小倉日明教会

『この希望を抱いています』

使徒言行録 24章 10〜21節

2025年3月9日 受難節第1主日礼拝

使徒言行録 24章 10〜21節

『この希望を抱いています』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■すべての人間の復活が希望

 法廷に一人立たされたパウロは、大祭司アナニアの代理人であるテルティロによって挙げられた三つの罪状の一つひとつに、毅然として反論を加えています。そして一四節、パウロは証拠も証人もいらない、「ここで、はっきり申し上げます」と宣言し、さらに一六節「神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」と告白します。

 良心的な告白で十分だ、というわけです。そのように、パウロが良心に基づいて告白することができたのは、なぜか。それが一五節、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」を抱いていたからだ、と言います。

 しかし、この「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」というのは、少しばかり可笑しな、奇妙な言い方です。

 普通、「復活するという希望」と言えば、ミケランジェロの「最後の審判」にも描かれているように、義人—正しい人が復活して神の国を継ぐ、という救いの希望のことを表わしています。逆に、悪人が復活するのは裁かれて滅ぼされるためですから、それを「希望」と言うのは可笑しなことです。ところが今、パウロは「正しい者も正しくない者も」、すべての人間の復活を「希望」と呼んでいます。

 一体、どういうことなのでしょうか。

 そもそも、パウロが語る「死者の復活という希望」とは、具体的には、何を意味するのでしょうか。

■快さの最も大きなものこそ、希望

 以前、人気漫画や視聴率の高いテレビアニメを研究した人の話を聞いたことがあります。それによると、人々に愛される物語には、必ず二つの理由があるのだそうです。第一は「主人公の生き方に共感できること」、第二は「物語の展開に快(こころよ)さを感じること」だ、と言います。

 たとえば、ドラえもんは、4次元ポケットから次々と不思議な機械を取り出してきて、問題を解決してくれます、そういう万能性や取り出す機械の意外性がとても面白いのです。のび太くんはそれに甘えて、ずるいことばかりをします。しかし、最後はいつも通りに失敗し、ドラえもんに助けを求めます。そこで読者は、「やっぱりな」と納得するのです。そういう物語の展開が「快い」、と言うのです。

 少し前まで、午後、病院にお見舞いに行きますと、たくさんのお年寄りがテレビの前に集まって、『暴れん坊将軍』や『水戸黄門』を観ておられました。この手の話は結論が決まっていて、最後に悪い人たちが懲()らしめられて、苦労させられてきた人たちが報われるというものです。いつも同じ筋書きなのに、人気があります。いいえ、同じ筋書きだからこそ、人気があるのでしょう。見ていて、安心できます。この話どうなるのかと心配して終わると、入院中の体には堪(こた)えます。何より、苦労していた人が報われるというストーリーは、病気と闘っている自分もいつか報われる、という希望につながっていきます。

 快さの最も大きなものこそ、「希望」であると申し上げてよいのかも知れません。

 病院に限ったことではありません。すべての人気ドラマや物語には、物語の展開や結論に、共感できる、心地よいものがあります。聖書もまた世界のベストセラーと言われていますが、イエス・キリストの物語にも快い展開があります。人々に苦しめられ、十字架につけられて殺されてしまいますが、神は三日目にはそのイエスさまを復活させて、真の勝利を与えられます。報われなかったように見えるご生涯でしたが、イエスさまの愛の人生こそが、人々を救う真の力であった、と語りかけます。聖書は、暴力でも権力でも財力でもない、愛が人を救った、その十字架こそ希望である、と宣言して終わります。

 そんなふうに読んでしまうと、聖書のありがたみが減るような気もしますが、逆を言えば、多くの物語作家が実は、聖書の秘密に気がついて真似しているのだ、と考えることもできそうです。

■悔い改め―良心による希望

 これを聖書研究に当てはめ、最初に書かれたマルコによる福音書と、続いて書かれたマタイによる福音書、ルカによる福音書を比較してみると、面白いことに気づかされます。マルコの一〇章四五節に、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」というイエスさまの言葉が記されています。マタイにもあります。ところが、ルカにはありません。なぜなのでしょうか。

 ルカによる福音書の特徴の一つは、何と言っても「悔い改め」です。もちろん、他の福音書にも「悔い改め」という言葉はあります。でも、ルカに一番多くこの言葉が出てきます。イエス・キリストの十字架の身代わりの死という偉大な出来事を強調しすぎるあまり、救われたのだから何でもありになって、悔い改めて、罪赦され、新しく生き直すことの大切さが見過ごしされてしまうことに、ルカは「快さ」を感じなかった、むしろ、危うさを感じたのかもしれません。

 村井実さんという教育学者が、「人は誰でも快さを求めているのではなく、善()さを求めているという考えに立つと、教育が変わってくる」と、言っています。「快さ」を求めていると考えるから、「少し目を離すとサボる」と考えてしまいますが、善悪の善、「善さ」を求めていると考えると、「慎重にやろうとしている」と、同じように座り込んでいるのを見ても、受け止め方が違ってきます(村井実『ありの本 若い教師への訴え』あすなろ書房)。

 マルコに記されているイエスさまの言葉を、ルカが外した時も、単に「快さ」を感じなかったからではなく、ルカの時代が、より「善く」イエスさまに従おうとするときに「悔い改め」ということが最も大切な問題であった、そんな時代だったのかもしれません。

 今日お読みいただいた使徒言行録を書いたのも、他ならぬルカです。ルカは、パウロの言葉から「悔い改める心」、つまり「良心」による「希望」を読み取っていたのではないでしょうか。

■神の裁き

 「来るべき裁き」についての信仰は、パウロの言うように、人間の「良心」と深いかかわりがあります。

 「良心」というと、何か、人の心の中に良い部分が残っていて、その良い心の善悪の感覚が、悪事を働いた人の心をちくりと刺すのだ、といった誤解を与えるかもしれません。しかし実は、神のみ前にあっては、わたしたち人間に良い心と呼べるものなどひとかけらも残っていません。

 そもそも「良心」と訳されるギリシア語、また英語は、もともとは「共に知ること」を意味する言葉です。

 ダビデが主君サウルの迫害の手を逃れて、ほら穴に隠れていた時、追ってきたサウル王が疲れ、穴の奥にダビデがいるとも知らず、寝入ってしまったことがあります。それを見たダビデの部下たちは、今こそ仇を討つ絶好のチャンスだとそそのかしますが、ダビデは王の衣の裾を切るにとどめました。それでも、後にダビデは、サウルの上着の裾を切ったことに心の責めを感じます(サムエル上二四・六)。サウル王が、主に油そそがれた方、つまり神のみ心によって立てられた人だと気づいたからです。

 このように、誰が見ていなくても、主なる神が「共に知っておられる」、共に見ておられるという意識―人の常識では別に悪くないと言われても、自分のしていることは良くないとする、神の判断があるという意識―それが、良心の呵責です。良心とは、それ自身で、事の善悪を判定できる良い心のことでなく、事の是非善悪を裁かれる神の審判があるという意識、その神のみ言葉を信じる心のことです。

 パウロが、「神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めてい」るのは、この神の裁きを信じていたからです。また、総督フェリクスが人妻を横取りし、囚人からわいろを期待し、ユダヤ人に恩を売るために裁判を曲げたりする、数々の不正に慣れていながら、この後、パウロから「来るべき裁き」を聞いて「恐ろしくな」ったのも、この神の裁きがある、という事実を知らされたからでした。

 パウロがコリントの信徒への第一の手紙で、「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」(一五・三二)と言うように、人はみな、すべての人が神の法廷に立たされることを信じなければ、ほんとうに良心的に生きることはできません。

 「来るべき裁き」と「良心の呵責」がこのように関係しているとすれば、良心の呵責を感じながら、フェリクスのように「また適当な機会に呼び出すことにする」(二五節)という、呑気な延期はできないことになります。

 「最後の審判」とか「来るべき裁き」と言うと、まだまだ先のことのようですが、「義人も悪人も必ず復活する」のですから、誰ひとり逃れられない裁判のはずです。「悪人」が、この世を巧みに泳ぎ抜いて「死んで」行っても、たとえ「死んでおわびします」と自殺したとしても、それで帳消しにならないで、必ず復活して、黒白をつけられる審判です。

 だとすれば、死がいつ襲ってくるかわからないわたしたちにとって、来るべき裁きは、一瞬のすきも油断も許されないものになってきます。パウロが、「私はいつも」良心を保とうとベストを尽くしていると言うのは、その意味です。

 それこそが、まことの「悔い改め」です。

■今こそ、良い機会

 義であり、愛である神だからこそ、十字架の上で驚くべき愛と赦しを宣言してくださったイエス・キリストだからこそ、わたしたちの「悔い改め」を心から喜んでくださるのです。そこに「正しい者も正しくない者も」が抱く、「希望」があります。であればこそ、良心の「恐れを感じた」今―この、今、という時以外に、よい「機会」はありません。

 人はしばしば、フェリクスのように、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言います。アテネでも、死者の復活のことを聞くと、人々は「そのことについては、またいつか聞くことにしよう」と言いました。しかし、「適当な機会に」とか「またいつか」というのは、時の問題でなく、他人事として聞くか、わがこととして聞くかという問題、つまり「悔い改め」に関わる問題なのです。

 地上の裁判は、一つの法廷でも、原告と被告の言い分と証拠、証人を次々と調べ、さらに地方裁判所から高等裁判所、そして最高裁判所へと移すことができます。しかし最後の審判は、永遠の世界の裁判、時間のない裁判です。それは、誰一人、弁護には回ってくれない、皆が、同時に被告になる裁判です。

 それで、トマス・ア・ケンピスは『キリストにならいて』の中で、「あのさばきの日、すなわちだれも自分を弁護してくれる人を見いだすことができず、各自が自分を弁護するのに大あわてをするさばきの日のために、なぜ、あなたは自らを備えようとしないのだ?」(一・二四・三)と諭し、そしてさらに、「今こそ最も貴重な時である。だのに、ああ、あなたは永遠の生命を獲得すべきこの時を、有効に用いていない死の時が来たとき、恐れるよりも喜びうるような生き方を、今のうちに努めよ」と勧めました。

 まさに、今というこの時が、わたしたち一人ひとりにとって、良い「機会」なのだ、ということです。わたしたちがこれまで、どれほど罪深く、悔いの多い日々を歩んできた者であっても、「今」というこの時を、裁きに備えるための良い「機会」として、神は、わたしたち一人ひとりに与えてくださっているのです。まさに、神は、わたしたちを、主にあって日々新しいいのちに生きることが赦されている、という希望を生きる者にしてくださっているのです。

 とするならば、パウロが言うように、復活は、そして来るべき裁きは、わたしたちにとっての「希望」に他なりません。であれば、最後の審判、それを恐れではなく、喜びをもって待ち望んで参りたいものです。