小倉日明教会

『これがわたしの人生!』

マタイによる福音書 9章 27〜31節

2024年12月8日 待降節第2主日礼拝

マタイによる福音書 9章 27〜31節

『これがわたしの人生!』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■神の救い

 さきほどお読みいただいたところには、二人の盲人の目を開かれたイエスさまの奇跡が記されています。もう一度、その冒頭をお読みします。

 「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った」

 イエスさまは、一一章五節から六節で、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、…貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」との福音を告げ知らせます。盲人の目が開かれるということは、聖書によれば、福音―神の救いが来ていることの徴(しるし)でした。

 では、神の救いが来ていることの徴とは、どういうことなのか。文字どおり、目が開くということなのでしょうか。アドヴェント・待降節の今日、御子イエス・キリストが来てくださった、神の国が今ここにもたらされているということの意味、福音の意味することについて、ご一緒に味わいたいと願っています。

■あなたのため

 二人の盲人は、イエスさまに「ダビデの子」と呼びかけます。

 救い主は、「ダビデの子」、かつてイスラエル・ユダ統一王国を実現したダビデの末、その子孫から出てくる。それは、ユダヤの常識でした。エルサレムに入城するイエスさまを迎えた群衆の叫びが、「ダビデの子ホサナ」「ダビデの子よ、救いたまえ」であったことが、そのことをよく示しています。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあって、屈辱的な生活を強いられていました。入城して来るイエスさまの救いに、人々は政治的な意味づけをし、ローマからの解放を期待して、そう叫んだのでした。

 しかし、二人の盲人にとっての救いは、政治的な解放によってもたらされるものではなく、失明状態からの解放です。二人が群衆と同じように「ダビデの子よ」と叫んだとしても、そこにはおのずから異なった意味と期待を込めて使っていたに違いありません。家に入られたイエスさまに二人が近寄って来た時、イエスさまはすぐにそのことを見抜き、彼らの願いをはっきりと自覚させ、さらにイエスさまを信じるとはどういうことかを教えるために、一つの問いを投げかけられたのでした。

 それが「わたしにできると信じるのか」という問いでした。

 懸命に、イエスさまの憐れみを求めて叫んでいる二人の盲人にとって、それは言わずもがなの問いでした。しかし、この問いが図らずも、大切な真実を彼らの口から引き出すことになります。彼らは答えます、「はい、主よ」と。

 「はい、ダビデの子よ」ではなく、「はい、主よ」です。

 二人は最初、「ダビデの子」という呼称を使って、イエスさまに向かって叫びました。しかしその叫びには、他の人たちがイエスさまに期待していること、それ以上の思いが込められていたに違いありません。なぜなら、彼らには彼ら固有の問題、目が見えないという問題があったからです。それを癒していただきたいという、切実な願いがあったからです。

 だからこそ、彼らの声は「わたしたちがここにいるのを見落とさないでください。目の見えないわたしたちを忘れないでください」と、自分たちに注意を引こうとして大きな声にならざるを得なかったのでしょう。それに対して、イエスさまは「わたしにできると信じるのか」と言われました。今、イエスさまは問われます、「わたしがあなたたちの願いを聞き届けることのできる力をもっていると信じるか」。言い換えれば、「わたしが世間一般、社会一般の期待に応えるために来た救い主というのではなく、実は、あなたの悲しみに触れ、あなたの問題に触れ、そして、あなたを慰めるために来た救い主なのだということを信じるか」。もっと短く言い換えれば、「わたしが来たのはあなたのため、それをあなたは信じるか」と言われたのです。「わたしにできると信じるのか」とは、そういう問いだったのです。

 社会全体が変えられ、救われても、憐れみを求めている一人には、届かないという救いが世の中にはあります。例えば、社会全体が解放の喜びに沸いている大勝利の陰で、あるいは漸く戦争が終わったという安堵のため息が漏れ広がる中で、泣いている戦死者の妻がいるように、一人に届かないような救いが世の中にはあるものです。イエスさまが「わたしにできると信じるのか」と言われたのは、「わたしは、一人の悲しみに届かないような、そんな大きな救いをもたらす救い主ではなく、あなた一人に届く、あなたのための慰めをもたらす救い主として来たのだ。それを信じるのか」ということでした。

■これがわたしの人生

 そのとき、二人は「はい、主よ」と言いました。 それは、彼ら一人ひとりに注がれるイエスさまの憐れみに、愛に身を委ねます、という信仰の告白となっています。

 思えば、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という最初の言葉には、「憐れんで欲しい」という注文が込められています。しかし、「はい、主よ」には、もはや注文はありません。ただ委ねるだけです。それは、イエスさまがこのわたしのために来られた方であることを、彼らが信じたということです。イエスさまが世直し的な救い主ではなく、わたしたち一人ひとりの苦悩に届く、憐れみの方であることを信じた、ということです。

 そしてそのとき、彼らの目は開かれたのです。

 そう、彼らは救われたのです。救いとは、注文を引っ込めてお任せすること、お委ねすることによって開ける世界、見える世界だとは言えないでしょうか。救いは、イエス・キリストによって、もうすでに、一人ひとりに差し出されているのですから。

 わたしたちにも、人生に対していろいろ注文があります。そして、思いどおりに万事順調という人も時にはおられるかも知れませんが、そうは行かないという思いを持っている人は決して少なくないでしょう。 真面目に、こつこつと丁寧に生きているのに、思いがけないことに遭遇する。そして一切がご破算。「どうしてこんなことになったのか」「どうして、わたしがこんな目に遭わなければならないのか」。人生の不可解に直面してたじろぎ、「どうして、どうして」と問わざるを得ないことが、しばしばです。

 しかし、「どうして」という問いを出すということは、問えば分かるはずだという前提があってのことです。でも、よく考えてみましょう。人生は、人間の力で答えが見つかるものと考えることほど傲慢なことはないのではないでしょうか。

 イエスさまがお生まれになった時にも、「どうして」という事件が起こっています。ベツレヘム近辺の二歳以下の男の子が、ヘロデ王の不安と恐れの飛ばっちりで、皆殺しにされました。神が人間を救おうとしてくださったばかりに、こんな筋の通らない無残なことが起こったのです。イエス・キリストは救いをもたらすためだけに来られたのではありません。人の世は解答不能な問いそのものであることを明らかにするためにも来られたのです。また、イエスさまが十字架の上で叫ばれた最後の言葉は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(二七・四六)でした。イエスさまのご生涯最後の言葉は、答えではなく問いだったのです。

 考えてみれば、イエスさまの誕生によって幼児皆殺しという解答不能な問いが起こり、その最後の十字架上の言葉もまた答えのない問いであったということは、問いを突きつけられ、問いを抱いて生き、問いを抱いて死ぬのが人生だ、と聖書は語っているのではないか。そう思えてなりません。

 人生とは、「どうして」と問えば答えが分かるようなものではない。そうではなく、そういう答えのない人生のただ中に、問うても分からない人生の真っただ中に、そこにイエスさまの誕生があり、そこにイエスさまの十字架が立っているのです。とすれば、その「どうして」と問わざるを得ないところこそが、イエスさまが共にいてくださるところであり、そここそが、わたしたちの引き受けるべき人生なのだ、ということでしょう。それが、イエスさまの与えられる答えであり、イエスさまを救い主キリストと信じる、ということなのです。

 わたしたちは、自分の意思でも願いでもなく生を与えられ、与えられた以上は死ぬまで生きねばならない、そうした存在です。根源的に見て、人生はわたしの手の中にはない、授かりものなのです。ですから、分からないことが起こっても、それは当然であり、「どうして」と問うて、すべて分かるとするのは、永遠を思わない者の自惚(うぬぼ)れでしょう。むしろ、その不可解を受け止めて、背負って生きる、その注文のなさこそが、永遠を思う心を与えられた人間に最もふさわしいと言わなければなりません。もちろん、生活のいろいろの段階で注文をつけ、改善、改良し、計画を立て、工夫をし、より良い暮らしを求め、自分の力を生かして向上していくことの大切さは言うまでもありません。しかし、生活のレベルではそうであるにしても、人生のレベルでは、注文をつけることは許されません。ただ受け止めるだけです。それこそ、生かされ生きている人間のけじめというものです。

 ですから注文を引っ込めて、置かれた状態を受けとめる時、人間ははじめて永遠の相における姿、本来の姿、究極の姿に落ち着くのです。そしてそれが、注文を引っ込めて、お任せしたときに見える世界、救いというものの内実ではないでしょうか。

 救いとは、問題が解決することでも、苦悩を脱出することでもありません。そうではなく、苦しみ悩みの状態がそのままに、「これがわたしの人生だ」と注文をつけずに受け取れるようになることなのです。

■今をあるがままに

 事柄をはっきりさせるために、あえて誤解を恐れずに申し上げれば、この二人の盲人が実際に目を開かれたかどうか、そのことはもはや重要なことではありません。

 しかし、何の変化も彼らになかったというのではありません。彼らは、目の見えないという負わされた人生を、イエスさまと出会うことによって、これぞわたしの人生と引き受けて生きるようにされました。注文をつけずに、たとえ目が見えぬままであっても、「これがわたしの人生なのだ」と見えたのです。納得したのだと思います。

 そしてそれこそ、イエスさまが彼らに与えられた救いでした。救いとは、いろいろ不満も注文もある自分の人生がそのままに、自分の生きるべき人生なのだ、と見えることなのです。どんな人生を生きるようにされても、自分の人生に注文をつけず、これがわたしの人生だと受けとめ、置かれたその所で花を咲かせようとすることです。

 言い換えれば、「今」を大切にするということです。もちろん、それは、希望を失い、達観を決め込んで、諦め、空しさの中に、日々を生きるということではありません。ともするとわたしたちは、ぶつぶつと自分の人生に不満を呟き、運命を呪い、注文をつけ、そのために今日という一日、今というこの時をどんなに疎(おろそ)かに、空しく過ごしていることでしょう。そして、ストレスを溜め込んでいることでしょう。

 今がよく見える、今を本当の意味で大切にする、過ぎたことを悔いず、明日のことを思い煩わず、不安といらだちに苛(さいな)まれることなく、今日をしっかり生きることができたら、それは、わたしにとっての人生があるがままの本来の姿で見えていることであり、また、それこそが人間にとっての救いではないでしょうか。

 二人の盲人はその目の不自由さの中で、そのことを経験したのです。彼らにとって、イエス・キリストに出会うとはそういうことでした。盲目の悩みは、今を、人生を、そして永遠を見る目となったのです。目の見えない彼らの人生がそのままに、これがわたしの人生だと見えたのです。自分を咲かせる場所はここなのだ、ここしかない、そう受け止められたのです。救いとは、そういうことです。

 御子キリストがこの世に来られたのは、そうした救いをもたらし、そのような福音を告げ知らせるためだったのです。感謝して祈ります。

 

【参考】

  「生きる」                       谷川俊太郎作

 

生きているということ

いま生きているということ

それはのどがかわくということ

木もれ陽がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみすること

あなたと手をつなぐこと

 

生きているということ

いま生きているということ

それはミニスカート

それはプラネタリウム

それはヨハン・シュトラウス

それはピカソ

それはアルプス

すべての美しいものに出会うということ

そして

かくされた悪を注意深くこばむこと

 

生きているということ

いま生きているということ

泣けるということ

笑えるということ

怒れるということ

自由ということ

 

生きているということ

いま生きているということ

いま遠くで犬が吠えるということ

いま地球が廻っているということ

いまどこかで産声があがるということ

いまどこかで兵士が傷つくということ

いまぶらんこがゆれているということ

いまいまが過ぎてゆくこと

 

生きているということ

いま生きているということ

鳥ははばたくということ

海はとどろくということ

かたつむりははうということ

人は愛するということ

あなたの手のぬくみ

いのちということ