小倉日明教会

『あなたに帰ってきて欲しかった』

マタイによる福音書 27章 1〜10節

2024年 2月11日 降誕節第7主日礼拝

マタイによる福音書 27章 1〜10節

『あなたに帰ってきて欲しかった』

【説教】 沖村 裕史 牧師

■裏切り

 総じて物事には裏と表とがあります。陰と陽と言ってもよいかと思います。この二つは対極にありながら実は、一つであることの方が多いように思えます。いえ、物事はこの二つの面があって初めて成り立つと言ってよいでしょう。何事も表だけではあまりにも明るく表面的で、深みが感じられないことになりますし、裏だけなら暗くて、陰惨で耐えられないでしょう。いわば社会にしても人間にしても、表と裏とがあって初めて、豊かさや深さを生み出していくと考えられます。

 とは言え、表と裏を比べてみれば、やはり圧倒的に表の方が評価されるのが現実です。それに比べると、裏は否定的な意味合いで用いられがちです。裏はどこか陰惨で、重苦しい匂いを持っています。裏金、裏道、裏方、裏社会、裏帳簿など、裏はマイナスのイメージを持っています。

 そうした否定的な意味をもつ言葉の中で、「裏切り」は最も陰湿で嫌われる言葉でしょう。「裏切り者」と罵倒されるだけで、社会的に抹殺される場合もありますし、それまでの人間関係がたちまちにして崩れてしまうことにもなりかねません。裏切りは決定的なダメージを与えると同時に、それまでの信頼関係を滅茶苦茶にしてしまう行為だからです。

 そして厄介なことに、誰もが裏切りへの衝動を心の底に秘めています。裏切りは、人間の心の奥深くに潜んでいる悪と言えるかもしれません。そのため、人がこの世界に創造されて以来、裏切りは最も大きな罪とされ、また数えきれぬほど繰り返されてきました。日本では昔から、「裏」は見えないところということから、「心」を指す言葉だったようです。そこから裏切りとは、相手の心を切る、という意味で使われたと言います。確かに裏切りは、信頼されていた相手の心を切り、深く傷つけるものですが、本当は誰よりも自分自身の心を深く傷つけることになるものです。それが裏切りのもっている悲惨さです。

■ユダという人

 確かに、ユダはイエスさまを裏切りました。しかしそのことは、他の弟子にとって驚きの出来事でした。ユダは一行の金入れを預かるほど信頼されていて、ヨハネ福音書によれば、他の弟子たちがユダの横領にようやく気づいたのは、本人が自殺した後のことでした(一二・四~六)。最後の晩餐でイエスさまが、弟子の一人が自分を裏切るだろうと言われたときにも、ユダが裏切ることになるとは誰も思いませんでした。むしろ、それは自分のことではないか、と誰もが心の中の暗闇を覗き込むような思いに畏れ、怯(ひる)まざるを得ませんでした。

 「そんな人は知らない」と言って、イエスさまを見捨てたペトロと同じく、ユダもイエスさまを裏切った弟子たちの中の一人に過ぎませんでした。ただ、裏切るついでに銀貨を手に入れようとするところは、いかにも意地汚いと思われないではありません。しかし、常々金を掠め取っていたザアカイという人もいましたし、聖書に登場する多くの人物の中で、とりわけユダだけが特別悪い人であったとは、とても言えません。

 しかもユダは、冷酷な悪人になり切れていないという点で、他の愛すべき人物たちにも共通しています。 あの十字架の上にイエスさまと一緒につけられ、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願った犯罪者のひとり(ルカ二三・四〇)のように、ユダもまた、最終的には悪に徹することができませんでした。彼はイエスさまを裏切りながらも、その後、そのことに深く傷つき、自らの罪に苦しみます。

 「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨二十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った」(二七・三~四)

 自分のやったことは間違っていたと気づき、悲しみます。ペトロ、パウロ、壺を持った女…。イエスさまに巡り会ったすべての人がそうであったように、ユダもまたイエスさまと出会い、自分の犯した罪の大きさに悲しみ、後悔をしました。それは、ペトロたちが味わった罪の意識と何の違いもなりません。

■裏切りの後に

 しかし、問題はこの後のことです。

 悲しみに暮れたユダは、奇妙な選択をしてしまいます。彼は何と、祭司長や長老たちのもとに帰ってしまったのです。彼らはユダの魂の深みを受けとめられるような者ではなかったのに、ユダは彼らのもとに行き、悔い改めの告白をしたのです。

 「しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」(同・四~五)

 ユダの悲劇、それはイエスさまを売り渡したこと、神の子を売り渡すという救い難い罪を犯したことではありませんでした。罪を犯した後で、間違った場所に帰ってしまったことです。悔い改めの言葉を誤った人たちに告白したことです。

 祭司長や長老たちもそのことを認めています。「ユダ、悔い改めの言葉をわたしたちのところに持ってきてどうするのか?お前の悲しみを、わたしたちにどうしろと言うのか?そんなこと、自分で考えたらどうだ。」この言葉を前に、ユダは行き詰まります。全力で投げた罪の告白のボールを誰も受けとめてはくれませんでした。いえ、逆に投げ返される始末でした。「それは、お前の問題だ、自分で考えろ」と。

 今、ユダに必要なことは、考えることではありません。ただ、告白を受けとめてもらうこと、赦してもらうことでした。崩れ落ちて、ほころびた自分を、抱きしめてもらうことでした。

 しかし、そんな人はこの地上に誰ひとりとしていません。…こうなってしまえば、死ぬしかない。それか、死んだように投げやりに生きるしかないでしょう。わたしなら、ただひたすらに荒れ、あたり散らし、すさんでしまうに違いありません。こんな状況で生きていて、一体何の望みが、何の喜びがあろうか、と。

■帰るべき場所

 それにしても、どうしてユダだけが後悔して、自殺をしてしまったのか。どうしてペトロやパウロは、自殺しなかったのでしょうか。

 最初はカッコよく「あなたにどこまでもついていく」と誓いながら、肝心な時には「あんな人は知らない」と言って逃げて行ったペトロです。もしも自分がそんなことをしてしまったら、自分のことがこの世で一番嫌いになるでしょう。そして、のた打ち回るほど後悔して、自殺してもおかしくないでしょう。パウロもまた、一体どれだけの主の弟子たち、クリスチャンを迫害し、死に追いやったことでしょうか。罪責感に押しつぶされそうにならなかったのでしょうか。ユダよりもパウロこそ、青ざめたまま首をつってもおかしくなかったはずです。

 しかし彼らは死にませんでした。いえ、それどころか、罪を犯しながらも希望と喜びに満たされました。

 どうしてなのでしょうか。

 彼らが少なくとも、「祭司長や長老たち」のもとには帰らなかったからです。そうです。彼らは帰るべき場所を、イエスさまに事前に教えてもらっていたようです。

 「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ一五・一八~二〇)

 ペトロやパウロは、イエスさまの放蕩息子の譬えに従って、「首を抱き、接吻」してくれる父のもとに帰りました。イエスさまが弟子たちに求めたのは、罪を犯さない人間になること、立派な人間になることではありませんでした。ただひとつ、正しい場所に帰ることでした。

 罪を犯し、もうダメだと自暴自棄になり、「銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死ぬ」、その直前に、こう思うことです。「父のもとに帰ろう!」と。イエスさまが死の淵に吸い寄せられるわたしたちに求められること、それはこのことだけでした。

 ペトロやパウロは、このことに誰よりも気づいていました。それは、彼らが確かに取り返しもつかない罪を犯したからです。しかし、それでも帰ることができました。天の父のもとに、情けない姿で、プライドを捨てて、恥ずかしい姿で帰りました。すると天の父は駆け寄って、彼らを抱きしめてくださいました。赦してくださったのです。そして、祝宴まで開いてくださったのです。彼らもまた一歩間違えば死んでいました。それなのに立ち帰ることで「生き返った」、まさにその証人でした。

■神はどんな方?

 では、同じく弟子のユダは、どうして帰れなかったのでしょうか。天の父のもとにではなく、どうして祭司長たちのところにしか帰れなかったのでしょうか。

 それは、彼の考える神が、罪人の帰りを待ちわびる神ではなかったからではないでしょうか。おそらく、彼の知る神は「立派であることを要求する神」だったのです。努力して立派になれ、立派になれない限り家に帰るな、と脅迫する神なのです。もしも、そんな神を信じていたら、罪を犯した後、恐ろしくて帰れるはずなどありません。厳しく裁くだけの神のもとに、誰が帰りたいでしょうか。そこでユダは、自分の後悔を一番分かってくれそうな祭司長たちの所へ帰りました。しかしそれは、既に申し上げたように失敗でした。

 一方、ペトロやパウロたちの信じる神は、「限りなく赦される神」でした。立派になれなかった自分を遠くから駆け寄り、抱きしめて、接吻する神でした。赦すことによってしかご自分を表現できない、愚かしい神でした。この神なら誰でも、わたしでも皆さんでも、帰れそうな気になるのではないでしょうか。おみやげなしで、何一つ持たない裸一貫で帰れそうです。たとえ、前よりもダメな人間になっていても、いえ、ダメな人間になった時にこそ、帰ってみたい、抱きしめてもらいたい、そんな神なのです。

 これまで、多くのものを盗み、傷つけ、裏切り、失敗を重ねてきました。ひとつひとつ思い出せば、「ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」と使徒言行録(一・一八~一九)にあるように、わたしもまた血を流すほどに卒倒してしまいほかありません。しかし今、この限りなく赦すイエス・キリストの父なる神を知る時、本当に帰る場所を知る時、とにかく今日は、帰ろうと思うことができます。このまま、トボトボ、少し寄り道をするかもしれませんが、それでも帰りたいと願います。

 ユダは特別な悪人なのでしょうか。いえ、彼は帰る場所を見失ったのです。「立派であることを要求する神」のもとに、恐ろしくて帰れなかったのです。そんな神しか知らなかったとは、ユダはどんなにか淋しく、苦しかったことでしょうか。 「神とはどんな方か」を問うこと、それは個人的な趣味の問題ではありません。神学者や牧師の知性を満足させるための研修会のテーマでもありません。それは、すべての人の生き死に関わる問題です。神を誤解したユダの死を通して、わたしたちもまた、神の愛と恵みの内へと導かれ、招かれています。その死もまた、決して無駄ではありません。どんなにみじめでダメな時も、いえ、ダメな時にこそ、共に手を携えて、天の父のもとに帰りたいものです。