小倉日明教会

『こころの中にあるもの』

ヨハネによる福音書 2章 13〜25節

2022年10月9日 聖霊降臨節第19主日礼拝

ヨハネによる福音書 2章 13〜25節

『こころの中にあるもの』

【説教】 沖村 裕史 牧師

■マイナスの感情

 日浦直美先生という幼児教育の研究者がおられます。関西学院大学の名誉教授で、カトリック信者でもある先生と、とても親しくさせていただいていました。その日浦先生に、「こどもたちは親に何を望んでいるのか」というテーマで、こんなお話をしていただいたことがあります。

 こどもたちが望んでいる第一のことは、まず何よりも「こころの居場所」です。安心したい、甘えたいという思いが満たされる場所のことです。二つ目は、「これでいいの?」という問いに対する答えです。こどもたちは「あるがままの自分を認めて欲しい」と願っています。三番目に、こどもたちは「僕は、わたしは素敵だよ」と言われたいと思っています。とにかく誉めて欲しいのです。

 そして最後、こどもたちは何よりも、自分の中にある「いろいろな思い」に共感して欲しいと願っています。自分の中にある様々な感情―喜びたい、楽しみたい、笑いたいといった感情ばかりでなく、泣きたい、悲しい、怒りたい、すねてみたい、がっかりするといった、どちらかというとマイナスに考えられる、そんな感情を出すことはよくないことだと押さえ込まれてしまいがちな感情を、こどもたちはそのままに表したいのです。そんな感情を表に出し、そんな思いに共感してもらうことで、こどもたちの心は癒されます。癒されることで、同じような感情を持つ相手の気持ちに敏感になり、そんな感情を受け止め、本当の意味で他者(ひと)を受け入れることができるようになるのです。

 そんなお話しでした。いかがでしょう。自分の中にある怒り、悲しみ、失望、諦め、蔑みといった、どちらかというと人に見られたくないし、見せたくもないマイナスの感情を、わたしたちはしばしば押し殺そうとします。しかしそうした感情を否定し、押し殺してしまうことは、実は、たいへん不自然なことです。こどもたちだけでなく、わたしたちの中にもある、そうしたマイナスの感情をそのままに認め、また、受け入れられることで初めて、わたしたちはそうした感情とうまくつきあうことが、上手にコントロールすることができるようになります。ところが親はいつもこう言います、泣いちゃ駄目、怒っちゃ駄目、諦めちゃ駄目、すねちゃ駄目、甘えちゃ駄目…。そうすると、こどもたちは親に認められたくて、褒められたくて、そうした感情を押さえ込み続け、おとなの前で「いい子」だけを演じるようになります。

 そういうことが続くと、次第に、自分の心の中にある本当のものと、親や先生の前で演じている自分の振る舞いとの間に深い溝ができ、ある種、自己分裂を引き起こすことになります。虚像、つまり偽りの自分を演じ続けることによって、満たされない思いと過度な自己否定に支配されるようになります。そしてある日突然、その過度な緊張の糸が切れてしまい、人との関係を壊し、人や自分を傷つけても、何の後ろめたさも痛みも感じなくなってしまいます。

 怒りや悲しみ、不安や挫折感といった感情は、わたしたちの誰もが抱く、ごく自然な感情です。そうした感情を表現することは、決して悪いことでも何でもありません。ただ、そうした感情の表現の仕方がわからず、トラブルとなることがあります。そんな感情とうまく付き合うことが大切で、誰かに共感してもらうことで、わたしたちは癒されます。そうした癒しの体験を通して、わたしたちは他者(ひと)のマイナスの感情を受け止めることができるようになります。

■問いかけ

 そして今、イエスさまが、怒りを露わにされます。

 過越の祭りが近づくエルサレムの雑踏の中、神殿の庭で牛や羊や鳩を売る人や両替する人が座り込んで、神殿に詣でる人たちを相手に商売をしているのをご覧になったイエスさまは 、縄で鞭(むち)を作り、羊も牛もみな神殿の庭から追い出し、両替の金をまき散らし、その台をひっくり返してしまわれます。怒りが、その面(おもて)にまで表れ出ていたのではないか、と思われるほどの激しさです。

 激しく怒るイエスさま。これは、わたしたちが考え、イメージするイエスさまの姿とは、あまりにもかけ離れたもので、とてもショッキングで、異様です。しかしこの異様さこそが、わたしたちへの厳しい「問いかけ」となっているのです。わたしたちおとなにとって都合の良い「いい子」になって欲しいと願い、こどもたちに「いい子」のイメージを押し付け、こどもたちのあるがままの思いを否定してしまいがちなように、わたしたちはイエスさまを、わたしたちにとって都合の良いイメージの枠の中に、自分勝手に限定してしまってはいないでしょうか。

 イエスさまとは一体どのような方なのか。イエスさまはそのことを通してわたしたちに何を教えようとされているのか。イエスさまの怒りは、イエスさまのみ言葉とみ業の真実を見失うことなく、イエスさまの真の姿を求め続けるようにという、わたしたちへの問いかけなのです。

 そもそもイエスさまがこれほど激しい怒りを表されたのは、なぜなのでしょう。イエスさまはその理由をはっきりと語っておられます。一六節です。

 「神殿はわたしの父なる神の住むところ、わたしの父が父として尊ばれるところ。ところがその場所で、あなたたちは、神に賛美を捧げ、神に祈りを捧げているように見えて、実は、神の名を借り、自分たちの欲望を満たしている」

 イエスさまは、しがない商売でその日暮らしをしていた貧しい商売人たちや、宗教的な権利を利用して神殿の庭を彼らに貸すことによって自分たちの私腹を肥やしていた祭司たちに対してだけ、その怒りを向けられておられるのではありません。イエスさまの怒りは、神殿に犠牲を捧げ、献金をすることで、自分の安全と保障、自分の願いと幸せだけを神様に求めている「すべての人々」に向けられています。それはとりもなおさず、わたしたちへの問いかけでもあります。

 自分の安全や保障、自分の願いや幸せの実現を求めることがいけないというのではありません。そう願うことは当然のことですし、わたしたちが生きる上で必要な欲求でさえあります。しかしそのことが、すべてに優先する第一のものになるとき、わたしたちは大きな罪に陥ることになります。自分の満足を保証し、どんな求めにも答えてくださり、死んでも安全を保証してくださる「そんな神様だけ」を探し求めることになります。そしてそこで、仮にわたしたちが躓(つまづ)くような出来事でも起これば、すぐに不満や恨みを抱き、不信や争いが生まれることになります。イエスさまの怒りは、人間同士の付き合いの中でもしばしば経験する、そんな自己中心のエゴイズム、信仰、生き方に向けられています。

■信頼

 続けて、さらに厳しい言葉が投げかけられます。二三節以下です。

 「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」

 イエスさまの名を信じ、イエスさまこそ救い主と信頼したのに、「イエスさまは彼らを信頼しなかった」とあります。ずしっとくる重い言葉です。

 神殿にイエスさまと一緒にいた人たちが、このときすでにイエスさまに殺意を抱き、やがて十字架につけて殺すことになるからだ、そう読んでしまいそうです。しかし、そのすぐ後に「それはすべての人のことを知っておられた」から、「何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」からだ、とヨハネは記します。すべての人間の心の中にあるものが何かを知っておられたから信用されなかった、そう言います。

 信用とか信頼は、人と人の間にあって何よりも大切なものです。人と人とが共に生きていくときの土台、中心となるのは「信頼」です。互いに信頼できなくなった夫婦は、一緒に生きていくことができなくなります。反対に、たとえどんなことがあっても信頼さえあれば、夫婦はいつまでも一緒に生きていけます。友情も同じです。互いを信頼できなくなったときほど、つらい思いをすることはありません。信頼があってこそ、共に生きることができるのです。

 しかしまた、その信頼なるものが、どれほど脆(もろ)く、頼りないものであることでしょうか。わたしたちはよく、わたしはあなたを信頼しているのに、あなたはわたしを少しも信頼しないと腹を立てることがあります。自分が信頼に足る人間であるかどうか、本当は、実に心もとない筈なのに、そのことをすっかり忘れてしまっています。いえ、そのことを見ようとも、認めようともしません。

 ちょうどそれと同じです。わたしたちはいつも、神様は信じることができるか、できないかということだけを問題にします。しかし聖書が問うていることは、その逆です。人間が神様に信用されるかどうかです。今ここでも、イエスさまが来られ、人間の「こころの内にあるもの」を信頼に値しないと見抜かれたのは、父なる神を神とし、父として仰ぐべき場所―神の家にあってなお、自分の目に見えるもの、自分の手にとることのできるもの、自分の利益、欲望、満足ばかりを求めているからです。感謝を口にしながら、愛の神様に心から仕え、奉仕し、その愛と恵みに応えようとしないからです。

■神の愛

 そういう信頼に値しないわたしたちが、それでもなお、神様から信頼を失ったままで滅びに至らないで立ち直れるとすれば、それはなぜか。神様がその独り子をわたしたちに与えてくださり、そのみ言葉とみ業を通してわたしたちに救いの道を示してくださっているからです。ヨハネは「イエスは人間を信頼できなかった」と書き記したこの後すぐに、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(三・一六)と書くことができました。

 神様は信用できない世を愛し抜かれるのです。

 「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書きながら、ヨハネはどんなに明るい光の中に立って、心からの感謝に包まれたことでしょう。わたしたちもまた、そこに立つことしかできないのではないでしょうか。

 一人の少年の記憶です。ある日の夕方、北側の窓から見える黒雲の動き方があまりにも速いことに気づきました。百メートルほど先に見える家からモクモクと煙が沸き起こり、我が家に向かって大波のように押し寄せきます。火事でした。一家総出で、それぞれの「大事なもの選び」が始まりました。わたしはガラクタのおもちゃを両手に持って、南側の玄関から庭向の倉庫ヘと移ります。遅れて母親も両手に「大事な」荷物を抱えて出てきました。

 しかし、その頃一緒に暮らしていた小学六年生の叔父がいつまでたっても出てきません。彼は北に面した小さな庭の、それも火の手に近い鳥小屋にいました。彼は大事に育てていた伝書鳩を救うため、一羽一羽を鳥かごに移そうと格闘していました。火を怖がって暴れ回っていたであろう伝書鳩を、捕まえるのにてこずっているようでした。夕闇、煙、臭気、家族の大声が叔父を中心に渦巻きます。それなのに彼は黙って、鳩を捕まえ続けました。やがて火事はおさまりました。煙はひどかったのですが、幸い、我が家まで火の手は届きませんでした。庭向の倉庫には、家族と一緒に鳥かごを抱えた叔父の姿がありました。

 そのときの叔父の姿が教えてくれています。動物を飼うとはどういうことか。「飼い主」とは何者かということを。当時のわたしにとって、叔父はいつもけんかばかりし、いじめられているばかりの憎らしい相手でした。でも、そんな彼でさえ、こどもなりに鳩を助けようとしました。身の危険をかえりみず煙の中に向かいました。大げさな言い方かもしれませんが、彼は確かに、鳩のためにいのちを捨てることすら厭わなかったのです。

 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編二三・一)。聖書は、人間を羊、そして神様を羊飼いにたとえます。神様はわたしたちの飼い主、と素朴に表現します。不完全な人間でさえ、叔父でさえ、鳩のためにいのちを捨てようとした。飼い主であるとは、そういうことでした。

 わたしたちが火事に襲われそうになったら、そして死にそうになったら…それを、ここでイエスさまは「神殿が壊れる」と言われていますが、イエスさまはどうしてくださるのか。わたしたちが到底立ち直ることもできないと絶望してしまうそのときにこそ、「三日で建て直してみせる」と言ってくださるのです。だから、わたしたちはもう火事がきても、神殿が壊れても恐れません。イエスさまが飼い主だから、イエスさまがわたしたちを必ず建て直してくださるからです。イエスさまは煙で真っ黒になって、わたしたちを救い出してくださるでしょう。一人のこどもでさえ、それをしたのです…イエスさまにできないはずはありません。 その愛の中に立って、このイエスさまの厳しいみ言葉を、痛みと苦しみをもって、いつも聞き続ける耳を持ち続けたいと願います。この「神の愛の告白」とでも言っていいようなイエスさまの言葉を、深い信頼をもって、それこそ、わたしたちになしうる限りの全存在を賭けた信頼をもって受け入れ、その愛に応え、心からの奉仕を献げたいと願います。その時、わたしたちは、滅びではなく、希望と永遠のいのちに生きることが、そこに立ち続けることができるのでしょう。