【奨 励】 役員 川辺 正直
■『救いたくない命―俺たちは神じゃない2―』
おはようございます。『救いたくない命―俺たちは神じゃない2―』という題の本があります。現役の外科医でもある中山祐次郎さんという方が書いた医療小説です。主人公は、麻布中央病院に勤務する剣崎啓介と松島直武という2人の医師です。剣崎啓介は15年目の中堅外科医で、神奈川のサラリーマン家庭出身で東大医学部にストレートで合格した秀才です。大腸癌のプロフェッショナルで手技のレベルは高く、腹腔鏡手術やロボット手術も得意としていますが、生真面目な性格で悩みがちな医師です。その親友の松島直武は医師としての同期にあたるものの、剣崎とは対照的なキャラクターを持ち、大阪の医者一族に生まれ、大阪の私立医大を卒業しています。海外を含むさまざまな病院で経験を積んでおり、危機対応能力の高さはピカ一の医者なのです。この2人のスーパー外科医がコンビで、いろんな救急救命のところに運び込まれてくる患者を外科手術によって命を救って行くという小説なのです。ある日、この2人の医師が勤務する麻布中央病院に、刃物で刺された外傷患者が搬送されてきます。患者は大量に出血しており、外傷患者の対応経験が少ない剣崎は慎重に輸血のためのラインを確保して手術室に運びます。開腹してもなかなか出血部位が見つからず、このままでは命が危ないと判断した剣崎は、親友の松島に助けを求めるのです。
ところが、松島は手術室に入って来るなり、手術をやめろと言い出すのです。患者は繁華街で、15人以上を刺して殺した通り魔事件の犯人だというのです。そして、この通り魔事件の犯人の男は、被害者の夫に返り討ちに遭って、瀕死の状態にあるのだと言うのです。しかし、剣崎は目の前の助かるかもしれない命を見殺しにはできないのです。そのため、松島は『こんなん助けても、仕方がないじゃないか。俺はこんな奴救いたくないわ!』とこぼしながら犯人の命を救う話なのです。
この本の副題には、『俺たちは神じゃない』と書かれています。『こんなん生かしといたら、むしろ社会にとって迷惑かけんじゃないの』と言いながら、しかし、患者を前にしたら、医者として義務感でやらざるを得ないから治療をするのです。
ある人が、『本当の弱者は救いたい形をしていない。』ということについて語っています。その人が考える『救いたくなる弱者とはどんな形をしているのか?』と言いますと、1)明らかに体が弱っている人、2)無力さや純粋さを感じる人、3)共感できる事情がある人、4)自らSOSを出せる人、5)手を差し伸べてくれたことに感謝する人だと言うのです。
それに対して、『救いたくない形の弱者』とは、どのような特徴があるのかと言いますと、1)支援を拒む人、2)支援を当たり前だと思って感謝しない人、3)他責思考の人、4)他者に共感を呼びにくい態度や価値観を持つ人だと言うのです。
本日の聖書の箇所で、主イエスはオリーブ山の麓のゲッセマネの園で、汗が血の滴るように地面に落ちるほどに祈られました。主イエスから見て、私たち人間は、『救いたい命』なのか、それとも『救いたくない命』なのかということを考えながら、主イエスはどのようにして十字架という大きな艱難に対して備えられたのかということについて、今日の聖書の箇所を読んで行きたいと思います。
■いつものようにオリーブ山に
本日の聖書の箇所の39〜40節を見ますと、『イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。』とあります。39節の冒頭に『イエスがそこを出て』とありますが、『そこ』とは、主イエスが弟子たちと一緒に過越の食事をしていた2階の部屋のことです。弟子たちとの過越の食事、『最後の晩餐』を終えて、主イエスはその部屋を出られたのです。そして、それから主イエスと弟子たちはオリーブ山に向かわれたのです。エルサレムの城門を出て、『いつものようにオリーブ山に行かれ』たのです。ルカによる福音書では、マタイによる福音書(26章36節)やマルコによる福音書(14章32節)でゲッセマネの園という言葉が省略されています。これは読者の関心をそらさないために、必要でない情報だと判断して省略したとも考えられますが、むしろ40節に、『いつもの場所に来ると』とあるのは、オリーブ山の中の、『いつも弟子たちと共に夜を過ごしていた場所』に来た、ということを強調しようとして、福音記者ルカはこのような書き方をしていると思うのです。弟子の一人であるユダはその『いつもの場所』をよく知っていました。ですから、そこに主イエスを捕える人々を連れて来ることができるのです。ユダが裏切ることを知っておられた主イエスですから、逮捕を逃れようとするなら、『いつもの場所』とは別の所に身を隠せばよいわけです。しかし、主イエスは敢えて『いつもの場所』に行かれた、捕えられることを避けようとはせず、むしろそれを静かに待っている主イエスのお姿がここに示されていると思います。そして、時間はいつかと言いますと、現在の私たちの言い方で言えば、木曜日の夜10時〜11時頃、ユダヤの暦の上では、既に金曜日になっているのです。食事が終わった後に、移動しておりますから、夜10時〜11時頃です。ここでのポイントは、当時の認識では、非常に遅い時間帯であるということです。遅い時間帯に移動して、オリーブ山に行かれたのです。そして、そこでご自分を捕える者たちが現れるのを待つ間に、主イエスがこの『いつもの場所』でなさったこと、それは必死の祈りを捧げることであったのです。
■誘惑に陥らないように祈りなさい
主イエスがこの『いつもの場所』で捧げられたこの必死の祈りが、マタイ、マルコ福音書では『ゲツセマネの祈り』と呼ばれている祈りなのです。そして、主イエスが必死に捧げられるこの祈りは、聖書の中に記されている最も大きな霊的な戦いであると思います。主イエスの苦悶と『ゲツセマネの祈り』の内容が何であるかということを理解しないことには、十字架の意味を本当に味わうことはできないのだと思います。ですから、本日は主イエスがなぜ、何に関して、これほどまでに苦しまれたのかということを学びたいと思います。
さて、先程も申しましたように、主イエスは『いつもの場所』、ゲッセマネの園に来られたのです。ゲッセマネの園はオリーブ山の西側の、エルサレムの城壁に隣接した位置にある園です。オリーブの木が沢山植えられている園なのです。ゲッセマネという言葉ですが、これはオリーブを搾って、オリーブオイルを回収する搾り場という意味なのです。オリーブオイルというのは、比喩的には聖霊を象徴しているものなのです。ゲッセマネの園では、収穫したオリーブの実が粉砕され、砕かれ、圧を掛けられ、油が搾られるのです。神様の御子である主イエスは、今、ここで砕かれ、圧を掛けられ、血のような汗を滴り落とす、そして、油を流すのではなくて、信じる者に聖霊をお与えになるお方ですので、ゲッセマネという場所と主イエスとは関係性があるのだと思います。それが、ゲッセマネの園という言葉の意味であると思います。
そして、40節の後半を見ますと、『「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。』とあります。誘惑とありますが、どのような誘惑が来ると言うのでしょうか。この内容は、ルカだけが書いている内容なのです。マタイ、マルコによる福音書では、主イエスは『悲しみもだえ始めた』(マタイ26章37節)、あるいは『ひどく恐れてもだえ始め』(マルコ14章33節)たと語られており、その悲しみの中で、『共に目を覚まして祈っていてほしい』と弟子たちに願われたのです。傍にいて共に祈って自分を支えて欲しい、ということです。十字架の死を前にして苦しみ、弱り、弟子たちの支えを求める主イエスの人間的なお姿が語られていると言えます。しかし、ルカによる福音書に記されているこの言葉は、主イエスが自分のために言っているのではなくて、弟子たちに自分自身の信仰のために祈りなさいと諭されている言葉なのです。ここでの『誘惑』という言葉ですが、『ペイラスモス(πειρασμός)』というギリシア語の言葉が使われていますが、これは『試練』という意味でも使われる言葉で、『神様の意志に背く誘惑』という意味で使われる言葉なのです。従って、直訳すると『神様の御心に背くという信仰の試練が来るから、失敗しないように祈って備えていなさい』という意味になるのです。『信仰の試練』というのは、どのような試練かと言いますと、これから主イエスが逮捕されようとしているのです。そうなった時に、主イエスに対する信仰、父なる神様に対する信仰を保持し続けることができるかどうか、放棄するかどうか、これが信仰の試練だというのです。このことについての勧告と指示を、主イエスは弟子たち全員に与えたのです。試練に対する霊的な備えをしっかりとしなさいというのがこの39〜40節の内容なのです。
■御心のままに
次に、41〜42節を見ると、『そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」』とあります。主イエスは弟子たちを残して、一人で園の奥に入って、祈られます。マタイとマルコによる福音書を読むと、ペトロとヤコブとヨハネの3人が途中まで同行したと書かれていますが、ルカはそのことには触れていません。主イエスの祈りに、読み手の関心を集中させるためだと思います。そして、主イエスは『ひざまずいてこう祈られた。』とあります。直訳しますと、『ひざまずいて祈り始めた』と訳すことができると思います。『ひざまずいて祈る』というのは、ユダヤ人にとっては、神様への従順を示す姿勢なのです。他の福音書のマタイによる福音書の26章39節、マルコによる福音書14章35節を見ますと、『ひれ伏し』とも書かれています。つまり、『ひざまずいて祈っていた』という姿勢がやがてひれ伏すような姿勢になったのだと思います。そのような必死の姿勢で、何を祈られたのかと言いますと、42節を見ますと、『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』と書かれています。前半の『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。』というのは、主イエスの人間としての願いのように見えるかと思います。『この杯』とは十字架の苦しみと死であると、私たちは考えてしまうのではないでしょうか。しかし、ここでの『杯』というのは、神様の怒りのことなのです。『杯』という言葉が、比喩的に用いられた場合には、神様の祝福であったり、神様の怒りであったりするのです。どのような意味で、『杯』という言葉が使われているかは、文脈によって判断されます。ほとんどの場合は、神様の怒りという意味で用いられます。神様は、罪に対して怒りを持っておられる。その怒りが御子である主イエスの上に、今、注がれようとしているのです。このことが、この箇所を読む上でのポイントなのです。
ここでの『杯』が本当に何なのかということを理解するためには、他の聖書の箇所の記述から解釈してゆく必要があります。例えば、詩編11篇6節を見ますと、『逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる。』とあります。イザヤ書51章17節には、『目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した都よ。』とあります。さらに、エレミヤ書25章15節には、『それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。「わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。』と記されています。ヨハネの黙示録14章10節には、『その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。』とあります。このように『杯』というのは、神様の怒りを表す言葉として用いられているのです。
神様の怒りの杯を飲む者という言葉が表しているのは、霊的に死んでいる不信者のことです。彼らは神様から切り離された者たちなのです。ですから、怒りの杯を飲むというのは、最終的に神様から切り離されるということなのです。つまり、永遠に地獄の苦しみの中で過ごすということなのです。神様から切り離されるということが、神様の怒りの杯を飲むということなのです。ここで、主イエスが苦しまれたのには、何か新しい発見があったということなのだと思います。それが何かということですが、旧約聖書では、メシアの肉体的な死については、預言されていたが、霊的な死についての預言はなかったのです。主イエスは、父なる神様との断絶を意味する霊的な死をここで啓示されて、衝撃を受けられたのだと思います。私たち人間には、父なる神様と子なる主イエス・キリストの断絶がどのような深い意味を持つのか、理解できないのです。主イエス・キリストは、100%神様であり、100%人間でもあります。100%人間でなければ、十字架で、人間の罪を贖うために死ぬことはできません。また、100%神様でなければ、人間を救うために、死に打ち勝って、復活することもできないのです。主イエスが神様であり、人であるというのは、聖書が伝える神秘であると思います。三位一体の神様の第2位格の神様であることは永遠に変わることはないので、切り離されることはないのです。
ここでの父なる神様との分離は、主イエスの人間としての性質に由来しているのです。主イエスの人性によって、父なる神様との断絶を通過するのです。罪を一度も犯したことのない、父なる神様と一体であるお方が、罪として裁かれ、父なる神様と断絶された状態に入って行くという、その苦しみは罪人である私たちには到底理解できないものなのです。それ故、主イエスは汗を血のように滴り落としながら、祈られたのです。しかし、主イエスは、父なる神様との断絶という、霊的な死を通過することで、私たちのために完全な大祭司となられたのです。つまり、罪人である私たちが経験しなくてはいけないはずの断絶を、主イエスが代理的に経験されることによって、私たち人間の弱さを理解する大祭司になられたのだと思います。主イエスが霊的な死を経験する瞬間は、十字架上で訪れます。それが、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』と、主イエスが大声で叫ばれた箇所です。このことが、『杯』という言葉が用いられていることの意味であると思います。
一方、42節の後半では、『しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』と主イエスは祈られました。『しかし、』以降の後半の祈りが非常に重要です。『しかし、』以降では、主イエスは自分の願いではなく、父なる神様の御心を優先させたのです。そして、『しかし、』以降の祈りの言葉によって、主イエスは誘惑に勝利されたのです。つまり、主イエスは艱難が来ることへの備えを、ここで十分にされたと思います。この主イエスの『しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』という祈りは、ルカによる福音書を見ますと、主イエスの誕生の時から、一貫して父なる神様の御心を成就して来られたのです。その積み重ねがここまであるのです。そして、死ぬ時の言葉、死ぬ時の姿というのは、主イエスの公生涯の集大成であると思います。つまり、いかに生きて来たかによって、死ぬ時の姿が決まってくるのです。人は生きてきたようにしか、死ぬことができないとは、よく言われることです。ですから、私たちも人生の最後に、私の願いではなく、御心がなりますようにと言って、召されてゆくためには、人生の集大成ですので、日々の小さな従順の積み重ねがあって、初めてそのような祈りができるようになるのだと思います。この42節の後半の主イエスの祈りは、私たちの祈りの模範となっていると思います。主イエスは、この時、非常に厳しい状況の中に置かれていると思います。オリーブの実が砕かれ、圧を掛けられるように、主イエスの肩に圧倒的な重みがのしかかって来たのです。
■神が共にいて力づけてくださる
本日の聖書の箇所の43〜44節を見ますと、『〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕』とあります。この部分もルカによる福音書だけに記されている記録なのです。この箇所の記述を見ると、ルカは医者であることがよく分かるかと思います。『天使が天から現れて、イエスを力づけた。』とあります。この箇所の天使という言葉は、複数形で記されています。今日の聖書の箇所では、誘惑の最中、試練の最中に、天使たちが現れて、主イエスを力づけたのです。弟子たちは、この時に、眠りこけていたのです。しかし、主イエスは一人で祈っているのですが、孤独ではなかったのです。天使たちが主イエスの傍に来て、仕え、力づけていたのです。実は、私たちも孤独ではないのです。私たちの場合には、主イエスが共にいて下さるのです。実は世の終わりまで、主イエスは私たちと共にいらっしゃるのです。どのような艱難の中にあっても、私たちは孤独ではないのです。
そして、44節で、『イエスは苦しみもだえ、』と記されています。『苦しみもだえ、』と訳されたギリシア語の言葉は、新約聖書の中で、ここだけに用いられている言葉で、訳し方の難しい言葉でもあると思います。主イエスは何ゆえ、『苦しみもだえ、』ておられるのでしょうか。今日は、最初に『本当の弱者は救いたい形をしていない。』ということをお話しました。『救いたくない形の弱者』とは、1)支援を拒む人、2)支援を当たり前だと思って感謝しない人、3)『こんなに困っているのはあの人のせいだ』と、自分が弱者になったことを他の人のせいにしてしまう他責思考の人、4)要求が理不尽だったり、反社会的な行動を繰り返したり、攻撃的であったりと、他者に共感を呼びにくい態度や価値観を持つ人だということをお話しました。しかし、考えて見ますと、神様の目から見て、私たち人間という存在は、『救いたくない形の弱者』の特徴を抱えた存在だと言えるのではないでしょうか。主イエスが救おうとされているのは、善良で、慎み深く、謙遜な者たちではないのです。神様の恵みを拒んだり、自分がこんなに不幸なのは、神様のせいだと考えたり、自分はこんなに立派なのだから、救われて当然だと考える『救いたくない形の弱者』なのではないでしょうか。そのように考えますと、主イエスが抱えている課題は容易には解決することができない難題であると思います。
さらに、ルカは『汗が血の滴るように地面に落ちた。』と記しています。どのような汗なのでしょうか。多くの聖書学者たちは、次のように考えています。激しい精神的、霊的な動揺がある結果、発汗細胞が傷つき、血液が汗に混じって、滲み出てくる状態だと言うのです。このような状態というのは、実際に臨床学的にも確認されているのです。発汗細胞が傷つき、汗に血液が混じるような、激しい痛みを起こすような状態までに、主イエスは、動揺し、苦しまれたのです。この主イエスの動揺は、神様の怒りを予感した結果、起きてくる動揺だと思います。主イエスはこれから、神様の怒りを経験しようとしており、その結果、起こる動揺の故に、血の滴るような汗を流されたということだと思います。
■起きて祈っていなさい
本日の聖書の箇所の45〜46節を見ますと、『イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」』とあります。弟子たちは結局祈っていることができず、眠ってしまったのです。実は、このことは3回繰り返されるのです。主イエスは3回、弟子たちのところに行っているのですが、ルカはそれを省略しています。そして、ルカが強調しているのは、弟子たちがいかに失敗したかということよりも、主イエスの祈りなのです。ルカは主イエスの祈りに、読む者の関心が向くように強調しているのです。
主イエス葉弟子たちに、『なぜ眠っているのか。』と質問されています。この意味は、こんな大切な時に、どうして眠っていられるのか。『誘惑に陥らぬよう、起きて祈って』、準備をしなさいとあれほど言っていた、大切な時なのだ。このように状況が差し迫っている大切な時に、どうして眠っていられるのか。『誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。』。信仰が問われる艱難の時には、祈りの準備が必要だよと、主イエスは再度、弟子たちに教えられたのです。
主イエスは、十字架に向けて、準備ができました。しかし、弟子たちは眠りこけていて、準備ができていなかったのです。その結果、この後の聖書の箇所で、大きな違いが出てきます。それが、ユダの裏切りであり、弟子たちが転ぶということが起きてくることになるのです。
しかし、主イエスはそのような弟子たちであることをよくご存知の上で、『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。』と励まされるのです。『起きて』と訳された言葉は、主イエスの復活を言い表す言葉でもあります。『誘惑に陥らないように祈りなさい』と主イエスに言われても、眠り込んでしまい、祈ることをやめてしまうのが、弟子たちの姿であり、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。しかしそのような弟子たちや私たちのために、主イエスは十字架で苦しみを受けられ、死んでくださり、そして復活されたのです。父なる神様の御心のままに十字架で死なれた主イエスを、神様は復活させてくださいました。『起きて祈っていなさい』とは、その復活の主イエスに結ばれ、その復活の主イエスのもとで『祈っていなさい』ということです。私たちは復活の主イエスのもとで、『起きて』祈って行きたいと思います。
それでは、お祈り致します。