【説 教】 牧師 沖村 裕史
■このわたしこそが
一一節、「わたしは良い羊飼いである」。
教会は、この言葉を昔からとても大切にしてきました。特にイエスさまの復活のお祝いをした後の二度目の主日、ちょうど今日のことを「良い羊飼いの日曜日」と呼び、礼拝を守り続けてきました。わたしたちも今日、この言葉に耳を傾け、ご一緒に福音の喜びへ導かれたいと願っています。
さて、皆さんよくご存知のこの言葉について、これは「わたしが羊飼いである」と訳すべきであると言われることがあります。それは、一つの単語で「わたしは何々である」という意味になるギリシア語エイミーに、エゴ―「わたしは」という言葉が、わざわざ重ねるように付け加えられているからです。よく言われる「エゴー・エイミー」です。それをそのままに訳せば、‟It is I that (I) am the good shepherd.”―「他でもないこのわたしが羊飼いである」となるでしょうか。
「わたしは」と「わたしが」とでは微妙に意味が異なります。たとえば、わたしは父であると言うのと、わたしが父であると言うのとでは、明らかにその意味が異なります。ただ単に、わたしも他の父親と同じ、一人の父親であるであると言うのではありません。ここにひとりの子どもがいて、この子の父は誰だろうとまわりを見廻したとき、そこにひとりの男が現れて、このわたしがその子の父なのだと名乗り出る、そんな感じです。それと同じように、イエスさまは今ここで、わたしが羊飼いである、わたしこそが、と名乗り出てくださるのです。
それも「良い羊飼い」です。この言葉も「わたしが本物の羊飼いである」と訳されることがあります。「良い」のギリシア語カロースは、他に「美しい」「手本となる」、そして「真の」という意味を持ちます。単に「良い羊飼い」というのではなく、「真の羊飼い」である、ということです。
ヨハネは、このわたしが世の光である、復活である、道である、真理である、いのちである、そして今、このわたしこそが羊の門である、羊飼いであると、ご自分がどのような者なのかということを、言葉を変え、言葉を重ねて宣言されるイエスさまを、とても印象深く書き記しています。
イエスさまはなぜ、それほどまでに強い口調で、宣言をなさるのでしょう。それは、偽の羊飼いがいるからです。まがい物の光があるからです。真実でない道があるからです。わたしが門だと言われたのも、間違えて入りかねない門が他にあるからです。その門でもない、あの門でもない、このわたし、このわたしこそ門、ここからお入りなさい。そう名乗りながら、招いていてくださっているのです。
「このわたしこそが」という言葉を重ねて、イエスさまご自身がその身を乗り出すようにして、世間の冷たさや憎しみや無情さに身を震わせうずくまる外ないわたしたちに、その温かな手を触れてくださり、わたしこそが本物の羊飼い、どうか目を惑わされないでこのわたしについて来なさい、そのようにわたしたちを招いていてくださっているのです。
■良い羊飼い
そして今、イエスさまはこう語り始められます。
「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」
この言葉を語られるとき、イエスさまが心の内に思い浮かべておられたのは、エゼキエル書三四章の言葉だったかもしれません。この言葉を語られるとき、イエスさまが心の内に思い浮かべておられたのは、エゼキエル書三四章の言葉だったかもしれません。残念ながら、今日はその言葉をご紹介する時間はありませんが、 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とのイエスさまの言葉が重なり響いてくるようです。エレミヤ書、イザヤ書、ミカ書など他の預言書にも、良い羊飼いと悪い羊飼いという言葉が何度も出てきますが、その中のひとつに「心にかなう牧者」という言葉があります。「わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える」。そんな「心にかなう」者、「神の御心にかなう」者として、今ここにイエスさまが登場されるのです。
最後の「これは、わたしが父から受けた掟である」という言葉は、そのことを意味しています。「掟」とは「権威、力、自由」といった意味合いを持つ言葉です。父の御心にかなう、父の御心に定められたこととして、わたしは権威、力、自由をもって、今ここにいる、ということです。
その権威と自由と力とは、何でしょうか。それは、羊飼いが羊に本当のいのちを与えることができるかどうか、ということに懸かっています。そうできるのが、このわたしだ、このわたしこそ、まことのいのちを与えることのできる者なのだ、イエスさまはそう宣言なさるのです。
■わたしのあとに
今から三五年以上前、広島県東部の福山という町にいるとき、市内のキリスト教会が教派を超えて合同でクリスマスコンサートを企画し、当時まだ知る人の少なかったレーナ・マリア・ヨハンソンというスウェーデン出身のゴスペル・シンガーを呼ぶことになりました。コンサートで、彼女はわたしたちの心を揺さぶるようなすばらしい歌を披露してくれました。両手がなく、両足の片一方が短いという重いしょうがいを負った女性です。コンサートの中で、彼女は自分のハンディキャップについても語ってくれました。そのときまで、わたしはその歌声を聴きながら、彼女のハンディキャップのことをすっかり忘れていました。実に自由で、そしてのびやかな歌声。レーナ・マリアという女性の人生が、その信仰がそのまま歌声となって、ここに響き出している。そのことに、心動かされていました。神の恵みをこんなふうに伝えることができるのか、と。
そう、わたしは彼女のハンディキャップを忘れていました。忘れながら、こうも思いました。この人はそのしょうがい、ハンディキャップがあるからこそ、こんなに自由になれたのではないか、と。
ハンディキャップという言葉を辞典で調べると、くじ引きで誰かが罰金を払わせられることから始まった言葉だ、と記されています。社会的な不利益を負わされる全てのことを指す言葉だったのでしょう。その人だけ損をする、ということです。しかしその意味が少し変わって、競馬やゴルフのときに、ほかの人よりもすぐれている人にハンディキャップを持たせるといった使い方をすることがあります。特別に不利な条件を与えて、ほかの人たちと条件を同じように整えるためです。それは、その人がすぐれているためです。言い換えると、ハンディキャップを与えられているということは、その人が、それを跳ね返す自由を持っている、それに打ち勝つ力があるということの証拠であり、またそのことを前提としています。なるほど、この人はそうなのだと思いました。
彼女は、静かにそして明るく、詩篇二三篇を繰り返し歌いました。さきほどご一緒に歌っていただいた讃美歌一二〇番です。「主はわたしの羊飼い、だからわたしに欠けているものは何もない」と、とてものびやかで、自由で、そして温かな歌声です。しょうがいを負いながらも、「わたしには欠けているものは何もない」と彼女が歌うとき、まさにその通りだ、アーメンとわたしは心の中で呟き、祈っていました。
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とは、まさにレーナ・マリアというひとりの女性を生かしていた言葉として、イエスさまのその言葉がここに語られている、そう思わずにはおれません。
特別に美しいというわけでもなく、どこにでもいるようなその女性が、立って歌い始めると輝き出してくる。暗闇に一本のろうそくが灯ると、それがわたしたちの目を奪うような、穏やかで温かな、しかし確かな光を放つようにして、この人がまるで違った人に見えてくる。輝いてくる。わたしは彼女の姿とその歌声を思い出しつつ、改めてイエスさまの言葉に思いをめぐらさざるを得ません。
わたしたちは、しばしば、ハンディキャップというものを意識し過ぎて、自分にはハンディキャップがある、能力がない、何に恵まれない、何が足りないと、ハンディキャップを数えることばかりが先になってしまっています。ハンディキャップの中で自由になれないでいます。しかし、その自由を得るのは、わたしたち自身の気力の問題というよりも、「わたしがあなたの羊飼い」と告げてくださるイエスさまの言葉を聞き取ることができるかどうかということに、すべてが懸かっているのではないでしょうか。
生きていくことの意味を見失ってしまったかのように見える人ばかりでなく、職場にあって疲れ果てているような人にとっても、家族のための愛の労苦で打ちひしがれたようになっている人にとっても、肉体の健康のための戦いで自分にはハンディキャップばかりだと思い込んでしまっている人にとっても、年老いて自分はもう立つこともできないと思っている人にとっても、同じように聞こえてくるイエスさまの言葉です。
わたしこそがあなたの良い羊飼い。なぜ、そこでひるんでいるのか。なぜ、うずくまっているのか。あなたに与えられたかけがえのないいのちを受けるために、わたしのあとについて来たらいい。イエスさまはそう言われるのです。
■いのちを捨てて、与える
そのようにしてわたしたちがイエスさまのあとについて行こうとするときに、もうひとつ聞こえてくる言葉があります。一一節から一五節、
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」
ここに「羊のために命を捨てる」という言葉が二度繰り返されています。
これは、決して言葉だけのことではありませんでした。当時、羊飼いと羊の群は屋外で一年の大半を過しました。羊たちは過越節の前の週に連れ出され、一一月の中ごろまで元の場所に戻ってくることはありません。冬は覆いの下で過しました。たくさんの羊の群を養うには、十分な世話と細心の注意が求められます。羊はときに一本の柱に尾を結ばれて迷い出ないようにされましたが、犬が連れ戻すことができないほど遠く行ってしまうこともありました。そんなときには、羊飼自らが出かけなければなりません。ハイエナやきつね、その他の野獣が近寄ってきました。獣と戦うことも珍しくはありませんでした。そのため羊飼いは、丈夫な鉄を巻いた棍棒と大きなナイフを持っていました。まさに「羊のために命を捨てる」とは神話ではありませんでした。それは、二千年前のパレスティナの現実でした。
荒っぽい生活でした。ラバンの羊飼いヤコブが「昼は暑さに、夜は寒さに悩まされた」とある通りです(創三一・四〇)。三月と四月、一〇月と一一月の高原の夜は、厚い毛皮の外套を着ていても寒さが厳しく、全く眠れないこともしばしば。そこで羊飼いたちが協力し合い、夕方になると異なる家畜群を一か所に集め、交替で番に立ち、残りの者は天幕の中でしばしの睡眠をとることもありました。羊の群の番を容易にするため、羊が跳びこすことのできない高さに石ころを積み、大きな羊の囲いも作りました。ある牧場には、ぶどう園に作られたと同じような塔があって、見張りをする人はその上から獣や人間の泥棒が接近してくるのを警戒します。朝になると、羊飼いは羊たちに水を与えるために、呼び出しの鋭い叫び声をあげました。そして羊たちは、福音書が語るように、決して羊飼いの声を間違えませんでした。ずっと生活を共にしてきた羊たちは、その名を呼べば近づいて来ました。
ある人がパレスティナ地方を旅して、レバノン山で羊飼いと出会い、どうして多くの羊を自分の羊として知るのかと尋ねた時に、こう答えたと言います。「あなたがわたしに布で目隠しをして、どの羊でもわたしのところへ連れて来てください。わたくしはその羊の顔に手を置くだけで、すぐにそれが自分の羊であるかないかを言うことができるでしょう」と。 羊飼いは羊を愛し、羊は羊飼いを慕いました。
そしてイエスさまも、自分のいのちを捨てる、わたしは羊のことを心にかけている、と言われます。いつもあなたたちのことを、あなたたちのいのちのことを心にかけている。だからわたしはあなたたちのためにいのちを捨てる。そうしてあなたたちにいのちを与える。そのためにこそ、わたしの権威、わたしの力、わたしの自由があるのだ。ここでイエスさまは、そうわたしたちに告げてくださっているのです。
今、わたしたちは復活を祝う季節を過ごしています。この復活節は教会の年中行事です。そしてわたしたちは、年中行事とは繰り返されるものだと思っています。しかし今年の復活節が二度来ることはありません。来年のイースターを確かに迎えることができるかどうか、誰にも保証できないからです。
しかしわたしたちにとって、それは悲しいことではありません。「わたしこそが良い羊飼い」と、イエスさまが身を乗り出すようにして声をかけてくださりながら、わたしたちに「いのち」をくださるからです。 そのとき、この年中行事は繰り返される行事ではなく、今、ただこのとき、全く新しい力をもって、わたしたちに恵みが与えられるときとなります。まさにかけがえのないときです。 「わたしが良い羊飼い」、イエスさまのこの言葉は、羊のように弱く、愚かで、迷い出ることの多いわたしたちにとっては、このわたしたちのいのちの中に深く食い込む言葉です。そのことを共にしっかり受け止めたい、と願います。そうするとき、わたしたちもまたレーナ・マリアと同じように、輝きに満ちた思いで生きることができるはずです。イエスさまの言葉は、その希望をわたしたちに告げ、与えてくださっているのですから。