小倉日明教会

『おいしいね!』

ルカによる福音書 9章 10〜17節

2022年3月13日 受難節第2主日礼拝

ルカによる福音書 9章 10〜17節

『おいしいね!』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

 

■おいしいね

 同じものを食べても、ひとりで食べるよりも、ほかのだれかといっしょに食べるほうがおいしく感じるのは、なぜでしょう。ひとりで食べたらごく普通のおにぎり一個でも、愉快な仲間たちと山登りして見晴らしのいい山頂で食べれば、生涯の思い出になるほどの格別の味わいとなります。

 久しぶりに家族全員そろって、おうちで晩ごはん。みんなで食卓を囲み、「いただきます」をしてから、まずはお母さんお得意のお味噌汁を一口飲む。おだしは煮干しとかつおぶし。子どもが「ああ、おいしい」と言うと、お父さんもにっこりして「うん、おいしいね」と言う。

 大好きな人と、念願かなって初めてのデート。おしゃれなお店でちょっと緊張しながら、まずはシャンパンで乾杯する。本場シャンパーニュ地方の辛口タイプ。透き通る金の泡に心躍らせながら一口飲み、思わず「ああ、おいしい」と言うと、相手もほほえんで「うん、おいしいね」と言う。

 そうなのです。「おいしいね」と言えば、「おいしいね」と返ってくることが、人にとって何よりの喜びなのです。大切な人と同じ感覚。大好きな人と同じ感動。それが人と人を結び、さらなる喜びを求めて、人は人といっそう結ばれ合おうとします。神様が人に味覚の喜びを与え、その味覚を満たす豊かな食材を与えてくださったのは、単に生命維持のためだけではなく、味覚の喜びによって、人と人を結ぶためなのかもしれません。

 だれかのために手間暇かけて野菜を育て、それを真心込めて調理し、同じ食卓で分け合って食べる。あるいは、そんな食事のために苦労して働き、忍耐して糧を得て、わが家族を養う。

 人はそんな素朴で単純なことを何よりも喜びとするようにつくられているので、いつも「おいしいね」と言える相手を求めてやまないのです。それなのに、せっかく出会えて「おいしいね」と言い合えたかけがえのない人を、みんな、いとも簡単に手放してしまいます。それ以上においしいものなんて、どこにもないのに、です。

 子どもや若者たちに、一人で食べる「孤食」が増えているのは、実は忙しいからでも便利だからでもなく、面倒でもいっしょに食べるとこんなにうれしいのだ、という体験が不足しているからです。そんな体験を重ねていけば、だれだってどんなに忙しくても、それをいつも味わいたいと工夫し始めることでしょう。最近はコンビニの弁当もますますおいしくなっていますが、おいしくなればなるほど、ひとりで食べる寂しさもますます募っていきます。こんなにおいしいものを、ひとりで食べなければならないなんて、なんてもったいないことでしょうか。ひとりで座る牛丼屋。どんなにおいしくても、見知らぬ隣の人に「おいしいですね」と声をかければ、間違いなく警戒されるでしょう。なんて悲しいわたしたちの現実でしょうか。おいしいと言える相手のいない生活は、おいしくても、おいしくありません。

 どんなときでも、たとえば、さまざまな悩みを抱えて行き詰まったときでも、事態を好転させる最もよい方法は、だれでもいいから、どんなものでもいいから、分かち合って食べることです。特に悩みを聞いてもらったりしなくても、もうひとりのだれかと「おいしいね」と言い合うだけで、新鮮で栄養たっぷりの、天然の元気が生まれてきます。

 そして誰よりも、イエスさまと一緒に、イエスさまの愛の中で、互いに分かち合って食べることほど、すばらしいことはありません。今日のみ言葉は、そんなすてきな体験をした人たちのお話です。

■愛が溢れる

 「漁師の家」を意味するベトサイダという小さな漁村に身を退いておられたイエスさまのところに、五千人もの人々が集まって来ました。

 イエスさまは人々の求めに応じて、神の国が近づいた、救いが今ここに現実のものとなりつつあると希望の福音を語り、病によって苦しむ人々を癒されました。彼らは、イエスさまが語る神の国の言葉とイエスさまが与えてくださる癒しの業にすがるほか、何の希望も何の喜びも見出すことのできない人々でした。その姿は、荒野をさまよう迷える羊の群れそのものです。

 「飼い主のいない羊」とは死を意味します。だから、飼い主のいない羊は命がけで飼い主を探し求めます。イエスさまを追いかけて、追いかけて、どこまでも追いかけていきます。汗まみれで埃まみれで必死に追いかける姿。ともかく絶対イエスを見失うまいとする人々の姿が目に浮かびます。

 そんな必死の姿を見て、イエスさまは驚くほどの愛を示してくださいました。イエスさまは、人々と共に食事をしてくださって、すべての人が満ち足りるほどの深い憐れみ、尽きることのない愛を示されました。イエスさまの愛で心が満たされます。イエスさまの、神様の深い憐れみがあれば、どんな心配な時でも大丈夫、そう思えたからです。

 わたしでさえ、相手の弱さ、足りなさに触れると、ほっとけない気持ちになります。何とも言えないあったかい気持ち。立派な強い人に会っても決して出てこない憐れみ。弱さとか足りなさこそが、あったかいものをいっぱい引き出すのかもしれません。

 行き詰まっている人、病気の人、小さな子どもたちは、自分が弱いことを知っていますから、すなおに「助けて!」と言って飼い主を追いかけますが、大人になればなるほど、何事もうまくいっている、成功をしている、満ち足りていると思っている人は、自分で何とかしようとします。しかし、自分でがんばっていると、どこからも「愛」は出てきません。愛は引き出さなければなりません。素直に助けを求め、神様の愛を引き出さなければなりません。神様の愛こそ、この世で最も価値のあるものだからです。

 寝たきりになってしまって会話もできない方をお訪ねする時は、できるだけ讃美歌を歌うことにしています。歌は脳の深い所にまで届きます。それで、耳元で大きな声で歌いました。気がつくと、その方の目のふちからツーッと涙がこぼれました。それを見たら胸がつまって、歌う声もつまります。その時の気持ちは、かわいそうとかそういう感じではまったくありません。まさに「深い憐れみ」「愛」ってこんな感じか、という溢れる思いです。目の前のこの人が今までどんな人生を生き、今どんな思いでここにおられるのか。何を願い、どんな魂の叫びを持っておられるのか。そして今、どんな気持ちでこの歌を聞いておられるのか。この人にもっと深く触れたい。この人の本当の幸せを心から願います。いとおしくて、ほっとけないのです。

 こんなわたしからでも、憐れみ、愛の心が出てくるのですから、人間であれば誰もがそうなのですから、まして天の父は、わたしたちとはくらべものにならない、想像もつかないほどの愛を持ってくださるはずです。それも、弱ければ弱いほど、愛も増すはずです。

■神様の無尽蔵

 ところが、無力で、哀れな羊たちの群れを見た弟子たちの態度は、イエスさまとはずいぶん異なるものでした。弟子たちは、集まってきていた人々を憐れむのでなく、とても人間的な心配、思い煩いに囚われていました。

 弟子たちの考えは至極当然のものです。弟子たちも一生懸命です。「五千人が人里離れたところで、何も食べずに過ごしている。中には病人もいる、小さな子どもを抱いた母親もいる、お年寄りもいる。放っておいたらみんな倒れてしまう、飢え死にしてしまうだろう」。だから解散させましょう、そうすれば、自分で食べ物を買いにいくでしょうとは、最近はやりのことばで言うなら「自己責任」です。これは弟子たちの考えというか、わたしたちの考え、ある意味、当然の発想です。

 しかしイエスさまは言われます。「解散させるなんてとんでもない、あなたたちが食べ物をあげなさい」。突拍子もない話です。五千人にあなたたちが食べさせろと言われるのです。「でも、ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と言うと、イエスさまは「それでいい。それを持っていきなさい。それをあなたたちが配りなさい」。

 これは、人の耳には不思議に聞こえるかもしれませんが、神の国、神様の世界では当たり前のことです。現にこの地球は、互いが互いのいのちを差し出すことで、何億年もすべてのいのちを育んできました。本来、神様の愛は、恵みは尽きることがない、無尽蔵のはずです。ところが、わたしたちがもうダメだ、限界だと人間の考えで恐れたとき、その神様の無尽蔵が閉ざされてしまいます。イエスさまのみもとで愛の言葉を聞いて、みんながひとつになって「おいしい」と言い合う、そんな喜びの集いを解散させるなんてとんでもない。天の父が集めた仲間を天の父が養ってくださるのは当然のこと。さあ、みんな一緒に食べようとイエスさまがパンと魚を手にするときこそ、無尽蔵の蔵の扉が開くときです。事実、弟子たちがイエスさまの言う通りにすると、全員が食べて満腹しました。

■信じる者の奇跡

 注目いただきたいことは、イエスさまはこの奇跡を、弟子たちの持っているものを用いて、また弟子たちの手を通して行なってくださったということです。彼らが持っているものなど、何の役にも立たない、無に等しいものでしたが、イエスさまが用いてくださることによって、それらは、イエスさまが多くの人々を養い、育んでくださる恵みの食事の材料となりました。そんな力を自分が持っているということに皆さんはお気づきでしょうか。信じる者は奇跡を起こします。

 キリスト教保育所同盟の中国地区の理事をしておりました時、岡山の博愛会という教会をお訪ねしたことがあります。教会の裏庭に案内されました。「これが祈りの場です」。そう紹介された場所に立ちました。そこは実は教会の裏庭ではなく、隣のお寺の庭でした。

 この祈りの場は、その昔、岡山孤児院を創設し、後に「日本の社会福祉の父」と呼ばれることになる、石井十次が祈った場所でした。石井十次は関東大震災の後、五千六百人の子どもを施設に収容しました。五千六百人もの子どもです。養うのに米がない。もう今晩喰うものがない。もう祈るしかない。そういう時に、石井十次はそのお寺の庭に行って、そこへひざまずいて祈ったのだそうです。彼が何度も来ては祈るため、そこへ草が生える暇もなく、彼の膝小僧の所だけ芝がどうしても生えないで、そこが祈りの場として残っているのでした。

 その祈りゆえでしょうか。そういう危機にありながら、その都度一回分だけどこからか食物が与えられて、その危機を克服していったと言います。

 今から考えれば、そんな無茶な社会事業はありません。今そんなことをしたら大変な非難を浴びることでしょう。石井十次の社会事業は、明日にでもだめになるような無茶な社会事業でした。それこそ、ただ神様が与えてくださるだけというものでしたが、彼は何もしないでただ祈っていたというのではありません。彼は彼なりに努力をしました。たとえば全国の駅に、岡山孤児院のために献金箱を置かしてもらってお金を集めたり、子どもたちの中の音楽に長けた者に音楽を教えて、ブラスバンドを作って、あちこちで公演をしたりしてお金をかせいだりしました。後に、大原総一郎という有力な後援者を得て、その事業が安定するようになるのですが、そこに至るまでの彼のやり方はただ祈るだけで、彼は不可能なこと、できるはずがないことを知っていました。

 しかしできるはずはないのだけれど、それをなさるのは神様だというのが彼の信仰でした。無茶といえば無茶です。しかしその姿を見ていた人々の心が動かされました。大原総一郎を動かしたのも、そのような彼の祈り、信仰であったのではないでしょうか。

 ちょっと普通の人とは違う人の話のようですが、わたしたちも神様からの愛をいただいていますから、それを信じるなら、もはや普通の人ではありません。無限の働きができる、そんな愛を、もうわたしたちは与えられています。そして何よりも、この世で最も神様の業を、神の子である自らの力を信じて、どこまでも人間の可能性を開いたのが、神の御子イエス・キリストでした。

 教会は、そんなイエスさまと出会うことのできる場所です。この世的に言えば「もう無理」「ここまで」だけれど、神の国はその先にあるのです。そんな神の国に憧れて、わたしたちは教会に集まっています。あきらめずに無限の力を信じ、無限の力に触れ、そこから惜しみなくいただき、互いに分かち合って、「おいしいね!」と言うために、わたしたちはここに集められています。

 それこそ、「すべての人が食べて満腹した」という短い言葉に表されている、真の希望、驚くべき福音でした。感謝です。