■山に登る
おはようございます。さて、本日は大野寿子さんをお迎えして、礼拝を守っています。本日のメインスピーカーは、この後、奨励をされる大野寿子さんですので、私はその前に、短くメッセージをさせて頂きたいと思います。時間を節約するために、同じ聖書の箇所としました。しかし、この後、大野さんも同じ聖書の箇所でお話をされるわけで、話の切り口を変える必要があるかと考えました。おそらく、大野さんは、今を生きる私たちは、この聖書の箇所をどう読むかという観点でお話をされるかと思います。そこで、私の方は、主イエスが今日の聖書の箇所を話された時に、弟子たちはどう聞いたのかという観点で、お話をさせて頂きたいと思います。私のショートメッセージは、週報の大野さんの奨励の後に掲載しておりますので、聞き取りが少し難しいよという方は、どうぞ週報の3ページの末尾からをご覧ください。
さて、本日の聖書の箇所は、20節の後半ですが、文脈を追うためには、16節から見てゆく必要があります。まず、16節を見ますと、『さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。』とあります。弟子たちは、今日の聖書の箇所で、復活の主イエスに会っているわけですが、主イエスが人々の前に復活の姿を現した出来事の中で、今日の聖書の箇所が何回目になるのでしょうか。主イエスは、聖書の中で、10回、人々の前に姿を現しています。1回目が、マグダラのマリア(マルコによる福音書16章9〜11節)にです、そして、2回目が女たち(マタイによる福音書28章8〜10節)にです。3回目がエマオ途上の2人の弟子たち(ルカによる福音書24章13〜32節)にです。4回目はペトロ(ルカによる福音書24章34節)に、そして、5回目がトマスを除いた使徒たち(ヨハネによる福音書20章19〜25節)にです。ここまでが、日曜日です。そして、6回目がトマスを含めた使徒たち(ヨハネによる福音書20章26〜31節)に、7回目がガリラヤ湖畔で7人の弟子たち(ヨハネによる福音書21章)に、8回目が500人以上の信者たち(コリントの信徒への手紙一15章6節)にです。さらに、9回目がヤコブ(コリントの信徒への手紙一15章6節)に、最後10回目にオリーブ山で使徒たち(使徒言行録1章3〜12節)というように、10回主イエスは人々の前に姿を現しているのです。本日の聖書の箇所は、8回目の500人以上の信者たちへの現れで、マルコによる福音書16章15〜18節にも出てくる箇所です。500人以上という数字は、コリントの信徒への手紙一15章6節に、補完的情報として出てきています。
今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書21章に記されている、ガリラヤ湖畔で7人の弟子たちとの和解の食事の後の出来事です。マタイによる福音書には、和解の食事の話は出てきません。福音記者マタイは、いくつかの重要な出来事を省略しています。マタイは、主イエスが10人の弟子たちに現れたという話は省略しています。そして、マタイは、主イエスがトマスを含めた使徒たちに現れたという話も省略しています。それから、和解の食事があったことも、マタイは省略しています。しかし、マタイが省略していないことがあります。それが、16節のガリラヤに戻ったということは、記しているのです。ガリラヤに行って、主イエスに指示された山に、弟子たちは登ったのです。ガリラヤ地方は、主イエスを信じる信者が一番多い地方です。従って、主イエスの指示が、伝わったものと考えられます。従って、コリントの信徒への手紙一15章6節に、補完的情報として、500人以上という数字が出てきていますように、11人の弟子たちを含む、沢山の人たちがその山に事前に集まって来ていたと思います。ガリラヤで復活の主イエスが現れていますが、これが主イエスの現れのクライマックスになっているのです。ですから、大宣教命令というのが、福音書の締めくくりであり、クライマックスなのです。
本日の聖書の箇所の17節を見ますと、『そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。』とあります。『そして、イエスに会い、ひれ伏した。』とありますように、弟子たちは主イエスを礼拝したのです。弟子たちが、主イエスを神と認めて、礼拝しているのは、ここが最初です。11人の弟子たちにとっては、復活の主イエスが神様ご自身であると信じて、礼拝をしているのです。『しかし、疑う者もいた。』とあるように、ある者は疑ったのです。これは、弟子以外の者の中で、疑った人がいたということをマタイは伝えているのです。ここには、たくさんの人たちが集まっていて、初めて復活の主イエスを見た人たちがいて、その中には、当惑して、疑う人たちも出たということが、この場で起きていたということです。ここに、マタイが伝えている記録が、真実を伝えていることを見ることができると思います。
このような中で、主イエスが大宣教命令を語るのです。
■すべての民をわたしの弟子にしなさい。
さて、本日の聖書の箇所の18節には、『イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。』と記されています。主イエスは、驚くべき宣言をされていることが分かります。権能という言葉が用いられていますが、これは権威という言葉で、ギリシア語で、「エクスーシア」という言葉が用いられています。これは、正式に受けた権利や力のことを表す言葉です。主イエスには正式な権利や力が与えられたのです。復活の主イエスは、父なる神様から権威をお受けになったのです。そして、ここでの権威というのは、復活の主イエスが、復活したがゆえに、新しい意味を持った権威なのです。ここでの権威というのは、復活の主イエスは自分がすでに天に於いて、父なる神様の右に座している者として、語っています。ですから、父なる神様から与えられた権威というのは、天と地を支配する権威です。『天と地の一切の』という言葉が、そのことを示しています。ですから、この大宣教命令を受ける私たちには、天にある資源や力を自由に用いることができるという限界のない権威なのです。その権威を私たちは、主イエスから頂いて、そして、伝道して行くのです。この権威に基づいて、主イエスは弟子たちに大宣教命令を与えたのです。しかし、考えてみますと、主イエスのこの大宣教命令を受けた弟子たちというのは、人数はたかだか500名くらいしかいないのです。人数は少ないのです。お金もないのです。しっかりとした組織もないのです。何も持たない弟子たちに、この主イエスの大宣教命令は語られたのです。弟子たちは、何も持っていないのですが、すべてを持っているのです。それが、現実のものとなるのが、ペンテコステの日に、聖霊が降ったときに、本日の聖書の箇所で、主イエスが語られた言葉が、その通りになったのです。
本日の聖書の箇所の19〜20a節には、『だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』とあります。これが大宣教命令の内容となります。この大宣教命令には、『行って』、『洗礼を授け』、そして、『教えなさい』という3つの命令が含まれます。『行って』というのは、何か目的をもって、どこか一箇所を決めて行くのではなく、使徒たち、そして、初代教会のキリスト者たちは、迫害を受けて、散らされて行くのです。その散らされてゆくその過程に於いて、福音を伝えなさいということなのです。そして、その福音の内容が、パウロがコリント信徒の手紙一15章3〜4節にありますように、キリストが、わたしたちの罪のために死んだこと、墓に葬られたこと、そして、三日目に復活して、今も生きておられるというお方として、主イエス・キリストを信じなさいというメッセージを語るように、弟子たちは召されたのです。
2つ目の命令が、『洗礼を授け』ということです。主イエスは、弟子となる最初の過程として、『洗礼を授け』ということを命令しておられます。主イエスの命令ですから、私たちは弟子となる第1歩として、『洗礼』を大切にするのです。なぜ、大切にするのかと言いますと、『父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、』とありますが、神様は父と子と聖霊という、唯一であり、3つの位格を持っている三位一体の神様ですが、洗礼を受けるというのは、三位一体の神様と調和しているのです。ですから、洗礼というのは、神様は、私たちの天の父であり、主イエス・キリストは主であり、救い主であり、精霊は、内に住み、力を与え、教えて下さる助け主だということを行動で表しているのです。ですから、洗礼を受けるということは、とても大事なことなのです。
3つ目の命令が、『教えなさい』ということなのです。主イエスは、洗礼を受けるだけでは十分ではないのだと言うのです。何を教えるのかと言いますと、『あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』とありますように、神様の計画の全貌、特に主イエスの命令について教えさいと言っているのです。そうすることによって、主イエスは、弟子となって行くんだよと言っているのです。主イエスのこの命令のゴールは、キリスト者がみ言葉を理解し、自分で神様の御旨を判断でき、人格的に主イエスに似た人を育てるということです。
■わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
そして、本日の20節の後半には、『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』とありますが、これは大宣教命令に伴う主イエスの約束なのです。1人で戦うのではないと言うのです。いつも共にいて下さると言うのです。いつまででしょうか。世の終わりまでなのです。世の終わりというのは、いつのことかと言いますと、主イエス・キリストの再臨までという意味なのです。ですから、『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』という約束は、キリストの再臨の約束まで含んでいるのです。キリストは必ず来られる、その時まで一緒にいるからねと、主イエスは語られたのです。なぜ、主イエスは、このような約束をされたのでしょうか?それは、主イエスは、弟子たちが歩むことになる道が困難に満ちた歩みになることをよくご存知であったからだと思います。それにもかかわらず、『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』と主イエスが、弟子たちを励まされるのは、困難の中で、宣教を行ってゆくというのは、主イエスの公生涯の歩みそのものであった、その主イエスのように生きることに招かれているということだと思います。主イエスのように生きることに招かれているということは、主イエスに学び、主イエスと連帯して生きることに招かれていることだと思います。これが復活の主イエスが最後に弟子たちに与えた命令で、これを大宣教命令というのです。
私たちは、この主イエスの大宣教命令をどのように受け止めたら良いのでしょうか?主イエスの大宣教命令について、考える時に、私は1人の先生のことを思い出します。その先生は、私が神奈川県の川崎戸手伝道所に通っておりましたときに通った教会の牧師であり、青山学院大学の名誉教授である関田寛雄先生です。関田先生は、2022年12月14日に94歳でお亡くなりなられました。2022年9月に関田先生は東八幡キリスト教会で講演をされる予定であったのですが、足を骨折されて、中止になっておりました。先生の骨折が早く回復すように願って、ハーブ・ティーとお菓子を送りました。そのときに、私の奨励が載っている週報を、いくつか送付したのでした。
それは、2018年に先生が北九州市で講演された際に、お会いしたのですが、そのときに私の奨励が入っている週報をいくつかお渡ししたのです。後から、著書と共に、『語り続けなさい』という励ましのお手紙を頂いたのです。それで、関田先生の宿題である『語り続けなさい』という宿題を続けていますよという思いで私の奨励が載っている週報を、図々しくもまた、いくつか送付させて頂いたのでした。そうしましたら、また、お手紙と著書を送ってこられて、手紙の中で、次のように書かれていたのです。
『ここでお送りする本は、かつて川崎戸手教会の週報に連載したものなのですが、私の、無教会の友人が出版社も営んでいて、私にしつこく出させてくれと求められて、彼が出版してくれたものです。昨年、彼は召されました。91才でした。
この本の中に、貴兄の説教の「ネタ」になるか、「枕」になるか、わかりませんが、そのようなエピソードがありますので、利用して頂ければと思い、お送り致します』
と書かれていました。それで、私は関田先生に、お礼状を出すのに、先生の宿題の「アメリカ思い出の記」の単行本の中の物語を、私の奨励の中で、引用しましたよ、というつもりで、2回連続で、引用させて頂いたのでした。先生への宿題の提出は間に合いませんでしたが、主イエスの元で、再びお会いするときには、提出できなかった宿題をお渡ししたいと思っています。
関田先生のことを思い出す時に、私のようなあるかなきかのような小さな存在にも、このように励ましの手紙を送り、著書を送って下さる関田先生の姿に触れますときに、宣教とは、本当に何とかして、一人、二人を得ようとする営みだと思わざるを得ません。そして、関田先生は最後の最後まで、主イエスの大宣教命令に応えて生き抜かれたのだと思います。神様のご計画は、常にこの世の片隅の小さなところから始まることを思います時に、主イエスの大宣教命令は、特別な命令であり、祝福であるのだと思います。
それでは、お祈り致します。