小倉日明教会

『さようならのその先…の証人』

ルカによる福音書 24章 44〜53節

2024年 9月 8日 聖霊降臨節第17主日礼拝

ルカによる福音書 24章 44〜53節

『さようならのその先…の証人』

【説教】 沖村 裕史 牧師

【説 教】                      牧師 沖村 裕史

■証人となる

 恵みの主の日に与えられたみ言葉は、先ほどの四八節、「あなたがたはこれらのことの証人となる」です。これが今日のテーマです。

 全く異なる個性と人生を持つわたしたちですが、その違いを超えてなお、主にあって一つとされたクリスチャンであるということは、どういうことなのでしょうか。それが、この「あなたがたはこれらのことの証人となる」というイエスさまのみ言葉に示されています。

 わたしたちはすべて、イエスさまの出来事の証人であるという一点において、ひとつの者とされています。しかし、誰もが「証人」となるのではありません。「証人」とは、実際にあった出来事を直接目撃した人のことです。イエスさまから「証人となる」ことを求められているわたしたちは、この福音書に書き記されたことを、「実際に」わが身に起こった出来事として、直接目撃した出来事として、受け止めているでしょうか。

■闇を突き破る

 告別式の準備のために慌ただしくしていました。年配と思われる一人の男性から電話がかかってきました。

 「神様がどこにいるのか教えてくれ、電話番号だけでもいいから教えろ。ファックス番号でもいい」といきなり尋ねられました。神様は、あなたといつも共にいてくださいますと答えると、

 「お前たちはいつも、そういういい加減なことをいう。今日、家にお前たちの仲間がやってきて、神様のことを話したいから聞いてくれとやってきた。お前ん所のもんかどうか知らんが、大体、神様がどこにいるのかも知らんのに、神様、神様というのは、まやかし、ペテンじゃ。神がいるというなら、どうして戦争がなくならんのか、どうして病気になるんか、どうして食うことに困る人間がいるんか、どうして毎日人が殺されるんか。神様がどこにいるのか教えてくれたら、電話でも、ファックスでもして、聞いてみる、わしから頼んでみるから、教えてくれ。答えられんのだろう。教えられんのだろう。お前たち、キリスト教が言っていることは、みんなまやかしじゃ。処女からキリストが生まれたとか、目が見えない者が見えるようになったとか、死んだ人間がよみがえったとか、そんなありもせんことを人に信じ込ませよる」

 その人はそんなことをしゃべり続けました。

 「神はどこにいる。神などどこにもいない。奇跡などあるはずもない」と語る彼の心の中にあるものは、何でしょうか。自分のことしか見ていない、いえ、自分さえ見えなくなっている、だから、何ひとつ確かなものを見出すこともできないでいる、深い闇です。彼の深い闇を思いながら、一時間近く、じっと静かに受話器の向こうの怒りの声に耳を傾けるほかありませんでした。

 確かに福音書には、数多くのイエスさまの驚くべきみ業とみ言葉が記されています。深い闇の中を歩む人に、わたしたちは、そうした出来事をどのように伝えているでしょうか。それらの出来事を、受け入れやすく、耳触りのよい「神話」というオブラートに包むのではなく、恐れと驚きをもって、「あるがまま」に伝えているでしょうか。また、やみくもに驚くべきみ言葉とみ業を押し付けるのではなく、それらの出来事を通して、そこに居合わせた人たちに何がもたらされたのか、他人事ではなく自分のこととして、喜びと希望を持って伝えているでしょうか。

 イエスさまの出来事が受け入れがたく、信じがたいことだったのは、現代のわたしたちだけではありません。その出来事を直接目撃し、体験した人たちにとっても、そうでした。

 諦めていた我が子の誕生を告げられたザカリアは、恐怖に囚われ、口がきけなくなりました。イエスさまの母となったマリアも恐れおののき、「どうしてそのようなことがありえましょうか」と答えるほかありませんでした。湖を小舟で渡っているときに嵐にあった弟子たちは、嵐を静めるイエスさまを見て、「この人は一体誰だろう」と恐れ怪しみました。長く血を流し続けた女性はイエスさまの衣に触れ癒されましたが、恐ろしくなり、そっと立ち去ろうとしました。そして、先ほどのみ言葉にあるように、空になった墓穴を覗き込んだマリアたちは恐れて、地に顔を伏せ、浜辺に現れたイエスさまに弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。

 イエスさまの出来事は、神の出来事です。それは受け入れやすい、幸いなことであるというよりも、むしろ信じがたい出来事、恐れ、おののき、不安以外の何ものでもありませんでした。しかしそのような中でもたらされるものこそ、わたしたちを支配する不安や恐れを突き破って与えられる、あふれるほどの恵みと救いそのものでした。

 母マリアは、「みこころのままに」とその出来事を受け入れ、大きな喜びに包まれました。嵐に翻弄される弟子たちは、イエスさまが、神様が共にいてくださることを信じ、自分のいのちを委ねることができてさえいれば、何事も恐れることなく、冷静にその苦難に対処することができることに気づかされました。

 わたしたちは、いつも不安と恐れに支配され、押しつぶされそうになります。そんな闇の中で、あきらめと絶望に慣れ親しんでしまいがちです。どうせ駄目さ、こんなわたしに何ができるというのか、もう夢を持つのも希望を抱くこともやめよう、あきらめよう。そんなふうにして神様が与えてくださっている賜物と恵みを受け取りそこなってしまう人の何と多いことでしょうか。しかしイエスさまの、そして神様の出来事は、いつもどこででも、そんな不安と恐れを圧倒的な力で突き破るようにして、わたしたちにもたらされるのです。

 わたしたちは、そんな出来事の証人となっているでしょうか。

■出会いの豊かさ

 何よりも気づかされるのは、「証人」となった人の「証言」の多様さ、豊かさです。イエスさまの復活の出来事を証言するこの二四章だけでも、たくさんの証人が出てきます。

 二四章に書き記されていることのすべてが、たった一日の間に起こった出来事でした。悲しみに打ちひしがれるマリアたちの前でイエスさまが復活されたのは、その日の朝のことでした。その同じ日、憔悴と絶望をひきずるようにして二人の弟子たちがエマオへ帰ろうとしていたその時、イエスさまが共に歩んでくださって、夕暮れになるとパンを共にしてくださった。思いがけず復活のイエスさまと出会い、喜んだ二人の弟子は、その日の内にエルサレムに取って返します。イエスさまが復活されて、その姿を現してくださったという出来事を、ありのままに他の弟子たちに話をしているところに再び、イエスさまが現われてくださって、焼魚を頬張り、一緒に食事をしてくださいました。その食事の席でのこと、イエスさまが弟子たちに語りかけてくださった言葉、それが「あなたがたはこれらのことの証人となる」という、今日のみ言葉でした。

 人々が目撃し、体験した出来事は実に様々でした。一人ひとりにイエスさまは出会ってくださっています。それも生きているそれぞれの場所で、それぞれのあり様で出会ってくださいます。わたしたちが証人となった出来事は、実に多様で豊かなものです。聖書はその出会いの豊かさを、ここでわたしたちに証ししているのです。

 このことは、一つとして同じものとてない、それぞれの個性と人生を持つわたしたちにとって、とても示唆的です。なぜなら、わたしたち教会がもつ多様性は、対立と分裂、競争と優劣ではなく、豊かさと一致の恵みをもたらすものだからです。

 松尾静明(せいめい)さんという、ヒロシマにお住まいの詩人が教えてくださった、子どもの詩を思い起こします。

 

  「マサはエイゴが八十五点だそうだ。すごい。」

  「…」

  「ヨウコは、エイヨウシになるんだって。すごい。」

  「あんたは、なんでもすごいと言うのね。マサは○国人なんよ。ヨウコはボシカテイなんよ。」

  「そうなんかぁ、すごいやないか。」

 

 眼の前に起こること、今そこで出会う人のことを、こどもは何の偏見も先入観もなしに、あるがままに見つめ、受け入れ、感動しています。そこでは、大人であれば差別の理由となる国籍や境遇の違いでさえ、ここでは、驚きと尊敬の理由となっています。

 わたしたちも、こどものように目撃し体験した出来事を、違いや正しさで判断するのではなく、あるがままに受け入れ、喜びとすることのできる「証人」となりたいものです。

■豊かさを分かち合う

 最後にもう一つ、お話をさせてください。

 カトリックの信徒である山浦玄嗣(はるつぐ)さんのお話しです。山浦さんは、東北の気仙沼という地方で使われている言葉で聖書を翻訳されたのですが、その本の序文にこんなことを書いておられます。

 「もう二四年前のことです。カトリック大船渡教会献堂二五周年の式典がありました。…司教さまも来られて盛大な式典でした。式典の後の懇親会で、わたしはその日のために準備してきた『山上の垂訓』のケセン語訳をみんなの前で朗読し、聞いてもらいました。そのときの聴衆の反応は非常に印象深いものでした。…まず、聴衆の間から、くすくす笑いが聞こえてきました。…でも、それは最初の数分だけのことでした。…『あれっ?』という驚きの表情が浮かび、やがて人々の間に静かな感動が生まれていくのに、わたしは気付きました。」この後、そこにおられた小山サクノさんというお年を召された女性とのやり取りが続きます。手をとり、涙を流しながらサクノさんは語ります。「いがったよ!おら、こうして長年教会さ通ってね、イエスさまのことばもさまざま聞き申してきたどもね、今日ぐれぁイエスさまの気持ちぁわかったことぁなかったよ!」

 山浦さんは、こう続けます。

 「聖書を方言で語るなど、途方もないことでした。悪ふざけを通り越して冒瀆に当たるとわたしは多くの人々から叱られました。でも、こうして聞いてみると、どうでしょう!…彼女にとって『建前のことば』にすぎない、ハイカラな標準語で書かれた聖書は、理屈っぽい無機質な知識を与えるものであっても、『心』を伝えるものではなかったのでした」と。

 これは聖書の翻訳だけのことではありません。わたしたちの信仰、わたしたちの証しすべてに当てはまることではないでしょうか。正しい信仰、正しい証言をわたしたちが見定めることは、とても困難なことです。

 神様は、そしてイエスさまは、たった一つの正しい体験と証言をお示しにならず、たくさんの人と出会い、その一人ひとりに語りかけてくださいました。わたしたちは、一人ひとり、様々な形で、イエスさまの出来事を体験しています。ですから、「証人となる」わたしたちの証言が、健全なものとなるためには、ただ一つの、絶対に正しい証言を求めることではなく、様々な証言を受け入れ、それを互いに分かち合うことこそが求められるのです。

 今も世界で続く、たくさんの紛争の背後には宗教の問題があるとしばしば言われますが、その宗教の問題とは、自分の信仰だけを絶対に正しいとする原理主義、教条主義によって引き起こされていることを、わたしたちは見過ごしにしてはならないでしょう。

■さようならのその先…

 思えば、この二四章に描かれるイエスさまは、もうどうすることもできないと思われる「死」という絶望の只中で、弟子たち一人ひとりに、様々な形で出会ってくださいました。わたしたちが「証人となる」のは、何の苦しみも悲しみも、困難も苦難もない中でではなく、むしろ、一人ひとりの絶望と思える、そのような試練のただ中だったということです。

 今、二四章に描かれるその日、一日の出来事の終わりが近づいていました。その終わりのときに、新しい夜明け、新しい朝への備えがなされようとしていました。五〇節から五一節、

 「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福され…、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」

 復活されたイエスさまとの二度目の別れ、決定的な別れの時が迫ってきていました。しかしその別れは、十字架の時のそれとは全く違います。弟子たちの中には誰一人として、涙する者はいません。むしろ、イエスさまからの祝福を受け、喜びにあふれていました。

 イエスさまがここで弟子たちに教えられていることは、ただ涙にぬれるほかない、つらく悲しい別れではなく、新しい朝に備える時が、今、始まろうとしていることを告げる、喜びにあふれる別れでした。父なる神のもとに帰る、別れのその時に、弟子たちを祝福し、新しい朝、希望と喜びに満ちあふれる神のみ国の到来に備えるその時が、今ここに始まっているんだよ、さようなら、また後でね、とイエスさまは言われるのです。

 イエスさまの「さようなら」は、何と祝福に満ちていることでしょう。

 そもそも「証人」とは、いつも裁きという厳しい場に引き出され、自らが目撃し、体験したことを、証言することが求められる人たちのことでした。イエスさまが「あなたがたはわたしの証人となる」と言われる時、証人たらんとする弟子たちは、迫害という、絶望というほかないその状況の中、厳しい裁きの場に立って証言することが求められました。

 しかし「目撃者」「証人」となった弟子たちに、わたしたちに、何の心配もいりませんでした。どのような時にも、苦しく、絶望するほかない時にこそ、イエスさまがわたしたちと出会い、しかも、一人ひとりの重荷を共に背負ってくださることを知らされたからです。

 その恵みを証言する幸いを心から感謝しつつ、今日のメッセージを閉じさせていただきます。