【奨 励】 役員 川辺 正直
■映画『永遠の愛に生きて』
おはようございます。さて、ファンタジー小説『ナルニア国ものがたり』の著者として有名なC・S・ルイスという作家と、妻となった米国女性詩人ジョイ・グレシャムとの出会いから死が2人を分かつまでを描いた『永遠(とわ)の愛に生きて』という映画があります。ルイスの妻、ジョイ・グレシャムはガンの闘病中、小康状態を得、2人は、友人の夫婦と共に、それはそれは素晴らしいギリシャ旅行を楽しむのです。しかし、再びガンが悪化することを予期しているジョイは、このように言うのです。『そのときに私が感じる痛みも、今感じている幸せの一部。そういうことね』。寒さを知る人だけが暖房のありがたさに気づくように、不幸なことは幸せを知るための一つの要素なのだ、と彼女は言うのです。そして、やがて彼女が亡くなった時、C・S・ルイスは遺された彼女の息子を慰めようとして、ジョイの言葉を微妙に変えて、こうように言うのです。『今感じている痛みも、そのときに感じる幸せの一部。そういうことなんだ』。神の国に行くと、今感じている痛みや悲しみの光景が一変します。かつて、辛くて仕方がなかったことですら、輝かしい価値あることの一部に変貌する。私はそれを待つ。というのがルイスの信仰なのです。
本日は、「ムナ」のたとえという聖書の箇所を皆さんと共に学びます。しかし、この「ムナ」のたとえが教会の中で語られることは、なかなかないのではないでしょうか。この「ムナ」のたとえを読もうとすると、理解するのが難しい箇所がいくつも出てきて、理解するのが難解な箇所であると思います。私たちは、神様は憐れみ深い、愛なるお方であると学んできているのに、この「ムナ」のたとえに登場する主人は、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つと、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言われるような人物だというのです。しかも、このたとえ話の最後で、この主人は、この主人が王になるのを望まなかった者たちを、引き出して、打ち殺せと命じているのです。しかし、この「ムナ」のたとえを語っておられる主イエスは、エルサレムで十字架に架かって死なれるために旅を続けて来られ、あと1日歩けば、ご自分が殺されるエルサレムに着くのです。本日は、主イエスがどのような思いで、この「ムナ」のたとえを語られたのかということを、皆さんと共に学びたいと思います。
■神の国はすぐにも現れる?
さて、主イエスは今、弟子たちとエルサレムに向かって、旅を続けています。その間、様々なテーマについて、主イエスが教えて下さいましたが、主に弟子たちに教えておられます。この段階は、弟子訓練の最終段階に近づいているのです。弟子たちはあるイメージを持って、ある文脈の中で動いているのです。それに対して、主イエスご自身も教えておられることに文脈があるのです。ところが、両者の文脈は合致していないのです。主イエスは十字架に向かって歩んでおられます。これが、主イエスの文脈です。弟子たちは、戴冠式に向かう王の行列に連なっているという文脈の中で動いておりました。今日の話も、そのずれを修正するために、主イエスは教えられたということがわかってくるのです。
前回は、ザアカイの救いについてお話しました。今日は、「ムナ」のたとえについて、お話したいと思います。今日の「ムナ」のたとえは、主人はどこかに行って、留守になっている。でも、主人が帰ってくるので、その主人がいない間に、僕はどうするのかというお話しです。
さて、本日の聖書の箇所の11節を見ますと、『人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。』とあります。たとえ話を理解するためには、解釈する前に、前書きをよく読むということがとても重要です。この前書きを読みますと、主イエスがこのたとえ話を語った目的は、神の国に関する誤解を解くためであるということが分かります。
11節の始めには、『人々がこれらのことに聞き入っているとき、』とあります。これは、ザアカイの家で、主イエスが人々に語った内容であることが分かるかと思います。それはどのような言葉であったかと言いますと、『今日、救いがこの家を訪れた。』と、ザアカイに語られたのです。さらに、主イエスはエルサレムに近づいているのです。主イエスは、『今日、救いがこの家を訪れた。』と語られ、エルサレムにどんどん近づいている、やはり弟子たちが期待したことが、もう直ぐにでも起こりそうだ、それが何かと言うと、神の国なのです。弟子たちが期待した、ここでの神の国というのは、ユダヤ人たちがメシア的王国と呼ぶものなのです。クリスチャンは、それを千年王国と呼んでいるものなのです。このとき、人々はメシア的王国が近いと感じたのです。そして、当時のユダヤの人々の概念では、メシア王国の中には、政治的解放も含まれていたのです。つまり、ローマの圧政やその他の異邦人諸国の圧政からの解放がその中に、含まれているのです。ですから、いよいよローマの圧政から解放され、主イエスが王として統治する時が、もう目前に迫っているという、大変な期待感を彼らは持ったわけです。私たちは、主イエスが十字架に架かり、墓に葬られ、それから3日目に甦り、それから教会時代が来たということを知っていますから、神の国は直ぐには来ないということを知っています。しかし、聖霊が降る前に、復活の主イエスが弟子たちにいろいろと教えているのですが、その時でも弟子たちは神の国は直ぐに来るという期待をまだ持っているのです。
使徒言行録の1章の6節を見ますと、『さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。』とあります。ここに書かれているのは、政治的な解放で、メシア的王国の建設だということが分かります。従って、現在の私たちは、聖書の記述を見て、こういうことかと理解していても、紀元1世紀のユダヤ人にとって、ローマの圧政からの解放を実現して下さるメシアの到来という思想が、どれ位切実で、ほとんど当時のユダヤの本能に近いような感覚であったということを忘れてはいけないと思います。それに対して、11節の後半には、主イエスが『イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。』とあります。この記載から分かりますことは、神の国はあなたたちが思っているほどには、直ぐには来ないのだよ、ということです。来ないから、それではどう生きるのかということが、今日のたとえ話の内容になって来るのです。神の国が来るまでの間、弟子としては、いかに生きるべきか、ということです。
従って、このたとえ話の対象は、弟子たちなのです。そして、同時にもっと広く見ると、ユダヤ人全体であるとも言うことができます。ですから、狭くは弟子たちに語り、広くはユダヤ人全体に語っているのが、今日のこのたとえ話の内容なのです。
■遠い国への旅
本日の聖書の箇所の12節を見ますと、『イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。』とあります。ここに登場する『ある立派な家柄の人』というのは、主イエスご自身のことです。但し、このたとえ話には、歴史的な背景があります。当時のユダヤ人であれば、誰もが直ぐにあのことだなと分かるようなことなのです。それは何かと言いますと、ヘロデ大王という人がおりました。幼子の主イエスを殺そうとした王様です。息子がアルケラオという人です。ヘロデ大王には、息子が何人かいるのですが、長男なのです。この2人の物語なのです。
ヘロデ大王はユダヤの王ですが、彼は誰からユダヤの王としての権威を与えられたのでしょうか。それは、ローマ帝国からですね。ローマの許可がないと、ユダヤの王にはなれないのです。ですから、ユダヤの王というのは、ローマから見ると、ローマの言うことを聞く、傀儡政権なのです。ヘロデはユダヤの王としての称号を得るために、ローマに行っています。それが紀元前40年のことなのです。しかし、ヘロデがユダヤ人たちから支持を得たかと言いますと、そうではないのです。ヘロデはユダヤ人たちから、非常に嫌われたのです。ですから、ヘロデはローマに行って、王としての称号を得て、帰って来るのですが、その時に反抗的な人々を非常に残虐な方法で殺したり、罰したりしています。この背景が1つあるのです。ヘロデの息子のアルケラオという人は、ヘロデ以上に酷い人であったのです。ヘロデ大王が死ぬと、息子のアルケラオも、王になるためにローマに行きました。これが、紀元前4年の話です。そして、アルケラオがローマに行って、王にして欲しいとお願いしている時に、ユダヤ人が代表50人をローマに送って、アルケラオは王にしないで下さいと懇願しています。それぐらい、危険人物で、嫌われていたのです。50人の代表団はローマ皇帝に、ヘロデ王家による支配ではなくユダヤ人の自治を要求したのです。その自治要求運動には、ローマ市在住の8000人のユダヤ人(ローマ市民もいた)も呼応したのです。
ローマ皇帝の前で三者は論戦を戦わせます。その結果、アルケラオは一応『王』として認可されます。しかし、領土はヘロデ大王の全領土の2分の1(税収600タラントン)しか与えられません。ユダヤ地方とサマリア地方です。王位を争ったアンティパスに、ガリラヤ地方・ペレア地方(税収200タラントン)、別の兄弟フィリポ(マルコによる福音書6章17節)にトラコン地方(税収100タラントン)が分けて与えられることになりました。
そうすると、どうなるかと言いますと、アルケラオは、忠実で、自分を支持してくれた者には沢山ご褒美を与えて、反抗した者は、片っ端から殺して行ったのです。このときに、数千人の人が殺されたと言われています。これが、今日の聖書の箇所の「ムナ」のたとえの歴史的な背景なのです。ですから、主イエスが『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。』と言ったら、それを聞いていたユダヤ人たちはヘロデ大王と息子のアルケラオのことが、直ぐに思い浮かんだのです。
■主イエスの不在の時
この歴史的な背景を踏まえて、主イエスは、今度はご自分に適用して、「ムナ」のたとえをお語りになったのです。このたとえ話の中で、『ある立派な家柄の人』というのは、主イエスご自身のことです。主イエスが最初に、ここにおられるわけですが、そのことを初臨と言います。主イエスがしばらくこの地を離れて、遠い国へ旅立って、再び王として帰って来られます。それを何と言うかといいますと、再臨と言うのです。ですから、弟子たちが期待しているようなことは、直ぐに起こるのではなくて、主イエスが王として帰って来られたときに起こるのだよという話なのです。つまり、初臨と再臨の間で生きる弟子たちには、忠実さが要求されると言うのです。初臨と再臨の間で生きるという、この視点がないと、キリスト者は信じて、救われて、洗礼を受けたところで、上がりになってしまうのです。すごろくの上がりのように、そこで上がってしまうと、キリスト者はもう次に何をしたら良いのかが、わからなくなってしまうのです。そうではなくて、私たちは今まさに、主イエスが十字架と復活と昇天によって天の父なる神様のもとに帰られ、その主イエスが世の終わりに、父なる神様から、王位を受けて、もう一度、この世に帰って来られる再臨までの間の、主イエスの不在の時を生きているのです。それゆえに私たちは、今この地上の人生において、この目で見たり、手で触れたりするような仕方で主イエスと出会うことはできないのです。しかし、その中で信仰者は、主イエスが王として帰って来られることを信じて、主イエスの僕として、主イエスに命じられたことを行いつつ生きているのです。主人が旅に出て不在の間、主人の言い付けを守って働いている僕、それがこの世を生きる信仰者の姿なのです。この『主人の不在の間』ということが、私たちの信仰における重要なポイントなのです。
■タラントンとムナ
次に、本日の聖書の箇所の13節を見ますと、『そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。』とあります。このたとえ話の中では、10人の僕というのは、弟子たちのことです。従って、再臨までの間、弟子たちには、ある賜物が与えられているのです。このたとえ話で、主人は僕たちにある賜物を委託したのです。これで商売しなさい、と言うのです。10人とありますが、10人に特別な意味はないかと思います。10人にどれだけ預けたのかと言いますと、10ムナを預けたのです。ということは、1人につき、1ムナ預けたのです。大変、分かりやすい内容になっていると思います。ここでのポイントは、全員が同じ金額を預かっているということです。そして、1人に1ムナの金を渡し、それを用いて商売をせよと命じたのです。この主人の命令に僕たちがどう応えたかがこのたとえ話の中心となるわけですが、これと同じような設定のたとえ話があることを私たちはすぐに思い起こします。マタイによる福音書の25章にある、いわゆる『タラントンのたとえ』です。『タラントンのたとえ』も、主人が旅に出るに際して僕たちにお金を預け、主人の留守中に僕たちがそのお金をどう用いたか、という内容となっています。このタラントンのたとえと本日の箇所のムナのたとえは兄弟のような関係にあります。
しかし、そこには明確な違いもいくつかあります。まず、僕たちに預けられた金額が全く違います。タラントンのたとえに用いられているタラントンという単位は、ムナという単位の60倍の価値があります。つまり1タラントンは60ムナなのです。また、タラントンのたとえでは、3人の僕に、1人には5タラントン、もう1人には2タラントン、さらにもう1人には1タラントンが渡されています。一番少ない人に渡された1タラントンでも、60ムナですから、6000日分の賃金ということになります。年間300日働くと考えて計算すれば、20年分の賃金です。『タラントンのたとえ』と「ムナ」のたとえでは与えられているお金の桁が非常に違っていることが分かります。
もう1つの違いは、今申しましたように『タラントンのたとえ』では、僕によって与えられている金額が違うということです。そこには『それぞれの力に応じて』という言葉があって、この金額の違いは神様からそれぞれの人に与えられている能力、タレントの違いを表しています。能力、才能を意味するタレントという言葉はこのタラントンから生まれたのです。
また、『タラントンのたとえ』においては、5タラントン預けられた者は5タラントンを、2タラントン預けられた者は2タラントンを儲けました。元手が違えば生じる実りも違うわけです。そして、主人はその2人を全く同じ言葉で褒めています。大事なのは実りの多少ではなくて、神様から与えられているタレントを生かして用いたかどうかなのです。
そのように、『タラントンのたとえ』と「ムナ」のたとえとは、異なっている点があるということを、頭に入れて、本日の聖書の箇所を読んでゆきたいと思います。
そこで、もう一度、「ムナ」のたとえに戻りたいと思います。ここで、聖書に出てくるもう1つのお金の単位であるデナリオンと比べるなら、1ムナは100デナリオンとなります。この1デナリオンが、1人の人の1日分の賃金ですので、100デナリオンである1ムナは100日分の賃金です。年間300日働くと考えると、年収の3分の1ということになります。これは、当時のユダヤの人々の感覚で言えば、大変な金額です。なぜかと言いますと、ローマ時代、資産を持っている人というのは、とても限られていたのです。少数であったのです。しかも、借りる、貸すといったときの金利というのは、非常に高かったのです。
今日のたとえ話の後半で、銀行という言葉が出てきますが、当時、組織としての銀行というのは存在していなかったのです。ですから、銀行という訳語には、疑問を生じます。銀行と訳されているのは、実際には金貸しのことなのです。金貸しというときの金融業というのは、ほとんどが裕福な個人がやっていたのです。銀行と訳されている言葉は、トゥラーペザと言います。これは、両替人の机を指す言葉なのです。ですから、トゥラーペザになぜ預けておかなかったのかというのは、両替商に預けておけば、金利がついたという話なのです。しかも、当時のお金の貸し借りの際の金利は非常に高かったのです。このことを知っておくと、後半の話が理解しやすくなるのです。当時の金利には、低いのと高いのと2種類ありました。低い金利は、年率4%〜12%でした。高い場合は、24%〜48%であったのです。24%とか、48%というのは、12の倍数になっていますが、これは、月利を12倍しているのです。これが、年利になっているのです。ですから、このたとえ話の後半で、この主人が、両替商に預けておけば、金利がついたのにと言ったことの意味も分かるかと思います。
このたとえ話で、主人が10人の僕たち1人1人に渡したのは、当時の感覚から言うと、沢山のお金を渡したのです。そして、それを元手にして、商売をして、財産を増やせということなのです。財産を増やすのは、先程も言いましたように、現代よりも遥かに容易であったのです。なぜなら、財産を持っている人がいないからです。スタート時点で、財産を持っているということが、大変有利に経済活動が行えるということなのです。何もしなくても、両替商に預けておけば、高い金利であれば、年利24%とか、48%がもらえるのです。僕というのは、弟子たちのことです。主人は主イエスのことなのです。
■主イエスを王にいただきたくない人々の中で
本日の聖書の箇所の14節を見ると、『しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。』とあります。これは、先程、申しましたように歴史的記録のあることですね。アルケラオがローマに行った時に、50人の代表団が行っていた訳ですので、主イエスの話を聞いていた人々は、知っている、知っていると、大笑いしたことと思います。このたとえ話の国民というのは、『ある立派な家柄の人』に王になってほしくない人たちです。つまり、このたとえ話の中では、主イエスを王と認めていない人たちです。誰のことかと言いますと、狭い意味ではファリサイ派の人々のような宗教的な指導者であり、広い意味では、イスラエルの民、全体のことであるのです。彼らは、主イエスを認めたくない、それでは足りなくて、さらに使いをやって、妨害をするのです。そのことは、使徒言行録に入りますと、ステファノや使徒たちが殉教の死を遂げるのです。主イエスだけでは足りなくて、さらにその先の弟子たちまでも殺してゆく。それほどまでに、主イエスに王になってもらいたくないのです。
■3人の僕
さて、このたとえ話の主人が去りました。どれ位の期間が経ったのでしょうか。長い期間が経ってから、主人が帰って来ます。帰ってきた時に、主人による評価が始まります。本日の聖書の箇所の15節には、『さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。』とあります。『ある立派な家柄の人』が、王位を受けて、帰って来ました。これは、キリストの再臨の型です。僕たちがどのように商売したかということについて、主人の評価が行われるのです。これは、キリストの御座の裁きと言われる裁きの型なのです。さらに、16〜17節を見ますと、『最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』』とあります。最初の僕はよくやったのです。なぜかと言いますと、1ムナを元手にして、10ムナ、10倍にしたのです。ですから、この最初の僕は褒められているのです。主人である主イエスから褒められているのです。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』と、この主人は言っているのです。この主人は、『ごく小さな事に忠実だったから、』とおっしゃっているのです。私はやるべきことをやっただけですというのが、僕としての、あるべき認識だというのが、この言葉の中に込められていると思います。そして、このことに対する報奨ですが、忠実さに応じて、責任が与えられています。最初の僕は、10の町を支配する権利を与えられているのです。ローマ帝国は、王として任命した人がその国に帰った時に、独自に行政官を任命することを許していたのです。ですから、メシアが帰って来られた時に、メシアは王として、各町や村を管理する人を任命することができるのです。この責任移譲はどこで起こるのかと言いますと、千年王国での責任移譲なのです。ですから、ここでの話は、千年王国の型になっているのです。
次に、2番目の人です。18節〜19節を見ますと、『二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。』とあります。これは、同じことを言っているのですが、繰り返すのは大変なので、結論だけを言っているのです。2番目の僕は、1ムナを元手にして、5ムナを儲けて、5倍にしているのです。そして、最初の僕と同じ原則で取り扱われています。つまり、彼はその功績に比例して、5つの町を治める者とされたのです。
その次は、1番目の人と2番目の人とは対象的な3番目の人が登場します。20〜21節を見ますと、『また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』』とあります。3番目の僕は、何もしなかったのです。3番目の僕は何もしなかった言い訳をするのですが、ここで『布に包んで』とありますが、これは汗を拭く手拭い、ハンカチ、タオル、そういったものです。ですから、ここは年収の3分の1に相当する大金を、手拭いに包んで、置いておきましたということなのです。これは、主人の財産を扱う方法としては、1番危険な方法で、主人の言いつけを軽視しているということなのです。当時は、家の壁を破ったり、穴を掘ったりして、人の家に入り込んで、盗みを働く盗人が多かったのです。いつ盗まれるかも分からないという、危険なことを、この僕はやっていたのです。しかし、この僕は何もしなかったことについて、言い訳をしています。その言い訳の内容は、主人に対する侮辱的な言葉なのです。この人は、主人に向かって、『あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』と言っています。この言い訳は、酷い言い訳だと思います。この僕は、本当のところ、主人が戻って来るとは考えていなかったと思います。
■信仰という1ムナ
この言い訳をする3番目の僕に対して、主人は、『ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに』と言っています。『金を銀行に預けなかった』とは、そのお金が増えるためのほんの少しの努力もしなかった、ということです。「ムナ」のたとえの1ムナは、神様から預けられている『神の言葉』と考えることができます。より正確に言えば、主イエス・キリストの十字架と復活による救いの良い知らせ、福音を告げる神の言葉ということです。主イエスの十字架と復活によって、目には見えなくても、すでにこの地上に神のご支配が実現していることを告げる神の言葉ということです。この神の言葉が、主イエスの僕である私たち1人ひとりに預けられている「1ムナ」なのだと思います。
今日の主イエスの語る「ムナ」のたとえで、『わたしが帰って来るまで、これで商売しなさい』という主人の言葉は、世の終わりに主イエスが帰って来られるまでに、私たちに預けられている福音を告げる神様の言葉、目に見えない神様のご支配を告げる神様の言葉を、世の人々に届けていくことを示しています。しかし、そのように生きるのは決して簡単なことではありません。1ムナを『布に包んで』しまっておいた3番目の僕の気持ちも分からなくはないと思います。世の人々の中には、主イエスを信じていないだけでなく、憎んでいる者もいるからです。14節には、『しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた』とあります。主イエスを『王にいただきたくない』人は、世の人々の中に、たくさんいるのです。その人たちは、主イエスを憎み、主イエスを王にしたくないと思っています。そのような人たちの中で、そのような人たちに主の言葉を伝えるというのは、簡単なことではないのです。使徒言行録で伝えられているように、迫害されるかもしれません。1ムナを布に包んでしまっておいた僕は、『あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです』と言い訳をしました。この僕は主人が恐ろしかった、と言っています。しかし、この僕が本当に恐ろしかったのは、主人ではなく、自分の周りにいた主人を憎んでいた人たちであったと思います。それでは、現代の日本という社会の中で、私たちは本日の聖書の言葉を受け止めるというのは、どういうことなのかということを次に考えてみたいと思います。
■今という時を生きる
あるところに中学高校6年一貫教育の女子校がありました。この女子校の中学3年生の中にA子さんという女の子がいました。元気で、明るくて、活発で、クラスの中の人気者であったのです。どうも最近、疲れやすいなあということで、近くのクリニックで見てもらっても分からないということで、大きな病院で精密検査してみた結果、内臓に末期ガンが見つかったのです。まだ、14歳です。そして、若いとガン細胞の分裂も早くて、どんどん進行して行くのです。それで、検査をした担当の医者は、直ぐに両親を呼んで、告知したのです。『娘さんは、末期ガンです。現代医学では、もうどうしようもありません』と告げたのです。ところが、両親は、このことを本人には言わない、最後まで話さないと決心したのです。そして、病院の方にも、入院させません。もう、家に連れて帰ります。家で療養させますと言ったのです。家で療養させますと言ったところで、何もできることはないのです。本人には、療養していたら、良くなるから、良くなるからと言っていたのです。しかし、どんどん痩せて行くのです。『お母さん、もう私ダメなんじゃないの』とA子さんが言いますと、お母さんは、『何を、気弱なことを言っているの。大丈夫よ。』と言っていたそうです。そして、お父さんが会社を休んで、学校に行きまして、娘のA子さんの耳に、変な情報を入れたくないということで、担任の先生には、『ちょっと娘は体調を今は悪くて、良くなったら、また学校に行かせますので、しばらく学校は休ませて下さい』と伝えたのです。担任の先生は、『娘さんは、何かのご病気ですか』と訪ねたのですが、お父さんは、『ちょっと、あんまり言えない病気なのですが、まあ、良くなったら、直ぐに行かせますから』と答えたのです。このように、親が言ったので、担任の先生は、クラスメートの生徒たちにみんなそのまま伝えたのです。『何か、ちょっと随分しんどいので、お見舞いの方も控えてというふうに言われていた』と、担任の先生に言われて、クラスメートたちは先生の言葉に従ったのです。
しかし、A子さんはその2ヶ月後に亡くなったのです。クラスメートは、みんな直ぐに出てくるだろう、学校に出てくるだろうと、思っていたのが、亡くなったということを聞いて、大変なショックを受けたのです。そして、クラス全員で、お葬式に出たそうです。お葬式に行っても、亡くなったという現実を受け入れられないのです。まだ、14歳、15歳の女の子たちの柔らかい心です。ショックで、みんな葬式が始まる前からすすり泣いているような状態であったのです。実は、そこの地方には、1つ風習がありまして、子どもが親よりも先に死んだ場合、母親は火葬場について行ってはならないという風習なのです。ですから、お母さんは娘さんを霊柩車に乗せて、見送ったら、次は、骨壺の骨しか見ることができないのです。しかし、それをこのお母さんは受け入れることができなかったのです。それで、パニックを起こしまして、何人かの男性がA子さんの棺を抱えて、霊柩車に運んで行く時に、このお母さんは、棺を抱える男性の間に割り込んで、棺にしがみついて、『やめてぇ。この子を連れて行かないでぇ。やめてぇ』と叫んだのです。そして、半狂乱になって、棺を止めようとしたのです。ようやくのことで、男性の力で羽交い締めにして、無理やり引き剥がして、そして、ようやく霊柩車に棺を乗せて、火葬場まで棺を運んで行くことができたのです。しかし、この一部始終をクラス全員の女の子が見たのです。
さて、それからクラスが変わったというのです。次の日から、変わったそうです。実は、それまで、何かと反抗的な生徒が多いクラスであったそうです。ところが、その反抗的な生徒たちが、みんな妙に素直になったそうです。そして、ある特定の子をいじめるグループがあったのですが、そのいじめグループがその子に対して、『許して下さい。今まで、つらく当たってごめんね』と、謝りに来たそうです。そして、それまでまとまりのない、何かバラバラのクラスだったのですが、段々と団結するようになったそうです。その担任の先生がおっしゃるには、『多分、あのA子さんのお葬式を見たことが大きな影響を受けていると思います。みんな、A子さんの中に自分自身を映し出しているのではないでしょうか。A子さんに自分を重ねて、見たのではないでしょうか。あんなに元気で、直ぐに学校に戻って来るわと思っていた人が、次に、会った時には、お葬式の会場で、遺影を見ているだけです。もう、ありがとうも、さようならも、お別れの一言も言うことができないままに、終わってしまって。そして、おのお母さんのあの半狂乱の姿を見た時に、死というものがどれだけ残酷なものか、そして、誰かに対して親切にできるのは、その人が生きている間だけなのです。その人が亡くなってしまったら、後で、あのときごめんなさいと言っておいたら良かったのにとか、あの時、ありがとうと、なぜ一言言わなかったのだろうかと、どれだけ悔やんでも無駄なのです。今、生きている間だけが、その人と良い関係を結ぶことができるチャンスなのです。ですから、生きている限り、命のある限り、仲間を大事にしたいと考えたのだと思います。というのは、いつ死ぬのか分からないという現実と向き合って行った時に、何か生きているということが、当たり前のことではなくて、生かされているということに気がついたのだと思います』とこのようにおっしゃるのです。このエピソードに接する時、私たちはいつ終わりが来るか分からない、主イエスがいつ再び再臨されるか分からない、限られた時の中を歩んでいるのだということを思わされます。それ故、主イエスが再び来られるまでの、今この時を、主のみ言葉に従って、大切に生きることが問われているのだと思います。
■主イエスの不在の時を信仰に生きる
今日の主イエスが語られた「ムナ」のたとえでは、私たちは初臨と再臨の間の時代を、どのような心構えで生きるべきか、ということが教えられているということをお話しました。私たち、すべての者に等しく、預けられている1ムナ、これは何なのでしょうか。この1ムナというのは、主イエスの教えに従う信仰なのです。そして、その1ムナが私たちに預けられて、その1ムナを元手に商売するというのは、福音をお伝えする、あるいは、キリストを紹介する、あるいは、とりなしの祈りをする、あるいは、神の国の働きのために捧げ物をするということなのだと思います。もちろん、捧げ物というのは、経済状態によって、能力によって、いろいろと違ってくることと思います。しかし、捧げ物をすることが与えられているという意味では同じであると思います。福音を分かち合う、キリストを紹介する、祈りによって、取りなしをする、そして、捧げ物をする。こういった賜物は、すべての信者に与えられています。そして、この「ムナ」のたとえで語られているのは、持てる者には、より多くのものが預けられるということです。ですから、そのような賜物を認識して、用い始めると、1倍が2倍になり、2倍になると、より速やかに3倍になる、3倍になると、もっと速やかに、4倍、5倍、10倍になって行くのです。これが、キリスト者に等しく預けられている1ムナ、賜物なのです。私たちは、主イエスが再臨されるのを待っている、主イエスの初臨と再臨の間の時代を生きています。その間、わたしたちには、1ムナのみ言葉が、預けられています。布に包んでしまっておいて、それでおしまいという道もあります。でも、主イエスが預けて下さった、いのちのみ言葉です。主から預かった主イエスのみ言葉が、この働きをしました、主イエスのみ言葉が、この人を救いました、主イエスのみ言葉の通り、歩んだら、こんな恵みがありましたと、私たちは再臨の主イエスにご報告したいと思うのです。主イエスのみ言葉によって、私たちは勇気を頂きました、励まされました、救われましたと、私たちは再臨の主イエスにお話ししたいと思うのです。なぜなら、それらは、主が私たちに預けて下さった一ムナがなした働きなのですから。「ムナ」たとえの中で、主イエスが預言されたように、天に昇られた主イエスは、やがて帰って来られます。再臨の時が訪れるまでの時代、私たちは、主から預かった一ムナの信仰を携えて、生き、時に忍耐し、支え合い、励まし合い、祈りながら、歩んで行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。