさは

 身にまとう服にあるのではなく

 その容姿でもなく、

 髪を梳くしぐさでもありません。

 女性の美しさは、

 その人の瞳の奥に見い出されるもの。

 そこは心の窓、そして愛情のやどる場所。

 女性の美しさは、

 顔のほくろなどには関係なく

 その本当の美しさは

 その人の精神に反映されるものです。

 それは心のこもった思いやりの気持ち

 時として見せる情熱、

 そして、その美しさは、

 年を追うごとに磨かれていくものなのです。

 これが、晩年、ユニセフの親善大使として大きな働きをしたオードリー・ヘップバーンが生涯最も愛した詩で、息子たちに、「人生に迷い、助けが必要なとき、いつもあなたの手の少し先に、救いの手がさしのべられていることを覚えていてください。年を重ねると、人は自分にふたつの手があることに気づきます。ひとつは自分自身を助けるため、そして、もうひとつは他者を助けるため。あなたたちに差し出されている救いの手に導かれて、自分のふたつの手を用いるとき、心のこもった思いやりの気持ち、時として見せる情熱、そして、その美しさは、年を追うごとに磨かれて行きますよ」という思いで、読み聞かせてやった最後の詩であったのです。

 さて、本日の聖書の箇所で、主イエスが話されたのはいわゆる「『ともし火』のたとえ」です。「ともし火」は他を照らすことに使命があります。本日の聖書の箇所で、福音記者ルカは、何を伝えたかったのかということを皆さんと一緒に学んで行きたいと思います。

「『種を蒔く人』のたとえ」と「『ともし火』のたとえ」、そして、「イエスの母、兄弟」

 前回は、ルカによる福音書8章4〜15節の「『種を蒔く人』のたとえ」を読みました。今日は、その続きである16〜21節を読んで行きたいと思います。前回、読みましたように「『種を蒔く人』のたとえ」では、主イエスが宣べ伝えた神様の言葉である福音をどのように受け止めるのかという私たちの信仰のあり方が見つめられていました。主イエスによって蒔かれた神様の言葉という種が落ちた4つの土地は、それぞれ神様の言葉をどのように受け止める人たちであるかを示していたのです。道端というのは、神様の言葉を聞いても信じない人たちのことです。石地というのは、神様の言葉を聞いて、すぐに信じても外からの試練によって信じることをやめてしまう人たちのことです。茨の中というのは、神様の言葉を聞いても、他に関心事があって、「人生の思い煩い」や欲望によって信じることをやめてしまう人たちのことです。それに対して、良い土地というのは、15節にありますように「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」のことでした。しかし、このたとえは、私たちは自分の力で「良い土地」になることができる、と語っているのではありません。私たち一人、一人は、道端であり、石地であり、茨の中であるにもかかわらず、主イエスが蒔き続けてくださる神様の言葉の力によって、それらの土地が耕され、育まれ、整えられて、「良い土地」へと変えられていくことへと招かれている。このことが語られているのです。8章1節では「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら」と言われていました。主イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせることによって神様の言葉を蒔きました。福音とは主イエス・キリストによる救いの良い知らせにほかなりません。その福音の力によって、私たちは「良い土地」へと変えられていくことへと招かれているのです。ですからこのたとえにおいて見つめられているのは、私たちが頑張って、努力して「良い土地」になることではなく、私たちを「良い土地」へと招いてくださる神様の言葉をどのように受け止める信仰の状態にかるかということです。「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」とは、私たちが神様の言葉を受け止め、福音に従い、応答してゆくかということが問われているのだと思います。

 これらのようなことが「『種を蒔く人』のたとえ」で見つめられていました。しかし、神様の言葉をただ受け止め、自分の内で持ち続けるだけで十分なのかというと、そうではないのだということです。そのことが本日の聖書の箇所で語られています。「どのように神様の言葉を聞くか」、というテーマは前回の箇所で完結しているのではなく、今日の聖書の箇所に続いているのです。この箇所は16〜18節と19〜21節に分けることができます。聖書を見ますと、16〜18節の小見出しには「『ともし火』のたとえ」とあり、19〜21節には「イエスの母、兄弟」とあります。ですから16〜18節と19〜21節は一見したところ、何の関係もないように思えます。それだけでなく、前回の箇所のテーマが本日の箇所で続いていることもすぐには見えてきません。しかし、福音記者ルカが、主イエスのたとえ話を、「『種を蒔く人』のたとえ」と「『ともし火』のたとえ」の2つしか取り上げていないのは、この2つが非常に重要だからです。そして、「『種を蒔く人』のたとえ」で語られた神様の言葉をどのように受け止めるのかという問いと招きに対して、私たちは「『ともし火』のたとえ」で語られる福音は、神様の言葉にどのように従うのかという応答が問われているのか、という一貫した視点で読むことによってこそ、本日の聖書の箇所のメッセージを受け止めることができるのだと思います。そして、福音記者ルカがこの福音書を順序正しく書いたことから、19〜21節に登場する「イエスの母、兄弟」は、大勢の群衆と方々の町から集まった人々に混じって、少し離れたところから、主イエスが語るのを聞いていたことが分かります。そのように見てゆきますと、謎のようにも思える3つの物語の結びつきが見えてくるように思います。

主イエスが見つめるもの

 さて、本日の聖書の箇所の16節ではこのように記されています。「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」。何も難しいことは語られていません。ごく当たり前のことが語られているように思われます。主イエスは、この「ともし火」のたとえをとても好まれて、度々語っておられます。ルカによる福音書の11章33〜36節でも「ともし火」について語られています。

 聖書の中で記されている「ともし火」というのは、オリーブ油などの油を、ともしび皿という素焼きの皿に入れ、そこに芯を入れて火をともすものです。そして、ともし火は、当時の家の中の唯一の照明道具でした。電気もランプもない時代です。人々は夜になると、ともし火皿の芯に火を灯し、燭台の上に置いて部屋の中を照らしました。電気の光などに比べようもないほど暗い明かりです。ですから、ともし火は、もっとも効率よく部屋の中を明るくできる位置に置かれた燭台の上に置かれたのです。

 では、この「ともし火」は何を意味しているのでしょうか。前回お話しました「『種を蒔く人』のたとえ」の文脈の中で読むならば、この「ともし火」とは私たちが受け取った神様の言葉だと言うことができます。私たちは主イエスが蒔いた神様の言葉を受け取ったのです。主イエスによって告げ知らされた福音を受け取ったのです。ですからこの「『ともし火』のたとえ」では、「ともし火をともしたら、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりせず、燭台の上に置く」ように、私たちが受け取った神の言葉を隠したり、見えなくしたりするのではなく、ほかの人たちに見えるようにすることが問われているのです。

 このことは、当たり前のことのように思われます。しかし、神様の言葉を「ともし火」を燭台の上に置くように、誰の目にも見えるようにしなさいと言われると、私たちは困ったなという思いを持つのではないでしょうか。私たちは、異教社会の中で生きているのです。神様を信じる人々に囲まれて、生きている訳ではないのです。神様と言うと、存在の定かではないものという空気感の中で生きているのです。しかし、それでもなお、私たちは受け取った神様の言葉をほかの人にも見えるようにすることが問われているのです。ともし火を燭台の上に置くように、私たちは神の言葉を高く掲げることが求められているのです。私たちは自分が主イエス・キリストによって救われたことを隠すのではなく、ほかの人に証ししていくことが求められているのです。そうすれば、部屋全体が明るくなるように、世界を照らす光となるからです。

隠されているものがあらわになり、秘められたものが公になる

 このように16節を受け止めるとき、何が起きるのでしょうか。17節にはこのようにあります。「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」。このように書かれています。「『種を蒔く人』のたとえ」とその説き明かしに挟まれた9〜10節で、「このたとえはどんな意味か」と尋ねた弟子たちに、主イエスは「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている」と言われました。主イエス・キリストが来て、主イエス・キリストを通して、旧約聖書の時代には秘められていた「神の国の秘密」が弟子たちに与えられたのです。彼らは特別に「神の国の秘密」を知ることが許されました。しかし、弟子たちは、その「神の国の秘密」を、自分たちだけが知っている秘密として封印してしまったり、隠してしまったりしてはならないのです。「秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」と言われているように、弟子たちは彼らに与えられた「神の国の秘密」をほかの人にも知らせなくてはならないし、世に対して「公」にしなければならないのです。ですから弟子たちが特別であるとは、彼らの能力が特別だとか、彼らが特別に立派な人であるとか、そういうことではなく、ほかの人に「神の国の秘密」を知らせるために特別に選ばれたということなのです。

 そして、教会時代に生きる私たちにも、神様の言葉が蒔かれ、「神の国の秘密」が与えられました。憐れみ深い主イエス・キリストの十字架の死と復活において、私たちの救いが実現したという驚くべき秘密を受け取ったのです。日本語の「憐れみ」には、可哀想に思って何かをしてあげるという意味が伴います。憐れみを受けるというのは、少し恥ずかしいというか、みじめな感じがするのではないでしょうか。けれども聖書の語る「憐れみ」はcompassion と訳される場合があります。comとは「共に」ということであり、 passionとはラテン語の苦しむという意味の言葉です。共に苦しみ、共に嘆き、重荷を共に負う。それが聖書の伝える「憐れみ」ということです。神様の憐れみとはそのように共に苦しみ、共に嘆いて、共に重荷を負って下さるのです。その神様の憐れみによって、私たちは新たに変えられてゆくのです。それは、異教社会の中においても、道端や石地や茨の中の私たちを、「良い土地」へと招くために、共に苦しみ、痛みを負って下さるということなのです。

常に神の言葉を新たに聞き続ける

 18節には「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」とあります。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」という一文だけを切り取って読むならば、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる格差社会の現実を言い表しているように思えてしまいます。従って、聖書を読むとき、文脈が大切となるのです。すなわち、4節からの文脈の中で読むならば、このみ言葉も神様の言葉をどう聞くべきかについて語っているのです。それは18節の冒頭で「どう聞くべきかに注意しなさい」と言われていることからも分かります。ここで「聞く」と訳されているギリシャ語は「アコウオー」という言葉ですが、これは単に人の話を聞くという以上に、言われた通りに行動する意思を持って聞くという意味があります。ですから、ここで「どう聞くべきかに注意しなさい」とは、聞いて、それに従うかどうか、そこに注意しなさいという意味なのです。それは、神様の言葉を聞いてそれを生活で実践しようとするかしないかによって、結果が大きく違ってしまうからです。私たちが、神の言葉を注意深く聞き、その教えを生活の中で実践して行く時に、私たちの信仰は成長します。しかし、イエスを信じていると思っていても、神の言葉を聞いてもその言葉と真剣に取り組もうとしないならば、やがて、その人が持っていた信仰は弱くなり、場合によってはまったくなくなってしまうことにもなりかねません。ですからここで言われているのは「神の言葉を持っている人は更に与えられ、神の言葉を持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」ということです。神様の言葉を持っていない人とは、どのような人でしょうか。聖書の知識が少ない人のことではありません。むしろ自分はすでに神様の言葉を持っている、み言葉をよく知っている、よく分かっていると思い込んでしまっている人のことです。それに対して神の言葉を持っている人とは、自分はすでに神の言葉を持っているから、知っているからと安心してしまうことなく、常に神様の言葉を新たに聞き続ける人のことです。「持っている人は更に与えられ」とは、そのようにみ言葉を聞き続け、従い続ける人に神様の言葉が、その恵みがますます与えられていくということなのです。

神の言葉を聞いて、行う

 このように16〜18節は、「どのように神様の言葉を受け止めるか」という一貫したテーマによって結びついています。それでは、本日の聖書の箇所の後半の19〜21節はどうなのでしょうか。ここでは、主イエスのところに主イエスの母と兄弟たちがやって来たことが語られています。この出来事はマルコによる福音書とマタイによる福音書でも語られていますが、ルカによる福音書では「『種を蒔く人』のたとえ」の後で、大勢の群衆や方々の町から集まった人々に主イエスが語られた場面で、この出来事が語られているのに対して、マルコ福音書とマタイ福音書ではたとえ話の前のファリサイ派の人々との対立の場面で語られています。つまりルカ福音書におけるこの出来事の位置づけは、ほかの二つの福音書とは異なるのです。すでに見てきたようにルカ福音書では8章4節から、「どのように神の言葉を聞くか」というテーマで語られてきましたが、この出来事はその結論部分といえます。それは21節の「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と語る主イエスの言葉から分かります。ここで主イエスがお語りになったのは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」だけであり、「神の言葉を聞いて行う」ことに集中しているのです。19〜21節が、「どのように神の言葉を聞くか」というテーマで語られてきた4〜18節の結論といえるというのは、そういうことなのだと思います。

 しかし、私たちはここで、主イエスのお母さんや兄弟たちは、主イエスの言葉をどのように聞いたのか、少し気になるのではないでしょうか。19〜20節には、「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。」と書かれています。普通ですと、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」と聞けば、「私の母と兄弟たちが会いに来ているので、ちょっと通路を開けてもらえないでしょうか」と言って、身近なところに招き入れるのではないかと思います。私たちはちょっと肉親に対して、そっけないのじゃないかなと思うのではないでしょうか。しかし、主イエスはこの機会を捉えて、大切な信仰についての教えを語るのです。肉の家族の関係以上に大切なことがあることを教えようとしているのです。ここで、誤解してはいけないのは、主イエスは家族関係を軽視しても良いと言っているのではないのです。聖書は一貫して、家族関係の重要性を語っているのです。主イエスは家族関係を軽視しているのではなく、家族関係と対比することによって、神様の言葉を聞いて、行うことの重要性を強調しているのです。主イエスの言葉を聞いて、それを実行する人は幸いなのです。なぜなら、聞いて行うことによって、主イエスの家族のような存在となるからです。神様の言葉を聞くことの重要性、聞いて行うことの重要性を語っているのです。では、この主イエスの言葉を聴いて、主イエスの家族はどう思ったのでしょうか。

神の家族

 主イエスの弟にヤコブという人がいます。主イエスの公生涯の間は主イエスを信じませんでしたが、復活の主イエスに出会って、主イエスを信じるようになって、初代教会のリーダーとなるのです。このヤコブは今日の聖書のエピソードの場にいたと思いますが、この主イエスの語る神様の言葉を聞くことの重要性、聞いて行うことの重要性をよく理解したのです。ヤコブの手紙1章21〜22節には、「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」と書かれています。ここには、ヤコブの手紙の精神が語られていると思いますが、み言葉を受けた人は、み言葉を行う責任が生じるというのです。このことは、「ともし火」のたとえで、主イエスが語ったことが反映されていると思います。ヤコブは主イエスの言葉を受け止め、主イエスの言葉に従って生きたことがよく分かります。それでは、現代に生きる私たちは主イエスの言葉をどのように聞くのでしょうか。

オードリー・ヘップバーンと『アンネの日記』

 さて、最初にお話しました女優のオードリー・ヘップバーンは、美しく大きな瞳、気品のあるしぐさで世界中の人を惹きつけました。彼女は、オランダ人のお母さんとイギリス人のお父さんとの間に生まれました。両親は、彼女が6歳の時に離婚しています。お父さんとの別れは生涯の傷となり、「暖かい家庭をもつこと」が人生の目標になったそうです。

 第2次世界大戦が勃発したときはオランダのアルンへムという町で暮らしていました。平和な町が突如、ナチスと連合軍の激戦地に変わり、飢えに苦しむ日々が続きます。大人になっても食事を多く摂取できない体質になったのはこの時の飢餓状態が原因だと言われています。誰もが憧れるほっそりとした体型の背景にはすさまじい戦争体験が隠されていたのです。ナチス支配下のオランダで、15歳だったヘプバーンは、命がけでブーツの中に秘密の文書を隠して運び、ナチスへのレジスタンス活動に協力しています。

 スターとなったオードリーに何度も、何度も持ちこまれ、そのたびに断った企画がありました。オードリーを主役とした『アンネの日記』の映画化の企画です。アンネの父親のオットー・フランクが直接オードリーに会いにきても、それでもオードリーは引き受けることができませんでした。

 なぜなら、戦時中のアンネの経験は、そのままオードリーの経験であり、ひとりは死に、ひとりは生き残った、それだけの違いであり、あまりにも、生々しかったからです。「アンネはあまりにも私に似ているから辛い」とオードリーは語っています。実際、オードリー・ヘップバーンとアンネ・フランクは、同じ年に生まれ、同じ国であるオランダに住んでいたのです。そして、二人は、同じナチス・ドイツによる第2次世界大戦を体験したのです。第2次世界大戦後に発行された「アンネの日記」を初めて読んだ時の感想を,オードリー・ヘップバーンは,胸が引き裂かれるようだった、と語っています。

 ようやくアンネを演じることができたのは、ずっとあと、61歳のときのことです。それは「アンネの日記朗読コンサート」というスタイルでした。このころにはユニセフの活動を始めていて、各地をまわる慈善コンサートとして、オードリー自らが希望したのです。晩年は、ユニセフの親善大使として飢餓に苦しむエチオピア、栄養改善プロジェクトのためにベトナム、安全な水の提供のために中南米を50回以上も訪問し、「子供よりも大切な存在があるでしょうか」と語りながら、子供たちを幸せにするための活動への支援を世界に呼びかけたのです。

 私たちが知っているオードリー・ヘプバーンは、銀幕の中の華やかな存在ですが、しかし、実際のオードリーは少女時代に受けた傷ゆえに他の人を包み、生かそうとする「心のともし火」を燭台の上に置いて、燃やし続けた人だと思います。

 主イエスが神様の言葉を蒔き続けたのは、神の家族が広がっていくためでした。自分が神の家族に入れられたからもう良いということではなく、神の家族がより広がっていくために私たちは用いられていくのです。私たちは受け取った福音を自分の内に隠すのではなく、他の人にも見えるようにして行きます。主イエス・キリストによる救いの福音を周囲の人に証ししていくのです。そのために私たちは日々新たに神様の言葉を聞き続けます。神様の言葉を聞き続けることによってこそ、私たちは受け取った神様の言葉を、本当に人を生かす言葉として証ししていくことができるのです。私たちは、心から神様の言葉の証人となって行きたいと思います。

 それでは、お祈り致します。